第5話 タマさんとお出かけ
ようやく残暑も終わろうとしているのか、ここしばらく朝夕が過ごしやすい。
いまはもう秋
誰もいない海
珍しくラジオがついていて、そこからちょうど今の季節にあった歌が流れていた。
「おっはよーございまーす」
夏樹が大あくびをしながら起きてくる。
完全に休日モードだ。
「おはよう。悪いけど朝食はすませてしまったよ」
「へ? いや寝坊したのは俺っすから、すんません、気にしないで下さい」
料理命の夏樹は朝食も命であるため、大概は俺が! と張り切るのだが、さすがに今日は遅すぎた。
どちらかと言えばもう昼に近い時間だ。
「少し前まで朝も暑かったからね。今日は寝やすかったかな」
「ああ、違うんです。夜中になんか夢で起きたんすけど、新レシピの夢だったんすよ。で、これは書き留めなくちゃ! って思って。でも細かいところがなかなか思い出せなくて、かなり頑張ってたんすけど、結局そのまま寝ちまいました」
「それはご苦労様だったね」
「はい、でも大まかには覚えてるんで、あとでレシピとイメージ図作ってみます」
「できたら見せてもらおうかな」
「はい!」
元気よく言うと、夏樹はそのままキッチンに入り冷蔵庫を開けている。自分の朝食、もといブランチを作るつもりなのだろう。
しばらくすると、鼻歌とともに、ジュッと熱いフライパンに卵が落ちる音がした。
「お、寝坊王子が起きていた」
そこへ裏階段から冬里がリビングに入ってくる。
「ムグ、ムムム……ゴックン、……おはようございまーす」
目玉焼きの黄身をトーストでキレイにぬぐって口へ運んだばかりだった夏樹が、コーヒーでそれらを流し込んでから言う。
「おはよ。すごく良い夢が見られたのかな」
「え? 何でわかるんすか? そうなんです、聞いて下さいよ」
嬉しそうに身振り手振りで今朝の夢を説明する夏樹だったが、入れ立てのコーヒーサーバーとマグカップを運んできたシュウに、
「おかわりはいかがですか?」
と聞かれて「お願いしまっす」と、慌てて残ったコーヒーを飲み干した。
「そう言えば冬里は下で何してたんすか?」
おかわりコーヒーを楽しみながら、夏樹が不思議そうに聞いている。
「うーん、なんかさっき誰かに呼ばれた気がして庭に出てみたんだけど」
「はあ」
「誰もいなかったんだよねえ」
と、冬里が急に、自分で自分を抱きしめるような仕草で震えだした。
「幽霊なんて全然怖くないけど~、さっきのはなんだか少し違うような~」
「え? いや、でも、幽霊じゃないとしたら……なんなんすか……」
「なんだろう~僕にも対応不可能~」
「え? 冬里ですら対応できない、って」
いかにも恐ろしそうな冬里に、夏樹が思わずシュウを見た途端。
キィ~
と、リビングのドアが勝手に開いた。
「ひえっ」
思わずシュウの腕にすがろうとした夏樹の耳に、なんとものんびりした声が聞こえてきた。
「なんだ? 猫をお化けのように」
「タマ……さん?」
そこにいたのは、『はるぶすと』の守護猫? タマさんだった。
「もう、冬里~勘弁して下さいよお、誰もいないなんて」
「え? 人は誰もいなかったよ?」
ガクッ
音がするようにうなだれた夏樹は、そのままテーブルに突っ伏してしまった。
「なんだ、また冬里に遊ばれたのか、情けないぞ夏樹」
「タマさんまで~」
「ところで、今日はどうされたのですか?」
ソファに上がってまったりし始めたタマさんにシュウが聞く。
「うむ。実は、海とやらに連れて行って欲しくてな」
「海?」
「へえ、なんでまた?」
テーブルで突っ伏したまま横を向いた夏樹と、面白そうな顔の冬里が聞く。
話を聞くと、詳細はこういうことだ。
タマさんの守備範囲は、普通の猫と比べて結構広めだ。
その中に、★川をここよりもう少し遡ったあたりの一軒のお屋敷がある。
