トラウマ
本編終了後の話で時間軸は、婚約披露宴の三日前のお話になります。
本編10話の『冷たい婚約者』のイクレイオスに手を振り払われたエリアテールのその後のエピソードになります。
婚約披露宴まで、あと三日……。
何とか必要最低限の準備を荒業で済ませたイクレイオスは、やっと執務室を少しだけ抜け出せる余裕を得られた。
そして今日は久しぶりにエリアテールの部屋を訪れたのだが……流石にグッタリしている。
「イクレイオス様……あまりお顔の色がよろしくありませんが……」
「当たり前だろ……。ここ最近、二時間も眠っていないのだから……」
そんなイクレイオスの目の下には、アレクシスが襲撃してきた時よりも更に濃いクマが浮かんでおり、普段は綺麗な二重瞼も疲労からか、三重になってしまって重たそうだ。
「少しだけでも寝室で、お休みになられた方が……」
「ダメだ……。それでは熟睡してしまう……」
そう答えたイクレイオスは、お茶を飲む気力すらないようで、ソファーの上でやや横になる様にクッションにもたれ掛かっている。
そんな少し行儀の悪いイクレイオスを初めて見たエリアテール。
余程無理をして婚約披露宴の準備を進めたのだと思い、罪悪感を感じてしまう。
「あの……何も無理をされてまで予定通りに婚約披露宴を行わずとも、日を改めた方がよろしかったのでは……?」
エリアテールのその言葉に閉じかけてたイクレイオスの瞳が、カッと開かれる。
「ただでさえ、お前との不仲説が外部にまで流れているのだぞ! 延期などしたら、その噂に拍車が掛かってしまうだろうがっ!」
苛立ちながら勢いよくそう発したイクレイオスだったが……。
次の瞬間、またグッタリとクッションにもたれてしまった。
そんなイクレイオスを白い目でみるロッド。
「自業自得ではありませんか……?」
「お前……呪いに対して不可抗力だった私に、よくそんな事が言えるな……」
「水の精霊王様のご加護をお持ちでありながら、たかが上位精霊の呪術に落ちるとは……気が緩んでいらっしゃったとしか思えませんが?」
「大体……何故、お前までここにいる?」
「ご休息を一時間されたいとおっしゃったので、それ以上の過剰なご休憩をなさらぬ様、お目付け役として付いてまいりました」
「お前はもう少し、主人を労う事を覚えろ……」
ロッドがここに一緒にいるという事は、どうやら招待客への案内や婚約披露宴当日の流れ等に関しての指示書の方は、全て仕上がったらしい。
あとは会場の準備や打ち合わせ等を実行チームがこの二日間で行い、イクレイオス自身は最終日にその確認をするだけとなっている状態の様だ。
かなり切羽詰まった進行状況と聞いていたが……披露宴三日前までには、それらの下準備を全て終わらせてしまったイクレイオスは、流石としか言いようがない。
しかし……その代償はかなり大きかったようで、先程からグッタリとクッションに顔を埋めかけている。
そんなに疲れているのなら、わざわざここへ訪れなくても……と思ったエリアテールだが、流石にその辺はこの二カ月半で学習し、口にする事をやめた。
イクレイオスの気持ちを知った事で、エリアテールは以前よりかは、ある程度の地雷を踏まずに回避出来るようになった。
そんなグッタリしたイクレイオスに目をやると、柔らかそうな毛質のダークブラウンの髪に何かが淡く光っている。それは以前、呪いに掛っているイクレイオスに手を振り払われた際に見かけた地の下級精霊だった。
「イクレイオス様、また御髪に地の下級精霊様が……」
エリアテールのその言葉にイクレイオスが、鬱陶しそうに自分の髪から地の下級精霊を追い払おうとする。しかし、全く違う場所を振り払っているので、下級精霊はくっ付いたままだ。
「どこかに行ったか……?」
「いえ。まだお付きになられております」
その様子にエリアテールは、思わず苦笑してしまう。
