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胡蝶の目論見

 琴絵が桐山別邸に戻り、数日が経った。

 いつ佐代原家の者や胡蝶が琴絵を狙ってくるかわからない。

 本当は憲斗が常にそばにいて守りたいぐらいなのだが、仕事があるためそうも言っておられず、万が一のことがないように、琴絵には邸を出ないように言い付け、執事や女中たちにも充分警戒するよう伝えてあった。


 帆波屋の京都事務所で今月の『天弓亭』の売上報告に目を通していると、扉を叩く音が聞こえた。

 顔を上げて返事をすると、比文が入ってくる。


「副社長。ご依頼の件、調べて参りました」


 憲斗は書類を置いて比文を呼んだ。


「聞かせてくれ」


 憲斗のそばまでやって来た比文は、背広の内ポケットから手帳を取り出した。


「奥様に脅迫状を渡すよう菊と接触した男は、俳優の三ツ橋涼介のようです。彼は女性関係が悪いという噂があります。卑劣な行いで泣かされた女性もいるようですので、かつて奥様を襲おうとした男も三ツ橋で間違いないでしょう」


 手帳を確認しながら、比文が続ける。


「邨瀬が脚本を提供したという映画監督にも話を聞きに行きました。次回撮影予定の映画は、邨瀬の脚本ではないそうです。『彼が自分の名前を使い、映画の資金だと言ってお金を集めているので、不名誉な噂が立って困っている』とおっしゃっておられました。それに、邨瀬はやはり――」


 憲斗は比文の続けた言葉を聞き、すっと目を細めた。



 桐山別邸の薔薇園は、今は花がなく寂しい状態だが、花壇に植えられた秋桜は満開で、秋風に揺れていた。

 今日は小春日和だ。穏やかな気候に誘われて庭に下りた琴絵は、秋桜を見ようと花壇に近付いた。

 しゃがみこんで、細い茎の先に開いた可憐な花を見つめる。

 またこの邸に戻って来られるとは思わなかった。憲斗のそばにいられることは嬉しいが、琴絵は優が心配だった。

 琴絵を奪還した後、憲斗が佐代原邸に優を迎えに行ったものの、「そんな子どもは預かっていない」と追い返されてしまったらしい。

「嘘を言うな」という憲斗に、浩太郎はいけしゃあしゃあと言ったそうだ。


「佐代原家が子どもを拐かしているなどと、嘘を言いふらすのなら、君が本当は華族の娘ではなく女給を妻にしていると社交界に広めよう」

「広めたければ広めろ。痛くもかゆくもない」


 憲斗はそう啖呵を切った。


「必ず、琴絵の弟は助ける。もう少し待ってほしい」


 強い瞳で約束してくれた憲斗を、琴絵は信じている。


(優……)


 弟のことを考えていると、


「ごきげんよう」


 と声をかけられた。顔を上げると、柵の向こうに見知った顔があった。

 琴絵は立ち上がり、後ずさった。


「胡蝶さん……」


 胡蝶は柵のそばまで来ると、琴絵に向かってにやりと笑った。


「偽物の奥様、こんにちは。今日はご主人様はお留守なのかしら?」

「…………」


 警戒しながら、琴絵は胡蝶を睨んだ。気の強い様子の琴絵を見て、胡蝶が「あら?」と目を丸くする。


「余裕ぶっていてよろしいのかしらぁ? あなたが女給上がりの偽物令嬢だって、ご主人様に言い付けますわよ?」


 胡蝶は勝ち誇ったように、赤い唇を歪めて「ふふ」と笑う。


「ばらされたくなければ、お金を用意して」


 胡蝶が邨瀬に取り入って得たのは、侍同士の決闘を見届けようとする野次馬の一人という役だった。もちろん台詞などないし、自分の姿が映るかどうかもわからない。 

 小さな役だとしても映画には出られる。せっかくの機会だ。

 胡蝶は邨瀬より力のある映画関係者に、自分を売り込もうと考えていた。一番良いのは、監督に気に入られることだ。そのためには、もっと美しく装って、自分に夢中にさせなければならない。

