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18/30

憲斗との夜

『天弓亭』開店記念の招待会の日がやってきた。

 アールデコ様式を取り入れたビルは三階建て。

 一階は硝子張りになっており、帆波屋が扱う輸入食材の物販店と、パーラーが入っている。

 二階はレストラン。三階は宴会場になっていた。


 真新しい宴会場には、百人を超える招待客が集まっている。

 テーブルには料理人が腕をふるった西洋料理が並べられ華やかだ。


 特に目を引いていたのがデザートだった。

 チョコレートで覆われたケーキには白いアイシングで小鳥が描かれ、輪型に入れて作られたカスタルドには中央に薔薇の生花が飾られている。

 ワインやオレンジ、珈琲で作られたゼリーが彩りを添え、バスケットのように飾り切りされたグレープフルーツの中には、様々な果物が詰められていた。


「美しいわ」

「とてもおいしそう」

「果物がまるで花籠のよう」


 招待客の夫人たちは、帆波屋の社長の挨拶もそっちのけでデザートのテーブルに目が釘付けだった。


「この度は、『天弓亭』の開店に際しまして、各方面に多大なるご尽力をいただき、まことにありがとうございます」


 辰喜の挨拶を聞きながら、琴絵は緊張していた。

 今日の琴絵は裾の長いドレスを着ている。「帆波屋副社長の妻として恥ずかしくないふるまいをしないと」と、かちこちになっている琴絵を見て、憲斗が微笑んだ。


「大丈夫。君は多くを話さなくていい。俺の隣で笑っていてくれ」

「はい」


 堂々としている憲斗が頼もしい。

 乾杯の音頭とともに宴会が始まった。

 楽団の生演奏の中、あちこちで人々の輪ができ、皆、楽しそうに雑談や挨拶を交わしている。


 まず憲斗の元にやって来たのは、佐代原道継と浩太郎だった。


「佐代原様」


 気付いた憲斗が丁寧にお辞儀をする。


「久しぶりだね。桐山君」

「お久しぶりです」


 挨拶を交わす二人の横で、浩太郎が琴絵に目を向けた。


「やあ、光香。元気そうだね」

「はい。お兄様もお変わりなく」


 本物の妹のようにそつなく答えると、浩太郎が思わせぶりに笑った。


「今夜はあまりにも美しいので、本当に我が妹かと目を疑ったよ」


 恭しく琴絵の手を取る浩太郎に戸惑う。

 なぜそのようなことを言うのだろう。迂闊な言葉は、琴絵の正体がばれる危険に繋がる。

 琴絵はすっと手を引き、


「お兄様、ご冗談を」


 と、微笑みながらあしらった。


「やあ! 憲斗君!」


 佐代原家の親子と話していると、別の男性が憲斗を呼んだ。

 憲斗は二人に、


「佐代原様、今夜はどうぞ楽しんで行かれてください」


 とお辞儀をして、挨拶を待つ次の客の元へと歩み寄っていく。

 白髪交じりの紳士が近付いて来て、


「憲斗君、今日はおめでとう!」


 と、手を伸ばした。

 握手を交わし、憲斗もお礼を言う。


「今日はお越しいただきましてありがとうございます。片岡社長」

「大盛況じゃないか。神戸の店舗も好調だと聞いているし、今日の様子を見ると、新店舗の未来も明るいね」

「光栄でございます」


 二人が話している横で、琴絵は静かに控えていた。


「副社長に就任してから、何ヶ月になるんだい?」

「半年になります」

「このように綺麗な奥方もいらして、君の将来が楽しみだよ」


 片岡は朗らかにそう言って憲斗の肩を叩いた。


「今日は君の顔を見られて良かった。一言、お祝いを言いたかったのだ。会が始まったばかりで申し訳ないのだが、私はこれで失礼させていただくよ」

「えっ? もう……でございますか? 何か当方に粗相でもございましたか?」


 機嫌良く話していた片岡の意外な言葉に、憲斗の表情が心配そうに曇る。


