琴絵の絵心、憲斗の特技
その夜、琴絵は先に寝室に入り、買って来た画材を広げていた。
過労で何度か体調をくずした憲斗は、さすがに反省したのか、近頃は深夜まで仕事をしないように気をつけており、以前よりは早く寝室にやってくる。
「なんだ、まだ起きていたのか。……光香? 光香?」
琴絵は憲斗の気配に気が付かず、耳元で名前を呼ばれて、思わず「きゃあっ」と悲鳴を上げた。
「あ、だ、旦那様!」
「俺が部屋に入ってきても気付かないなんて、どうしたんだ? ……ん?」
憲斗の視線が琴絵の膝の上に向く。
琴絵は写生帳を憲斗に見せた。
「絵を描いていたのでございます」
「絵? 光香が?」
「はい。招待会でふるまうデザートのことを考えていた時に、ふと思ったのです。女性は皆、美しいもの、可愛らしいものが好きです。でしたら、可愛らしいデザートを作ってみてはどうかと」
写生帳の上にスケッチされた絵を見て、憲斗が呆れた表情を浮かべる。
「それはわかったが……これはなんだ?」
「小鳥でございます」
「……饅頭かと思った」
「……!」
憲斗の感想に、琴絵の頬が膨らむ。
「饅頭ではございません!」
「では、こちらは?」
「薔薇でございます」
「…………」
憲斗はもはや何も言うまいというように、苦笑いを浮かべた。内心、琴絵の絵の下手さに呆れているのが伝わってくる。
「……私の画力では、料理人にイメェジが伝わらないのはわかっております……」
泣き出しそうになった琴絵を見て、憲斗がめずらしくオロオロとした。
「わかった。その写生帳と鉛筆を貸してみろ」
素直に憲斗に写生帳を渡す。
憲斗は琴絵の隣に腰を下ろすと、鉛筆を受け取った。
芯を滑らせ、さらさらと描いたのは薔薇の絵だ。
「こんな感じだろうか」
「まあ!」
憲斗に差しだされた写生帳を見て、琴絵は目を輝かせた。
憲斗が描いた薔薇は、白黒なのに花びらの一枚一枚までが瑞々しく本物のようだ。
「旦那様、すごいです!」
手放しで称賛すると、憲斗の頬が赤くなった。恥ずかしそうに目を伏せる。
憲斗は今度は可愛らしい小鳥の絵を描いた。描いているうちに楽しくなってきたのか、次々と、子猫にうさぎ、竜胆に秋桜と、動植物を描いていく。
「まああ……」
感心して熱心に手元を見つめている琴絵に気が付いたのか、憲斗が我に返った。
「旦那様はとても絵がお上手なのですね!」
「あ、いや、これは……」
慌てている憲斗を見て、琴絵は以前、夫の部屋で盗み見てしまった写生帳のことを思い出した。
「私、旦那様の絵が好きです。旦那様の瞳に映る世界は優しいのですね」
微笑みながらそう言うと、憲斗が息を呑んだ。
「光香、お前は……ああ、いや」
何かを言いかけ、躊躇ったように口を閉じる。
「……?」
「何でもない」
何を言いかけたのだろうと不思議な顔をしている琴絵の横で、憲斗は内心の動揺を押し隠した。
(光香が、あの子と同じようなことを言うとは思わなかった)
憲斗の脳裏に、苦い思い出の中に残る、学生時代に出会った少女の無邪気な笑顔が蘇る。
琴絵は写生帳をめくりながら、憲斗の描いた絵を眺めている。
「旦那様、このスケッチ、私がいただいてもよろしいでしょうか?」
「…………」
憲斗は悩んだが、じっと自分を見つめてくる琴絵の視線に負けて頷いた。
「好きにしろ」
「ありがとうございます!」
写生帳を抱きしめて満面の笑みを浮かべた妻を見て思う。
(俺はどうやら、この笑顔に弱いらしい……)




