副社長夫人として
「ようやく梅雨が明けましたね」
サンルームに午後のお茶の用意をしながら、菊が琴絵に話しかけた。
西洋料理のレシピが記された分厚い書物を開いていた琴絵は、顔を上げ「そうですね」と相づちを打った。
「奥様、何を熱心にご覧になっておられるのですか?」
菊が不思議そうに琴絵の手元を覗き込む。琴絵は書物を閉じて菊に表紙を見せた。
「『西洋料理調理法全書』……?」
「もっとお料理の勉強をしたいとお話ししましたら、旦那様が貸してくださったのです」
琴絵は憲斗に、この本を借りた時のことを思い出した。
琴絵は先日、料理人の能瀬に、「もっと西洋料理の腕を上げたいので、教えていただけませんか」と頼み込んだ。
「私ごとき下々の者が、奥様にお料理をお教えするなんて滅相もない! 旦那様に怒られてしまいます」
琴絵は今までも何度か厨房を借り、料理を作ってきた。
能瀬にしてみれば、琴絵が西洋料理を完全に習得し「これからは私が作りますね」と言い出して、仕事を取られてしまうのではないかと不安なのだろう。
彼が言外にそう心配しているのだと気付き、琴絵は無理を言えず引き下がった。
サンルームで庭を眺めながらしょんぼりと萎れていたら、憲斗が通りがかり、「どうしたのだ?」と尋ねた。
本当のことを言うと能瀬に迷惑がかかってしまう。
「お料理の勉強をするにはどうすればよいのかと考えていたのです」
曖昧な答えを返すと、憲斗はしばらく考え込んだ後、書斎からこの本を持ってきた。
「専門書だが、参考になれば」
と言って渡され、琴絵は目を丸くした。
『西洋料理調理法全書』は、海外渡航の経験もある有名な料理人が記した書物らしい。このような本、琴絵のような主婦がそうそう手に取れるものではない。
琴絵は嬉しくなり、満面の笑みで憲斗にお礼を言った。
「ありがとうございます、旦那様! 私、一生懸命勉強します!」
琴絵の笑顔を見た憲斗は、照れくさそうに視線を反らした。
「励め」と言った後、足早にその場を去って行った夫の耳が、ほんのりと赤く染まっていたことに、琴絵は気付かなかった。
(ミートの部、フィッシの部、ベヂタブルの部、デザートの部……ああ、ときめくわ)
あまり出しゃばっては能瀬に迷惑をかけてしまうので、実際に調理をする機会は少ないだろうが、知識としては頭に入れておきたい。
琴絵がわくわくしているのが伝わっているのか、菊が微笑ましい表情を浮かべている。
その日の夜、能瀬が作ったロース・ポークを食べながら、ふと思い出したというように、憲斗が言った。
「光香、明後日はなにか用事があるか?」
「ありませんが……なんでしょうか?」
「知人が俺に紹介したい相手がいるらしく、食事に誘われているんだ。『妻君を連れてぜひ』と言われてな。来てくれるか?」
琴絵は背筋を伸ばして答えた。
「かしこまりました」
身代わりとはいえ、今の自分は帆波屋の副社長夫人だ。社交界にお供するのも、妻の役目だ。
「うん。頼む」
憲斗が満足げに頷いた。
琴絵が憲斗の人間関係に踏み込むのは初めてだ。憲斗に恥をかかせないよう、妻としてしっかりとふるまわないと――




