クレジット
蛍光灯が白々と照らす編集室で、宇佐美 由奈は色校ゲラに視線を落としていた。
インクの匂いがほのかに鼻をくすぐり、紙の手触りが指先に伝わる。
机に広げられたワイン特集ページは、編集二年目の由奈にとって初めて任された大仕事だ。
特集は『和食に合うワイン、教えます』と題し、寿司に辛口白ワイン、焼き鳥に軽めの赤ワイン──取材先のソムリエが「一番わかりやすい入口ですよ」と教えてくれた定番を軸にした。
正直、自分では実感できない部分も多かった。
けれど、その『分からなさ』がかえって読者の視点に近く、遠慮なく質問できる強みになった気がする。
分からない自分が必死に聞き、言葉にまとめたペアリング提案を詰め込んだ六ページ。
そこに今の由奈なりの答えが形になっている。
ページをめくるたびに、胸の奥で小さな鐘が鳴り、それが『現実』を告げていた。
とはいえ、浮かれてはいけない。まだチェックは残っている。
文字の配置は正しいか。
写真の発色は意図どおりか。
些細な違和感も見逃せない。
特にワインの色味は、誌面全体の雰囲気を左右する大事な要素だ。
赤ワインは肉料理と合わせるなら深みを、和風前菜と組み合わせるなら明るさを。
酸味の効いた辛口白ワインは刺身に映えるが、その美しさをきちんと写すには照明の加減が欠かせない。
「うん、悪くないな」
隣で同じくゲラを見つめていた澤井 伊鶴の声が、不意に耳に届いた。
指先で紙面を軽くなぞり、ゆっくりと紙をめくる。
その動作に、由奈は視線を向けた。
「でも、ここ」
澤井の指先が、グラスに映る深紅の液体を指し示す。
「もう少し明るくてもいいんじゃないか?」
確かに赤ワインの深みは魅力的だが、暗すぎるとページ全体が重たくなりかねない。
和食に合うライトボディの赤、ピノ・ノワールやガメイは、軽やかな酸味と繊細な果実味が特徴だ。その鮮やかなルビー色がページを彩る役割も担っている。
「そう、ですね。少し暗い、かも……」
自分では良いと思っていた。
けれど、指摘されただけで胸の奥がしゅんと縮む。
ああ、やっぱり自分はまだまだ未熟なんだと痛感する。
でも、これ以上明るくするのは違う気がした。
小さくても、自分なりの判断を信じたい。
そう思った瞬間、澤井が小さく息を漏らすように笑った。
「まあ、でも、好みの問題だな。うさぎの目指してた『落ち着いた雰囲気』って、こういう感じかもしれない」
からかうようでいて、どこか優しいその口調に、由奈は一瞬戸惑うも、肩の力は、ふっと抜けた。
澤井の言葉には、不思議と緊張をほどく効果がある。
──『宇佐美』だから、『うさぎ』。
澤井だけが、由奈をそう呼ぶ。
会社で彼以外にそう呼ぶ者はいない。
でも、その呼び方に深い意味などないことは分かっている。
由奈は、彼の後輩に過ぎない。それ以上でも以下でもなく。
入社したばかりで右も左も分からなかった頃、澤井は由奈にとって最初の相談役だった。
一年間だけ、新人に四年目の先輩がつく制度とはいえ、さりげない助けやアドバイスは心強かった。
もっとも、振り回されることも少なくなかったのだけれど。
ふと視線をゲラから外し、手元のスマートフォンに目を落とすと、時刻はすでに二十一時半を回っていた。
編集部の窓から見える夜景は、星が地上に散りばめられたように煌めき、街を行き交う車のテールランプが細く赤い筋を描いていた。遠くには街灯が点滅し、人影が小さく蠢いている。
──昨年の年末の飲み会の記憶が、不意に頭をよぎった。
あの日は、仕事納めの日で、飲み会が大いに盛り上がった。
そして、宴もたけなわになった頃、誰かが澤井に尋ねた。
『澤井さんって、どんなタイプが好きなんスか?』
澤井は特に動揺する様子もなく、氷が軽く音を立てるグラスを回しながら、少しだけ考えるように眉を上げた。
『可愛い子、かな』
可愛い子、という言葉を聞いた由奈は、澤井の隣で蜂蜜柚子梅酒の入ったグラスを握りしめ、その言葉を反芻していた。
