七
「エリアーヌ様。本当にリュシアン殿下は、ご成婚までお渡りにならないのですか?」
「なっ」
夜。
寝支度を整え、いつものように髪を梳いていた侍女のアレットに言われ、エリアーヌは真っ赤になった。
「だって、今日も王城にお泊まりで。このお部屋だって、客室ではなく王子妃殿下用のお部屋ですし?」
お渡りとは即ち、閨事を目的として男性が女性の部屋を訪れること。
そしてアレットが言った通り、エリアーヌが今居る部屋は王子妃の部屋、つまりはリュシアンの妻の部屋であり、王城はもちろん、国内外でもふたりは既に実質夫婦として扱われているし、エリアーヌとしてもリュシアンを拒む気持ちは微塵も無く、この部屋に泊まる度、むしろどきどきと意識しているくらいである。
ではあるのだが、というか、であるがゆえに、あからさまに言われてしまうと恥ずかしさが先に立つ。
「リュシアン殿下から、何かそういった含みのある事は言われたりしていませんか?」
「全然。まったく。何にも」
アレットの問いに、エリアーヌは少し残念な気持ちで答えた。
この部屋に泊まる度、エリアーヌはどことなくそわそわと、落ち着かない気持ちになるのだが、リュシアンからそのような気配を感じたことは無い。
それはもう、エリアーヌが、もう少し意識してくれてもいいのでは?と思うほど。
欠片どころか、微塵も無い。
「何をしょんぼりしているんです?リュシアン殿下は、我慢されているだけに決まっているではありませんか。鋼の理性ですね。でもまあ、崩壊したら、3日くらい離してもらえないことは確実です」
長くエリアーヌ付きの侍女をしているアレットは、オードラン公爵家からエリアーヌに付いて来ており、婚姻後もそのままエリアーヌ付きとして仕えることが決まっている。
年も近く、姉のようにも思うアレットが王城でも傍に居てくれるのを心強く思っているエリアーヌは、本当にそうだろうかと尋ねようとして。
「アレット。下品ですよ」
王城でエリアーヌに付けられた侍女であるデジレの、厳しい声に口を噤んだ。
エリアーヌやアレットより十ほど年かさであり、既婚者でもある彼女は、とても落ち着いている。
「だって、楽しみなんですもの。エリアーヌ様に『おしずまりませ』って言うの」
「っ!」
うっとりとアレットに言われ、エリアーヌは思わず鏡台に突っ伏した。
「エリアーヌ様。耳、真っ赤です。可愛い」
おしずまりませ、というのは、言ってしまえば侍女が主人にする就寝の挨拶なのだが、これがまた少し特殊で。
主に、共寝や閨事の前に言う習わしがあるため、当然エリアーヌは未だ言われたことが無い。
「ああ、本当に楽しみです。婚姻式と、それに続く初夜で言う初めてのおしずまりませ、それから愛らしいお子様がお生まれになって」
つらつらと楽しそうに言い続けるアレットの言葉を、面映ゆくも幸せな気持ちで聞いていたエリアーヌは、デジレが殊更冷たい瞳、蔑んでいると言っていい瞳でアレットを見ているのに気が付いた。
え?
どうして、あんな目でアレットを見るの?
エリアーヌが王城に部屋を頂いて、泊まりの日が増えるに従い、常に傍に付けることを許されたアレットではあるが、うまく王城の侍女にも溶け込み、デジレともうまくやっているように感じていただけに、今のデジレの瞳がエリアーヌには理解できない。
「アレット。いい加減になさい。エリアーヌ様をリュシアン殿下が汚すのを、楽しみにするなど」
そして音にした声もまた、とても冷たく侮蔑に満ちている。
なっ!
汚す?
