本物の令嬢
夜が空ける前に桐山別邸を出た琴絵は、ほんの少しの荷物を手に、佐代原邸を目指していた。
(まずは道継様に、憲斗様に離縁を申し出たことを報告しよう。それから優を引き取って、住むところと仕事を探しましょう)
学問を学び始めた優には可哀想なことをしてしまうが、もとの姉弟二人暮らしに戻るだけだ。
優が好きな道に進めるよう、前以上に一生懸命働こう。
いざとなれば体を売ったっていい。
悲愴な決意をしながら佐代原邸に着くと、いつもは落ち着いている邸内がざわついていた。
玄関で「こんにちは」と声をかけると、顔なじみの女中が出てきて、
「あっ、琴絵さん!」
と、慌てた表情を浮かべた。
「道継様にお話があって参ったのですが……」
「今はおやめになったほうがよろしいかと!」
「あ、あの、それでしたら、優にだけでも……」
優を引き取らなければと琴絵が食い下がったら、
「もしかして、その女がわたくしの偽物?」
高飛車な声が聞こえ、派手な洋装姿の少女が現れた。肩の上で切りそろえた、モダンな髪型をしている。
「えっ……あの……?」
戸惑う琴絵を見て、少女が「ふん」と鼻で笑う。
「この子のどこがわたくしと似ているっていうのかしら。ねえ、お兄様。お父様の目は節穴ではなくて?」
少女が振り返ると、苦笑いを浮かべた浩太郎が立っていた。玄関に立ち尽くしている琴絵を見て、弱ったように笑いかける。
「やあ、琴絵さん。驚かせてごめんよ。昨夜、いきなり妹が帰ってきたものだから、我が家は今てんやわんやなんだ」
「妹……」
(と言うことは、この方が光香様?)
以前見せてもらった、お見合い写真の光香とは似ても似つかない。
清楚な振袖を着て微笑んでいた少女は、今は丈の短いスカートを履き、唇に真っ赤な紅を塗っている。
「駆け落ちした恋人と別れて、戻ってきたらしいんだ」
「あんな甲斐性のない男だなんて思わなかったわ! 装飾品の一つも買ってくれないのだもの!」
光香の恋人は、佐代原家の運転手だったと聞いた。
庶民の彼には、我が儘な華族のお嬢様を養うことができなかったのだろう。
「あなた、わたくしの代わりに、帆波屋の御曹司に嫁いだんですってね。お金持ちと結婚して、贅沢三昧の幸せな生活を送るのはわたくしだったのに」
勝手な事を言い、光香は憎々しげに琴絵を睨みつけた。
「そんな風に言うんじゃないよ、光香。琴絵さんは、嫌がるお前の代わりに、桐山憲斗君と結婚してくれたのだから」
「なら、もう必要ないでしょ? わたくしが桐山家に行くわ」
「えっ!」
黙って兄妹の会話を聞いていた琴絵は、思わず声を上げた。
光香がじろりと琴絵を睨む。
「何か文句でもあるのかしら? 帆波屋の御曹司は、わたくしの夫になる人だったのよ?」
「で、でも……」
憲斗が仕事関係者に向かって、琴絵を「いつも私を支えてくれる素晴らしい妻」だと紹介してくれた時のことを思い出す。
この半年間、憲斗の力になりたいと一生懸命に尽くしてきた。
認めてもらえて、そして妻として求めてもらえて嬉しかった。
大切に身に着けているネックレスに触れる。
本当は置いてこなければならないものだったが、憲斗が琴絵のために贈ってくれた思い出の品だったので、手放すことができなかった。
「騒々しい。落ち着きなさい」
邸の中から道継が姿を現した。玄関で揉めている琴絵と兄妹を見て、溜め息をつく。
「とりあえず、中に入りなさい」
「お父様、この娘はわたくしの婚約者を盗った泥棒猫よ!」