そして、自分ではないことは確かだ、と即座に思った。
背は高めで、一重まぶた。スカートよりもパンツを選ぶことが多い自分は、どう考えてもその条件に当てはまらない。
この時、由奈は軽くショックを受けていた。
いや、軽くではなく、割としっかり。小さな棘が胸に刺さった。
『ええ~っ、可愛い子ですかあ?』
一個上の姫園が、頬に手を当て、きゃあっとはしゃいだ声を上げ、それと同時に由奈は反射的にグラスを一気に煽った。
冷えた液体が喉を滑り落ちる感覚だけが、ほんの一瞬だけ現実感を取り戻させる──この時、「あ、こらっ」とたしなめる声と、「お冷ください!」という少し焦った声が隣から聞こえたような気がしたけれど、この記憶は定かではないので割愛。
その後、由奈はなぜか無味になった梅酒をちびちびと飲みながら、澤井と姫園らが話す『可愛い子』トークを聞いていた。
端的に言って、地獄タイムだった。
『──じゃあ、澤井さんって、どんなふうに告白するんですう?』
『そうだな……ちゃんとした店に連れて行くかな。分かりやすく口説くっていうか、まあ、それくらいはしないとな』
『やあん、素敵ぃ。あたし、ちゃんとしたお店って行ったことないんですよねー。いいなぁ』
『はは、彼氏に連れて行ってもらいな』
澤井の言葉に、どっと笑いが起こった。
由奈も、軽く笑ってその場をやり過ごした。たぶん。その、つもりでいる。
だけど、その帰り道、凍てつく夜風に吹かれながら、なぜか彼の言葉が耳にこびりついて離れなかった。
──胸に残る痛みごと、思考は飲み会の夜から編集部へ引き戻される。
ゲラを追う澤井の横顔に、由奈はそっと視線を移した。
一年間の制度が終われば、さらに距離が広がるだろうと思っていた。
それなのに、まさか、こうして隣で仕事をすることになるとは。
自分は、いち後輩に過ぎない。
気にするだけ無駄だと分かっている。
それでも、胸の奥にある小さな棘は、いつまでも消えない。
消えそうで、でも、確かに『ここ』にある。
澤井がページをめくる音が、静かな編集室にかすかに響く。
由奈もペンを握り直し、ゲラに目を戻した──今は、目の前の仕事に集中しよう。
活字の並び、写真の配置、キャプションの位置。どれも慎重に目を走らせる。
新たな修正箇所はなく、依頼していた箇所は全て完了しており、胸を撫で下ろす。
これで、入稿準備は整った。
入稿用のPDFデータを指定されたサーバーにアップロードすると、進捗バーがゆっくりと進み、やがて『アップロード完了』の表示が画面に浮かんだ。
由奈は小さく息を吐き、背もたれに体を預けた。
肩の力がふっと抜け、微かに揺れる蛍光灯の光が視界に滲む。
達成感と虚脱感が入り混じった感覚が胸に広がった。
◇◇◇
発売日当日の朝、由奈は通勤電車の中で一冊の雑誌を手にしていた。
雑誌『アルストロメリア』。
表紙には今話題の朝ドラヒロインが微笑み、その隣には特集タイトルが大きく踊っている。
由奈は息を整えながらページをめくり、目的の特集ページにたどり着いた。
『和食に合うワイン、教えます』
その見出しが目に飛び込んだ瞬間、胸が小さく震えた。
由奈が組んだペアリング案が、美しくレイアウトされた紙面に広がっている。
写真の発色も、キャプションの位置も、意図した通りだ。
ページをめくり、最後の見開きに目をやる。
そこには、小さく並んだスタッフクレジット。
そこに、自分の名前があった。
宇佐美 由奈。
その文字を見た瞬間、体の芯が熱くなるのを感じた。
初めて丸々任された特集。
連日、夜遅くまで作業していたことが頭をよぎる。
ようやく形になったその成果が、ここにある。
編集部にたどり着き、由奈は席に着くなり、もう一度ページを開いてその名前を確認した。
やっぱり、そこにあった。
夢じゃない、なんて馬鹿な感想を心の中で呟き、ページを指先でなぞる。
「おっ、もう見たか?」