どうやらこの地の下級精霊は、余程イクレイオスの髪がお気に入りらしい。
「本来は城内には、あまり入って来ないのだが……」
そうブツブツと呟くイクレイオスは、やや不機嫌そうな顔で自分の髪をかき上げながら、下級精霊を追い払おうとした。しかしその下級精霊は、場所を変えて再びイクレイオスの髪にくっ付いてしまう。
「まだいるのか?」
「はい。場所を変えられて、また御髪に……」
そう伝えようとしたエリアテールだが、あまりにもその様子が面白くて口元に手を当てて笑いを堪えた。するとイクレイオスが苛立ちながら、立ち上がる。
「どこだ! 私では見えない! エリア、お前が払え!」
そう言ってエリアテールの隣にドカリと腰を下ろす。
苦笑しながら、イクレイオスの頭部の方に手を伸ばしかけるエリアテール。
しかし……その手は急に何かに怯える様に動きを止め、膝の上に戻された。
そしてエリアテールは、おもむろにロッドに目を向ける。
「ロッド、イクレイオス様の御髪の下級精霊様をお取りして差し上げて?」
そのまま近くで待機しているロッドに何故かそう命じた。
その瞬間、イクレイオスとロッドが同時に目を見開く。
しかしロッドは素早く我に返り、すぐにエリアテールの指示に従った。
「かしこまりました……。イクレイオス様、少々失礼いたします」
ロッドがイクレイオスの髪にくっ付いていた下級精霊を追い払うと、下級精霊はフヨフヨと飛び立ち、少しだけ開いていた窓から外へと出て行った。
そんな下級精霊が外に出ていく姿を目で追っていたエリアテール。
しかし、その手首をイクレイオスが物凄い勢いで乱暴に掴んだ。
「……っ、イ、イクレイオス様?」
「お前……何のつもりだ?」
いきなり強く手首を掴まれたエリアテールは、その衝撃で一瞬痛みを感じる。
そして手首を乱暴に掴んでいるイクレイオスの表情は、明らかに怒っている。
「私はお前に払って欲しいと頼んだんだぞ!? なのに何故お前よりも私から遠くにいるロッドに……」
そう抗議しようとしたイクレイオスだったが……。
先ほどのエリアテールの動きに既視感を覚え、その抗議を途中でやめた。
そしてここ最近、これと同じような行動をエリアテールがした事を思い出す。
それはイクレイオスが、あの忌々しい呪いから、やっと解放された日……。
あの時、マリアンヌと自分を祝福する様なエリアテールの歌の影響で、半分だけ呪いが解けた状態のイクレイオスは、酷い頭痛に抗いながら風呼びの儀を行うバルコニーにいるエリアテールのもとへ向かった。
そして到着と同時に頭痛に耐えかねて、うずくまってしまう。
その時、自分に駆け寄って来たエリアテールの行動……。
とっさに手を差し出し、自分を支えようとしたエリアテールだったが……イクレイオスに触れる直前で何かに怯える様に動きを止め、急にその手を引っ込めた。
その行動が、今さっきイクレイオスの髪に触れる事に躊躇した状況と全く一緒だったのだ。
恐らくその原因となったのは……呪いに掛かかったイクレイオスが、先程と同じ状況時にエリアテールの手を全力で振り払ってしまった事が大きく影響している。
そしてその出来事は、エリアテールの中では相当トラウマになっているらしい。
イクレイオスは、ここにきて初めてその事に気が付き、強く掴んでいたエリアテールの手首をそっと解放する。
「エリア……もしかして以前これと同じ状況の際、呪いに侵されていた私に手を振り払われた事が、相当トラウマになっていないか……?」
イクレイオスのその言葉にビクっとしたエリアテールは、そっと目を逸らす。
「呪いの影響だったとは理解しているのですが……。その……また手を振り払われるのではないかと……」
申し訳なさそうに告げるエリアテールは、自身の両手を労わるように胸の辺りで、ぎゅっと重ねる。その手はよく見ると震えていた。
