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第5話 新妻として


 遠くでコマドリの鳴く音が聞こえる。ヒョロロロロと長くさえずる独特の声は、一羽が鳴くと別の一羽が唱和していく。鳴き声は一羽、また一羽と加わって、やがて大きな合唱となって山間の集落に響いて来た。


 コマドリの声に誘われたように千佳はパチッと目を開けて上体を起こした。昨日の山歩きの疲れが残っていたものか、気が付けばぐっすりと眠ってしまっていた。

 外を見ると随分と日が昇っている。こんなにゆっくりと朝寝坊をしたのは久しぶりだった。


 寝ぼけ眼で首の付け根の辺りをポリポリと掻く。恐らく熟睡していたのだろう。頬にはヨダレの流れた跡を感じた。ふと自分の体を見下ろすと、どういう訳か寝間着も下着も着ずに長襦袢一枚の姿をしている。


 ――変わった格好


 何でこんな格好をしているのだろう。そう思った瞬間、昨日の出来事が千佳の脳裏によみがえって来た。

 はっと隣を振り返ると、隆が寝ていた場所は既にもぬけの空になっており、寝室の隅にはカバンの横にきちんと折りたたまれた軍服と軍刀が置いてある。几帳面そうな隆らしい荷物の置き方だ。

 軍服の持ち主の方はどうやら既に起き出しているようで、部屋を見回しても姿は見えなかった。


 千佳はもう一度自分の体勢をしげしげと見下ろした。千佳の寝相は決して良い方では無く、掛け布団は蹴とばされて敷布団の横に小さく丸まっている。大の字になって眠っていたからか、襦袢の裾は腿のあたりまではだけて大きく広がっていた。


 ――見られたぁ……


 千佳の顔が見る見る赤くなる。自分の寝姿を隆に見られたはずだ。だらしなくヨダレを垂らし、恥じらいも無く大股を開いていびきをかく新妻の姿は、果たして隆の目にどう映っただろうか。


 万に一つも見られていない可能性は無い。隆とは同じ布団で眠っていた。それに、掛け布団は千佳の側で丸まっている。隆から掛け布団をはぎ取った上で蹴っ飛ばしたことは疑いようが無い。

 いや、もしかすると布団を奪われた隆が寒さで目を覚ましたのかもしれないのだ。


「あーーー!」


 起き抜け早々に両手で顔を覆って悲鳴を上げた。

 こんな姿を男性に見られて、もうお嫁に行けない。いや、既にお嫁には行ったのか。などと訳の分からない考えがグルグルと頭を駆け巡る。そうこうしていると不意に寝室の戸が開いた。


「きゃーーー!」


 突然戸が開いたことに驚き、もう一度千佳が盛大な悲鳴を上げた。顔を覆っていた手は、本能的に胸と股間を隠すように動いている。部屋の向こうでは千佳の母が呆れたような顔で突っ立っていた。


「あら、何ともないじゃない。大声出すから何事かと思ったら」

「お、お、お、お母ちゃん」

「起きたなら早く顔を洗っておいで」

「た、た、た、た……」

「隆さんならお父さんと畑に行ったわよ。スイカを植えたばかりだと言ったら、是非見てみたいと言いなさって」

「き、き、き、き……」

「着替えなら用意してあるよ。でも、何だってそんな格好してるんだい?」


 母の言葉に一瞬時間が止まる。何故と言って坂本の叔母にそういうものだと言われたからなのだが、母はそんな習慣は今まで聞いた事もないと言う。ニヤニヤと笑う叔母の顔が浮かんだが、今更抗議をしても笑って流されるだけだろう。

 叔母の悪戯に少しむくれながら、千佳は母の用意してくれた服に着替えた。襦袢を脱いで下着をつけ、木綿の小袖に袖を通す。靴下を履いてもんぺ袴に足を通し、紐を腹の前で結んだ。その後、顔を洗って髪を束ねると、すっかりいつもの千佳に戻った。


 千佳が着替え終わって朝食の準備を手伝おうとした時、勝手口が開いて父の新次郎が台所に入って来た。父の後ろには隆の姿もある。


「お、お、おはようごじゃいましゅ」


 緊張から口が上手く回らず、その上挨拶の声が上ずってしまった。千佳のその姿を見て隆がクスリと笑う。


「おはようございます。昨日はどうもありがとう」

「いえいえいえいえ」


 千佳は慌てて顔の前で手を振った。一体何が『どうもありがとう』なのかも判然としなかったが、隆は一つ頷くと父と共に居間へ向かった。千佳がその後姿を見送っていると、隣で味噌汁を作っていた叔母がいつの間にか千佳の後ろに立っていた。

 千佳が驚いて振り返ると、叔母がニヤニヤと笑いながら千佳の側に寄って来る。


「ね、どうだった?」


 叔母が小声で話しかけてきた。千佳もつられて小声で返す。


「どうって、何が?」

「昨夜よ昨夜。隆さん優しかった?」

「お、叔母さん!」


 思わず大声で抗議の声を上げると、父や母、隆までもが何事かと千佳の方を振り返った。


「どうした?」

「いや、あの。何でもない……です」


 慌てて誤魔化す千佳を尻目に、叔母は何事も無かったような顔をしてちゃっかり鍋の前に戻っている。昨夜騙されたこともあって千佳は叔母に恨めしそうな視線を投げたが、当の叔母はそんな千佳をチラリとも見ずに、鼻歌の一つも唄い出しそうな様子で鍋をかき混ぜていた。


 朝食が済むと、集まった親戚達は堅田の叔父の車で帰路に就いた。来た時も叔父の車で乗り合わせて来たそうだ。帰り際、坂本の叔母が「今夜はちゃんと抱いてもらいなさいよ」と耳打ちし、またしても千佳が赤面するという一幕があった。叔母は悪い人間ではないのだが、時々こうして千佳をからかうのが珠に瑕だ。


 坂本の叔母はまだ三十歳で、比較的年齢が近いこともあって千佳に色々なことを教えてくれる。中でも男女の営みについてのことが多かった。

 実のところ、千佳の知識はほとんどが坂本の叔母から教え込まれたものだ。無論、叔母から教えられた女性の所作が、一般的に見てかなり大胆な物であることを千佳はまだ知らない。


 朝食後、千佳は昨日と同じく洗濯をしていたが、隆は父の野良仕事を手伝っていた。昼食をとった後は自由時間となるが、そこで隆が意外な申し出をしてきた。


「昨日の神社へまたお詣りしたいのですが、案内をお願いできますか?」

「もどろきさんへ……ですか?」

「ええ。ご迷惑でしたら、一人で行って来ますが」

「いや、迷惑だなんて、そんな……」


 戸惑いながらチラリと父の方を見る。昨日は遅くなりすぎたために父に叱られた。昨日の今日でまた同じ場所に行くのはさすがの千佳も気が引ける。

 だが、父は一つ頷いて口を開いた。


「かまいません。そやけど、昨日みたいに暗くなるまで行ってたらあかん。夜の山は何が出るかわかりませんからな。それだけお約束ください」

「分かりました。気をつけます」


 隆がそう答えたことで、千佳は今日も山登りをすることになった。


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