一
「聖女を正妃にするから側妃となれ、ですって!?王家は我がオードラン公爵家を愚弄しますの!?」
王都中心部にある人気のカフェ。
今、その最上階にある個室で怒りも露わに目を吊り上げて叫んでいるのは、オードラン公爵家令嬢のエリアーヌ。
しかし、見た目ふんわりと優し気な雰囲気の彼女が、そのたれ勝ちな目を吊り上げても然程迫力は無く、前に座る彼女の幼馴染で第二王子のリュシアンは、可愛い、と目を細めるばかり。
「うん。それ、王家の総意じゃなくて、兄上の個人的意見だから。だから、ちょっと落ち着いて、リア」
怒り狂う彼女を取り囲むのは、このカフェの経営者である彼女自身が選んだ、心地がいいと評判の家具や食器。
そしてふたりの間にあるテーブルに置かれているのは、数多の人を笑顔にするスイーツ、なのだが、今のエリアーヌにはそれらも癒し効果は無いらしく、リュシアンが宥めるように言っても激昂は収まらない。
「これが落ち着いてなどいられるものですか!それでなくともこの二年、とても婚約しているとは思えない扱いをされ、こちらからの婚約解消には耳も貸してもらえていなかったのですよ!?なのになんですか!解消どころか、新しく側妃という制度を創ろうと思う、ですって!?どういう神経をしていますの!?」
この国は確固たる一夫一妻制で、相手を大切に愛し重んじる国民性ゆえ、浮気など言語道断という風潮が強い。
それは王家とて例外ではなく、これまでは側妃という概念、言葉すら無かった。
故に、二年前アイという異世界からの聖女が現れた時から、オードラン公爵家は王家の動向を注意深く見守って来た。
公爵令嬢であるエリアーヌは、その時既に王太子ゴーチェの正式な婚約者であったが、聖女が王太子妃となることを望み、王太子がそれに応えれば、聖女の願いが優先される。
そうなればこの婚約は解消となる、と公爵家はもちろんエリアーヌ本人も了承をしていたし、周りもそれで当然だと考えていた。
元々、ゴーチェが強く望んで結ばれた婚約である。
妃教育の苦労が無駄になる、ということを除けば、公爵家としてもエリアーヌとしても、解消となっても何も問題は無かった。
結果、聖女は婚約者を持つ身であると知りながら、王太子ゴーチェの妃となりたいと望み、ゴーチェもそれに応えた。
婚約者を優先するなら、聖女の申し出を却下出来るにも関わらず、である。
それはつまりゴーチェがエリアーヌを、ひいてはオードラン公爵家を軽んじている証拠だと世間で囁かれ、公爵家としても苦い思いをしつつ、それでもすべて呑み込み受け入れる心づもりで王家よりの婚約解消の申し出を待った。
しかし、即座にあると思われた婚約解消についての話し合いは一向に行われる気配がなく、仕方なく公爵家は相応の手順を踏んで王家へ婚約解消の申し入れをした。
しかし、当然受け入れられると信じたそれは、暫く様子見、というよく判らない理由で躱されてしまった。
様子見も何も聖女は既にして王太子を選び、ふたりは恋人同士のように行動しているにも関わらず、である。
それでも公爵は短気を起こすことなく、ただひたすらに正当な手順を踏んで愛娘の幸福のため幾度も婚約の解消を望み、それらすべて悉く却下されて来た、その結果が側妃として迎える、という到底受け入れられないものであった。
公爵家の怒りここに極まれり、というものである。
そしてエリアーヌ本人も、今こうして怒り狂っている訳だが、リュシアンには可愛い仔犬がきゃんきゃん吠えているようにしか見えず、思わずほっこりと見つめてしまうも、本当に怖いのは彼女ではない。
それは、彼女を溺愛し、王家相手にも怯むことなくこれまで婚約解消を幾度となく望んで来た公爵家の面々。
王家より力を有すると謳われるエリアーヌの両親兄弟の怒りは凄まじく、現在この国は内乱の危機とさえ言われている。
「聖女が使い物にならないからね。リアを側妃にすれば、すべて解決すると思っているんだろう、兄上は」
そんな訳ないのにね、と遠い目で言うリュシアンの言葉に、エリアーヌの眉が更に寄った。
「聖女様の王子妃教育が難航している、とは聞いていますけれど」
私は既に完了し、実際にお会いしていませんので何とも、というエリアーヌの言葉に、彼女より聖女の実情を知るリュシアンは笑うしかない。
