王と王妃の黒歴史~婚約破棄された令嬢が綴る、血塗られた復讐と真実の愛の手紙~
親愛なるアレクサンドル・キングソード王太子殿下
あの日――。
殿下がわたくしを断罪し、冷たく婚約破棄を言い渡したあの日。
わたくしの世界は、音もなく崩れ落ちました。
舞踏会の開かれていた大広間に響いた嘲笑。
貴族たちの侮蔑の視線。
殿下の口元に浮かんだあの冷酷な笑み。
あの日、あの時――。
わたくしの心は一度、確かに死んだのです。
けれど、死の底で私は知りました。『光』が与えてくれなかったものを、『闇』が与えてくれるのだと。
痛みも、憎しみも、裏切りも――。
すべてが、わたくしの力となったのです。
わたくしが忌まわしい存在ですって?
ええ、望むところですわ。
わたくしは禁忌とされる血の魔術と、死者を操る暗黒の術式を手に入れました。呪詛の契約により死の影と同化し、死霊たちを従え、わたくしを笑った者たちに、順番に死の贈り物を届けているところです。
殿下の新たな婚約者、リャクダーツ・ドラゴンハート。
あの『ずるい』が口癖の、わたくしの欲しがりな義妹。
リャクダーツは、わたくしの血塗られた手で、絶望の底へと沈めてやりました。
あの鮮やかな血の色の瞳が閉じられ、笑顔が消え去る瞬間、わたくしはようやく呼吸の仕方を思い出したのです。
殿下の取り巻きの貴族令息たちもまた、夜の闇の中で静かに命を落としていきました。
残された者たちも、すでに怯えきって、殿下の側に近寄りすらしないでしょう?
殿下ご自身も、もはや逃げ場などありません。
死の鎧をまとった骸骨兵たちが、今宵も殿下の血を求め、王都を徘徊しています。
わたくしは、ただ復讐をしただけで終わるような女ではございません。
わたくしは深き闇の底にある『不死者の館』で、真実の愛と出会いました。
漆黒の騎士、サーシャ。
サーシャはわたくしの狂気を受け入れ、この復讐劇を祝福してくれました。
わたくしたちは血の契約を結び、漆黒の闇に堕ちた運命を分かち合う者。
わたくしたちを結びつけるのは、ただの愛だけではありません。
破壊と再生、絶望と希望を織り交ぜた、深淵の誓い。
『光』に縛られた殿下には、決して理解できないでしょう。
これこそが、わたくしが手に入れた真実の愛なのです。
ああ、アレクサンドル殿下。
最後の警告と共に、お別れの言葉を贈ります。
わたくしは、もはや殿下の知っている淑やかな令嬢ではありません。
わたくしは闇の女王、リュドミーラ・ドラゴンハート。
漆黒の愛と共にこの国を陰から支配し、殿下の未来を喰らう者。
殿下が捨てた女は、今や世界の終焉を招く災厄となったのです。
リュドミーラ・ドラゴンハートより
私は静かに手紙を折りたたみ、封筒に戻した。
王太子宮の学習室には今、私一人だけ。
私は少し前まで、このマホガニーの立派な机に向かい、王立中等学院で出された数学の宿題を解いていた。
あの数学教師ときたら、王太子に対して『二種類の塩水の濃度を求めよ』だの、『宝石の割引セールでの指輪とネックレスの値段を求めよ』だのと……。
私は王太子だ。医師や調理師になるわけでもないのに、塩水の濃度など計算できたところでなんになるのだ。
宝石の割引セールに至っては……。王侯貴族が王都や領地で『お店屋さん』でもやると考えているのだろうか……。
今日は王立中等学院が休みの日。
のどかな昼下がりである。
私は少し気分転換することにして、侍従を遠ざけ、婚約者であるリュドミーラ嬢からの手紙を読んだところだった。
私が送ったカードの返信として、リュドミーラ嬢からこのような激しい創作物が送られて来るとはな……。
我が婚約者であるリュドミーラ嬢は、辺境大公家の末っ子長女だ。辺境大公夫妻はとても仲が良く、リュドミーラ嬢には『欲しがりな義妹』などいない。
リュドミーラ嬢は今も、辺境大公家の領地である、王都から遠く離れた辺境の地に住んでいる。
蒸気機関車なる、石炭で動く鉄の箱に乗っても、王都から丸一日かかる僻地だ。
