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離縁の申し出

 片岡の奥方から「先日の菓子のお礼に」とお茶会に誘われ出かけていた琴絵は、桐山別邸に戻り、鏡の前で髪をほどいた。

 洋装から着物に着替えようとワンピースの(ボタン)を外していると、ふと、鏡台の上に手紙が置かれていることに気が付いた。


(何かしら……)


 宛名も差出人も書かれていない。

 不思議に思いながら封を開け、便せんを取り出す。

 繊細な文字は女性が書いたものだろうか。文面に視線を走らせていた琴絵の表情が次第に強ばり、手が震えだす。


『標野琴絵は佐代原光香の身代わり。佐代原家にも桐山家にもばらされたくなければ、お金を渡せ』


 最後に記されていたのは、蝶の絵柄。


「胡蝶さん……」


 琴絵の手から手紙が落ちた。

 自分が光香の身代わりだと憲斗に知られれば、佐代原家に迷惑をかける。優の生活が危うくなる。

 騙されてカフェーの女給を妻にしていたと社交界に知られれば、憲斗に恥をかかせてしまう――

 かといって、胡蝶にお金を渡したら、彼女はいつまでも琴絵にたかり続けるだろう。桐山家の嫁とはいえ、勝手にお金を使うわけにはいかない。


「どうしたらいいの……」


 琴絵は膝の上で両手を握り、俯いた。



「お帰りなさいませ」


 玄関で憲斗を出迎えた光香を見て、憲斗は「おや?」と内心で首を傾げた。妻の様子がどこかおかしい。


「熱でもあるのか? 元気がないように見える」


 心配になって額に手を伸ばしたら、光香が慌てたように身を引いた。


「な、なんでもありません! 今日は片岡様のお邸へお呼ばれしておりましたので少し疲れているのです」

「そういえば、そのようなことを言っていたな。片岡社長の奥方とは仲良くできたか?」

「はい。とてもお優しい方でした」

「それはよかった」


 返事をしながらも、光香はどこか上の空だ。


 夕食を終え、寝室に入っても、光香は暗い表情のままだった。本人は明るくふるまっているつもりなのだろうが、憲斗にはわかる。


(俺がどれだけ光香を見ていると思っているんだ)


 笑顔も、しぐさも、話す時の唇の形も、髪の房、まつげの先まで観察している。


(絵描きの性……というよりも、相手が光香だから、か)


 光香はどこか自分に遠慮をしているように感じる。

『天弓亭』の開店記念招待会の夜、妻に触れようとした自分を、光香は拒んだ。気持ちの上では、お互いに助け合える本当の夫婦になれたような気がしていたのに、光香は、自分とは違う思いなのかもしれない。

 光香が嫁いで来た当初、自分が彼女にしていた仕打ちを思い出すと、好かれていなくても当然か。ならばなぜ、政略結婚をした形だけの夫に対し、あんなに心を尽くしてくれるのだろう。


(義務感……なのか?)

「光香、こっちにおいで」


 寝台に横になり、ぽんぽんと隣を叩く。

 触れさせてはくれないものの、横に寝てはくれるので、今はそれで満足している。

 光香が近付いて来て、素直に憲斗の隣に横になった。もぞもぞと動いて、胸の中に入ってくる。


(……ん?)


 めずらしいこともあるものだ。


「どうした? 今日はやけに甘えるな」

「…………」


 光香は答えない。

 憲斗は光香の髪をさらりと撫でた。よい香りに心惹かれたが、ぐっと堪えて妻の体をただ抱きしめる。

 温かな体温を感じているうちに、憲斗は眠ってしまった。


 翌朝、目を覚ますと、光香はいなかった。

 彼女のほうが早起きで、憲斗が身だしなみを整えて階下に下りる頃には、女中たちと一緒に朝食の準備をして食堂で待っているので、そのつもりで起き上がると、枕元に封書が置いてあった。


『桐山憲斗様』


 綺麗な文字は、光香の字だ。

 嫌な予感がして、憲斗は急いで封を開けた。


『何も聞かずに離縁してくださいませ』


 ただそれだけ書かれた文面を見て、憲斗の体がすうっと冷えた。


「どういうことだ……?」


 混乱しながらも寝台から飛び降り、光香の自室へ向かう。


「光香!」


 扉を開け、中に入ると、既に出て行く覚悟を決めていたかのように私物が整えられており、妻の姿はなかった。

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