そんなエリアテールの様子にイクレイオスは、大きくため息をつく。
よりにもよって、不仲説を覆さなければならないこの時期にこの状態とは……。
それと同時に不可抗力だったとはいえ、自分自身がエリアテールに相当なトラウマを植え付けてしまった事に苛立ちを覚える。
「それは……婚約披露宴当日までに克服出来そうか……?」
罪悪感からなのか、ただでさえ寝不足で顔色の悪いイクレイオスが、力なく聞いてきた。
「分かりません……。ですが、わたくしの方からイクレイオス様に触れる様な動作をしなければ、不仲説に拍車を掛けるような状況は明るみにはならないかと……」
「私からお前に触れる事に対しては……平気なのか?」
「それは不思議と大丈夫なのですが……」
「なるほど。それならば改善策はあるな」
「え……?」
残り三日間で、深く植え付けられてしまったトラウマを克服する術などあるのだろうか……。そう思ったエリアテールは、イクレイオスの言葉に少し驚いた。
「エリア、明日から婚約披露宴当日まで、出来るだけ私と共に過ごすようにしろ」
「それで……婚約披露宴までにトラウマを克服出来るのですか?」
「それだけでは無理だな」
「では一体……」
するとイクレイオスが、何かを企むような笑みを浮かべる。
「その間、私は必要以上にお前に触れる機会を増やす」
「ええっ!?」
「要は私がお前に触れられる事に嫌悪感を抱いているかもしれないというお前の不安が、そのトラウマになっているのだろう?」
「そう……ですね……」
「触れられたくない人間にわざわざ自分から触れる人間などいない。ならば私から必要以上にお前に触れる機会が多ければ、自然とお前の中での私に拒絶されるかもしれないという不安は、薄れるのではないか?」
「確かに……それならば短期間で、トラウマを克服出来そうですね!」
イクレイオスのその提案にエリアテールが感嘆する。
しかし……そんなイクレイオスの提案に異議を唱える者が現れた。
「そのご提案には断固反対させて頂きます」
そう告げたのは、ずっと後ろで控えていたロッドだ。
「どうしてっ!? これならばきっと婚約披露宴までには、早くトラウマを克服出来そうなのに……」
「そのご提案には、イクレイオス様の私利私欲に満ち溢れた要素が、かなり含まれております」
「言いがかりだ。私はあくまで改善策として提案している。そもそも当人であるエリアが、かなり賛同しているのだぞ? ならば問題はないはずだ」
淡々とそう答えるイクレイオスの白々しさに呆れるロッド。
「イクレイオス様……純粋無垢なエリアテール様をいい様に言いくるめられるのは、おやめ頂けませんか?」
「人聞きが悪い事を言うな。私はあくまでも改善策の一つとして提案しただけだ。それを実行するかを決めるのはエリアだ」
「わたくしは、とても名案だと思います!」
「ロッド、聞いたか? エリアは、かなり賛同しているぞ?」
そう勝ち誇った表情のイクレイオスに対して、ロッドが大きくため息をつく。
どうもこの主は、自身の婚約者が関わると途端に子供っぽくなる…。
「エリアテール様……本当ーによろしいのですね? 私は一応、ご忠告はさせて頂きましたよ?」
「大丈夫よ! ロッド。きっと上手く行くと思うの!」
そう自身満々に答えていたエリアテールだったが……。
翌日、早くもロッドに泣きつく事となる。
「ロッドぉ……」
「エリアテール様、いい加減イクレイオス様のご性格をご理解くださいね?」
「うう……」
無事、婚約披露宴開催前にはトラウマを克服出来たエリアテールだったが……。
結局その当日までの二日間、イクレイオスにいい様に扱われ、今までの鬱憤を晴らすが如く、エリアテールは赤面する状況を多々強要される事となった……。
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