3.風呼びの儀
エリアテールが婚約披露宴の延期をイクレイオスに却下されてから三日後。
この日、エリアテールは王妃であるイシリアーナの部屋付きの広いバルコニーで、お茶していた。
「全く! あの子は本当に婚約者の扱い方がなっていないわねぇ……」
そう言って片頬に手を添えて呆れた顔をするイシリアーナ。
光の加減によっては水色にも見えるコバルトブルーのまとめた髪に、イクレイオスと同じシルバーの瞳をした美しい王妃だ。
キリっとした息子のイクレイオスの顔立ちとは違い、儚げで優しそうな顔立ちの彼女だが、その外見とは裏腹におっとりした口調でハッキリ物を言う女性でもある。そして、とても十九歳の息子がいるとは思えない程、若々しい。
「そんな事はございません。イクレイオス様はこのような田舎領地の伯爵令嬢であるわたくしに対して、とても真摯に接してくださいます」
「もう! エリア、あなたはあの子に甘すぎですよ!」
そう言ってプリプリ怒るイシリアーナは、幼少期の頃のエリアテールが風巫女として初めて訪れた際、誰よりも喜んでいた人物だ。そもそもイシリアーナは女の子が欲しかったのだが、生まれたのは何でもそつなくこなしてしまう完全無欠の可愛げのない息子だった。その為、優秀過ぎたイクレイオスがいるのであれば安泰だと、周囲から二人目を求められなかった。
なによりも二人目を求められなかった一番の理由は、イクレイオスは難産だったからだ。
妻を溺愛するコーリングスター国王は、その身を案じて二人目を望まず、最終的にイシリアーナが姫を授かる機会を得られなかった。
そんなイシリアーナだが、可愛い物が大好きでやや少女趣味だった為、顔立ちが美しい生まれたばかりの息子を全力で溺愛した。
しかしそれは、イクレイオスが話せるようになるまでだった。
言葉を発するようになったイクレイオスは、あっという間に大人と対等に話せるまでになり、その神童ぶりを開花させる。同時に僅か三歳で子供らしい愛らしさは失われ、四歳になる頃には今のイクレイオスの人格がしっかりと形成されていた。
そんな母の望んでいない方向へ目まぐるしく成長した息子に可愛いものを愛でられなくなったイシリアーナは、密やかに落胆したそうだ。
そしてそのぐらいの時期に当時この国の風巫女を努めていたエアリズム家の令嬢の挙式が決まり、風巫女の代替わりがあった。その際、代わりにきたのがエリアテールの姉で当時十一歳だったフェリアテールだ。そんな彼女は妹のエリアテールとは違い、目鼻立ちのハッキリした美少女だった。
しかし、育ちは小国の辺境ド田舎領地……取り澄ましたような公爵家の令嬢とは違い、素朴でサバサバした性格の彼女は、子供らしさがなくて扱いづらいと称される王太子にも物おじせず、グイグイと話しかけていた。そんなフェリアテールを年の離れた妹のように可愛がったイシリアーナ。
しかしその四年後、フェリアテールまでもサンライズの巫女の長女の役割として引退する事になる。その時のイシリアーナの落胆ぶりは、凄ましかった。
その王妃の凄まじい落胆ぶりにフェリアテールは、後任は六歳の自分の妹が引き継ぐ事になったと告げる。見た目はあまり自分と似ていないが、天真爛漫で愛らしい妹なので可愛がってほしいと。
それを聞いたイシリアーナは、エリアテールの来日を心待ちにしていたのだ。
そして、ついに天使のように舞い降りたのが、当時六歳のエリアテールである。確かに見た目はフェリアテールと違い、特に秀でたところはない。だが、そこがイシリアーナの心を鷲掴みにした。
初めて自国を出た辺境田舎育ちのエリアテールは、この大国の様子に目をキラキラさせていた。話かけると子供らしい表情で頬を紅潮させ、人懐っこさ全開で元気いっぱいに返答してくる。息子からそういう感情を抱かせて貰えなかったイシリアーナは、その様子に一気に心を持っていかれた。