「そういうわけではないよ。ここの給仕人たちの教育は完璧だ。少々事情があってね」


 二人の話を聞いていた琴絵は、


「旦那様、少し失礼いたします」


 と囁き、憲斗から離れた。

 急いで厨房へ向かい、料理人に声をかける。


「料理長様、お願いがあるのですが。デザートに用意しておりましたお菓子を、少し包んで頂けないでしょうか」


 琴絵は料理人に指示を出した。料理人が琴絵の言う通りに手早く菓子を包む。


「奥様、どうぞ」


 料理人が差し出した包みを受け取り、足早に憲斗の元に戻ると、片岡が、


「それでは、また」


 と片手を上げ、立ち去ろうとしていたところだった。琴絵は背中を向けた片岡を呼び止めた。


「片岡様」


 片岡が振り向く。


「よろしければ、これをどうぞ。奥様へのお土産に」


 琴絵が差し出した包みを見て、片岡が不思議そうに首を傾げる。


「これは……?」

「レディフィンガーというお菓子でございます。卵の白身を泡立てて作ったお菓子で、甘くてさくっとしておりますので、奥様にも食べていただきやすいかと……」


 そう続けると、片岡は目を丸くした後、ふっと笑みを浮かべた。


「ありがとう。お心遣い感謝する」


 包みを受け取り「では」と言って去って行く片岡を、琴絵と憲斗はお辞儀をして見送った。


「光香、なぜ片岡社長にお菓子を渡したんだ?」


 憲斗が不思議そうに琴絵に尋ねた。

 琴絵は憲斗を見上げると、やや心配な面持ちで答えた。


「預かっておりました出席者様の一覧には、片岡様の奥様のお名前もございました。けれど、今日はいらしておられなかったご様子。もしかしたら、ご体調をくずされてご欠席なさったのかもしれないと思いまして……」


 琴絵の推測を聞いて、憲斗が目を丸くした。


「なるほど。片岡社長は愛妻家で有名な方だ。だから、早く帰ろうとなさっておられたのか」


 琴絵はこくんと頷いた。

 出席者一覧を預かった時、琴絵は憲斗に頼み、出席者たちの身分や人となりを一通り教えてもらっていた。

 憲斗は感心したように琴絵を見た。


(俺が教えたことを覚えていたのか。その上で、あのような気遣いまで……)

「光香、ありが……」


 憲斗がお礼を言おうとした時、


「桐山副社長。本日はおめでとうございます」


 また、他の招待客が声をかけてきた。言いかけた言葉を飲み込み、憲斗はそつなく挨拶を返す。


 入れ替わり立ち替わりやってくる招待客を憲斗が対応している間、琴絵は夫人たちの接待に回り、おしゃべりの花を咲かせた。

 琴絵が憲斗のスケッチを見せながら料理人に提案したデザートは夫人たちに大好評で、一部をパーラーで提供する予定になっていると話すと、「絶対に食べにくるわ」「お友達にも宣伝しますわね」と約束してもらえた。


 宴も終盤に差し掛かり、憲斗が挨拶に立った。


「本日は『天弓亭』の門出を祝うため、多くの皆様にお越しいただきまして、感謝申し上げます」


 琴絵は、堂々と謝辞を述べる憲斗を見つめた。

 若くして大企業の副社長に任命され、会ったこともない令嬢と政略結婚し、西洋料理店を開店させた。彼にとってこの半年は、怒濤の毎日だっただろう。

 無理をして何度も体調をくずしていた姿を見てきたので、ようやくこの日が来たことを、琴絵も感慨深く思う。


「光香!」


 名前を呼ばれ、琴絵は驚いた。憲斗が琴絵を呼んでいる。


「こちらへ」


 手招かれたのでおずおずと近付くと、憲斗は琴絵の腰に触れ、そのまま引き寄せた。


「皆様にご紹介いたします。彼女は光香。いつも私を支えてくれる素晴らしい妻です」


(えっ……)


 拍手が沸き起こる。音に包まれた琴絵は、信じられない気持ちで憲斗を見上げた。

 憲斗が優しいまなざしで琴絵を見つめている。


(私……旦那様の妻として、認めていただけたの?)