このあたりは緑や花の多い落ち着いた住宅街で、一つ一つの家も趣向が凝らされていて個性的である。それなのになぜか統一感もあるような不思議な街並みだ。
その中でも群を抜いて広く美しいのがかのお屋敷だった。
そのお屋敷の庭も、何を隠そうタマさんの通り道となっている。タマさんはそこで飼われている猫と知り合いだ。
名前をブロンと言う、フランス語で白と言う意味の名を持つその猫は、名前の通り白く輝く美しい毛並みをしている。
その日もタマさんは、開け放たれた窓際に出て来たブロンと世間話などしてまったりと時を過ごしていた。ブロンは箱入り猫だが、飼い主夫妻のお出かけによく付き合わされているので、時折タマさんが知らない話をして面白がらせてくれる。
「それでね、この間、海へ行って来たんだけど、その海がね、今まで行ったのよりすごく綺麗だったの」
「ふむ? 海? 言葉は聞いたことがあるな」
「え? 海に行ったことがないの?」
「ああ」
こういうとき、人だと自慢げに話を始めるような輩もいるのだろうが、猫はそんな事はしない。
「そうなの。……ごめんなさい」
「あやまる必要はない。海がどういうものだか説明してくれればいい」
「説明、説明かあ。えーっとね、まず、見渡す限りひろーくて」
「ふむ、ここの庭より広いのか?」
「ええ、もちろん! で、それが全部水なの」
「水?」
「そうよ、でも、水と言っても、なんか、なんか違うのよね」
「ふーむ? ★川のようなものか?」
「え、えーと、川は向こう側が見えるでしょ? でも、見えないのよ」
「向こう側が?」
「そう」
そのあとも、ブロンは頑張って説明してくれようとするのだが、どうにも要領を得ない。
「本当なら、実際に見てみるのが一番なんだけどね」
と、ブロンは説明できないのが寂しそうで悔しそうだった。
★市には、海がない。
いや、実際はあるのだが、タマさんの行動範囲の中には含まれていないと言う意味だ。
★市はどちらかというと山に向かって広がる街なので、海はお隣の×市に隣接して少しだけしかないのだ。
「と言うわけで、お前さんたちに海に連れて行ってもらおうと考えた訳だ」
「へえ」
「そういうことなら、是非、行きましょう!」
微笑む冬里と、張り切り出す夏樹。
「でも、その綺麗な海って、どこの海なんだろうね」
「そこまではわからん」
「だよねー」
「まあ、俺は海と言うもの自体はじめてなんだから、どこでもいいさ」
「ふうん」
その日はそれで海の話は終わり、あとは皆でのんびり時を過ごしたのだが。
タマさんが夜の集会に出かけたあと、シュウと冬里はベランダで夜風にあたっていた。
夏樹は?
パソコンで綺麗な海とやらを熱心に検索している。
カラン
まだ夜は寒くないので、氷のたっぷり入ったジンライムのグラスが涼やかに音を立てる。それを一口飲んで「美味しい」とつぶやいた冬里が考えるように言う。
「綺麗な海ねえ」
「このあたりだと、フェアリーワールドの先か……それとも」
シュウがそこまで言ったとき、冬里がいたずらっぽく空を見る。
「聞いてみようかなあ~」
「冬里、そんなことで手を煩わせては」
「呼んだかあ」
すると、シュウが全部を言い切らないうちに、頭上から声がした。
見ると、ヤオヨロズが煙突の上に腰掛けて面白そうにこちらを見下ろしている。
ため息をついて眉間を押さえるシュウの前に、ヤオヨロズがひらりと飛び降りてきて言った。
「なーんだ、手なんて煩ってないぜ。お前さんの飲んでる、それと同じものを一杯ご馳走してくれれば済む話だ」
ニカッと笑うヤオヨロズには邪心のかけらもない。
「おう、頑張ってるな、夏樹」
そのあとベランダからとっとと部屋に入り、夏樹に声をかけてマウスをちょいとさわると。
「あ、ヤオヨロズさん……、うえっ?」
画面が〈日本の美しい海〉と言うのに変わり、すでに×市のページが開かれている。