興奮気味で城内をキョロキョロ見ては、その驚きを父親に伝えるエリアテール。しかしそこは位の高い家柄と関わりやすい巫女力の高いブレスト家の風巫女なので、行儀作法等はしっかり身についている様子も伺えた。
そんなエリアテールに夢中になったイシリアーナだが……ここで誤算が生じる。
息子のイクレイオスが国費節約の為、エリアテールを自分の婚約者にしたいと言い出したのだ。もし、そうなればエリアテールは王妃教育の為、自分と過ごせる時間が減ってしまう……。やんわりとそれを阻止する為、息子を説得し出したイシリアーナだったが、そこは息子の方が一枚上手だった。
「母上は将来的にエリアから『お義母様』と呼ばれたくは、ないのですか?」
その絶大な一言で、逆にイシリアーナの方が陥落してしまう。
そんな経緯で、国費節約を目論む息子の魔の手にエリアテールは落ちてしまった。
そして、わずか八歳の自分の息子の言葉巧みな話術に言いくるめられてしまった彼女は、その事を思い出すと、今でも歯がゆい気持ちが昨日のように蘇ってくる。
だが、そんな子憎たらしい息子でもあるが、今回の精霊の加護が受けられない件については、エリアテールに責任を感じて欲しくないと思っている事は、母親として読み取れた。可愛げのない息子の肩を持つ事は癪に障るが、少しでもエリアテールの不安を解消したいという思いは一緒なので、イシリアーナは息子の考えをもう少し柔らかい言い方をしてエリアテールの不安を和らげようとした。
「でもね、イクスの言う事もあながち間違ってはいないと思うの。だってお告げでは『精霊王の祝福を受けた乙女が国に更なる繁栄をもたらす』でしょう? その乙女に該当する人物が、何も次期王妃である必要はないのだから」
そして「もしかしたら、わたくしの様にすでに祝福を受けている人間の事かもしれないでしょ?」とウィンクする。この祝福というのは、どうやら精霊王のみしか与える事が出来ないらしい。全精霊が与えてくれる加護との違いは、使えるようになった魔法の威力が加護と比べて、祝福の方が桁違いの高さになるそうだ。
その為、霊力の高い精霊王しか与える事が出来ない。
それゆえ祝福を受ける人間は、かなり稀だ。もし下手な人間に与えてしまうと、悪用されて大参事になる恐れがあるからだ。
「祝福はともかく、流石に次期王妃候補が精霊様より全く加護を授けて頂けないという状況は問題かと……」
「でも、精霊達は気まぐれな性格をしているから……。もしかしたら急に何の前触れもなく、いきなり加護を与えてくれる可能性の方が高いと思うわ」
そんなに精霊という存在は気まぐれなのだろうか……と思ったエリアテールだが、ふとイシリアーナが祝福を受けた状況が気になり始めた。
「イシリアーナ様は確か水の精霊王様より、祝福を受けられているのですよね?」
「ええ。この国に嫁いで間もなくだったから……十六の時だったわ。当時わたくしは、陛下と喧嘩をしてしまっていてね。城内の噴水の所で、気持ちの整理をしていたの。そうしたら見た事もない美しい女性が現れて、一緒になって陛下の悪口に付き合ってくださったの!」
そう言って、イシリアーナは当時の事を思い出した様に苦笑した。
「わたくしもあなたと同じ、この国の人間ではなかったから、精霊という存在を見た事がなくて……。それが水の精霊王様とは知らず、陛下の悪口で物凄く盛り上がってしまったわ」
「水の精霊王様は、あまり陛下の事をよく思っていなかったのですか?」
控え目に聞いてきたエリアテールに、いたずらっぽく答えるイシリアーナ。
