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13/30

初デート

『スエル亭』の前に着くと、憲斗はまだ来ていなかった。

 憲斗は早めに仕事を切り上げ、会社から店へ直行すると言っていた。仕事が押しているのかもしれない。

 琴絵は自分の装いを見て、


「やはり華やか過ぎたのではないかしら……」


 とつぶやいた。

 今日は憲斗と食事に行くと言ったら、菊が張り切ってしまい、


「奥様! お召し物は洋花のお着物にいたしましょう! 帯はこちらの菜の花色のものを! 今年の流行色です!」


 と、あれこれと着飾られてしまった。

 耳隠しに結った髪に軽く触れる。紅はよれていないだろうか。憲斗と外食するなど初めてで、緊張してしまう。

 どきどきしながら待っていたら、「あら? 琴絵さんじゃないこと?」と声をかけられた。振り向いた琴絵の心臓がどくんと鳴った。


「胡蝶……さん」


 そこにいたのは、取り巻きを連れた胡蝶だった。これからカフェーロイアルへ出勤するのか、濃い化粧をして派手な着物を着ている。

 胡蝶はにやにや笑いながら近づいて来ると、


「琴絵さん、お久しぶりですこと。急にお店をお辞めになったから、どうなさったのかしらと心配していたのよ」


 微塵もそんな風に思っていない表情で、胡蝶は声をかけた。


「『きっと、よいパトロンが見つかったのね、羨ましいこと』って、皆で話していたのよ。ねえ?」


 胡蝶が取り巻きたちに同意を求めると、取り巻きたちもくすくす笑いながら頷いた。

 彼女たちは、琴絵が体を使って財産のある年上の男性に取り入り、愛人にでもなったのだと考えているのだろう。


 彼女たちと一緒にいるところを憲斗に見られたら、彼にどう思われるかわからない。琴絵が華族の令嬢でないことがばれてしまうかもしれない。

 彼女たちに、早くこの場から去ってもらいたい。

 けれど、三ツ橋に襲われた夜のことを思い出し体が震えた。

 胡蝶の反感を買えば、何をされるかわからない。


 その時、琴絵と女給たちのそばに一台の車が止まった。運転席から男性が下りてくる。比文だ。

 比文が後部座席の扉を開けた。姿を現した憲斗に、胡蝶たちが息を呑む。取り巻きの一人が「素敵な方」とつぶやいたのが聞こえた。

 憲斗はすぐに琴絵の姿に気が付き、


「先に着いていたのか」


 と、声をかけた。

 憲斗は琴絵のそばまでやってくると、胡蝶と取り巻きたちを一瞥した。怪訝な表情を浮かべ、


「道でも聞かれていたのか?」


 と尋ねる。何も気付いていない様子の憲斗にほっとし、琴絵は「そのようなところです」と微笑み返した。

 憲斗が琴絵の背中に触れ、


「店に入ろう」


 と促す。琴絵はこくんと頷いた。


 突然現れ、優雅に琴絵をエスコートする憲斗に驚いていた胡蝶と取り巻きたちは、ぎりっと唇を噛んだ。

 きらびやかな西洋料理店の中に入っていく琴絵の背中に、憎々しげな視線を向ける。


(あの子、どうしてあんなに素敵な人と一緒にいるの? どこかの脂ぎった中年か、色ぼけ爺に囲われたのじゃないの?)