何でそんな言い方。
けれどそれよりも、その内容の異様さにエリアーヌは内心で眉を顰めるも、表面は何事も無いような笑みを浮かべた。
「明日は近衛騎士団へ行かなくてはならないのだもの。そんな風に浮かれている場合ではないわ」
エリアーヌの言葉に、使ったブラシや香油を仕舞いながらアレットが微笑む。
「そうですね。何の憂いも無い状態でないと盛り上がるにも盛り上がれなさそうですし。それに、王城より大公様のお邸に移られてからの方が、気遣いも無いかもしれませんね」
そう言ってアレットは、ちらりとデジレを横目で見た。
どうやら、デジレに含むところ有りなのが判っていて、わざと言っているらしいことに気づき、エリアーヌもそれに乗ることとする。
「納得の方向がおかしいわよ、アレット」
も、盛り上がる、って。
確かにそういうとき、燃え上がる炎が見えるよう、とか聞いたことあるけど。
・・・って、私ってば何を考えて・・・!!
けれど、デジレの出方を見る為、だった筈が本気で恥ずかしくなってしまい、エリアーヌは自分の頬が火照るのを感じ、益々恥ずかしくなってしまった。
「ふふふ。益々真っ赤で、私のお嬢様はほんとに可愛いです」
そう、アレットが心の底から、リュシアン殿下大好きなエリアーヌ様可愛いです、と言った瞬間、デジレがこれ以上ないほどに眉を吊り上げ、青筋立てて叫んだ。
「アレット!いい加減になさい!エリアーヌ様は、王城からお移りになったりなさいません!」
え?
移るわよね?
リュシーが大公になって、そのお邸に移れば一緒に。
心のなか、冷静に突っ込んでから注意深くデジレを見れば、彼女は表情が険しいだけではなく、全身を細かく震わせ怒りを露わにしている。
デジレ?
王城に勤める侍女、それも王子妃付きとなるような立場の侍女が、このような態度を見せるというのは忌避される行為だけに、今の彼女が普通の状態でない事は歴然ではあるが、未だ第二王子の婚約者という立場でしかないエリアーヌが、詳しく何かを追及することは出来ない。
いったい、何がどうしたっていうの?
エリアーヌはリュシアンの婚約者だ。
であれば、アレットが言っているような内容のことを侍女と令嬢で話すことも珍しくはない。
デジレは、破廉恥だ、と言っているようだけど、その話自体が、って感じでもないし。
婚姻前にそのような話をするなど破廉恥だ、というのなら、まだ判る。
けれど、その口から出て来た言葉は、汚す、である。
仮にも第二王子相手に使っていい言葉ではない。
しかも彼女は、身体を震わせるほどの怒りを露わにしていた。
そのどれをとっても、訓練を受けた王城の侍女がとっていい態度ではないし、普段の有能な彼女との乖離も激しい。
リュシーに相談、かな。
デジレの考えがよく判らないながらも、エリアーヌはこれ以上彼女を刺激しないためにも、この話題はお終いにするよう、同じく違和感を抱いている様子のアレットに視線で指示し、にこやかにデジレに声を掛けた。
「そうね。お邸が完成していないそうだから、移るのは未だ先になりそうね。もう少し世話になるわね、デジレ」
そしてエリアーヌは、その言葉にデジレが苦々しい表情になるのを見、警戒を怠らないようにしようと決意した。
「様子のおかしい侍女がいる、か」
近衛騎士団の本部へと向かう馬車のなか、エリアーヌは声を潜めて隣り合って座るリュシアンに囁いた。
「そうなの。私がリュシーと結婚するのが面白くないみたいなんだけど、リュシーを貶めるような言い方もするの。意図がよく判らなくて」
自分という、いわば一度けちのついた令嬢がリュシアンの妃となることが許せないというのなら判るけれど、と、首を捻るエリアーヌの手をそっと取った。
「リアが虐められているわけではないんだね?」
「それは無いわ」
そういう解釈になるとは思ってもいなかったエリアーヌが即座に否定すれば、リュシアンが安心したような表情になる。
「なら、もう少し様子を見てくれる?もしかしたら、俺が気になっていることと繋がるかもしれないから」
「気になっていることって?」
「今日これから行く所で、リアにも判るよ」
そう言ってリュシアンは意味ありげに笑うと、エリアーヌの肩を、ぽん、と叩いた。
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