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第22話 嘘つき

 

 二十二歳になった千佳は、少女の面影も消え去りすっかり大人の女性へと変貌していた。

 真知子が産まれてからというもの家事に育児にと追われていたが、昨年には無事に真知子の七五三祝いも済ませた。

 千佳に似たのか、真知子は元気な女の子に育っており、今も草履で外を駆けまわっている。千佳の目から見れば、少々元気に過ぎるほどだ。


「こら! 今は近くで遊んだらいかん!」


 ちょうど風呂に使う薪を割っていた新次郎が、側に寄って来た真知子に怒鳴り声を上げる。薪割り用の(なた)はよく切れるので、誤って真知子に当たったら大変だ。


 当の真知子はケラケラと笑いながらまだ走り回っている。

 千佳は真知子をつかまえようと近くに行くが、真知子の動きが早くスルリと逃げられた。


「これ、千佳。あんまり急に動いたらあかん」

「でも、真知子が」

「真知子はワシがつかまえて来る」


 そういって父が真知子の後を追いかけた。


 千佳は一つため息を吐いて自分のお腹をさする。今、千佳のお腹の中には二人目の子を授かっていた。


 真知子を産んだ時にはもう二度と子供は産まないとまで思った千佳だったが、日々成長する我が子を見ているとそんな気持ちも吹っ飛んでしまい、気がつけば隆の帰宅の度に二人目をせがむ日々を続けた。

 その甲斐あってか、秋ごろに懐妊の兆しがあった。


 既に安定期に入っており、順調にいけば初夏頃には二人目が産まれるはずだ。

 今度こそは男の子を授かりたい。真知子が可愛くないわけではないが、やはり跡継ぎの男子を産めた方が何かと都合がいい部分もある。

 何より、千佳自身が単純に男の子を産み、育てたいと願っていた。


 しばらく新次郎との追いかけっこに興じていた真知子だったが、突然大声を発して家の外に駆け出した。

 真知子の向かう先には黒い軍服姿が見える。


「おとうさーーん!」


 駆け寄った真知子を隆が抱き上げ、そのままこちらに連れて来た。

 千佳にも新次郎にもつかまえられなかった真知子だが、隆にだけは自分からつかまりに行くのだからずるいものだと思った。


「お帰りなさい。あなた」

「ああ、ただいま」

「あらあら、服に泥が……」


 真知子を抱きかかているため、隆のちょうど腰のあたりに真知子の草履が当たっている。


「真知子、お父さんから離れなさい」

「べー!」


 千佳に向かって盛大に舌を出した真知子が、ことさらに甘えるように隆の胸に顔を埋めた。隆の方もそんな真知子を笑顔で抱きとめている。


「まあまあ。久々のことだから」

「またそんな、真知子を甘やかして」

「いいじゃないか。さ、家の中に入ろう」


 隆にそう言われると、千佳もそれ以上強いて反論することも出来ず、大人しく家に向かった。

 チラリと隆の方を窺うと、たまたまこっちを向いていた真知子と目が合う。その時の真知子は、明らかに勝ち誇った顔をしていた。


 千佳は内心で腹が立った。

 三つ子の魂百までと言うが、女は三歳にして既に『女』であると実感せずにはいられない。

 我が娘相手に腹を立てるのも大人げないとは思うが、我が娘だからこそ煽られれば余計に腹が立つものだ。


 対抗して千佳も隆の腕を掴んだ。

 真知子は何やら喚いていたが、素知らぬ顔をして隆と腕を組んで歩く。娘を抱きかかえ、妻には片腕を取られ、歩きにくくなった隆こそいい迷惑だった。



「そう言えば、義姉さんはどうだった?」

「ええ。いい人そうでしたよ」

「そうか。それなら、良かった」


 家に上がって軍服を脱ぎながら、隆は笑った。

 隆の留守中、大阪から喜代が帰省した。今回は男性を連れてだ。聞けば、大阪で知り合って恋仲になったらしい。


 相手の男性も喜代の過去一切を承知しており、その上で結婚をさせて欲しいと新次郎に頭を下げに来てくれた。秋川家としても今さら喜代の嫁ぎ先を見つけることは困難を極める。貰ってくれるのならば喜んで、というのが正直な所だ。


「大阪の商社に勤める方で、今度朝鮮の出張所に行くことが決まったから、その前に祝言を上げたいと言って下さって」

「朝鮮の……?」

「ええ」


 朝鮮と聞いた時、隆が一瞬眉間に皺を寄せた。何かあるのだろうかと千佳も胸が騒いだ。


「もしかして、朝鮮が戦場になるのですか?」

「いや……そんなことはないよ」


 ――嘘つき


 隆は嘘を吐く時、僅かに鼻を膨らませる癖がある。今の隆にはその癖が出ていた。

 とはいえ、隆も望んで嘘を言っているわけではないと千佳も理解している。それが軍事機密に触れるのならば、例え家族にでも言えないのだ。


「それより、この春から副艦長になることが決まったよ」

「まあ、おめでとうございます」

「休暇が明ければ、また艦隊勤務だ。留守にする日も多くなると思う」

 隆が少し気まずそうな顔をする。

「それは……真知子が寂しがりますね」

 千佳もそう言って顔を曇らせた。


 ――嘘つきは、私もだ


 本当は、寂しいのは自分だ。それは分かっている。

 子供をダシにして隆に重圧をかける自分が、少し嫌になった。


 夫婦の寝室には隆の着替える衣擦れの音だけが響く。やがて衣擦れの音がやみ、気楽な服装に着替えた隆が千佳に顔を向けた。

 千佳はそのタイミングを見計らったように口を開いた。


「あなた」

「うん?」

「明日、もどろきさんへ一緒に行きませんか?」

「いや、しかし……」


 そう言って隆は千佳の腹に視線を落とした。身重の体で山歩きは辛いのではないかと隆の目が訴えかけている。

 だが、千佳は隆が艦隊勤務になる前に一度お詣りしたいと強く思った。


「私なら、大丈夫ですから」



 峠道の途中で振り返ると、真知子が嬉しそうな声を上げた。麓の方では既に早咲きの桜が咲き始めている。

 ここから見える景色は五年前と少しも変わらない。だが、今の千佳はあの頃と随分変わってしまった。


 あの頃は、ただこの村から逃げたいと願い、その為だけにこの峠道を往復した。

 今は違う。今はここに居て、夫の帰りを待つために峠道を往復する。

 あの時隆と出会ってから、自分はすっかり変わってしまった。


「やはり美しいな」

「うん。キレーだね」


 隆に肩車された真知子が、いつもより一層機嫌よく湖岸を見下ろす。

 こうして家族三人で過ごす日常は、本当に幸せだと思った。


 還来神社に着くと、三人で手を合わせた。


「なんでみんなで手を合わせるの?」


 お祈りの途中で真知子が千佳に尋ねる。今の真知子は、目に映るものすべてが疑問に思う年頃だ。


「ここはね、もどろきさんと言って、大切な人を帰らせてくれる神様なのよ。お父さんが早く帰って来れるように、真知子も手を合わせましょう」

「うん」


 元気よく返事をした真知子が、再び社に向かって手を合わせた。


 再来年の春には、真知子も尋常小学校へ入学する。

 それまでに戦争が終わってくれればと願わずにはいられなかった。



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