13.婚約解消
エリアテールを怒鳴りつけた後、イクレイオスは怒りがおさまらないという様子で、大股で執務室に向かっていた。
しかしその表情は、次第に苦痛満ちたものに変わっていく。
「クソ……。またか……」
そう言って左手を壁に付き、右手で両目を覆うようにして俯き気味で壁に額を押し付ける。
実はここ最近のイクレイオスは、酷い頭痛に悩まされていた。ロッドからは眼精疲労ではないかと言われたが、そんな生易しい痛み等ではなかった。
確かに痛み初めは、眼精疲労のように目の奥の違和感から起こる。
だが数秒後には、両こめかみをぎゅっと締め付けるような痛みに変わり、すぐにその痛みは頭部全体に広がるのだ。そして最終的には、冷や汗が止まらなくなる程の痛みと化し、その場に立っていられなくなる。
あまりにも酷い痛み方なので主治医にも見て貰ったが、特に異常はないとの診断だった……。
そもそもこの頭痛は、発生する状況にパターンがある……。
それは必ずエリアテールと顔を合わせた直後に起こるのだ。
お茶の時間に遅れ気味だったエリアテールが、慌ててマリアンヌの部屋に入って来た時……。あの時、イクレイオスが不機嫌そうな顔をしていたのは、エリアテールの行動に苛立っただけではない。エリアテールが部屋に入って来た瞬間に起こった頭痛のせいで、あのような表情になってしまっていたのだ。
不可解な事にここ最近エリアテールと関わると、何故か体調不良が起こりやすい。頭痛以外にも吐き気や寒気等も感じる事があり、エリアテールが自分の髪に触れようとした時もそうだった。あの一瞬、イクレイオスには鳥肌が立つ程の悪寒が体中を駆け巡り、思わずエリアテールの手を払いのけてしまったのだ。
その時のエリアテールは酷く傷ついた表情をしていた。今まで一度も向けられた事がなかったその表情は、目に焼き付いて離れないはずなのに記憶が蘇りそうになると、また酷い頭痛がイクレイオスを襲い出す。
逆にマリアンヌと一緒にいる時は、不思議と心地よい気持ちになった。
頭の奥がぼうっとするような幸福感から、一緒にいるだけで穏やかな気持ちになれるのだ。そして何よりも不思議なのは、頭痛に襲われている際にマリアンヌに出会うと嘘の様に痛みが引く。
だからエリアテールがお茶の時間を辞退してきた時、心底ホッとした。
だが何故かそれが間違っているのではないかという感覚が、イクレイオスの中でじわじわと沸き起こってくる。
しかし、その感覚の原因を探り出そうとすると、また酷い頭痛に襲われるのだ。
最近はこの痛みの落差の波が、特に激しい。
痛む時は一気に痛み、治まる時は一瞬で治まる。
だが、ここ三日程はエリアテールと顔を会わせていなかったので、この痛みからは解放されていた。
しかしその反動なのか、今起こっている頭痛は今まで一番酷い……。
そんな状況だったので、先程はエリアテールの元へなど行きたくはなかった。
それなのに……エリアテールがあの歌を歌っていると理解した瞬間、自分でも信じられない速さで体が勝手に動いた。
精霊大戦終歌には、ある迷信が昔から語り継がれている。
その迷信を理由に今まであの歌の存在を皆で、エリアテールにひた隠しにしてきたのだが……。今はもう自分の婚約者でなくなる彼女が、精霊大戦終歌を歌う事は気にする必要がない。自分にはエリアテール以上に守りたいと思える人が、現れたのだから……。
それなのに何故かイクレイオスはエリアテールの元へ行き、あの歌を歌う事を禁じずにはいられなかった。
そんな事に考えを馳せていると少しずつ頭痛が治まって来たので、イクレイオスは壁に背を預けて天を仰ぎ見る。額には先程の痛みから出た冷や汗の所為で、前髪がびったりと張り付いる。
エリアテールと関わると起こり、マリアンヌの事を想うと治まる頭痛……。
その不可解な頭痛の原因をイクレイオスは、知っているような気がした。
しかし、その原因を考えようとすると頭の中の一部に蓋をされたような感覚が起こるのだ。
そこには何か大切な物があるような気がするが、それを探ろうとするとまたこの不可解な頭痛が襲ってくる。
だが、もうイクレイオスの中では将来の伴侶はマリアンヌを選ぶと心に決めていた。
そうなれば、エリアテールとも顔を会わせる機会は少なくなるだろう。
もしかしたらこの頭痛は、11年間も婚約者として過ごしてくれたエリアテールに対するの罪悪感から怒ってしまっているのかもしれない……。。
そんな事を考えたイクレイオスは、ますます婚約解消の件をエリアテールに早く伝えるのが、お互いにとっても最善だろうと考える。たとえその頃でエリアテールが、先程のように見た事もない悲しい表情をしたとしても……。
徐々に冷静さを取り戻して来たイクレイオスは、今後の自分達について考えをまとめ出す。
そして先程かいた冷や汗の所為で額に張り付いてしまった前髪を軽く掻き上げ、再び自身の執務室へと向かい始める。そして明日の朝、エリアテールを自室の書斎に呼び出すようロッドに命じた。
一方その頃のエリアテールは泣いた所為で目が腫れてしまい、なかなか自室に戻れなくなっていた。