不意に後ろから声がかかり、由奈は思わず背筋を伸ばした。
澤井が軽く身を乗り出し、由奈の手元を覗き込むようにしている。
「クレジットに自分の名前があると嬉しいよな」
「はい、すごく嬉しいです」
「初特集、おめでとう」
「ありがとうございます。澤井さんのおかげです」
澤井は軽く顎を引いて頷くと、腕を組んで机に寄りかかった。
その視線が一瞬、由奈の雑誌に戻ってから再びこちらに向けられる。
「……んじゃ、お疲れ会でもやるか」
「え? お疲れ会……ですか?」
「うん、まあ、慰労会でもいいけど」
「あ、そうですね、じゃあ、はい」
少し戸惑いながらも、由奈は頷いた。
でも、ふと気になり、声を潜めて聞き返す。
「あの、チームのメンバーで、ですよね……?」
「ん?」
「えっと、予約しようかな、って。いつもの『鳥吉三世』でいいですか?」
澤井が一瞬きょとんとした顔を見せ、すぐに口元に薄く笑みを浮かべた。
「いや、メンバーは、俺とうさぎ。で、店は俺が決める」
「……え?」
「今週の金曜は、空いてるか?」
「あっ、はい、あの、はい、空いてます」
由奈は言葉を失い、慌てて返事を絞り出した。
「じゃあ、また後で。詳しいことはメッセージで送る」
「……はい、よろしくお願いします」
澤井が席に戻るのを見送り、由奈はしばらくの間、動けずにいた。
胸の奥で、達成感とは別の鼓動が騒ぐ。
何が起きたのか分からないまま、その速さだけが増していた。
◇◇◇
金曜日、二十時。
由奈が連れてこられたのは、会社へ向かう駅とは反対側にある小さな路地だった。
昼間なら通り過ぎてしまいそうな、ひっそりとした一角。ビルの間に挟まれた狭い階段を下りていくと、重厚な木製の扉が現れた。
扉の脇には控えめな真鍮製のプレートに、店名と『Wine & Dine』の文字が彫り込まれている。
澤井が軽く扉を押し、柔らかなジャズの音色と控えめなワイングラスの音が耳に届いた。
奥には、薄暗い照明に照らされたカウンター席と、カーテンで区切られた半個室が並んでいる。
壁にはセピア調の写真がいくつか飾られ、木の香りがほんのりと漂う。
「ワイン特集終わった今なら、楽しめるだろ?」
澤井が軽く笑いながら、奥の半個室に足を向けた。
由奈もその後に続く。
席は思ったよりも澤井を近くに感じた。
コの字型の席で、テーブルに腕を置くと肘同士がくっつくくらいの距離だ。
緊張で少し肩が強張るのを感じながら、由奈は席に着いた。
注文はすべて澤井に任せた。
ワイン特集を担当していたとはいえ、由奈自身はワインに詳しくない。
味の違いもよく分からないし、そもそもお酒は甘口派だ。
せっかく連れてきてもらったのに、うまい感想が言えなかったらどうしよう、と不安が胸をよぎる。
そんな心配をしているうちに、最初のグラスが運ばれてきた。
澤井が軽くグラスを持ち上げ、由奈もそれに続く。
「お疲れ様」
「お疲れ様です」
軽くグラスが触れ合う音が半個室に響いた。
由奈は恐る恐る口に含む。意外なほど甘く、どこかトロリとした舌触り。
ぶどうジュースとは違う、濃厚でほんのりとした酸味が心地いい味だ。
胸の奥にあった緊張が、少しずつ解けていくような気がした。
「どう?」
「美味しいです。甘いのにべたつかなくて、後味がさらっとしています。思っていたより上品でびっくりしました」
由奈が素直に感想を漏らすと、澤井が軽く頷いた。
自分のグラスを手に取りながら、視線を由奈に戻す。
「ピリッテリ・ヴィダル・アイスワインってやつだよ。カナダのアイスワイン。ぶどうを凍らせてから搾るから甘くて濃い味になる」
「ぴりってりびだる……。ジュースみたいだけど、ジュースとは全然違いますね。甘いのに奥行きがあって……ごくごく飲めちゃいそう」
「甘いからって飲みすぎるなよ? ワインだからな、度数高いぞ」
「はい。あの、澤井さんは、何を飲んでるんですか?」
「カベルネ・ソーヴィニヨン」
「かるべねそーびによん……」