「王子妃教育以前の話だね。こちらに来て二年になるけど、未だにこの国の文字さえ自分の名くらいしか書けないし、異国の言葉に至っては挨拶さえできない。そのうえ礼儀作法もさっぱりだ。あれじゃあ、とてもではないけど正式な場には出せないね。諸外国との外交は愚か、国内の貴族とだって話をさせる訳にいかない」
リュシアンの言葉に、エリアーヌはため息を吐いた。
「最初の頃、王太子殿下が『アイは可愛いのだから、にこにこしているだけでいい』なーんて蕩けそうな顔で仰っていましたけれど、未だにそうなのですね」
はあ、と更に深いため息を吐き、しみじみと頭を振りながらケーキを口に運んだエリアーヌは、うーん、と考え込んだ。
「この甘さなら、もう少しクリームが多くてもいいかなとも思うんだけど。リュシーはどう思う?」
そして自身の考えを言葉にしたエリアーヌは全力で試作のケーキと向き合っていて、既に聖女のことも王太子のことも念頭に無いと思われる。
その証拠に、語調が親しい者と過ごす時のそれになっている。
王族では自分にだけこんな気を許した姿を見せてくれるエリアーヌを可愛く思うと同時に、ひとりの経営者として尊敬もしているリュシアンは、自分も同様にケーキを口に運んだ。
「そう、だな・・・確かに甘さ控えめではあるけれど、俺はこの位でいいかな。好みの問題もあるだろうけど、これ以上増やすと全体のバランスが崩れるかもしれない」
このカフェの経営者として新作の開発に余念のないエリアーヌは、真剣な表情でリュシアンの答えに頷き、ゆっくりと味わうようにケーキを口に運び、紅茶を口にする。
「確かに、その懸念もあるわね。じゃあ、少しリキュールを加えて・・・」
そこからケーキの改良に没頭したエリアーヌは、耳傾けてリュシアンの意見を聞き、真剣な表情でケーキを食べ、自身の考えをリュシアンに伝え、を繰り返し、それをメモに取り続けた。
その妥協を許さない真摯な眼差しを、リュシアンは好ましく見つめる。
「リアは、本当に仕事熱心だね。それに、妃教育を優秀な成績で終えたリアなら、王太子妃としての仕事も完璧に出来る。だからこそ、兄上はリアを側妃に望んでいるんだ。実際の政務を任せる為に」
リュシアンの言葉に、エリアーヌは隠すことなく嫌悪の表情を見せた。
「ほんとに馬鹿にしているわよね。だって私、王太子妃として相応しくなれるよう努力したもの。別に、なりたくもなかったのによ?その結果、側妃になって実務をしろ、だなんて。酷い侮辱だわ」
王太子ゴーチェとエリアーヌの婚約は、ゴーチェが一方的に強く望んだものだというのは貴族の間では有名な話で、当時、エリアーヌの気持ちを汲んで断りを入れた公爵家に、ゴーチェがごり押しをする形で結ばれた婚約であったにも関わらず、ゴーチェは平然とエリアーヌと公爵家を裏切った。
なんと虚しい七年だったか、と、婚約期間を振り返ったエリアーヌの瞳からこれまでの激昂が消え失せ、代わりに深い寂寥と哀しみが宿る。
「うん。俺も、これ以上ない裏切り、酷い侮辱だと思う。だからね、リア。俺の妃にならないか?そうしたら、ほら、七年の王子妃教育も無駄にならないよ?相手が変わるだけで」
エリアーヌが、王太子妃に相応しくなれるよう、ひたすらに努力して来たことは誰もが知ることではあるけれど、そのなかでも自分が一層、と思うリュシアンは、真摯な瞳でそう切り出した。
何よりリュシアンは、エリアーヌを悲しませる兄が許せない。
「え?・・リュシー・・何を言って」
絶句するエリアーヌを、リュシアンがじっと見つめる。
「リアは俺が幸せにする、ってこと」
絶対、と、決意を籠めて告げるリュシアンに、エリアーヌが瞳を大きく見開いた。
しかし、驚愕、と書いてあるようなその表情に嫌悪が無いことを嬉しく認め、リュシアンは想いを籠めてエリアーヌの瞳を見つめる。
「リア。知っているとは思うけれど、俺は近いうちに大公となって王城を出ることが決まっている。そして俺は、俺の妻、大公妃にリアを望む」
「りゅ、リュシー?・・・いきなり何を・・冗談、よね?」
突然の求婚にエリアーヌが驚くも、リュシアンにはふざけた様子も無く、エリアーヌは混乱したまま幼馴染を見つめ返すことしか出来ない。
「いきなりじゃないんだ。もちろん、冗談でもない。俺は、兄上とリアが婚約するずっと前、リアと初めて会った時から、リアは俺の婚約者になるんだと思っていた。なのに、兄上に横取りされて。でも、兄上ならリアも幸せになれると思って身を引いた結果がこれだ。リア、一度は兄上に譲ってしまった臆病者だけど、この先は何があっても君の手を離さないと誓う。だから、俺を選んでくれないか?」