「どうだ?」
「え? えーと。おお、すんごく綺麗っすね、ここ」
「ああ、ここはあまり知られていないんだが、×市の外れにある湾だ。左右の山が美しいんだが、残念ながらここから水平線はあまり見えないなあ。まあ、行く途中に見晴台があって、そこから見る海は絶景だぜえ」
「そうなんすか」
「近くに温泉もあるから、俺たちもよく遊行しに行くぜ」
含むようにニヤリとしてシュウを見るヤオヨロズ。
シュウはそれにはあえて反応せず、ジンライムを作りながら話題を変える。
「飲み物だけと言うのも味気ないので、何か簡単につまめるものをお作りしましょうか」
「お! いいねえ」
「ええ? だったら俺が」
当然のごとく、ここでシュウに任せてしまう夏樹ではない。
「じゃあ誰か呼ぶか」
と言ったヤオヨロズの後ろに、ブワッと殺気が広がった。
「ひえっ」
通りすがりの夏樹の方が怖がっている。
「ヤーオーヨーローズー」
そこにいたのは、ニチリンだった。
ふん! と腕を組むニチリンが子どもに言い聞かせるように言う。
「いつも言ってるでしょ? 毎回毎回、彼らを宴会に引き込まないの! ちょっと目を離すとすぐこれなんだから、もう」
「ニチリンさん、まあまあ」
なだめる夏樹の横からジンライムを運んできたシュウが言った。
「ご無沙汰しています、ニチリンさん。大丈夫ですよ、私もちょうどつまみが欲しかったので」
「でも」
「それと、今日はカロリー控えめのチーズケーキを焼いてみたのですが、味見をして頂けませんか? 紅茶と一緒にいかがでしょう」
「まあ!」
途端に嬉しそうになるニチリンだったが、どこからか違う声が聞こえてくる。
「カロリー控えめとな?」
「カロリー控えめですって?!」
あっという間に横に長くなったソファには、《あまてらす》と《すせりびめ》が座っていた。
結局、「姉上だけずるい!」と言ってきた《つくよみ》、《すさのお》に加え、《おおくに》もやってきて、『はるぶすと』の2階リビングが宴会場と化してしまうのはいつものこと。
そんな事情を経て今日、シュウの運転する車は×市の外れへと向かっている。
フェアリーワールドを望むあたりから海は見えてくるのだが、ここら辺はまだ湾岸道路なので、工場や建物の向こうに見える海は、川とたいして変わりがない。
ただ、そこから少し走ると。
「わあ!」
いきなり海が広がった。
「タマさん、海っすよ!」
「ほほう、これが海か」
「どう?」
「うーむ、確かに見渡す限りだな」
海岸線に沿う道路からいったん外れると標高が少しずつ上がっていき、やがてヤオヨロズが教えてくれた見晴台へと到着した。
「おお~」
タマさんを肩に乗せて海が見晴らせる柵にたどり着いた夏樹が声を上げる。
「おお~」
「タマさんも感激したんすか」
「お前さんの真似だ」
「なんすかそれ~」
情けない声で言うが、夏樹は楽しそうだ。
「ブロンに礼を言わにゃならんな」
「え?」
「実際に見てみろと勧めてくれた。おかげでこんな綺麗なものが見られたんだからな」
「はい!」
そのあと、
「砂浜が見えますよ」
と言う夏樹の言葉に、タマさんも興味をそそられたようだったので、車に戻り山を下りていく。
〈海水浴場〉と書かれた看板が目に入ったすぐ向こうに、白砂の浜が見えてきた。オフシーズンだが駐車場は開いているようだった。
夏場は賑わったであろう海水浴場も、〔いまはもう秋、誰もいない海〕だ。
砂浜に降りたタマさんは、海岸線からずいぶん離れたところにいる。やはり水は苦手なようだ。
「やっぱ、水はだめっすか?」
「うむ」
「じゃあ、こうしましょう!」
と、夏樹がいきなり靴を脱ぎだした。
「なんだ?」
裸足になってズボンの裾をまくり上げた夏樹が、ニカッと笑ってまたタマさんを肩に乗せた。
バシャバシャ!
