忍び寄る影
「なんだか最近、誰かに見られているような気がするのよ」
「澄代さんもそう思いますか? 私もなんです!」
「気持ち悪いわね……」
「二人とも、どうなさったの?」
掃除中の澄代と多喜が、ひそひそと喋っていると、通りがかった菊が声をかけた。
菊の手にしたお盆には、紅茶と焼き菓子が載せられている。薔薇園で語らっている夫婦のもとへ運ぶ途中だった。
「誰かがこのお屋敷を窺っているんじゃないかって、澄代さんと話していたんです」
「女性を狙う変質者かしら。このお邸には私たち若い女中がいるし」
「菊さんも気をつけてくださいね」
「はぁい」
菊は話半分に聞くと、適当に返事をして薔薇園に向かった。
敬愛する主人に、早く午後のお茶とお菓子を持って行かなければならない。
バルコニーを出て、秋薔薇の咲く庭へ行くと、琴絵と憲斗は東屋の下で仲良くおしゃべりをしていた。
憲斗の膝の上には写生帳があり、手には鉛筆が握られている。時々視線を上げて妻の顔を見つめているので、琴絵の絵を描いているようだ。
(はぁ……素敵……)
菊は仲の良い夫婦の様子を見て胸をときめかせた。
以前は近寄りがたいほど厳しい雰囲気を漂わせていた憲斗だが、琴絵に向ける表情はとても優しく、肩の力を抜いているように見える。女中たちにも「お疲れ様」などと、声をかけてくれるようになった。
ここへ来たばかりの頃は憲斗に対し、おどおどと堅い態度を取っていた琴絵も、今は夫の前でもよく笑うようになった。
(お二方ともお美しいから、まるで周りがきらきら光っているみたいに見えるわ)
幸せそうな夫婦を見ていると、使用人である菊までが幸せな気持ちになる。
気配に気が付いたのか、琴絵が振り向いた。
「菊、お茶を持ってきてくださったのですか?」
ぼうっとしていた菊は我に返り、
「はい、お待たせしました」
と、二人に歩み寄った。
憲斗が閉じようとした写生帳の頁がちらりと見えた。やはり琴絵の絵を描いていたようだ。
菊はテーブルの上に紅茶と焼き菓子を置いた。
琴絵が早速フォークとナイフを手に取り、焼き菓子を切る。断面を見て、「まあ」と微笑む。
「ポンキンパイですね」
「はい。よい南瓜が入ったのだそうです」
「旬だな」
琴絵と菊の会話に、憲斗も混ざる。
主人夫婦と女中の少女が和やかに会話をする様子を、柵の向こうから覗き見ている男がいることに、誰も気が付いていなかった。
*
「菊ちゃん、ちょっとお買い物に行って来てくれない? お砂糖を切らしてしまって、能瀬さんが困っているみたい」
澄代に頼まれ、食堂の掃除をしていた菊は「はぁい」と答えた。
能瀬はもともとお菓子を作るのが苦手だったが、勉強熱心な琴絵に触発されたのか、あれこれと西洋菓子を研究している。砂糖の消費が早いのだろう。
菊は買い物籠を下げると裏口から桐山別邸を出た。
市場に向かい、その後、時間があれば、少しだけ小間物を見に行こうと考える。
先日お給金をいただいたばかりなので、新しい半襟を買ってもいいかもしれない。
うきうきと歩き出そうとしたら、背後から、
「お嬢さん」
と、声をかけられた。
驚いて振り向くと、顔立ちの整った青年が、菊を見て微笑んでいた。
「こんにちは」
「あ、は、はい。こんにちは」
あまりにも二枚目だったので、動揺しながら返事をすると、青年は菊のそばまで近付いてきて、囁いた。
「可愛いお嬢さん。あなたは桐山家の女中さんですよね」
「そうですが……」
「素敵なあなたを見込んでお願いがあるのです」
手を取られて甘いまなざしで見つめられ、初心な菊は動揺した。
「な、なんでしょうか?」
「これをこのお屋敷の奥様に届けていただけませんか?」
シャツの胸ポケットから封筒を取り出し、青年は菊に差しだした。
菊は青年の顔と手紙を交互に見て、首を傾げた。
「奥様に? どうしてですか?」
「実は僕、偶然、こちらの奥様が薔薇園を歩いていらっしゃるところをお見かけして、心を奪われてしまったのです。ご結婚されているとは存じておりますが、日々、気持ちが募ってしまって、苦しくてたまらないのです。叶わない恋とは思いつつも、せめてこの気持ちだけでも伝えたい……どうか、協力していただけませんか?」
苦しそうに胸を押さえ、切々と訴えられて、菊は困った。
(そんなことを言われても、奥様には旦那様がいらっしゃるのだから、他の殿方のお手紙をお渡しするなんてできない……)
迷っていると、青年はその場に膝をつき、片手を胸に当て、もう片方の手で菊の手を取った。
「心優しいお嬢さん、どうか僕のお願いを聞いていただけませんか? 一度きりでいいのです。手紙さえ渡していただければ、僕は奥様のことを諦めるつもりです」
縋るように手を握られて菊は慌てた。
ここは公共の道だ。通りすがりの人々が、妙な顔をして二人を見ながら通り過ぎていく。
「わ、わかりました。渡すだけですよ? 一度だけですよ?」
菊が念を押すと、青年は嬉しそうにパッと笑った。華やかな笑顔に、菊は思わずときめいた。
青年が立ち上がり、菊の手に手紙を握らせる。
「どうかお願いいたします。女神のようなお嬢さん」
恭しく頭を下げて、菊に背中を向ける。
歩き去りながら、青年――三ツ橋涼介はにやりと笑った。
初心な小娘を誘惑するなんて容易いこと。少し大げさな芝居をしただけでころっと騙されるなんて。
三ツ橋は鼻歌を歌いながら、カフェーロイアルへ足を向けた。




