20.進まない準備
翌日、急遽マリアンヌの帰る時間が、午後から午前に変更になってしまったのだが、その時のエリアテールは午前中からファルモと婚約披露宴の打ち合わせの予定が入っていた為、マリアンヌを見送る事が出来なかった……。
同時に何故、自分がその婚約披露宴の説明を細かく受けているのかに対しても疑問を抱く。
友人との別れの挨拶も出来ず、現在受けている婚約披露宴の説明を事細かに説明されている意図も分からないエリアテールは、テーブルの上に婚約披露宴の進行資料を広げ、段取りの説明をするファルモの声が、殆ど頭に入って来ない状態で話を聞いていた。
その事に気付かないファルモは、資料を見せながら婚約披露宴にエリアテールが行う余興の流れを熱心に説明し始める。
「今回のこの披露宴で大きく変更された箇所が、このエリアテール様による風呼びの儀をご来場の皆様にお見せするイベンドです。こちらに関しては、エリアテール様のお披露目も兼ねておりますので、イクレイオス殿下がかなりお力を入れていらっしゃいます。その為、是非エリアテール様にも全力でお力添えをお願いしたい次第です」
「お披露目って……。わたくしがメインではないのだから、その様な言い方をしなくても……」
やけに熱心に力説してくるファルモの様子にエリアテールが苦笑する。
そもそも婚約を発表するのはイクレイオスとマリアンヌのはずだ。それなのに何故元婚約者の自分の風呼びの儀が、そこまで重要視されているのか、エリアテールには全く理解出来ていなかった。
そんな状態のエリアテールが呟いた言葉にファルモが過剰に反応し、白髪交じりのフサフサな眉毛をにゅっと釣り上げた。
「何をおっしゃいますかっ! 今回の婚約披露宴は、ある意味次期王妃殿下のお披露目でもあるのですぞ!? その主役ともあろうエリアテール様が、そのような事では困ります!」
そう言って、ファルモがフンスと鼻息を荒くする。
だがエリアテールの方は、そのファルモの言葉を聞いた途端、一気に血の気が引き顔面蒼白になる。そしてテーブルの上いっぱいに広がっている婚約披露宴の資料の一つをひったくる様に手に取り、穴が開く程凝視した。
「そんな……。どうして婚約者の名前がわたくしの名前になっているの……?」
資料を手にしたエリアテールは、その信じ難い光景に小刻みに震え出した。するとエリアテールの異変に気付いたファルモが心配そうに声を掛ける。
「エリアテール様? そちらの資料……何か不備等がございましたか?」
「ファルモ、大変よ! この資料、婚約者の名前がわたくしのままだわ!」
「はて? 何故それが大変なのです? そもそもお披露目となる婚約者は、殿下とご婚約されているエリアテール様ただお一人でございますが?」
「でも! ここはマリー様の名前でないと!」
「あー……なるほど。そういう事でござますか……」
そして何故かファルモは初々しい存在でも見るような生温かい視線をエリアテールに向け始める。
「エリアテール様のお耳には、まだあのお噂は入っていないのですね」
「噂……?」
「はい。ここ最近のイクレイオス殿下によるマリアンヌ嬢への熱心なアプローチをされていた事の真相でございますよ!」
「真相も何も……。あれはイクレイオス様がマリー様に心惹かれて……」
「ですから! それが演技だったというお噂です」
「演……技……?」
ファルモの話によると、ここ最近のイクレイオスのマリアンヌに対する接し方は、全て婚約者としての自覚が足りないエリアテールを焚きつける為の演技で行っていたというのである。
「ご婚約者様であらせられるエリアテール様の気を引こうと、年相応の若者がやってしまう愚行をあの完璧と呼ばれているイクレイオス殿下がなさるとは……。何とも微笑ましいお話ではありませんか~」と朗らかな表情で語るファルモだが……。エリアテールの顔色は、真っ青なままだ。
「ファルモ……。その噂、本気で信じているの……?」
「本気も何も殿下より、そのように伺ったのですが……」
「本当ーに、あの無駄な事がお嫌いなイクレイオス様が、そのような回りくどい事を、なさったと思っているの!?」
「そ、それは……」
実はファルモもこの噂に関しては、全く信じられなかったのだ。そもそも合理主義な考えのイクレイオスの性格からして、こんな無駄な動きをする事は、まず考えられない。
しかし、その噂を信じなければ、この数日間のイクレイオスがとった行動は、全てマリアンヌに対しての恋心から生じたモノであるとしか思えない状況なのだ……。