 着物に洋服に化粧品、それから接待費。とにかくお金が必要だ。琴絵からむしり取れるだけむしり取ってやる。

 皮算用していた胡蝶は、琴絵の次の言葉で横っ面を叩かれた気持ちになった。


「脅されても、お金は渡しません。お好きになさってください」


 琴絵はきっぱりと答えた。


「旦那様はもうご存じです」

「なっ……! 桐山が知っていても、世間はまだ知りませんわ! 天下の帆波屋の副社長が、騙されて女給を妻に娶ったと社交界に広まれば、桐山は大恥をかきますわよ!」


 琴絵はわめく胡蝶をまっすぐに見返した。

 確かに、憲斗が佐代原に騙されて偽物の女を娶ったという話が社交界に広がったら、どんな風に言われるかわからない。けれど――


「私は旦那様を信じております」


 静かな口調だったが、琴絵の意志は強かった。

 それが伝わったのか、胡蝶が悔しそうに唇を震わせる。


「信じているだなんて……口先ばかり! 男なんて裏切るものですわ!」


 琴絵は哀れな者を見る目で胡蝶を見つめた。

 胡蝶はおそらく、誰かと心から信じ合えたことがないのだろう。

 これ以上何を言っても、彼女と通じ合うことはできないと思った。

 琴絵が背中を向けると、胡蝶が両手で柵をつかんだ。


「ちょっと、どこに行くのよ! 待ちなさいよ!」


 喚く胡蝶を振り返らず、琴絵は邸へ足を向けた。


 

 琴絵に言い返された後、胡蝶はイライラと爪を噛みながら、カフェーロイアルに向かった。

 もうひと強請りすれば、簡単にお金を渡すと思っていた相手から「お好きになさってください」と言われ、哀れな者を見る目を向けられた胡蝶の自尊心はズタズタだった。


 胡蝶の生まれは、近江の北の方にある村だ。

 家は裕福ではなかったが、村一番の美人と言われて育った。

 十八になった時、村の男性から求婚された胡蝶だが、自分はこんな田舎で一生を終える器ではないと思い、単身、街へ出てきた。

 右も左もわからない田舎娘だった胡蝶を、とある裕福な男性が世話をしてくれて、彼とは一年間、関係を持った。

 当時は初心な少女だった胡蝶は大人な彼に夢中になったが、彼が実は妻帯者だったことが判明し、結局捨てられた。

 その後、何人かの男性と知り合ったが、胡蝶を一番に大切にしてくれる人はおらず、皆、離れていった。

 男性不信になった胡蝶が、唯一、信じられたのは、自分の美貌。自分はこの美貌で男性を手玉に取り、金と名声を得て幸せになる。手段など選ばない。

 いつの頃からか、胡蝶はそう考えるようになっていた。


 そんな胡蝶の前に現れたのが琴絵だった。

 滲み出る育ちの良さは、裕福な造り酒屋の娘だから。それだけでも鼻につくのに、今は落ちぶれ、自分と同じ男性に媚びを売って対価を得るカフェーの女給という立場なのに、清廉潔白そうな顔をしている琴絵が、胡蝶は気に食わなかった。 


「あの生意気な女……このままではおかない」


 胡蝶はいかにして琴絵に報復するかを考えた。

 まずは、邨瀬に頼んで社交界に伴ってもらい、桐原憲斗が騙されて女給を嫁にしたと言いふらそう。

 桐山憲斗の株が下がったところで、三ツ橋をけしかけて琴絵を襲わせる。

 その後、妻が他の男に汚されたと吹聴されたくなければ、お金を渡せと強請る――


「それがいいわ」


 胡蝶はほくそ笑んだ。

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