侍女が密偵で、私が囮でした~悪役令嬢の完璧すぎる失脚劇~
今回は侍女さんが実は超有能な密偵だったというお話を書かせていただきました。アンナとエリーゼの信頼関係と、二重三重に仕掛けられた策略、そして何より敵役たちの見事な自爆っぷりを存分に楽しんでいただければ幸いです。
王宮の大広間に響く靴音が、やがて静寂に包まれた。
エリーゼ・フォン・レーベンハルトは、数百人の貴族たちが見守る中央に立っていた。金色の髪を優雅に結い上げ、深紅のドレスに身を包んだ彼女の姿は、まさに絵画から抜け出た令嬢そのものだった。
しかし、その美しい容貌に向けられる視線は、決して好意的なものではなかった。
「エリーゼ・フォン・レーベンハルト」
玉座から立ち上がった第一王子フェリックスの声が、広間に響く。金髪碧眼の美しい王子は、しかし氷のような表情でエリーゼを見下ろしていた。
「貴女には数々の罪がある。侍女アンナを使って他の令嬢たちを陥れ、嫉妬に狂って彼女たちの評判を貶めた。そして何より――」
フェリックスは手にした羊皮紙の束を高く掲げる。
「証拠がある。貴女の侍女が書いた、他の令嬢たちの私生活を暴露する手紙の数々だ。これほど品性に欠ける行為を重ねた貴女が、この国の王妃になることは許されない」
ざわめきが広間を駆け抜ける。貴族たちの視線が、エリーゼの後ろに控える侍女アンナに向けられた。
茶色の髪を三つ編みにした地味な容貌の少女は、震える手でハンカチを握りしめている。頬には涙の跡があり、まるで罪の重さに押し潰されそうな様子だった。
「お嬢様、申し訳ございません」
アンナの震え声が響く。エリーゼは振り返ることなく、ただ微笑みを浮かべていた。
「そうですか」
エリーゼの返答は、あまりにも簡潔だった。
「残念です」
弁解も、怒りも、悲しみも見せない。まるで他人事のような態度に、フェリックスの眉がわずかに動く。
「……貴女にはレーベンハルト領への追放を命じる。二度と王都に足を向けることは許さない」
エリーゼは優雅に一礼した。
「かしこまりました、殿下」
彼女の後ろで、アンナがすすり泣く声だけが響いていた。
* * *
馬車の揺れが心地よく、エリーゼは窓の外を流れる景色を眺めていた。
王都から離れるにつれて、石造りの建物は木造の家々に変わり、舗装された道は土の道となっていく。馬車の中には、エリーゼとアンナ、そして最低限の荷物だけがあった。
「本当にこれで良かったのですか?」
アンナの声に、エリーゼは振り返る。先ほどまでの涙はもうない。代わりに、いつもの冷静な表情が戻っている。
「ええ、予定通りよ」
エリーゼの答えに、アンナは安堵の表情を見せた。
「では、あの時のことを思い出してください」
エリーゼは目を細める。五年前の記憶が蘇ってきた。
フェリックス王子との婚約が決まった日、父レオンハルト侯爵は一人の少女を連れてきた。
「エリーゼ、この子がお前の侍女になるアンナだ」
当時十三歳だったアンナは、今と同じように地味な外見だった。しかし、その瞳だけは違っていた。まるで大人のような、深い知性を宿していた。
「特別な侍女だ。何があっても彼女を信じなさい」
父の言葉の意味は、当時のエリーゼには理解できなかった。
しかし、宮廷生活が始まると、アンナの「特別さ」は明らかになった。
他の侍女たちが気づかない細かな変化を察知し、貴族社会の複雑な人間関係を完璧に把握していた。時として、主人であるエリーゼよりも的確な判断を下すこともあった。
「マルグリット伯爵令嬢が、お嬢様の悪い噂を流そうとしています」
「ベアトリス子爵令嬢の侍女が、お嬢様の私室を探ろうとしています」
「フェリックス殿下の周囲に、不穏な動きがあります」
アンナの報告は常に正確で、エリーゼはそれに従って行動していた。いつしか二人の間には、主従を超えた信頼関係が築かれていた。
「あの頃から、全て計算されていたのね」
エリーゼは苦笑する。
「はい。お嬢様は完璧に役割を果たしてくださいました」
アンナの答えに、エリーゼは首を振る。
「いいえ、私は何も知らされていなかった。ただ、貴女を信じていただけよ」
「それで十分でした」
馬車の中に、静かな時間が流れる。エリーゼは改めて、自分がどれほどアンナを信頼していたかを実感していた。