「おお」
「うおお、やっぱり冷たいや!」
タマさんを肩に乗せたまま、夏樹は水に入って行く。
ザザ~ン
サア~
寄せては返す波を避けたり突進したりしながら、夏樹は子どものようにはしゃいでいる。
「うむ、面白そうだな。どれ、ちょっと下ろしてみろ」
「へ? いいんすか?」
「ああ、だがこのザバーンが来ないあたりにだ」
「了解」
波打ち際から少し離れたあたりに下ろしてもらったタマさんは、波が来ると、見た目からは想像できない機敏な動きで逃げていく。
「お! タマさんやりますね」
「うむ」
しばらく遊んでいた2人は波を十分満喫したのだろう、楽しそうな顔で、堤防にもたれるシュウと冬里のところへ戻ってくる。
入れ違いに、大型犬が波打ち際へ走って行くのが見えた。
そのあとのこと。
「わあ、嬉しそうっすね~」
走って行った大型犬の飼い主と、即、懇意になった夏樹が、このあたりの良い温泉を知らないかと尋ねると。
「じゃあ、あそこが良いかな。ペットもOKだし」
「そうそう、お料理も美味しいのよねえ」
落ち着いたご夫婦は、なぜか泊まり前提で話を進めてきた。
「料理!」
と聞いて、夏樹が黙っているわけはない。
「オフシーズンだから、たぶんまだ大丈夫だとは思うけど」
せっかくの親切を無碍にするわけには行かない。宿の名前と連絡先を聞いて丁寧に礼を述べると、彼らはそこでご夫婦と別れたのだった。
「で? どうするの?」
面白そうに言う冬里の後ろでは、夏樹と、その肩の上でなぜかタマさんが夏樹の真似をして、キラキラした目でシュウを見つめてくる。
「ふ」
と、ため息をついたシュウだったが、
「ここからなら、明日の朝早く出発すれば、ランチには間に合いますね」
と、あきらめたように言う。言葉が丁寧なのは怒っているのではなくて、タマさんがいるからだろう。
「え?」
「ほほう」
「仕方ありません。ですがこの時間です。もし夕食が用意できないと言われたら、帰りますからね」
ガクガクと首を縦に振る夏樹と、同じようにフンフン頷くタマさん。シュウの言葉を聞いて早速電話を取り出し、少し離れたところで交渉を始める冬里。
「……はい、猫と同伴です。……はい、はい。……ありがとうございます」
しばらく話をしていた冬里が、電話を切ってこちらへやってきた。
その横で、またキラキラ目をしている夏樹。
「すごいねーこの時間からでも夕食用意できるって。けど、さすがに手の込んだものは無理だから、刺身程度ならって。それで良いよね?」
「新鮮な魚なら大歓迎だ」
「もちろんっす! やったー!」
夏樹はタマさんを肩から胸に抱き変えてダンスのようにステップを踏んでいる。
「うお、こら、やめんか」
「てへ、すんません」
ペロッと舌を出す夏樹が皆を急かせてたどり着いた宿は、まだ新しく、部屋数は少ないがゆったりとくつろげるリゾートホテルだった。しかも露天風呂がついている広い部屋だと言う。
「ご夕食の品数をあまりご用意できませんでしたので、せめてお部屋だけでもと思いまして」
と、フロントが恐縮しつつ言ってくれたのだが。
「ええ?! なんすかこれ、なんか刺身が、船に乗ってますよ!」
「まあ、お客様、舟盛り初めてですか?」
「舟盛り……って言うんすか、これ」
「はい」
出て来た刺身と言うのが、かなり豪華な舟盛りだった。ただ、フロントが話していたとおり、他の料理は数が少ない。
「夏樹って舟盛り初めてだっけ?」
冬里が不思議そうに言うのも無理はない。あんなに料理命なのに、夏樹は舟盛りを見た事がないのだ。
「あれ? そういえばそうっすね、なんでだろ」
こちらも不思議そうな夏樹だったが、その間に料理を並べ終えたスタッフが言う。
「海が近いので新鮮なお魚には事欠かないんですが、他のお料理があまりご用意出来ませんでしたので、申し訳ありません」
「いえいえ! この舟盛りだけでもすごいっすよお、……へえ~ふうん~、そうかあ」
研究熱心? な夏樹は出て来た舟盛りを、上から下から横から斜めから、遠くから近くから、穴が空くほど眺めはじめる。
その様子にぽかんとしたスタッフの横に来て、タマさんが猫語を繰り出した。
「にゃおん」
「ほら、うちのタマもこちらで充分だって言ってますよ」
冬里が翻訳すると、
「あら、まあ、賢い子ですね。ありがとう、タマちゃん」
嬉しそうに言ってスタッフの女性は部屋を後にした。
その日は豪華な舟盛りに加えて、部屋の露天風呂をはじめとした温泉を満喫して。
翌日の早朝、まだ星が輝く時間に、彼らは宿を出て帰路についたのだった。
ランチ営業が始まるいつもの時間。
入り口のドアが開いて、シュウが〈OPEN〉の札をかける。
「いらっしゃいませ、ようこそ『はるぶすと』へ」
少し早めに来られて待っていたマダムたちが、嬉しそうに店の中へと消えて行った。
たとえ早朝に帰還した日でも、『はるぶすと』はいつもと変わりなく営業しております。
皆様のお越しをお待ちしております。
お次のおはなし、季節は秋に飛びました(笑)
タマさんと海へお出かけです。うっかりお泊まりになってしまいました。
夏の賑わっている海とはまた違って、秋の静かな海も良いものですよ。