それはエリアテール贔屓のファルモにとって、一番到達したくない考え方でもある。
「どうして婚約者がわたくしのままなの……? イクレイオス様は、もうわたくしとの婚約解消までお決めになっていたのに……」
いつの間にか涙目になっているエリアテールが、両手で口元を抑えながら悲痛な声で呟く。
そのエリアテールの言葉に今度は、ファルモの方が顔面蒼白となって固まってしまった。
「エリア……テール様……? 今、何と……おっしゃいましたか……?」
「わたくしは三日前にイクレイオス様から直接婚約解消のお話を頂き、それに承諾しているの……」
「な、なんですとっ!? な、何かのご冗談では!?」
「いいえ、本当よ。その時にマリー様とご婚約をされたいというお気持ちもお話してくださったわ」
それを聞いたファルモは、ソファーの上で卒倒しかけた。
「きっと周りから反対されて、やむを得ずこのような決断をされるしかなかったのだわ……。こんな事なら、もっと早くにわたくしが、アレク様に婚約解消の意志をお伝えしておけば良かった……。そうすればきっとアレク様が、何とかしてくださったのに……」
「し、しかし! イクレイオス様でしたら、例え周りから反対されるような状況でもご自身で退けるはずでは!? そうなさらないという事は、やはりご婚約者に望まれているのはエリアテール様という事ではございませんか!?」
「では、ファルモは先ほどの噂は信じられるの!? あの時のイクレイオス様のマリー様に対する接し方は、演技だと思えた!?」
「そ、それは……」
正直、ここ数日のイクレイオスの行動は、明らかに今時の若者が好意を持つ女性に自身をアプローチする為の行動そのものだった……。だからこそファルモは、エリアテールにマリアンヌと友人になる事を勧めてしまった事をこの数日間ずっと後悔していた。
「ファルモ……。ごめんなさい……。わたくし、このままではこの婚約披露宴の準備には協力出来ないわ……」
「エリアテール様!」
「だからお願い! 少しでいいから……イクレイオス様とお話をさせて!」
エリアテールのお願いには、昔から弱いファルモだが……。正直なところ、今回の『お願い』に関しては、聞き入れる事に躊躇せざるを得なかった……。
その主な原因が、先ほどここに来る前までいた執務室でのイクレイオスの姿だ。
二人の婚約披露宴まで10日を切っている現在なのだが……。ここ数日のイクレイオスによるマリアンヌへの謎のアプローチ期間の影響で、開催日まで余裕のあった婚約披露宴の準備が、今や切羽詰まった状態まで滞っていた。
その所為で、現状の執務室では自業自得な癖に鬼のような形相をしたイクレイオスが、不眠不休のまま凄まじい勢いで、その準備の遅れを取り戻そうとしている。
もし今、不用意にイクレイオスに声を掛けたら殺されそうだと思ってしまうくらい、かなり殺気立った様子でひたすら婚約披露宴の準備を進めている状態なのだ……。
そんな状況なので、つい返答を渋るファルモにエリアテールが更に訴える。
「ファルモにとって、イクレイオス様は孫の様に可愛い存在でしょ? その孫が望まぬ不幸せな結婚を強要されてもいいの!?」
それを言ったらイクレイオスだけでなく、エリアテールもファルモにとっては可愛い孫のような存在だ。可愛い孫の様なイクレイオスが、同じく可愛い孫のようなエリアテールと結ばれ、可愛いひ孫の様なお世継ぎを授かる……。
それがファルモの理想的な未来像だったのだが……。
「お願い! ファルモ!」
懇願するように訴えてくるエリアテールに、ファルモの心が揺らぐ。もしここで自分が動かなければ可愛い孫の様な二人が、どちらも不幸になってしまう……。
「かしこまりました! エリアテール様のお願いであれば、このファルモ、例えこの身に代えても必ずイクレイオス殿下とお話出来る機会を得てまいります!」
「ファルモ……今日のイクレイオス様は、そんなにご機嫌がよろしくないの?」
「ええ、それはもう……。鬼気迫るとは、まさにあのような状態かと……」
「やはり、わたくしが直接……」
「いけません! エリアテール様がお頼みされれば、尚の事お怒りが激しくなってしまいます! ここは是非わたくしめにお任せくださいませ!」
そう言って顔を引き締めたファルモは、魔王のようなイクレイオスが籠城している執務室へと向かい始める。
しかしファルモが執務室に向かう途中、慌てた様子のエリアテール付きの侍女であるエリーナに遭遇した。
「エリーナ! そのように慌ててどうかしたのか?」