馬車だけで移動していた頃には、半月かかってやっと着いたらしい。
ああ……、蒸気機関車と馬車など……。
私と同学年のリュドミーラ嬢も、数学教師から『馬車と蒸気機関車を乗り継いだ場合の、それぞれの移動距離を求めよ』などと命じられ、辛い思いをしているだろうか……。
私がリュドミーラ嬢にカードを送ったのは、一ヶ月ほど前だったか……。
父上……、いや、国王陛下が、私にリュドミーラ嬢と親睦を深めるよう命じてきたのだ。
国王陛下は気軽に「どうだ、手紙でも書いてみろ」などと提案されたが……。
私にとってリュドミーラ嬢は、数回会って、挨拶して、王宮の花園を黙って散歩しただけの相手だ。
私たちには共通の話題などない。
国王陛下は私がどんな内容を書き送れると思ったのだろうか……。
私の未来には、期末テストが控えている。
婚約者に『お手紙』など書いている場合ではないのだ。
私は悩みに悩んだ末、考えることを放棄した。
『リュドミーラ嬢、これから私と文通しませんか? アレクサンドル』
白地に金箔と銀箔で薔薇の模様が入れられた、美しいカードを侍女に用意させ、私が自らの手で文字を書いて送ってやった。
舞踏会などで顔を合わせる令嬢たちならば、『麗しの王太子』と名高い私から手書きのカードが送られてきたら、泣いて喜ぶことだろう。
私はリュドミーラ嬢から返事が来たら、その内容についての手紙を書き送ろうと考えていた。
適当に褒めてやりさえすれば、リュドミーラ嬢だって歓喜に震えるはずだった。
私は面倒な王命を上手く乗り切れたと思ったのだ。
私は最後に会った時のリュドミーラ嬢の姿を思い出す。
陽光の下、繊細に光っていたプラチナブロンド。真っ赤に熟れた苺のような赤い瞳。やわらかそうな頬と唇。
あれはまだお互い五歳だったか、七歳だったか……。
私は今年になってから、ずっと考えていたのだ。
リュドミーラ嬢の金髪と赤い瞳は、勇者の血筋の証なのだろうと。
私とリュドミーラ嬢との婚約は、王家の血筋と勇者の血筋を交わらせるためのもの――。
私はリュドミーラ嬢からの手紙を見つめた。
これはそれなりの返事を書いてやらねばならんな。
「フハハハハハ」
私は大魔王らしく笑いながら、左目を覆っていた黒い眼帯を外した。
眼帯の下から現れた、我が黄金の瞳が、この薄汚れた世界を睥睨している。
右目は万物を凍りつかせるアイスブルー。
私は生まれながらのオッドアイなのだ。
ああ……、リュドミーラ嬢も、きっとオッドアイが好きだろう……。
我が漆黒の髪は、暗黒の世界に堕ちた証。髪を束ねる革紐には、いくつもの魔術が編み込まれ、強大すぎる我が魔力を封印している。
くそっ、鎮まれ……!
我が体内には、暗黒竜グレイテスト・ドラゴンが封印されている。私は強大すぎる我が魔力をもって、この邪竜を抑え込んでいるのだ。
私は便箋を出し、羽根ペンを握った。
書く内容はすでに決まっている。
王太子である私、アレクサンドル・キングソードこそが、漆黒の騎士サーシャの正体なのだ。
リュドミーラ嬢もそのつもりで、アレクサンドルの愛称であるサーシャを漆黒の騎士に据えたのだろう。……そうだよな?
漆黒の騎士とは、リュドミーラ嬢も良いセンスをしている。この身を流れる崇高なるドラゴンスレイヤーの血が滾ってくるではないか。
リュドミーラの愛称はリューダか。
リューダ・ドラゴンハート。
遠き東の果ての地では、ドラゴンのことをリューと呼ぶらしい。
リュドミーラ嬢の勇者の血は、我が内に封印されしグレイテスト・ドラゴンを解き放つ鍵なのだろう。
我が全魔力が解放された、その時こそ、私は真の大魔王として覚醒する。
「全世界が、我が前にひれ伏すのだ……」
私は、我が内に長く秘められてきた呪詛の言葉を口にした。
――こうして我らの黒歴史は、汚れなき純白の紙の上で、さらなる円熟を迎えた。
ああ……、あの頃の我らは、まったく気づいていなかった。
永遠とも思える時の果て。
この楽しくも儚い夢の刻をふり返る時。
この国の王と王妃が、凄まじい羞恥に悶え苦しむことになるなどとは――。