「それがね、水の精霊王様が陛下をお嫌いだった理由は、わたくしを娶ってしまわれた事だったの!」
「では水の精霊王様は、イシリアーナ様を選ばれた陛下に嫉妬をされて?」
「少し違うかしら……。水の精霊王様という方はね、清らかなモノがとても大好きな方なのだけれど。当時のわたくしは、精霊王様にとっては理想的な清らかさを持っていたそうなの。でもね、わたくしが陛下の下に嫁ぐという事は、わたくしは陛下のお子を産む事が必須となるでしょ? 水の精霊王様は、近い将来わたくしの身が陛下によって汚されるという事に腹を立てていたの」
「ま、まぁ……」
年頃のエリアテールには微妙な内容だったので、やや返答に戸惑う。そんなエリアテールの初々しい様子に、イシリアーナがクスリと笑みをこぼしながら、更に話を続けた。
「そうして二人で陛下の悪口で盛り上がっていた所に、わたくしを迎えに陛下がお見えになってしまって。そうしたら水の精霊王様が、いきなりわたくしの手を取って、そこに接吻をしてくださったの。それを見た陛下は茫然としてしまっていたわ。でも当時のわたくしは、まだその意味が分からなかったから、そこまで驚く事ではないのにと思ったの」
そこまで語ると、イシリアーナは喉を潤す為に紅茶を一口含む。
「でもね、我に返った陛下は、いきなり膝を折って精霊王様に最上級の礼をしたの。それを見て、今度はわたくしが茫然となってしまったわ。そして陛下が『我が妻に祝福を下さり、誠にありがとうございます』と精霊王様にお礼を申し上げたのだけれど……」
当時の事を思い出したイシリアーナは、笑いを堪える為に口元に手を添える。
「『そなたの為ではないわ! 清き乙女を汚す不埒者!』と叫ばれて、噴水の水を思いっきり陛下に浴びせてしまったの!」
「ええっ!?」
「そして水の精霊王様は、霧雨の様に一瞬で消えて行かれたわ。残されたわたくしと、びしょ濡れになった陛下は茫然とした後、すぐにお互い顔を見合わせて笑い出したの。そしていつの間にか、陛下とは仲直りをしていたのよ」
そう言って、柔らかい表情で昔を懐かしむイシリアーナ。
「水の精霊王様という方はね、人間の男性全般がお嫌いなの。あの方は、男性をご自身が愛する清らかな存在を汚す存在だと思っていらっしゃるから……」
「ですが、イクレイオス様はご加護を受けられておりますよね?」
「男の子のイクスが加護を受けられたのは、わたくしのお陰なのよ? 『愛するイシリアーナの息子だから仕方ない。だが祝福はやらん。加護のみだ!』とも、おっしゃって」
イクレイオスが生まれた頃の事を、そう話すイシリアーナは優しい顔になる。
そんなイシリアーナを見て、水の精霊王が貴重な祝福を与えた事に納得するエリアテール。水の精霊王はイシリアーナがイクレイオスを身ごもった後も、ずっと彼女を見守っていた。もちろん、その息子でもあるイクレイオスのことも。
「ねぇ、エリア。あなたは初めてここに訪れた際、わたくしの希望した歌を歌ってくれたわよね?」
「はい。確かこの国の収穫祭で、よく歌われる『春風の歌』でした」
「もう一度、今ここで歌って貰うという事はできるかしら? あの歌はね、陛下が水の精霊王様から水を浴びせられた時にタイミングよく流れてきた曲なの」
「まぁ!」
「当時ね、この国の風巫女は現エアリズム伯爵夫人……あなたのお友達のアズリエール嬢のお母様だったのだけれども、彼女はバイオリンを弾く事で風を起こしていたでしょ? 今思うと、彼女はとてもお茶目な女性だったから、狙って演奏したかもしれないわね。でも今、昔話をしていたら、急に聴きたくなってしまったの」
イシリアーナが、フフッと笑みをこぼしながら昔を懐かしむ。