「光香、黙りなさい」
父親にぴしゃりと言われて、光香が口を閉ざす。
「ごめんよ、琴絵さん。とりあえず、家に上がって」
浩太郎に手を掴まれ、ぐいと引かれた。
されるがままに家の中に入ると、浩太郎は琴絵の腰を抱いた。
「こちらにおいで」
何が何だかわからず、混乱していた琴絵は素直に浩太郎に従った。
途中で光香と道継と別れ、浩太郎と共に別館へ向かう。
「あの、浩太郎様。私、道継様とお話をしなければなりません。事情があって、憲斗様には離縁していただくよう、お手紙を置いて出てきました。私、優を引き取って、また二人で暮らそうと思っているのです」
浩太郎に胡蝶の件は伏せて事情を話すと、彼は「へえ」と言って目を細めた。
「桐山に離婚してくれって言ってきたのかい? なら、ちょうどいいね」
洋館の二階へ上がると、浩太郎は一室の扉を開けて、琴絵を中に押し込んだ。
「ちょうどいいとは、どういうことでしょうか?」
嫌な予感を抱き、琴絵はこわごわと問い返した。
「光香も戻ってきたし、桐山のところへは、改めて光香を嫁がせるよ」
浩太郎の言葉を聞き、琴絵は唇を噛んだ。
当初、憲斗が結婚するのは佐代原光香のはずだった。光香が憲斗のもとへ行けば、本来の形に戻る。
それが正しい姿――そうは思っても、琴絵の心は納得することを拒んでいる。
「憲斗様にはどのようにご説明なさるおつもりですか? 女給が華族令嬢の身代わりを務めていたとでも?」
「うーん、そこはなんとでもなるんじゃないかな? 君はうちの遠縁の娘で、やむにやまれぬ事情で光香の代わりをしていたとかなんとか」
そんな風に伝えられて、桐山家が――憲斗が納得するとは思えない。
「憲斗様を馬鹿になさらないでください!」
琴絵は声を荒げた。
浩太郎を押しのけ、部屋の外へ出ようとしたら、長椅子の上に突き飛ばされた。
「僕はもともと君のことを気に入っていたんだ。桐山憲斗には妹が嫁ぐ。君は僕のものになれ」
腕を掴まれて椅子に押しつけられ、琴絵はぞっとした。
以前、三ツ橋に襲われた時の記憶が蘇り、恐怖で体が震えてくる。
「そんなに怖がらなくてもいいよ。大切に可愛がってあげるから」
愛しそうに琴絵を覗き込む浩太郎から、顔を背ける。
「あ、あの、浩太郎様」
後ろからおずおずと声が聞こえ、浩太郎が振り返った。
琴絵とも顔なじみの女中が立っていて、浩太郎を呼んでいる。
「旦那様がお呼びです」
「……ああそう」
浩太郎は冷めた目で女中を見ると、犬を追い払うように手を振った。
琴絵から身を起こし、にこりと笑う。
「父上が呼んでいるそうだから、行ってくるね。きっと、今後の相談だと思うよ。君は何も心配しなくていい。君がこの家にいる限り、僕が弟の面倒も見てあげる」
(優……!)
言外に「人質がいるのだから大人しくしていろ」と言われていることに気づき、琴絵は蒼白になった。
浩太郎が部屋を出て行く。
かちりと鍵を閉める音が聞こえた。立ち上がって扉の把手を回してみたが、開かない。
(閉じこめられた……)
琴絵はその場に膝をついた。
気持ちを落ち着けようと首飾りに手を伸ばし、気が付いた。大切に首に下げていたのに、いつの間にかなくなっている。
(落としたの? どこで?)
慌てて床の上を探したが、見つからない。
絶望感がさらに押し寄せ、琴絵の目に涙が浮かんだ。
「旦那様……」
憲斗の笑顔が脳裏に浮かび、琴絵は胸の前で両手をぎゅっと握りしめた。




