継母と息子の距離
夕刻になり、家族の晩餐が始まった。
キューカンボとトマトのサラド、ロースト・スメトル、ビーフ・スチュード、ハンバクブル・ステキー、デザートはストロベリー・アイスクリーム。
次々と料理が運ばれてくる。
献立は、琴絵が菊から聞き出した辰喜とあやの好物を参考に、事前に料理人の能瀬と相談して決めたものだ。
できれば手伝いたいぐらいだったが、嫁が晩餐に出席せず、厨房に立つわけにもいかない。
崇はハンバクブル・ステキーが好きだと聞いていたので、ぱくぱくとよく食べた。
大人たちにはビース・スチュードが好評だったようで、にこりとも笑わずに食事をしていた辰喜も口にした途端表情を和らげ、あやは「おいしいですね」と微笑んだ。
父と母の反応を見て、憲斗は驚いたようだ。自らもビーフ・スチュードを口に運び、「これは……」と思わずといった体でつぶやいた。
家族の様子に、琴絵は胸をなで下ろした。能瀬に無理を言い、この料理だけは作らせてもらったのだ。亡き父が「おいしい」と言って笑ってくれた料理。桐山家の人々にも笑顔になってもらいたかった。
その後は雰囲気が和やかになり、辰喜が憲斗に私生活の近況を尋ね、あやは気さくに琴絵に話しかけた。
晩餐は無事に終わり、琴絵はほっと胸をなで下ろした。
*
その日の夜、憲斗と辰喜は、神戸店の売り上げ状況や、京都店の展望など、遅くまで書斎で仕事の話をした。
憲斗が机の中から書類を取り出そうとして、しまっていた写生帳が床に落ちた。頁が開き、中を目にした辰喜が顔をしかめた。
「まだそんなことを続けていたのか」
書斎の窓から見える景色を描いた風景画のスケッチは見事だったが、辰喜はそれを見て苦々しい表情を浮かべる。
「軟弱な趣味はやめろと言ったはずだ」
「……申し訳ございません」
写生帳を拾い上げた辰喜は、躊躇なく、部屋の隅にあるくず入れに放り込んだ。
「お前は桐山家の嫡男。帆波屋の跡継ぎだ。仕事のことだけを考えていたらいいんだ」
「承知しております」
憲斗が父に向かって直角にお辞儀をする。
辰喜は気を取り直したように「うむ」と頷いた後、
「ところで、佐代原の娘はどうだ? うまくやっているのか?」
と問いかけた。
「うまく……といいますと?」
「あの娘は血筋がいい。早く跡継ぎを作れ」
「……はい」
素直に返事をしながらも、憲斗は内心で父に対していらついた気持ちを抱く。
自分は父のように、女性を道具のように扱いたくはない。
光香に対して愛情はないし、政略結婚で嫁いで来た光香も、憲斗に対して特別な感情を持ってはいないだろう。
せめて、これ以上、彼女に負担をかけたくない。
「しっかりやれ」
辰喜は憲斗の肩を叩くと、書斎を出て行った。
憲斗は体の横でぎゅっとこぶしを握った。
父は勝手だ。
憲斗のしたいことはさせてくれなかったのに、自分はやりたい放題。その上、息子は自分の所有物だと思っている。
憲斗だとて一人の人間で、意志がある。
部屋の隅に歩み寄ると、くず入れから写生帳を取り上げた。汚れを払い、表紙をめくると、ちょうど光香を描いた頁が開いた。
彼女も、父の操り人形でしかない、こんな自分のもとに嫁がされて迷惑だろう。
憲斗は写生帳を閉じると、引き出しの中にしまった。
*
翌朝、桐山家の家族と朝食をとった後、琴絵はバルコニーで庭を眺めるあやの姿を見つけた。
「お義母様……」
あやに声をかけようとして、彼女の視線の先に、憲斗と崇がいることに気が付く。
「お兄様、聞いてください! 僕、尋常小学校の算術の授業で首席の成績を取ったんです!」
崇はしきりに憲斗に纏わり付き、話しかけている。
「僕、たくさん勉強をして、将来、お兄様とお父様のお仕事を手伝いたいのです!」
「……そうか」
無愛想に答えている憲斗だが、琴絵には、目を輝かせて義兄を慕う弟に対し、厭うというよりも、どう対応していいのかわからず、困っているように見えた。
息子たちの様子を見ていたあやが、気配に気が付いて振り向いた。
琴絵を見て、目を丸くした後、儚く微笑んだ。
「光香さん」
「お義母様。旦那様と崇様のご様子をご覧になっておられたのですか?」
琴絵が尋ねると、あやは小さく頷いた。
「あのように、崇は憲斗様を慕っているのです。けれど、憲斗様にはご迷惑のようで……」
義理の息子を様付けするあやを不思議に思う。
琴絵の内心を読んだように、あやは微苦笑を浮かべた。
「琴絵さんは、お聞きになっておられるでしょうか? 私が大旦那様の後妻だということを」
