第1話 名前のないサビ
夜明け前の屋上は、風の音だけがまだ眠っていない。
俺は腕時計を五回叩く。指先に小さな振動が返ってくる——合図だ。
ケースを開けて、安いエレアコを膝にのせる。左手は自然にグリップをつくり、右手は癖で弦の間を撫でる。
G、D、Em、C。
指は覚えている。体が先に進む。
サビ前、Dから——
……Cを押さえていた。
「アレンジ?」
背後の給水タンクにもたれて、神名カンナが笑う。ねじ回しを耳にかけ、手には昨夜の現場で使った養生テープ。
「うん。こっちのほうが落ち着く」
落ち着く。
本当は違う。
昨夜、路地で名前喰いを処理してから、指が勝手にこの間違いを“正しい”と言い張る。
俺は笑ってごまかし、弦をミュートした。ケースの蓋の裏に貼った黒いメモ帳——黒帳をそっと開く。
《D→Em。忘れたら二フレット滑らせ》
《合図:腕時計×五=Key=G》
《“サビ前”に注意——原因は昨夜》
どれも俺の字。殴り書きなのに、妙に段取りが整っている。
黒帳の最後の方には、青インクと赤インクで交互に書かれた短い文もある。
《青:延命ループを止めろ》
《赤:過去を焼き切れ》
書いたのは、やっぱり俺だ。
カンナが近づき、弦の埃を指で払う。「朝から熱心じゃん。シノが探してたよ。夜の片づけ手伝えって」
「後で行く。ちょっと手順、見直してから」
——手順。
俺の武器は、これだけだ。
昨夜、路地の突き当たりにそれはいた。
薄いコート、くたびれた靴。月のない闇の中で、その顔だけがぼやけている。
「君、名前は?」
問いかけた俺に、そいつは楽しげに首を傾げる。
「あなたは?」
喉の奥がざらついた。この手合いは真正面から“名乗り合い”を仕掛けてくる。
——名前喰い。未来で教わった分類では、固有名を参照点に現実をつなぎ止めるタイプ。対象の“名を奪う”ことで権限を得る。
俺は路地の壁に貼ってきた張り紙を指で弾いた。
【ご近所の皆さんへ:今夜から“あだ名”で呼び合う運動はじめます!】
昼間のうちに、商店街の掲示板からSNS、学校帰りの子どもたちまで巻き込んでおいた。
“名”ではなく“呼び方”で人と人をつなぐあだ名プロトコル。参照元をすげ替える簡易の手順だ。
「オレは——」
喉まで出かかった本名を、俺は飲み込む。
「サク。ここいらの“段取り屋”だ。あんたは?」
名前喰いは、笑った。輪郭が少し崩れて、滲んだ光の粒が溢れる。
「……呼び方を、変えたんだね。じゃあ私は——おばさんでいいよ」
効いてる。
固有名が奪えないと、やつは“呼び方の集合”にしか触れない。
俺はカンナに前もって頼んでおいた救護導線を確認する。路面に白チョークで描かれた矢印、倒れそうな植木鉢には固定ベルト、露店の縄は足首の高さから腰の高さへ——転倒しない動線。
力押しはしない。段取りで勝つ。
「おばさん、ここは“本名が要る場所”じゃない。呼び名の町だ」
俺はポケットから小さなスタンプを取り出し、路地口の案内板に押した。
《本名の記入欄:——現在使用中止》
《呼び名の記入欄:ニックネームでOK》
名前喰いの輪郭が、ぐらりと傾ぐ。
「**錨**を外していくんだ……」
「この町に“名札”は似合わないから」
やつのコートのポケットから、古びた名簿が落ちた。紙は皺だらけ、角は擦れて黒い。
——未来のアーカイブ国家から来た“時層民”。自分の存在を保つため、過去の参照点に錨を打ち続ける。ここでは“名簿”がその錨だ。
俺は名簿を拾い上げ、表紙の地名を指で覆う。「ここは、もう**“市場裏”じゃない」
午後、市役所の“地域通称見直し委員会”にシノを走らせておいた。古い通称を、今の呼び方で公式化する。
参照を上書き**する。物を壊すんじゃない。物語の紐をすげ替える。
「おばさん。ここに“あなたの名前”は残らない」
「残らないのは、——あなたのほうも、ね」
次の瞬間、視界が白くはじけた。
風が、名前の代わりに通り過ぎる。
錨は抜けた。
「——で、報告は?」
昼、商店街の倉庫。篠が肘で俺の脇腹を小突く。髪を後ろで括り、紙コップのコーヒーを揺らしている。
「昨日、同じ日に同じミスしてたんだよな。ガムテの切り口、二回連続で逆。珍しい」
「寝不足」
「ふうん。あとさ、ギター。サビ前、毎回Dをすっ飛ばすようになったの、いつから?」
汗が一粒、背中を流れた。
「アレンジだって。こっちが落ち着く」
「落ち着くって便利な言葉だよなぁ、サク」
俺は笑って、足元の養生テープを巻き直す。巻き終えた先をわざと反対向きに折る。
——次に失敗しても、指が勝手に正しい向きを選ぶように。
手順は、未来の俺が未来で何度もしくじって編み出した所作の記憶だ。
「サク、夜。屋上ね」
カンナが顔を出す。手に持った工具の袋から、ピックがひとつ転がり落ちた。角が少し、削れている。
「新しいの、いれとく?」
「……いや、まだいい」
俺はケースに手を伸ばし、黒帳を一枚めくった。白い余白が一つ、増えている。
昨夜、何かが抜け落ちた跡。そこに何があったのか、もう思い出せない。
《青:延命ループを止めろ》
《赤:過去を焼き切れ》
ページの端に、爪で軽く印をつける。
青側に一本、赤側に一本。どちらにも俺は線を引いていた。
——俺は、どっちでここに来た?
夕暮れ、屋上。
腕時計を五回叩く。風の音が一拍ごとに軽くなる。
G、D、Em、C。
サビ前。指が迷う。Dが遠い。Cがやさしい顔で手招きしている。
「覚えてなくても、指は覚えてる」
小さく呟いて、二フレットを滑らせた。
Emが鳴る。わずかな歪みが、空の色に溶ける。
カンナが足元にケーブルを這わせながら、何気ない声で言う。
「サク。あたしさ、あだ名で呼ばれてると落ち着くんだよね」
「そう」
「だから、誰かの本名を忘れたって、別に責めたりしないよ」
指が、一瞬止まった。
俺は顔を上げる。
橙色の空に、吊り橋の影。カンナの横顔は、いつも通りだった。
「……明日の段取り、教えて」
「了解。まず市場裏——いや、**“小路”**からだ。案内板はもう差し替えた?」
カンナは頷く。
参照の上書きは済んだ。錨は抜けた。
あとは、俺がバレずに続けるだけだ。
弦を止める。ピックの角が、少し丸くなっている。
ケースを閉じる前に、黒帳に一行だけ書く。
《D→Em。忘れたら二フレット》
その下に、小さくもう一行。
《——また、ひとつ失くした。気づかれないうちに、次の手順を。》