* * *
レーベンハルト領に到着した翌日、エリーゼは父の書斎に呼ばれた。
重厚な書棚に囲まれた部屋で、レオンハルト侯爵は娘と向き合っていた。五十代の貴族らしい威厳を持つ男性だが、今日の表情はどこか疲れているように見えた。
「エリーゼ、お疲れ様だった」
父の労いの言葉に、エリーゼは微笑む。
「いえ、父上。むしろ楽しませていただきました」
「そうか。では、そろそろ真実を話そう」
レオンハルト侯爵は立ち上がり、書棚の一角から分厚いファイルを取り出した。
「アンナの正体を知っているか?」
「薄々、ただの侍女ではないと思っていました」
「そうだろうな。彼女は王国直属の密偵組織『シャドウ・ローズ』の一員だ。コードネームは『アンナ・ローズ』」
エリーゼの目が僅かに見開かれる。
「密偵……」
「彼女の任務は二つあった。一つは、お前を守ること。もう一つは、宮廷内の反政府勢力を監視することだ」
レオンハルト侯爵はファイルを開く。そこには、貴族たちの詳細な行動記録が記されていた。
「実は、お前を陥れようとしていたのは第二王子派の貴族たちだ。彼らは現在の王太子フェリックスを失脚させ、第二王子エドワードを擁立しようと企んでいた」
「それで、私が標的に……」
「そうだ。王子の婚約者を失脚させることで、王子の権威を失墜させる。それが彼らの計画の第一歩だった」
エリーゼは椅子に深く腰を下ろす。
「でも、アンナはその計画を逆に利用したのですね」
「その通りだ。彼女は彼らに『エリーゼを陥れる手伝いをする』と偽って接触した。そして……」
レオンハルト侯爵は別の書類を取り出す。
「彼らの反逆計画の証拠を全て掴んだ。今回の『断罪劇』は、彼らを油断させるための芝居だったのだ」
エリーゼは思わず笑い声を上げる。
「なんと壮大な計画でしょう。私はただの駒だったのですね」
「いや、お前は主役だった。アンナ一人では、これほど完璧な芝居はできなかった」
父の言葉に、エリーゼは複雑な表情を見せる。
「でも、なぜ私には何も知らせなかったのですか?」
「知らない方が、自然な演技ができると判断した。そして……」
レオンハルト侯爵は娘を見つめる。
「お前なら、アンナを信じて最後まで演じ切ってくれると確信していた」
エリーゼは胸の奥が温かくなるのを感じた。父の信頼、そしてアンナの忠誠。それが今回の成功の鍵だったのだ。
* * *
レーベンハルト領での穏やかな時間は、三日で終わった。
王都から緊急の使者が到着し、驚くべき知らせをもたらした。
「第二王子派の主要貴族五名が、反逆罪で一斉に逮捕されました」
使者の報告に、エリーゼは表情を変えない。しかし、内心では大きな満足感を覚えていた。
「証拠は何だったのですか?」
「それが……」使者は困惑した表情を見せる。「彼らがアンナ様に託していた『エリーゼ様失脚計画』の書類の中に、うっかり反政府活動の詳細な計画書が混入していたのです」
エリーゼは思わず口元を押さえる。アンナの手回しの良さに、改めて感心していた。
「特に、マルグリット伯爵令嬢の件はひどいものでした」
「どういうことですか?」
「彼女が第二王子エドワード殿下と密通していたことが発覚したのです。『清純な令嬢』として社交界で人気だった彼女ですが、実は……」
使者の説明に、エリーゼは内心で苦笑する。マルグリット・ド・モンクレール。エリーゼを最も激しく糾弾していた令嬢の一人だった。
「彼女は社交界からの永久追放となり、実家に蟄居を命じられました。また、第二王子殿下も王位継承権を剥奪され、遠方の修道院に送られることになりました」
「そうですか」
エリーゼの返答は、相変わらず簡潔だった。
「あ、それと……」使者は恐る恐る続ける。「フェリックス殿下が、エリーゼ様への婚約破棄を撤回したいと仰っています」
「お断りします」
エリーゼの即答に、使者は驚く。
「し、しかし……」
「一度破棄された婚約を、都合よく復活させるなど、あまりにも身勝手です。それに……」
エリーゼは立ち上がり、窓の外を見つめる。
「私にはもう、別の道が用意されています」
使者は困惑した表情のまま、王都へと戻って行った。
* * *
一か月後、エリーゼは全く異なる場所にいた。