「はい」
「では、元女中だということも?」
「……はい」
桐山家が隠していた秘密を無断で知っていたように感じ、琴絵は申し訳ない気持ちで頷いた。
あやは遠くを見るような目をして続けた。
「私はもともと、今は亡き憲斗様のお母様にお仕えしていたのです。憲斗様のお母様――麗子様はお体が弱く、寝込みがちでいらっしゃいました。その間、私は麗子様の代わりに、憲斗様のお世話をしていたのです」
悲しい表情で、あやは俯いた。
「麗子様は憲斗様が九つの時にお亡くなりになりました。憲斗様はそれはもう落ちこまれて……。麗子様から、死の間際に憲斗様のことを頼まれた私は、あの方に一生懸命お仕えしました」
きっとあやは、母親のように愛情を持って憲斗を支えたのだろう。
「けれど、その後、私は辰喜様に乞われて、桐山家に入ることになりました。私には親はいません。少女の頃に桐山家に雇われて、ずっとそこで働き、生活をしてきました。私には、桐山家以外に生きていける場所はなかったのです」
当主の辰喜から求められて、あやは断れなかったのだろう。
「憲斗様は、辰喜様の後妻となった私を軽蔑なさいました。それはそうですよね……。大切なお母様に仕えていた女中が、裏切ったのですから……」
あやの目に涙が浮かぶ。
「私が憲斗様に嫌われても、それは仕方のないこと。けれど、崇は憲斗様を兄と思い慕っています。崇のことだけでも、受け入れてほしい……」
あやの願いを聞いて、琴絵は胸が痛くなった。
庭を見ると、憲斗は、纏わり付いてくる崇がうっとうしくなったのか、素っ気なくあしらっていた。
悲しそうな顔をしている崇を置いて、こちらに向かって歩いてくる。
バルコニーにいる琴絵とあやに気付き、一瞬驚いた表情を浮かべたが、何も言わずに邸の中に入っていった。
あやは俯き、唇を噛んでいる。細い体が震えているのを見て、琴絵はたまらない気持ちになった。
(ご家族なのだもの。ぎくしゃくするよりも、よい関係を築いていただきたい)
親を大切にしたくとも、琴絵にはもう父も母もいない。人は、突然の別れに見舞われることもある。
憲斗の両親はまだ若いが、何が起こるとも限らない。
「お義母様、失礼致します」
琴絵はあやにお辞儀をすると、パッと身を翻した。憲斗の後を追う。
「旦那様!」
階段を上がり、書斎へ向かおうとしていた憲斗を呼び止める。
憲斗は踊り場で振り返ると、無愛想に、
「なんだ」
と、返事をした。
「申し訳ございません。差し出がましいお願いだと思っております。けれどどうか、お義母様――あや様とお話をなさってくださいませ」
「何を言っている?」
憲斗の眉根が不機嫌そうに寄る。
「あや様は、旦那様と昔のように心の通じ合った関係に戻りたいと願っておられます。崇様も旦那様を慕っておられます」
そう伝えると、憲斗は「ハッ」と呆れたように笑った。
「あの女がそう言ったのか? あいつは、母から父を奪った卑しい女だぞ。女は男に媚びる生き物だ。家柄の良い令嬢も、女中も、カフェーの女給と変わらない。男に寄生し、贅沢三昧しようと狙っている」
「……!」
琴絵はキッとした表情で階段を駆け上がった。憲斗のもとまで行き、
「訂正してください」
と、きっぱりとした声で言う。
「カフェーの女給は、日々の生活のために一生懸命働いております。病気の母親を養うため、子どもを育てるため、家計を補助するため……皆、やむにやまれぬ事情があるのです」
琴絵の剣幕に、憲斗が息を呑む。
「あや様も同じ。あや様にはご家族がいなかったとお聞きしました。桐山家に雇われ、一生懸命働いていた。桐山家しか、あや様の生きていける場所はなかったのです。好きで麗子様や憲斗様を裏切ったのではございません!」
琴絵に詰め寄られ、憲斗は困惑した表情を浮かべている。
「あや様は憲斗様に負い目を感じておられます。その上で、今でもあなた様を大切に想っておられる……。崇様を見てください。あんなに憲斗様を慕って……。きっとあや様が、崇様に、憲斗様の素晴らしさを語っておられるのです」
「あやが……? まさか」
「まさかとお思いなら、直接お聞きになってください」
琴絵がきっぱりとそう言うと、憲斗の目が泳いだ。迷うように俯き、口元を押さえる。
その時、
「大きな声を上げて何をしている?」
階下から辰喜の声が聞こえた。
厳しい声音に驚き、ドキッとして振り向いた琴絵は、階段から足を滑らせた。
「あっ……」
(落ちる!)
