本当のこと
緊張が解けたのか、琴絵は車の中で眠ってしまった。
次に目を覚ました時は既に日が高く昇っていて、見慣れた桐山別邸の寝室にいた。
(私、今、どこに……?)
ぼんやりと視線巡らせた後、次第に記憶が蘇り、琴絵は飛び起きた。
自分は憲斗に離縁を申し出て佐代原邸に向かい、そこで光香に遭遇して、浩太郎によって洋館の中に閉じこめられたのだ。もう憲斗のところには戻れないと思っていた琴絵を、彼は迎えに来てくれた。
いつの間にか、濡れた服から寝間着に着替えさせられている。菊だろうか?
「憲斗様……?」
身を起こし、姿を探してきょろきょろする。すると、
「起きたか」
憲斗が寝室の扉を開けて入ってきた。手にお盆を持っている。
「憲斗様! 申し訳ございません!」
眠りこけていたことを恥ずかしく思い、琴絵は寝台から滑り降りると謝罪した。
駆け寄ろうとした琴絵を憲斗が制する。
「無理をしなくていい。疲れているだろう? 果物を持ってきた。食べられるか?」
テーブルの上にお盆を置き、琴絵に笑いかける。
いつもの笑みを見た途端、琴絵の胸は一杯になり、目頭が熱くなった。
「だ、だんなさま……」
子どものようにくしゃりと顔を歪めた琴絵を見て、憲斗が歩み寄ってきた。
頭を胸に引き寄せ、よしよしと撫でる。
「名前で呼ばれるのも悪くはないが、やはり琴絵にはそう呼んでもらいたいな」
「よろしいのですか……?」
鼻を啜りながら問いかけると、憲斗は、
「俺の妻は琴絵だけだ」
と、囁いた。
しばらくの間、抱き合った後、琴絵が落ち着いたのを見計らって、憲斗が体を離した。
背中を軽く押して琴絵を長椅子に座らせ、自分も隣に腰を下ろす。
憲斗の足には包帯が巻かれており、琴絵は彼が自分を迎えに来た時に怪我をしたのだと気づき、胸を痛めた。
「話してくれるか? 君が俺に嫁いできたわけを」
憲斗に尋ねられ、琴絵はこくんと頷いた。
「私の本当の名前は標野琴絵といいます。父は伏見で造り酒屋を営んでいましたが、腐造を出し、倒産しました。父は失意のうちに亡くなり、私は幼い弟を養うために、カフェーで女給として働いていたのです」
琴絵の話に、憲斗は静かに耳を傾けた。
「ある日、カフェーに佐代原道継様が訪ねて参りました。長女の光香様の身代わりに、嫁いでほしい相手がいると……」
「それが俺だったというわけだな」
「光香様はご事情により、ご結婚できないのだと伺いました」
琴絵は光香の名誉を重んじ、彼女が駆け落ちしたという事実は伏せた。
憲斗は「ご事情」を特に聞き出そうとはしなかった。光香の傍若無人な振る舞いを見ていれば、ろくでもない「ご事情」だったのだろうと想像できる。
「弟に高等教育を受けさせていただくことをお約束に、私は道継様のご提案を引き受けました。長い間、旦那様を騙しておりまして、本当に申し訳ございません……」
深々と頭を下げた琴絵に、憲斗は、
「もう謝らなくていい」
と、声をかけた。
「琴絵がカフェーで働いていたとは知らず、女給を貶めるようなことを言って、こちらこそ申し訳なかった」
琴絵は、憲斗が以前「女給は男に寄生し、贅沢三昧しようと狙っている」と言っていたことを思い出した。
ある意味、彼の言うとおりだ。琴絵は毎晩、客の男性に媚びを売り、できるだけ多くのチップをもらおうとしていたのだから。
「旦那様はいつかの夜、男性に襲われかけていた私を助けてくださいましたよね」
琴絵が訪ねると、憲斗は不思議そうな顔をした。
「少しお待ちいただけますか」
琴絵は寝室を出ると、自室に向かった。
部屋に入り、箪笥を開ける。綺麗に畳んでしまってあった手巾を手に取る。
急いで寝室に戻り、憲斗に手巾を差し出した。
「これをお返しいたします」
受け取った手巾を見て、憲斗は息を呑んだ。
以前、得意先からの接待の帰り、繁華街の暗がりで男に襲われかけていた娘を助けた。
派手な格好と化粧をしていたので、女給ではないかと思っていたが、まさかあれが琴絵だったは――
「危ないところを助けていただきまして、ありがとうございました」
「あの時の娘は、お前だったのか」
「お互いに、気付いておりませんでしたね」
暗がりと帽子で、琴絵には憲斗の顔が見えなかった。
憲斗は、厚化粧をしていた女給が、嫁いで来た娘と同一人物だとわからなかった。
二人は顔を見合わせて、苦笑いを浮かべた。
「琴絵がうちを出て行ったのは、佐代原に言われたからか?」
憲斗が確認すると、琴絵は小さく首を横に振った。
「光香様がご自宅にお戻りになっていらっしゃったのは後から知りました。実は、カフェー女給時代、同僚の古河胡蝶さんからいやがらせを受けていたのです」
「古河胡蝶……邨瀬とかいう脚本家の愛人か」
「あの時、胡蝶さんは私が旦那様と一緒にいるのを不審に思って、事情を探ったのでしょう。後日、手紙が届きました。『身代わりだとばらされたくなければ、お金を渡せ』と」
「なるほど。だから俺に迷惑をかけないように、出て行ったというわけだな」
憲斗はぐっとこぶしを握った。
(古河胡蝶……いけ好かない女だと思っていたが、やはり最低の人種だったか。もしや、琴絵を襲ったという男も、彼女の差し金では……?)
想像して、憲斗の胸に怒りが沸き起こる。
「話してくれてありがとう」
琴絵を不安にさせないよう、憲斗は微笑んだ。
「後のことは心配するな。柿を食べなさい。今は栄養を取ったほうがいい」
こくんと頷いて柿に楊枝を刺す琴絵を見つめながら、憲斗は頭の中で、胡蝶と三ツ橋、佐代原たちにどう制裁を加えてやろうかと考えを巡らせていた。




