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比文の感慨

 憲斗が桐山別邸に戻ると、応接間では光香が女王のようにふるまっていた。


「紅茶がぬるいわ。淹れ直して」

「は、はいっ」


 光香の給仕をしていた菊がカップを引き上げようとした時、指が震えて、中身を零した。光香のドレスに紅茶の染みが広がる。


「何やってるのよ!」


 菊をひっぱたこうと振り上げられた光香の手を、憲斗が掴んだ。


「そちらこそ、何をやっている」

「あ、あら、旦那様。お帰りなさい」


 光香が作り笑いを浮かべると、憲斗は光香の手を離し、


「菊、大丈夫だったか」


 と、声をかけた。


「ありがとうございます、旦那様……!」


 菊が頭を下げ、お礼を言う。


「お前はあいつの大事な侍女だからな。あいつがいない間に、怪我などさせたくない」


 憲斗が話す「あいつ」が琴絵なのだと気付き、菊の目が潤む。


(奥様。旦那様は奥様のお帰りをお待ちです)


「副社長!」


 役職名で呼ばれ振り返ると、廊下から比文が憲斗を呼んでいた。

 憲斗は「これ以上、何かしたらただではおかない」という気迫で光香をにらみつけると、比文のもとへ歩み寄った。


「なにやら大変なことになっているようですね」

「ああ。妻が出て行った。どうやら彼女は、佐代原光香の身代わりだったらしい」


 比文を連れて書斎に入り、佐代原家で聞いて来た話を伝える。


「佐代原は、何が何でも桐山との結婚話を纏めたかったのですね」

「正面から行っても、佐代原は妻を出さなかった。俺は今夜、佐代原邸に忍びこむ。彼女は絶対にあそこにいるはずだ」

「また、無茶なことをなさいますね……」


 比文は呆れたような表情を浮かべたが、力強い憲斗の瞳を見て、ふっと口角を上げた。


「でも、そういう憲斗様は嫌いではないですよ」


 比文が初めて憲斗と出会った時、憲斗はまだ京都帝国大学の学生だった。辰喜の後を継ぐことを強いられていた憲斗は、実家にいるのが息苦しかったのだろう。一時でも桐山家から離れたくて、あえて大学近くの下宿に移り住んだのだ。


 憲斗は当時、非常に冷めた青年だった。いつも暗い瞳をしていた。

 辰喜の命令で、定期的に憲斗の様子を見に行っていた比文は、一度だけ、彼が目を輝かせている場面を見たことがある。下宿の前に集まっていた雀たちを、写生していた時だ。比文の姿に気が付いた憲斗は「まずい」という顔をして、写生帳を隠してしまった。

 後で知ったことだが、憲斗は、本当は美術工芸学校に入学したかったらしい。帆波屋の跡取りとして父親から厳しく教育されていた彼は、画家になるという夢を諦めざるをえなかった。


 信頼していた女中は父の後妻となり、夢も奪われ、義務だけを果たすように生きていた彼のもとにやってきた、身代わりの妻。彼女が憲斗にこんな顔をさせるようになったと思うと感慨深い。


「何か私にお手伝いできることがあれば言ってください」


 比文が胸に手をあてた。ようやく大切なものを手に入れた友人のために力になりたい。


「では、まずはあの女をここから追い出せ。それから、調べてもらいたいことがある」


 憲斗に命じられて、比文は不敵に笑った。

 一礼して書斎を出ると、階下で騒いでいる少女のもとへ向かう。キイキイと甲高い声は、比文も耳障りだった。

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