真摯なリュシアンの言葉に、エリアーヌは漸く現状を理解した。
そしてそれが、許される事ではないことも。
「リュシー・・・でも私、未だ婚約解消出来ていないわ。それどころか、王太子殿下は側妃制度を創ろうとされているのよ? それに、陛下が何と仰るかも判らない。その結果次第では、貴方に迷惑がかかってしまう」
戸惑いつつもエリアーヌが言えば、リュシアンが、ふっ、と口元を緩めた。
「そのことなら心配要らない。父上は、側妃制度を認める気は無いと仰っているし、兄上とリアの結婚だって、オードラン公爵家の血を王族に欲しているだけ、もっと明け透けに言えば公爵家の助力が欲しいだけだ。だから、何も結びつくのは兄上とリアでなくともいい。つまり、俺とリアでもね。むしろ今となっては、俺とリアの婚姻の方が、公爵家の反発も無いと言って父上も母上も喜んでいる。まあ、あの聖女を王太子妃にするのはかなり問題があるから、俺達も大公、大公妃として支えるのは必須だけどね」
本当に困ったものだ、と肩を竦め、リュシアンはじっとエリアーヌを見つめる。
共に苦労してくれるか、とその瞳で訴えて。
「確かに苦労はするでしょうね・・・でも。それでもリュシーが居てくれるなら、私はひとりじゃないわ・・・ねえ、リュシー。どんな時も傍に居てくれる?私をひとりにしたりしない?」
エリアーヌの瞳にある不安。
それを払拭するよう、リュシアンは力強く頷いた。
「もちろんだよ。でも、そう考えると・・・ねえ、リア。俺達にしたら、この二年と何も変わらないと思わないか?」
苦笑して言うリュシアンに、エリアーヌも苦く唇の端をあげた。
「確かにそうね」
この二年。
聖女アイが現れてからずっと、王太子は公私共にべったりと彼女とくっついて離れなかったため、婚約者であるエリアーヌは何かある度リュシアンにエスコートされて来た。
そして、聖女にかかり切りになってしまった王太子に代わり、国王、王妃と共に政務の中枢を担って来たのは、第二王子であるリュシアンと王太子の婚約者であるエリアーヌ。
既に周りからの信頼も厚い今の状況は、この二年でふたりが確実に築き上げて来たもの。
「やることは、これまでと変わらない。けれど、俺達の関係はこれまでとは違うと周りに知らしめたい。俺は、今のこのリアとの関係性を変えたい。単なる幼馴染や仕事仲間ではない、特別な存在。婚約者として、リアを次の夜会からエスコートさせてくれ。そしてこの先ずっと、俺の妃として共にこの国を支えて行って欲しい」
次の夜会はひと月後。
それは、奇しくも聖女アイの誕生パーティ。
王太子の正妃となるのは聖女だ、と、正式に発表される予定の場所。
エリアーヌはそこで、最大の屈辱と孤独が与えられることを覚悟していたけれど。
「ねえ、本当に?喜ばせておいて、やっぱり冗談だった、とかは嫌よ?」
「冗談なんかじゃないから、安心しろ」
テーブルに身を乗り出し、リュシアンはエリアーヌの頭をぽんぽんと優しく撫でる。
「嬉しい・・・けど、今そう言ってくれるなら、あの十歳の時、私を婚約者に指名する、と言って暴走した王太子殿下を止めてほしかったわ」
その手を嬉しく受け入れながら、眩しい笑顔でエリアーヌが言った言葉を、リュシアンは驚愕と喜びの混じった顔で聞き直す。
「リア?・・・それって」
「幼い頃、私が王城に会いに行っていたのはリュシーだった、ってこと・・・つまり、そういうことよ・・・だから、そうね。私も、もっと頑張ってみればよかったのだわ」
エリアーヌとて、十歳のあの日まで婚約するならリュシアンだと思っていた。
そして、そう言われる日を心待ちにしていた、とその想いを初めて口にすれば、リュシアンの瞳が喜びに輝く。
「リア・・・遅くなって悪かった。でも、これからはずっと一緒だ。今この時から。この先もずっと、俺がリアを幸せにすると誓う」
立ち上がり、エリアーヌの手を取って言うリュシアンに、エリアーヌも微笑み返す。
「今までも、リュシーが居てくれたから私は頑張れたの。だからね。リュシーは、私が幸せにする」
そうして微笑み合い、互いの手を重ね、額を寄せ合って。
ふたりは、そっと唇を重ねた。