その様子に何だかエリアテールも微笑ましい気持ちになる。
「もちろん、喜んで! 全力で歌わせて頂きます!」
そう言ってエリアテールは席を立ち、バルコニー内の空いているスペースまで移動し、景色を見る様に手すりの向こう側を向く。テーブル席のイシリアーナからは、丁度エリアテールが横向きで立っているように見える位置だ。
そして目を閉じ、精神を集中させながら自身の周りの空気と同調するように空気の流れを読む。
サンライズの巫女がその力を使う時は、巫女によって力を解放する為の行動に様々なパターンがある。一番多いのが『祈る』という行動だが、他にも『舞う』『走る』『飛ぶ』『楽器を演奏する』等と千差万別だ。
そしてエリアテールの場合は、『歌う』事によって巫女力を解放し風を起こす事が出来る。
エリアテールが両腕を開きながら瞳をゆっくり開くと、その足元から柔らかな風が少しずつ発生する。それは徐々にバルコニー内に広がり、エリアテールの二つに分けた毛束の少ない髪をリボンの様に優しく舞いあげた。そして胸に手を当て、天を仰いだエリアテールがフッと一瞬息を吸い込み、第一声を発する。
するとエリアテールの後ろから突風のような強い風がバルコニーの外に向かって吹き荒れる。その風に乗るようにエリアテールの透明感がある澄んだ声が響き渡った。
「まるで天使の歌声ね……」
イシリアーナが、うっとりしながらボソリと呟く。
誰が最初に言い出したかは分からないが、エリアテールの歌声は通称『エンジェル・ボイス』と呼ばれている。『天より響きわたる清く澄んだ歌声』、『神に捧げし奇跡の歌』など、そう称する人間が多い。その透明感のある高く澄んだ歌声は、贅沢なことに十年以上もコーリングスター城に響き渡っているもはや名物的存在である。
だが、目の前でその奇跡の歌声を堪能がすることができるのは、この国の王族と婚約者であるイクレイオスが許可した人間のみだけである。
エリアテールの澄み切った歌声は伸びやかに広がり、まるでその歌声の為に他の雑音が鳴りやむような錯覚を起こす。その歌声から発生する強く大らかな突風は、空高く巻き上げるようにコーリングスター上空へと向かう。そしてそのまま四方八方に激しく分散し、霊力で濁った大気を循環させるのだ。
イシリアーナの後ろに控えていた侍女二人は、その歌うエリアテールの姿に見入ってしまい目が離せない。そして歌が終わりに近づくごとにその風は強く激しく、そして大きく包みこむような吹き荒れ方をした。
「あなたは歌っている時は、よい意味で雰囲気がガラリと変わるわね……」
エリアテールが歌いきると、ほぅっと息を付き、うっとりとした表情でイシリアーナが声を掛ける。
「普段はのんびりした可愛らしいお嬢さんなのだけれど歌いはじめた瞬間、まるで世界に癒しを振りまく聖女のようになるのよね……」
「お褒めのお言葉を頂きありがとうございます。ですが……聖女は大袈裟です」
そう言って、恥ずかしそうに照れるエリアテールの様子を微笑ましそうに見ていたイシリアーナだが、急に表情を曇らせた。
「イシリアーナ様? どうかなされました?」
「いえね。あなたが風呼びの儀で歌うでしょ? そうすると以前は毎回たくさんの精霊達が集まってきていたのよ。だから今回もそうなるかと思っていたのだけれども……」
「それは、わたくしが精霊の泉で洗礼を受ける前の話ですか?」
「ええ。でも今回は……」
そのまま急に黙り込んでしまったイシリアーナは、何故急に精霊達はエリアテールの前に姿を現さなくなったのか、その原因を考えてみるが全く検討がつかなかった。
「前は鬱陶しいぐらいあなたの周りに集まっていたのに」
そうつぶやいたイシリアーナの言葉は、エリアテールには聞こえなかった。