第2話 写真の温度
【朝】
屋上の空気は、まだ昨夜の冷たさを少しだけ残している。
腕時計を五回叩く。
G、D、Em、C。
サビ前、指が一瞬ためらって、勝手にCへ寄りかかる。
「アレンジ?」
神名カンナがタオルで弦を拭きながら言う。
「うん。こっちのほうが——」
「落ち着く、ね」
微笑む横顔に、探る色はない。ただ、温度を計るみたいにこちらを見てくる。
ケースの蓋に貼った黒帳をめくる。
《D→Em。忘れたら二フレット》
《青:延命ループを止めろ》
《赤:過去を焼き切れ》
ページの端、昨日より白い余白が大きい。そこには何があった? 胸の中を指で探る。手触りがない。
【午前】
商店街の掲示板の前で、篠がポケットの名札を裏返す。
「本日、“開町祭”の公式写真を町史に採用。記録課のオヤジ、押さえてある」
「候補は?」
「三枚。どれも綺麗すぎる。並び順、笑顔、中心人物、完璧」
完璧——つまり、**錨**の匂いがする。過去に打たれた参照点は、たいてい整いすぎている。
「合図は水でいこう」
俺は救護動線の地図にペンで矢印を足す。
「火事でも起きるのかよ」
「喉が渇くだけさ」
シノが肩をすくめる。「お前の段取りはいつも地味で、性格が悪い」
【正午】
役場の会議室。「町史編集委員会」の札。壁際のポットの水位を、カンナがわざと半分にしておく。
委員長の老人が、候補三枚をホワイトボードに貼る。
どれも笑顔が冷たい。明暗のバランスが均されすぎて、冬の日差しみたいに体温がない。
扉が開いて、古いキャリーバッグを引く女が入ってきた。灰色のスーツ、色褪せたスカーフ。
「記録課から参りました」
声が妙に平坦で、語尾だけがテープの伸びみたいに遅れる。
——時層民。未来の“アーカイブ国家”の使い。ここで正しい一枚を通すのが仕事だ。
「この三枚、構図は申し分ありません。被写体の認証性も高い。町史には最適です」
女の横顔の輪郭が一瞬ブレる。鼻梁が画面の再圧縮みたいに四角く見え、それから元に戻る。
鳥肌が立つ。楽しいと言って笑っていた“名前喰い”の顔が、音素の集まりに崩れて雑音になった瞬間を思い出す。未来の連中は、記録に寄りかかるほど人間の手触りを失っていく。
「じゃ、休憩」
シノがわざとらしく言って、テーブルに紙コップを配る。
ポットの水は、もう空に近い。
カンナが廊下に出て、自治会の子どもたちに合図する。給水車が来たという誤報が、スマホと口伝で部屋に流れ込む。
——喉が渇く。
——外に出たい。
——写真の外側へ。
委員たちが窓辺に集まる。女の目が、小さく苛立ちで揺れる。段取りは地味だ。けれど、集合の重心はこれで崩れる。
「休憩ついでに——もう一枚撮りましょう」
カンナが提案する。「外の光で、今の顔で」
【午後】
庁舎前。
列を崩す。中心人物を真ん中から半歩ずらす。
ハレの日の襟を、わざとひとつ立て直さない。
子どもが笑って走り抜けるのを止めない。
風で紙が舞い上がるのを撮る。
——“生活”を写し込む。整いすぎた参照点には、体温がない。温度を戻す。
シャッター。
その瞬間、女のスカーフが逆方向に揺れた。風向きに逆らうみたいに。
「公式写真は従前の候補で——」
「こっちのほうが、町っぽい」
委員の一人が言う。続いて二人、三人。
シノがLINEで、周辺の商店主や学校の先生に**“今の一枚がいい”**を拡散していた。
合議で参照を決める。一人の権限ではなく、多数の生活で。
女は笑った。笑顔の口角だけが、先に上がる。
「温度は記録できません。写真は、光です」
「じゃあ、光の温度を選ぶだけだ」
俺はホワイトボードを指差す。
「公式は、この一枚」
女の輪郭が、砂嵐のようにざらつく。
——錨が抜ける音は、耳には聞こえない。かわりに、心のピントが一瞬だけ外れる。
【夕方】
帰り道、スマホのロック画面が目に入る。
——誰かと写る未来の写真。
笑っている。肩が触れている。
温度がない。
目の奥が、何も掴めずに空振りする。
指が無意識にケースを叩く。五回。
黒帳に走り書き。《公式採用:外光=温度付与》《代償:壁紙の温度不明》
文字がうまく掠れる。インクの上を、何かが滑っていく。
【夜】
屋上。
G、D、Em、C。
ブリッジの歌詞を、一行だけ口が拒む。言葉の形は浮かぶのに、母音が出ない。
「アレンジ?」
カンナが、いつかの調子で笑う。
「うん」
頷いて、二フレット。Emが正しく鳴る。正しいって、なんだ。
「今日の女、四角かった」
カンナがぽつりと言う。
「四角?」
「瞬間、顔の奥行きが止まってた。写真が先にあって、人間が後から貼り付く感じ」
俺の背中で、汗が冷える。
「ねえサク」
カンナはコード表をしまいながら続ける。
「本名じゃなくて呼び名が好きって、前に言ったでしょ」
「言ってた」
「写真もね、“呼び方”で決まると思う。『いい写真』って呼ばれたやつが、町史になる」
彼女は笑って、立ち上がる。
「それで十分。名前を責めないみたいに」
弦の振動が、夜へ落ちる。
「……ありがとな」
言うと、カンナは肩をすくめた。
「明日は手紙だって。シノが回してきた」
「手紙?」
「母音が抜けた手紙。古い暗号。読める?」
喉の奥が、勝手に乾く。
【深夜】
黒帳。
《合図:時計×五》《D→Em》
《青:延命ループを止めろ》
《赤:過去を焼き切れ》
余白に、小さく書く。
《今日の写真は温度で勝った。参照の上書き=生活の合議》
《代償:誰かの温度が分からない》
ペン先が震えた。
延命ループ——未来で見た光景が、欠けた断片で戻ってくる。
無機質な廊下、壁一面の画面。
《RECORD RETENTION: 99.97%》
窓はない。空調の風は音だけだ。人の気配は、記録で代用されていた。
もう一行。
《俺は、どっちでここに来た?》
青に線。赤にも線。爪の先で押すだけの、薄い跡。
風が紙をめくる。
ピックの角が、また少し丸くなっている。
この丸みは、今日の勝利の証拠か。今日の喪失の形見か。
「覚えてなくても、指は覚えてる」
独り言みたいに言って、ケースを閉じた。
手元のスマホが震える。非通知。
画面に、短いSMSが現れて、すぐ消えた。
《_—__ __た_は、_で来_のか》
母音が抜けて、読めない。
でも、誰の声かは分かった。
——海斗。
足もとで、風が譜面を一枚だけさらっていく。
D→Emの走り書きが、一瞬だけ街灯に浮かび、闇に溶けた。