「あの子がいい思いをしているなんて許せない。……そうだわ」


 胡蝶はふと三ツ橋のことを思い出した。

 彼が琴絵によからぬ思いを抱いていることには気付いていた。そこをつついて琴絵を襲わせたものの失敗し、それ以降、三ツ橋は悔しさで悶々としているようだ。

 三ツ橋を使って琴絵を探らせよう。もう一度、襲わせてもいいかもしれない。

 胡蝶はそっとほくそ笑んだ。



 憲斗と共に『スエル亭』に入った琴絵は、どきどきしながら夫の横顔を見つめた。

 彼は何も疑わなかっただろうか。自分が元女給だと、気付かなかっただろうか……。


「ん? どうした、光香」


 琴絵の視線を感じたのか、憲斗が振り向いた。

 その表情には、なんの疑いの色もない。


「なんでもございません」


 努めて落ち着いた口調で返し、微笑む。

 すると、琴絵につられたかのように憲斗も微笑んだ。めずらしい優しい微笑みにどきっとする。

 憲斗は自分が無意識に琴絵に笑いかけたことに気付いたのか、恥ずかしそうに視線を反らした。


「いらっしゃいませ」


 近付いて来た給仕人に、憲斗が「予約していた桐山だ」と名乗る。


「お待ちしておりました。こちらへどうぞ」


 給仕人に案内され、席に着く。

 琴絵は周囲を見回し、目を輝かせた。

 カフェーロイアルも広くて豪華な内装だったが、ここはまた違う。同じく豪華でも、この店の調度品は品が良く、フロアには落ち着いた雰囲気が漂っている。

 青い絨毯の上には、西洋風のテーブルが並べられ、白いクロスが掛けられている。

 客は上流階級の者ばかりなのか、身だしなみも所作も美しい。

 会話も大き過ぎず、落ち着いて食事を楽しんでいる。


「素敵なお店ですね……」


 ほぅと息を吐いたら、憲斗が目を細めた。

 給仕人を呼び、複雑な洋酒の一覧を見ながら迷うことなく注文をする憲斗に、琴絵は見とれた。自分の夫は、なんて洗練された方なのだろう。

 運ばれてきた赤ワインは、日本のワイナリーで製造されているもので、皇室にも献上されたことがあるという一品らしい。


「琴絵は……確か十八だったな」

「はい」


 ワインを勧めかけた憲斗が手を止める。二十歳以下の琴絵は、まだお酒を飲むことができない。

 料理が運ばれてきた。


 セロリー・サラドと、ハムの燻製の前菜。

 ポテート・スープ。

 魚料理は、トマトソースを添えた鰈料理。

 肉料理は、野菜と合わせブラウンソースをかけた牛舌肉。

 デザートは杏のパイ。


 美しく盛り付けられた洋食が運ばれてくる度に、琴絵の目が輝く。

 かつて家族と食べに行った西洋料理店を思い出した。

 この店はあの時の西洋料理店よりもずっと高級だが、美味しいものを食べて幸せになる気持ちは一緒だ。

 にこにこしながら料理を口に運ぶ琴絵を見て、憲斗が嬉しそうに微笑んでいる。


 食事が終わり店を出た後、憲斗は「少し歩かないか」と琴絵を誘った。


「はい」


 素直に頷き、憲斗の一歩後ろに立つと、


「こちらに」


 憲斗が琴絵の背中に触れ、自分の隣に移動させた。


「お前は不思議な女だな。俺に対等に食ってかかってきたかと思えば、遠慮をして一歩下がろうとする」


 呆れた様子の憲斗を見て、琴絵は恥ずかしさで頬を染めた。


「生意気で申し訳ございません……」

「別に責めているわけではない」


 憲斗はさらりとそう言うと、歩き出した。琴絵も憲斗に肩を並べる。

 そろそろ梅雨に入る頃だろうか。食事をしている間に、外の空気は湿っていた。


「お前は今日の料理をどう思った?」


 憲斗に尋ねられ、琴絵は素直に、


「パン粉で揚げた鰈にかかるトマトソースは酸味と旨味が調和して、とてもおいしゅうございました。それに、牛舌肉は柔らかく、何時間もじっくりと煮込んだのだろうと感じられました」


 と答えた。琴絵の回答に、憲斗が目を丸くする。


「お前の感想は具体的だな。さすが料理が得意なだけある」


 憲斗に感心されて、「そのようなことは……」と謙遜しようとした琴絵に、憲斗は、


「今日はお前の意見を聞きたくて、付き合ってもらったのだ」


 と、続けた。


「……!」


 思いがけないことを言われ、琴絵の目が丸くなる。

 父の事業を手伝いたいと、女学校で懸命に勉強していた時のことを思い出す。

 妻が夫の仕事に口を出すなど、いけないとは思いつつも、必要とされているようで嬉しい。


「私は、世の中に西洋食材や料理を広めようと、一生懸命お仕事をなさっている旦那様を尊敬いたします」


 微笑みながらそう言うと、今度は憲斗が驚いた。けれどすぐに目を伏せ、自嘲気味につぶやく。


「俺はただ、父の言いなりになっているだけだ」


 そんな憲斗に、琴絵は首を横に振ってみせた。


「言いなりで、こんなに一生懸命にはなれません。あなた様は、ご自身の意志で動いておられるのです」

「自分の、意志で……」


 憲斗が琴絵の言葉を繰り返す。

 琴絵は「そうです」と言うように、にこりと微笑んだ。

 琴絵の顔をじっと見つめた後、憲斗が手を伸ばした。軽く琴絵の頬に触れる。


「光香。もっと俺の前でも笑ってくれ」


 突然顔に触れられ、今までに聞いたことのない優しい声で求められて、琴絵の体温が上がった。

 恥じらいながら、小さな声で「はい」と答えると、憲斗は満足そうに頷いた。


 その時、ぱらりと額に水滴が当たった。


「雨……?」


 空を見上げて両手を広げる。

 憲斗が上着を脱ぎ、琴絵に差し出す。


「羽織っておけ」

「旦那様が濡れてしまいます!」


 琴絵は慌てて断ったが、憲斗は上着を広げると、琴絵の頭からかぶせた。


「いいから、着ておけ」


 低く丸みのある声で命じられ、琴絵の胸がドキンと鳴った。

 今になって思った。以前にもこの声を聞いた気がする。

 三ツ橋に襲われた夜に琴絵を助けてくれた男性と、憲斗は、背恰好が似ているのではなかろうか……?


 琴絵は夫の顔を見上げた。

 けれど、彼に直接確認することはできない。聞けば、琴絵の正体が知られてしまう。


 雨脚が強くなり始めた。

 憲斗の前髪から雫が落ちている。

 その横顔が美しくて、こんな時だというのに、琴絵は見とれてしまった。


 憲斗と共に、市電の停留所へ向かう。

 ちょうどやって来た車両に乗り込むと、桐山別邸へ戻った。

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