そう思った瞬間、背中に腕を回された。
「危ない!」
ぐいと引き寄せられ、憲斗の胸に頬を付ける。危機一髪のところで憲斗が琴絵を抱きとめたのだ。
憲斗が「ふぅ」と息を吐いた。
「落ちたら怪我をするところだった」
「だ、旦那様……申し訳ございません。ありがとうございます……」
憲斗の腕の中で、琴絵はうわずった声でお礼を言った。
憲斗が我に返り、琴絵をパッと放す。
「悪い……」
憲斗はばつが悪そうに横を向き、琴絵は恥ずかしい気持ちで反対側を向く。
「急に声をかけてすまなかったな」
二人を見ていた辰喜が、階下から謝罪の言葉をかけた。
「父上。何かご用事ですか?」
憲斗が階段を下り、父の元へと歩み寄る。
「そろそろ神戸へ帰ろうと思う」
「では、車を出させます」
「うむ」
「ああ、いえ……少しお時間をいただけますか?」
憲斗は思い直したように、辰喜に言った。
「母上と話をしたいのです」
そう頼むと、辰喜は何か思うところがあったのか、短く「そうか」と答えた。
「では私は応接間で待とう。あやはサンルームにいたぞ」
「わかりました」
憲斗が身を翻し、足早にサンルームに向かう姿を、琴絵は嬉しい気持ちで見送った。
視線を感じ顔を向けると、辰喜が琴絵を見上げていた。鋭いまなざしにドキリとする。
「生意気な娘だ」
辰喜の言葉に、背筋がひやりとした。
「……まあ、それぐらい気が強いほうが、帆波屋のためになるやもしれん」
そう続けた辰喜に驚き、琴絵は一瞬呆けたが、慌ててお辞儀をした。
「光栄にございます」
辰喜はにこりともせずに鼻を鳴らすと、応接間に入っていった。
*
桐山邸の玄関前に停まった自動車のそばで、親子が向かい合っている。
「しっかり頼むぞ」
辰喜が厳格な口調で声をかけると、憲斗は、
「かしこまりました」
と言って頭を下げた。辰喜が鷹揚に頷き、自動車に乗り込む。
「お兄様、さようなら!」
元気よく手を振った崇の頭を、憲斗がぽんと叩いた。
「今度来た時は、勉強を見てやる」
崇が目を丸くし、嬉しそうに「うん!」と笑った。
崇も自動車に乗り込むと、憲斗は順番を待っていたあやを振り向いた。右手を差しだす。
あやは一瞬目を見開いた後、泣き出しそうな顔で微笑み、憲斗の手に手のひらを重ねた。
憲斗のエスコートで、あやも車中の人となった。
両親と弟の乗った自動車の後部座席を、憲斗自らが閉める。
運転手が憲斗に一礼した。憲斗が頷くと、運転席に乗り込む。
エンジンがかかり、自動車が発進した。
桐山別邸を出て行く車を、琴絵は憲斗の一歩後ろに立ち、見送った。
憲斗の背中を見つめる。
(旦那様……よかった)
あやとは和解できたのだろう。
ぎくしゃくした雰囲気は残っていたが、これからゆっくりと、憲斗とあや、崇の距離は縮まっていくに違いない。