隣国カイザーライヒ王国の宮殿は、母国とは異なる重厚な石造りの建物だった。ゴシック様式の尖塔が空に向かって伸び、ステンドグラスが美しい光を室内に注いでいる。
「エリーゼ・フォン・レーベンハルト様」
謁見の間で、カイザーライヒ王国第一王子ハインリヒが彼女を迎えた。黒髪に深い緑の瞳を持つ、知的な印象の王子だった。
「この度は、私の求婚をお受けいただき、ありがとうございます」
エリーゼは優雅に一礼する。
「こちらこそ、ハインリヒ殿下。お受けできて光栄です」
婚約式は滞りなく進行し、エリーゼは正式にカイザーライヒ王国の王太子妃となった。
式の後、エリーゼは父と二人きりで話す機会があった。
「実は、この政略結婚も計画の一部だったのでしょう?」
レオンハルト侯爵は苦笑する。
「お前は本当に勘が鋭いな。そうだ、私は両国の和平交渉の密使を務めていた。お前の結婚は、その重要な一手だった」
「最初から、フェリックス殿下との婚約は仮のものだったのですね」
「いや、それは違う。フェリックス殿下との婚約は本物だった。しかし、第二王子派の動きが活発になった時、我々は計画を変更した」
エリーゼは納得したように頷く。
「つまり、私たちは結果的に、より良い結末を手に入れたということですね」
「そうだ。そして、アンナも引き続きお前の側にいる。『シャドウ・ローズ』の任務として、この国に派遣されることになった」
エリーゼの表情が明るくなる。アンナとの別れを覚悟していた彼女にとって、これは最高の知らせだった。
「ありがとうございます、父上」
「お前が幸せになることが、私の一番の願いだ」
父の言葉に、エリーゼは深く頭を下げた。
* * *
夕日がカイザーライヒ王国の宮殿を赤く染めている。
エリーゼは宮殿のバルコニーに立ち、美しい夕焼けを眺めていた。石造りの欄干に手を置き、新しい国の風景を目に焼き付けている。
「お嬢様」
後ろから聞こえる声に、エリーゼは振り返る。アンナが心配そうな表情で立っていた。
「後悔はございませんか?」
アンナの問いに、エリーゼは少し考えてから答える。
「後悔……」
フェリックス王子との日々、宮廷での華やかな生活、そして故郷の風景。確かに失ったものは多い。
しかし、エリーゼの胸には不思議な充実感があった。
自分が単なる政略結婚の道具ではなく、重要な役割を果たしていたという事実。アンナとの固い絆。そして、新しい国での新しい可能性。
「まさか」
エリーゼは振り返り、いたずらっぽく微笑む。
「私たちはただ、相応しい舞台を見つけただけよ」
夕日が二人の姿を優しく照らしている。エリーゼの金髪が風に揺れ、アンナの表情も穏やかになる。
「それに、考えてみれば面白いことね。私は最初から最後まで『悪役令嬢』だったのよ」
「お嬢様?」
「フェリックス殿下にとっては、婚約を破棄された相手。第二王子派にとっては、利用しようとした標的。でも実際には、全て私たちの計画通りだった」
エリーゼは空を見上げる。
「つまり、私は誰にとっても『悪役』を演じていたのよ。そして、それが私の役割だった」
アンナは主人の言葉を静かに聞いている。
「この国でも、私は『悪役令嬢』として生きていくことになるでしょうね。政略結婚で来た外国の王太子妃として、きっと様々な思惑に巻き込まれる」
エリーゼは振り返り、アンナの目を見つめる。
「でも、貴女がいる限り、私は何も恐れない」
「お嬢様……」
「そして、この国の人々にも、私たちの本当の力を見せてあげましょう」
エリーゼの瞳に、新しい決意の光が宿る。
アンナは深く一礼する。
「はい、お嬢様。どのような困難が待っていても、必ずお守りいたします」
二人は並んで夕日を眺める。新しい国、新しい宮廷、新しい挑戦。全てがこれから始まるのだ。
エリーゼは口元に微かな笑みを浮かべる。
「さあアンナ、今度はどんな『悪役』を演じましょうか?」
夕日が沈み、宮殿に明かりが灯り始める。
二人の新しい物語が、今まさに始まろうとしていた。
エリーゼ・フォン・レーベンハルトという名の悪役令嬢と、アンナ・ローズという名の密偵の、永遠に続く舞台が。
いかがでしたでしょうか。最後までお読みいただき、ありがとうございました。今回は「実はすべて計画通りでした」系の展開にチャレンジしてみました。次回もまた、素敵な悪役令嬢たちに活躍してもらう予定です。