澤井は軽くグラスを揺らし、深紅の液体がゆっくりと波を描く。
強い果実味としっかりとしたタンニン、ほんのりスモーキーな香りが漂う。
由奈が持っているグラスとは色も香りもまるで違う。
「ちょっと飲んでみるか?」
「いいんですか?」
「うん」
由奈は恐る恐る澤井のグラスを受け取り口に含んだ。
その瞬間、強烈な渋みと重みが舌に広がり、思わず顔がしかめっ面になる。
そして、次に間接キスであることに気付いて顔が熱くなる。
「苦い?」
澤井はその様子を見て、口元を緩めた。
「う、はい……口の中がきゅっとします」
由奈は慌てて自分のグラスに口をつけ、甘さで舌を癒すように一口飲む。
鼓動が少し速くなっているのを自覚しながら、なんとか平静を装おうと、視線を落としたまま声を絞り出す。
「ワイン特集担当したのに味が分からないって、だめですね……」
「だめじゃないよ」
「そうですか? 私、色々分からなすぎですよ。こんなちゃんとしたお店だって──」
初めてですし、と言いかけて、あっと気づく。
──年末の飲み会での、澤井の言葉が頭をよぎった。
『ちゃんとした店に連れて行くかな』
由奈の胸が小さく跳ねる。
もしかして、これはその『ちゃんとした店』? ──……いや、まさか。そうだ、そんなはずがない。
だって、由奈は『可愛い子』ではない。
「あ、あの、澤井さんは……」
「ん?」
「こういうお店、よく来ますか?」
「んー、どうだろうなあ。よく、ではないな。来るのは二ヶ月に一回くらいだし」
澤井は軽く首を傾げ、グラスを回しながら、少しだけ口元を緩めた。
「俺は焼き鳥にビール派だから、こういう洒落た店は行きつけじゃないんだよな、残念ながら」
由奈もどちらかと言ったらそうだ。
お洒落なお店は嫌いではないけど、そわそわしてしまう。結局、大衆居酒屋の雰囲気が落ち着くのだ。
だから、お疲れ会なら、そこで十分だったのに……。
いや、このお店に不満なんてない。
ないのだけれど──一体、どうして今日はこのお店なのだろう?
そんな思いを胸に抱えた時、澤井がグラスを置いた。
たぶん、疑問が由奈の顔に出ていたせいだろう。
「好きな子を連れてくるならここかな、って思ってて。たまにだけど、下見に一人で来てた」
「すきなこ……?」
「うん、うさぎのこと」
あっけらかんとした口調なのに、冗談には聞こえなかった。
澤井の目は、真剣で、耳たぶに熱が差している。
「はあ……ごめん。なんか、俺、酔ってる」
酒で顔を赤らめることなどなかったはずの彼の頬が、今、確かに赤い。
「い、いえ、あの」
「んで、ごめんついでに、だめだったら割とこっぴどく振ってほしい」
由奈は一瞬息を呑み、頬に熱が広がるのを感じた。
「だ、だめじゃないです!」
言葉を口にした瞬間、自分の声が小さく震えているのが分かった。
勇気をくれたのは、初特集の高揚か、甘いワインか、それとも──
「……あの、つ、次は、焼き鳥屋さんに行きませんか? 会社の──」
「行く」
間髪入れぬ返事に、由奈は思わず目を瞬かせた。
「あ、いや、その……」
澤井は落ち着かない手つきでグラスを揺らし、残っていた赤を喉に流し込んだ。
喉の動きが目に入り、由奈の鼓動が速くなる。
「会社のやつらとは行かないとこでもいい?」
「……ふふっ、はい」
由奈は思わず笑った。自分もそう言いたかったからだ。
「あー、くそっ。もっとスマートに進めるつもりだったのに……。緊張してる時にワインはだめだな……」
「スマートじゃなくても、私は嬉しいです」
「……そうかよ」
ふくれっ面の澤井がなんだか、年下の男みたいに見えた。
「澤井さん、お酒飲んでも顔赤くならないのに、今日は──」
「言うな」
「可愛いです」
「ばか、俺より先に言うなっ」
「ふふふ!」
由奈の笑い声が、半個室に溶けていく。
初特集の誌面に自分の名前が刻まれたように、澤井との夜もまた、新しい始まりの印だった。
【完】