「ファルモ様! 実は……この度のご婚約披露宴にエリアテール様がお召しになるドレスが、まだ手元に届いておりませんで……」
「なんと! この時期にか!? それはまたイクレイオス様がお怒りに……」
「そうなのです……。ですから只今、殿下のもとへ確認をさせて頂こうかと……」
「ならん! 今のイクレイオス様は、もはや王太子等ではない! 恐怖で執務室を支配なさる魔王だ!」
「そんなに……ご機嫌がよろしくないのですか……?」
「ああ……。今まで一番だ……」
「ですが……このままでは……」
「わしがイクレイオス様にお伝えする! お前はドレスが誤送されそうな場所を片っ端から調べるのだ!」
「か、かしこまりました!」
そう足早に去っていくエリーナの後ろ姿を見て、ファルモは大きく息を吐く。
「全く……次から次へと……。どうなっておるのだ!」
そんなファルモが執務室に到着し、室内に入ると……そこには物凄い勢いで婚約披露宴関連の書類を修正しているイクレイオスと、半分死にかけた顔をした若い文官3名と、意外と涼し気な顔をしたロッドが黙々と婚約披露宴準備作業をしていた。
その状況は、全体的にかなり声を掛けづらい雰囲気である……。
すると、目線を書類に落としたままのイクレイオスが、ファルモに気付いたようで声をかけてきた。
「ファルモ、何か用か?」
カリカリとペンの音を立てながら、書類から全く目線を外さないイクレイオスが、いつもよりもやや低い声でファルモに問いかける。するとファルモは一瞬だけ、ビクリと肩を震わせた。だが先程のエリアテールの『お願い』を叶える為、ファルモは意を決して口を開く。
「あの実はご婚約披露宴の件で、少々ご相談したい事がございまして……」
「何だ。言ってみろ」
「その……。まず一点目は婚約披露宴でエリアテール様がお召しになるはずのドレスが、未だ手元に届いていないそうなのですが……」
その瞬間、イクレイオスが手元でボキンっという音を立てる。その音を聞いた文官3人とロッドが、心の中で同時に「あ、4本目……」と呟いた。
「どういう事だ?」
「先ほどエリーナより、そのように報告を受けまして……」
「そのような事はどうでもいい!! それよりも何故まだドレスが届いていない!? ルース!!」
「はいぃ!」
「お前は確かエリア関連の物は、全て揃っていると言っていたな!」
「はいっ! ドレスの方は二週間前に確かに納品がございました! その後城内での検品終了後、今から三日前にエリアテール様の元へ届けられたはずです!」
「では何故、届いていない! すぐに調べろ!」
「か、かしこまりましたー!」
そう言って一番若い文官の一人が、もの凄い勢いで部屋を出ていく。
その間、イクレイオスは先ほど折ってしまった羽ペンを新しいものに変え、再び書類の修正作業を始めた。
「で? ファルモ。まだ何かあるのか?」
「はい……。実はエリアテール様からお言付けを預かってまいりまして……」
『エリアテールから』という言葉に、イクレイオスの手がピタリと止まる。
「この度のご婚約披露宴についてイクレイオス様と、どうしてもお話をされたいとの事なのですが……」
「ダメだ。今は時間がない。後にしろ」
「ですが、このままではご婚約披露宴の準備に協力する事は、出来ないとおっしゃられておりまして……」
すると、またしてもボキンっと景気の良い音を立て、イクレイオスの手元で5本目の羽ペンが折れる。そしてその状態のまま、ゆっくり書類から顔を上げたイクレイオスのこめかみには、青筋が立っていた。
「ふざけているのか……?」
もはや王太子とは思えない程、剣幕さを発しているイクレイオスの状態に残された文官二名が息を呑む。
しかし、覚悟を決めたファルモも先程エリアテールから聞かされた信じ難い内容を確認せずにはいられなかった為、毅然とした態度でイクレイオスを迎え撃つ。
「先程伺ったエリアテール様のお話では、三日ほど前にすでにイクレイオス様から直々にご婚約解消を打診され、それをエリアテール様がご承諾なさったとの事なのですが」
その言葉を聞いた瞬間、イクレイオスは大きく目を見開く。それとほぼ同時にロッドが、物凄い勢いでイクレイオスを睨みつけた。
「わたくしとしましては、そちらのお話の方がふざけた内容の様に思えるのですか?」
まるで魔王を封印する為の呪文のように発したファルモの言葉に、イクレイオスが天を仰ぐ。
「わかった……。明日、必ず面会の時間を作る。エリアには、そう伝えろ……」
こうしてファルモは、見事にエリアテールの『お願い』を叶える事に成功した。