「今日の成功は、君のおかげだ」


 憲斗にお礼を言われ、嬉しい気持ちで微笑み返した琴絵は、次の憲斗の言葉で表情を強ばらせた。


「光香、ありがとう」


(私は「光香」ではない)


 自分が「光香」の身代わりであり、本物の妻ではないことを思い出し、胸が締め付けられた。

 本来なら、華族令嬢・佐代原光香が憲斗に嫁ぐはずだった。

 今、妻として紹介され、彼の隣に立っているのは、琴絵ではなく佐代原光香だったはずなのだ。

 自分はしがない庶民の娘。カフェー女給として働き、男性に媚びを売っていた、卑しい女。


「光香?」


 琴絵の反応に、憲斗が心配そうな顔をする。


「どうした? 体調が悪いのか?」

「あ……いいえ。大丈夫です」


 琴絵は努めて微笑むと、憲斗から視線を反らした。拍手をする招待客に向かって深々と頭を下げる。

 元気のない琴絵の様子を見て、憲斗は怪訝な表情を浮かべていた。



 招待会が終わり、桐山別邸に戻った琴絵は、口数が少なかった。

 寝室に入っても、憲斗と目が合わせられない。


(私は旦那様を騙している)


 その考えが頭から抜けず、罪悪感で胸が苦しい。

 ぼんやりとベッドに座っていたら、憲斗が近付いて来た。琴絵の隣に腰を下ろす。


「光香、今日は本当にありがとう」

「いいえ……私など、なんのお力にもなれておりません」


 暗い声で答えた琴絵に、憲斗が、


「そんなことはない」


 と、すぐさま否定した。


「肉体的にも精神的にも辛い時、光香が気遣い、時に背中を押してくれたから、ここまで来られたんだ。これからも、そばで俺を支えてくれると嬉しい」


 そう言うと、憲斗は手にしていた小箱を開けた。


「いつも尽くしてくれるお礼に」


 差しだされた小箱を見て、琴絵は息を呑んだ。

 中に入っていたのは首飾りだった。華奢な鎖には、小さな青い石が付いている。


「これを、私に……?」

「着けてもいいか?」


 憲斗はそう言いながら首飾りを取り出すと、琴絵の首にかけた。不器用な手つきで金具をかける。


「やっぱり似合うな」


 琴絵の首で輝く石を見て、憲斗は満足げに頷いた。

 嬉しさと申し訳なさで胸が一杯になり、視線を反らそうとした琴絵の頬を、憲斗が両手で挟んだ。


「なぜ横を向く?」

「そ、それは……」


 琴絵の目の前に憲斗の瞳があり、視線を逸らせない。

 憲斗の顔が近付き、唇が重なった。そのまま、そうっと寝台に押し倒される。


「お前は俺のたった一人の大切な妻だ」


 琴絵の様子を見るように頬を撫でられ、くすぐったさで身をよじると、くすっと笑われた。


「可愛い反応をする」

「あ、あの……待って……」

「待たないと言ったら?」


 真剣なまなざしで問われて、琴絵は怖くなった。

 三ツ橋に襲われかけた時の恐怖や、自分が光香ではないという後ろめたさが心の中に蘇り、どう反応していいのかわからない。


 琴絵が震えていることに気が付いたのか、憲斗が身を起こした。


「今日はお互いに疲れたな。ゆっくり休もうか」


 優しく微笑む夫を見て、琴絵は自分が彼を拒絶し、傷つけてしまったのだと察した。

 咄嗟に憲斗の寝間着の袖を摘まんだ。


「今は……その、まだ……」


 気持ちを伝えたいが、どう言っていいのかわからない。

 言い淀む琴絵を見て、憲斗の表情が和らいだ。横になり、琴絵に向かって両手を広げる。


「おいで。何もしないから」


 琴絵は小さく頷くと、そっと憲斗の横に潜り込んだ。

 寄り添うと、子どもにするように、憲斗が琴絵の背中をとんとんと叩く。

 その仕草が心地よく、体のこわばりが溶けていき、琴絵はいつの間にか眠りに落ちていた。

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