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本当の名前

 深夜になり、憲斗は再び佐代原邸へやって来た。

 夜の闇の中に沈む邸宅を見上げる。


「さて、どこから忍びこんだものか」


 そういえば、座敷から見た佐代原邸の庭園には小川が流れていた。どこかに取水口があるはずだ。

 ぐるりと外壁沿いに回ると、思っていた通り取水口があった。疎水から引き込まれた水が、佐代原邸の敷地内に流れ込んでいる。

 憲斗は上着を放り投げ、水の中に足を入れると、取水口を覗き込んだ。


「ぎりぎり、いけるか……?」


 屈み込んだが、頭が引っかかる。両手を付いて這うように進むと、なんとか壁を抜けられた。

 濡れたシャツを軽く絞り立ち上がる。庭園の端に出てきたようだ。昼間は気付かなかったが、母屋の隣に洋館があった。

 洋館の窓に明かりが灯っている。遠目に誰かがいるのが見えた。


(佐代原の誰かか? それとも……)


 憲斗は庭木の陰に隠れながら、そうっと洋館に近付いた。

 小さな洋館は、二階建てだった。明かりの点いた窓の下に向かう。

 また人影が動いた。夜の闇の中で目を凝らすと、悲しげな表情で外を見つめているのは、半年間妻として自分のそばにいた少女だった。


「みつ……」


 憲斗は名前を呼びかけて、言葉を飲み込んだ。「光香」は彼女の名前ではない。

 ずっと一緒にいたのに、自分は彼女の本当の名前を知らなかったことに気付く。


 足元に落ちていた小石を拾い、窓に向かって放る。

 最初は上手く届かなかったが、何度か投げているうちに音が聞こえたのか、少女がこちらを向いた。

 口が「あ」と驚きの形を作り、飛びつくようにして窓を開けた。


「憲斗様!」


 思わずといった様子で大きな声を上げた琴絵に、憲斗は「しっ」と唇に指を当ててみせた。

 琴絵が慌てて自分の口を押さえる。「下りて来られるか?」と手で指示をしてみたが、琴絵は首を横に振った。おそらく、閉じこめられているのだろう。

 木を伝って登れないかと周囲を見回す。けれど、枝の張り具合のよい木がない。


(どうしたものか……)


 思案していたら、母屋の灯りが灯った。こちらの物音が聞こえてしまったようだ。

 母屋で誰かが起きたことに琴絵も気が付いたのか、ハッとした表情を浮かべた。背伸びをして、窓の上の方を触っている。カーテンをはずそうとしているらしい。布の塊を抱えて一度奥へ引っ込むと、再び窓辺へ戻ってきた。

 何をするつもりなのかと見守っていたら、外したカーテンを窓から外へ放り投げた。

 端をどこかに結びつけているのか、カーテンは窓からだらんと垂れ下がり、琴絵は縄を伝うように布にしがみつきながら、ゆっくりと下りてきた。

 憲斗はハラハラしながら真下で琴絵を見守った。

 結び方が弱かったのか、あっと思った時には琴絵の体が宙に浮き、憲斗は咄嗟に両腕を広げた。


「危ないっ!」


 カーテンの塊と共に、琴絵が落ちてくる。

 憲斗は必死になって受けとめた。重力のかかった体重が腕にのしかかり、思わず尻もちをつく。足をひねったような気もするが、憲斗は急いで琴絵に声をかけた。


「怪我はないか?」

「はい、憲斗様……」


 琴絵は涙声で憲斗の名前を呼んだ。憲斗も名前を呼び返したかったが、なんと呼べばいいのかわからず、ただぎゅっと彼女を抱きしめる。


「よかった。見つかって。勝手に消えないでくれ。離縁するなんて許さない」

「で、でも、私はっ……」


 その時、母屋と洋館を繋ぐ渡り廊下から足音が聞こえた。

 憲斗は琴絵に「しっ」と囁くと、布だけ取り払い、彼女を抱え直した。

 やはり足はひねったらしい。ずきんと痛みが走ったが、琴絵に気付かれないよう、表情を変えずにその場を離れる。

 来た時と同じように木々の間を潜って日本庭園を通り、取水口へ向かう。


「少し濡れるが我慢してくれ」


 琴絵を促して壁を潜らせ、自分も身をかがめる。振り向くと、洋館と母屋の灯りが灯ったのが見えた。琴絵が逃げたことを知って、邸中探し回っているのだ。

 憲斗もすばやく壁を潜った。上着を拾い上げ、外で待っていた琴絵の体に掛ける。彼女の腕を引いて、佐代原邸を離れる。


 暗がりまで来ると、自動車が停まっていた。

 自ら後部座席の扉を開けて琴絵を乗せ、隣に乗り込む。


「憲斗様、首尾よく取り戻せたようですね」


 運転席に座る比文が、県都に向かって明るい声をかけた。


「ああ。急いで出してくれ」

「かしこまりました」


 車は静かに発進した。


 比文の運転する車の中で、琴絵は信じられない気持ちで隣に座る憲斗を見つめていた。


(迎えに来てくださった……)


 閉じこめられて、このまま浩太郎のいいようにされるのかと絶望し、いっそここから飛び降りようかと窓の外を眺めていたら、愛しい人の姿を見つけた。

 琴絵の視線に気が付いたのか、比文と話していた憲斗が振り向いた。


「もう大丈夫だ」


 優しく声をかけられて、堪えきれなくなり、琴絵の目から涙がこぼれた。


「わ、私、憲斗様を騙していました……」

「ああ、知っている」

「私は光香様の身代わり……偽物なのです」   

「それも知っている」


 俯いて泣きじゃくる琴絵の頬を憲斗は手のひらで拭った。


「身代わりだとか偽物だとか、そんなことは関係ない。俺の妻はお前だけだ」


 両手で琴絵の頬を挟み上向かせる。


「お前の名前を呼びたい」


 まっすぐな瞳で乞われて、琴絵は震える声で答えた。


「……琴絵と、申します……」

「琴絵」


 憲斗が優しい声で琴絵の名を呼ぶ。


「琴絵、琴絵……」


 何度も呼ばれるたびに、琴絵の目から涙が溢れる。憲斗が琴絵を引き寄せ、抱きしめた。

 濡れたシャツ越しに憲斗の体温を感じ、琴絵はそっと目を閉じた。

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