琴絵の気遣い、憲斗の思いやり
義両親の訪問から数日が経った。
憲斗は辰喜から色々と仕事の指示を出されたのか、以前よりも忙しそうにしており、琴絵は彼の体を心配していた。
そんなある日、琴絵の元に憲斗の秘書・千種比文が訪ねてきた。
比文は、焦った様子で、出迎えた琴絵に向かい、
「奥様、大変申し訳ございません。午後からの会議で必要な資料を、副社長が部屋にお忘れになったとのこと。急いで私が取りに参りました」
と言った。
「えっ! 旦那様がお忘れ物を?」
比文の言葉を聞き、いつも仕事に真摯な憲斗がうっかり忘れ物をするなど信じられず、琴絵は驚いた。
「書斎の机の引き出しに入っているとのことです。お持ちいただけないでしょうか」
「かしこまりました」
琴絵は急いで書斎に行くと、憲斗の仕事机に向かった。
「引き出し……これかしら」
開いてみると、帳面が入っている。
「書類……ではなさそうだけれど……」
確認のために表紙をめくり、琴絵は目を丸くした。
「スケッチだわ……」
鉛筆で描かれた風景画は、書斎から見える景色だ。
あまりにも上手だったので、思わず次の頁をめくると、今度は可憐な草花が写生されている。
「素敵……」
憲斗が描いたものだろうか。
夫の意外な趣味を知り、驚く。
「まあ、鶯だわ」
愛らしい鶯の絵を見て目を細める。梅の花の枝に止まった小さな鳥は、羽毛の一枚一枚まで丁寧に表現してある。描き手が対象物を慈しみながら絵に落とし込んだのだと伝わってくる。
(この絵……なんとなく見覚えがあるような……?)
このように可愛らしい鳥の絵を、昔、見たことがあるような気がして、琴絵は首を傾げた。
不思議に思いながら次の頁をめくり、ドキッとした。
そこに描かれていたのは、微笑む琴絵の顔。
(旦那様が私を?)
いつの間に描かれていたのだろう。
動揺していた琴絵は、
「奥様、千種様が書類はまだかと尋ねておられます」
背後から菊に声をかけられて跳び上がりそうになった。
(私は、旦那様が忘れた書類を探しにきたのだったわ)
帳面が入っていた引き出しに書類はないようだ。
他の引き出しを開け、ようやくそれらしきものを見つけた。
(きっとこれね)
急いで階下に戻り比文に手渡すと、彼は内容を確認し、安堵した表情で微笑んだ。
「確かに受け取りました。ありがとうございます、奥様」
踵を返した比文は、何か言い残しがあったのか、琴絵を振り向いた。
「奥様。副社長は近頃、非常に疲れておられます。今日、書類をお忘れになったのも、そのためでしょう。お戻りになられましたら、いたわって差し上げてください」
そう伝えると、桐山別邸を出て行った。
お辞儀で比文を見送る。頭の中には、比文の言葉が残っていた。
(やはり、旦那様はお疲れだったのだわ……)
妻として夫を、もっと気遣わねばならなかった。自己嫌悪に陥る。
(私に、何ができるかしら……)
『琴絵の作る料理はおいしいなぁ。元気が出るよ』
父の言葉が蘇る。
琴絵は身を翻すと、厨房へ向かった。
その日の夜、憲斗はいつも以上に疲れた顔で帰宅した。
「すまない。食欲がないんだ」
すぐさま書斎に籠もろうとした憲斗を、琴絵は引き留めた。
「少しだけでもお夕食を召し上がって下さい。何もお食べにならないのでは、お疲れがとれません」
そう勧める琴絵を見て、憲斗は少し考えた後、
「……そうだな」
と言って、食堂に入った。
琴絵は厨房へ向かうと、手ずから料理を皿によそい、食堂へ運んだ。
盆を持って現れた琴絵に、憲斗が驚く。
「以前から言っているだろう。お前が女中仕事をする必要はない」
そう注意をした憲斗に、首を横に振ってみせる。
「夫の体調を整えるのは、妻の役割です」
憲斗の前に、白いスープが入った器を置く。
「これは……?」
スープと琴絵の顔を見比べ、憲斗が怪訝な顔をする。
「クラム・オブ・スタイル・チョウダーです」
「ああ、蛤のスープか」
憲斗はすぐにピンと来たらしい。
「はまぐりの他に、ハムと、馬鈴薯も入っています。牛乳の優しい味が喉を通りやすいかと思いまして」
「光香が作ったのか?」
驚いた顔の憲斗に、琴絵は頷いてみせた。
「そういえば、以前にもオニオン・スープを作ってくれたことがあったな。父と母が来た時の晩餐に出てきたビーフ・スチュードも、実はお前が作ったものだったのだと、後から能瀬に聞いた」
憲斗が琴絵を見上げた。
琴絵は真面目な顔で憲斗を見つめ返す。
夫を心配する琴絵の気持ちが通じたのか、憲斗は匙を手に取り、チョウダーを掬った。
口に入れて、目を丸くする。
「うまい」
琴絵は、ほっと胸をなで下ろした。
チョウダーを飲む夫を見守っていると、憲斗が顔を上げた。
「何を突っ立っている? お前も早く食べろ」
「えっ」
「いつも食事を共にしているだろう。お前の分は、女中に持って来させたらいい」
憲斗の言葉が聞こえたのか、控えていた菊が食堂を出て行き、すぐに琴絵の分のチョウダーを持って戻ってきた。
琴絵は憲斗と向かい合わせに座り、匙を取った。自分が作ったチョウダーを口に入れる。
黙々と食べる琴絵を見て、憲斗が小さな声で言った。
「……お前の料理は優しい味がする」
(旦那様……!)
思いがけない褒め言葉に、琴絵の頬が火照った。
「また作ってくれると嬉しい」
「かしこまりました」
琴絵が満面の笑みで答えると、憲斗は一瞬息を呑み、照れくさそうにふっと視線を反らした。




