二人の夜
「旦那様。ミルクポンチはいかがですか?」
寝室で今朝の新聞を読み返していた憲斗は、声をかけられて顔を上げた。琴絵がテーブルに器を置いている。
「ミルクポンチ?」
「牛乳にブランデーを一匙加えております」
「上にかかっている粉はなんだ?」
「肉桂を挽いたものです」
器を取り上げて口をつける。すうっとした肉桂の香りの後、お酒の甘みが加わった牛乳の風味が広がる。
(これは口当たりが良くて、何倍も飲むと酔いそうだな)
琴絵は、憲斗がテーブルに置いた新聞を見つめ、難しい顔をしている。
「邨瀬様……逮捕されてしまわれたのですね」
「まあ、当然だろう」
新聞には、邨瀬吉二が白澤彌太郎監督の名を使って、協力者のカフェー女給とともに詐欺行為を働き、逮捕されたという記事が掲載されていた。
他の諸々の悪事も詳らかにされて、彼らは罰を受けるだろう。
「そうだ、琴絵。これを返そうと思っていたんだ」
憲斗は新聞の横に置いてあった小箱を手に取った。蓋を開けて、中から華奢な首飾りを取り出す。
「あっ」と小さな声を出した琴絵に、憲斗は微笑みかけた。
「鎖が切れていたから、直してもらっていた」
憲斗は立ち上がると琴絵の後ろに回った。妻の白い首に首飾りをかけ、金具を止める。
琴絵は胸元に戻った首飾りに触れた。
「なくしてしまったかと思っていました……」
「佐代原の家で拾ったんだ。見つかってよかった」
「ありがとうございます、旦那様」
振り返って微笑んだ琴絵の瞳が潤んでいる。
(綺麗な瞳だ)
憲斗は思わず琴絵の目もとに触れた。
「あ、あの……旦那様?」
突然顔に触れられて動揺している琴絵が可愛くて、憲斗は妻をひょいと抱き上げた。
「きゃあっ」
腕の中で固まっている琴絵を寝台に運び、そっと下ろす。
「琴絵の目は形がいい」
傍らに腰を下ろし、憲斗は自分を見上げている妻の頬を撫でた。
「顔は卵形で綺麗だ。髪は艶やかで美しい」
長い髪を一筋掬って唇に当てると、琴絵は恥じらうように視線を反らした。
「肌も白いから、お前が恥ずかしがると、すぐにわかる」
「意地悪をおっしゃらないでください……」
小さな声でそう言って、もぞもぞと布団の中に逃げていく琴絵を見て、くすっと笑う。
憲斗も横に潜り込むと、琴絵が自ら憲斗の胸にすり寄ってきた。
「琴絵?」
「……私は、憲斗様の妻でしょうか」
不安そうな声で問われて、憲斗は琴絵を抱きしめた。
「当たり前だ。俺の妻は琴絵だけだ」
「それでしたら、どうか今夜、私を本当の妻にしてくださいませ」
聞こえるか聞こえないかぐらいの小さな声で乞われ、憲斗は信じられない気持ちで琴絵を見つめた。
琴絵の体が震えている。琴絵の過去を聞いて、憲斗は妻がなぜ自分を拒んだのか、理由を察していた。
「無理はしなくていいんだぞ」
憲斗の気遣いを受けて、琴絵はあらためて「旦那様はとてもお優しい方だ」と思った。
憲斗は琴絵に無理強いしない。三ツ橋とは違う。カフェーの男性客たちとも。憲斗の胸の中は、琴絵にとって安らげる場所だ。
だから、この人と本当の夫婦になりたい。
けれど、何度もそれを口に出すのが恥ずかしくて、ぎゅうっと憲斗に抱きついていたら、「ふっ」と笑う声が聞こえた。次の瞬間、ころんと体を転がされて、上から顔を覗き込まれた。
「お前は相変わらず不思議な女だな。控えめなのかと思えば、大胆だ」
「そんなことは……んっ」
大胆だなんて心外だと思った時には唇を塞がれていた。
「自分の意志で人生を切り開く、お前のそういう姿に俺は惹かれる」
琴絵を見下ろしてそう告げた憲斗は、今まで見たことのない幸せそうな笑みを浮かべていた。