エリアテールがここまで泣いたのは、子供の頃以来である。
それ以外では、イクレイオスに頬を引っ張られた時に軽く涙がポロリと出た事はあったのだが……。あれは泣くというよりも頬を引っ張られた事で目が乾燥気味になって涙が零れたという感じだ。何よりもイクレイオスに頬を引っ張られる事は、制裁と言うよりもスキンシップに近い感覚だった。
そんなイクレイオスとの関係が良好だった頃を思い出してしまったエリアテールは、また目頭が熱くなってくる。
「これでは、いつまで経っても自室に戻れないわ……」
そう呟いて、再び涙が零れないように空を見上げた。
時刻は夕方……。
丁度夕焼けが出始めた空は、赤とオレンジのとてもキレイなグラデーションを披露している。
同時に自国のサンライズで見る夕焼けが、一番綺麗だった事を思い出す。
だがその記憶は、また近い内にその夕日が頻繁に見られる日がやってくる事を彷彿させた。
恐らくこの後、イクレイオスからは婚約解消を言い渡されるだろう。
だがその婚約は、元から将来的には解消される事が前提の婚約だった。
それがたまたま地の精霊が受け取ってお告げの内容で、話が進み始めただけだ。
そんな状態だったので、エリアテールにとってイクレイオスがマリアンヌを選ぼうとしている事には、あまり抵抗はない。むしろ自分の大切な友人達が結ばれるのならば、これほど喜ばしい事はないと考える。
唯一残念な事は婚約解消後のエリアテールでは、もうこの国の専属風巫女を続ける事が難しいという事だけだ。
風巫女の役割が終わり、サンライズに戻ったとしてもここでの楽しい思い出は残る。
それにもしかしたらマリアンヌと婚約後のイクレイオスは気持ちに余裕も出てきて、エリアテールに対してまた以前のように出来の悪い妹を窘める面倒見の良い兄のような接し方に戻るかもしれない……。
そうなれば、また専属の風巫女として、この国で過ごす事が出来るかもしれない。
それほどエリアテールは、このコーリングスターという国が大好きなのだ。
その考えに行きついたエリアテールは一度、瞳をゆっくり閉じた。
そして肩で大きく深呼吸し、またゆっくりと瞳を開く。
それならば今、自分が二人の為に出来る事を全力でやろう。
そう決意したエリアテールは、ベンチから立ち上がり、自室に戻る為に颯爽と歩き出した。
そのエリアテールの足取りは、先ほどの弱々しさを微塵も感じさせなかった。
そして翌日の朝―――。
エリアテールはロッドからの伝言を聞き、イクレイオスの部屋の書斎へ向かっていた。
その際、ロッドはイクレイオスに対してかなり腹を立てており……。
「もし少しでも行かれたくないと思われているのであれば、すぐにおっしゃってください! 私が何とか致します!」
とてもではないが主に対して忠実な側近とは思えないほど、伝言内容とは真逆な事を言い出していた。
同時にエリアテールの事が心配なようで室内への同行も訴えていたが、それは流石に断った。
そんな先程のロッドの様子を思い出し、エリアテールは苦笑する。
そんな事を考えながら歩みを進めていると、いつの間にか書斎に到着していた。
だが今後、自分がどう振る舞うかを決めているエリアテールは、躊躇する事なく書斎の扉をノックする。
「入れ」
「失礼致します。お呼びと伺いましたので参りました」
「エリアか。朝早くから、すまないな……」
そう言ってイクレイオスは書類を書くのを止め、ペンを置いた。
そんなイクレイオスの様子にエリアテールは、少し驚く。
昨日まで自分に対して嫌悪感を抱き、不機嫌そうな顔ばかりしていたイクレイオス。
だが何故か今日は、今までどおりの接し方と雰囲気に戻っていた。
その様子にエリアテールは、やや違和感を抱き少し首を傾げる。
だがイクレイオスはその反応に気付かないようで、呼び出した理由を口にし始めた。
「お前には本当に申し訳ないと思うのだが……。実は折り言って頼みがある」
「はい」
「お前との婚約を解消させてほしい」
「はい」
間髪入れず、即答してきたエリアテールにイクレイオスが、驚きながらゆっくりと目を見開く。
「お前……。今の私の言葉をちゃんと聞いていたか?」
「はい。婚約の解消をご希望だという事ですよね?」
「あ、ああ……。そうなのだが……いいのか?」
流石にその反応は予想していなかったのか、イクレイオスがかなり動揺している様子を見せた。
「良いも何も……。元々そういうお約束の婚約だったと、わたくしは認識しておりましたから」
「約束……? どういうことだ?」
「わたくしの風巫女の力は、処女性を失えば消えてしまいます。その為、わたくしにはお世継ぎを授かるような事をされる意味がありません。ですので、イクレイオス様は幼少期に早々にわたくしとご婚約を結び、本当にご結婚されたいお相手が現れるまで、わたくしを仮の婚約者として一時的に迎え入れ、巫女派遣の費用を少しでも節約されたいと伺っていたので……」
「そう、だったな……」
「はい。ですから、わたくしはその時期が来れば、すぐ申し入れを受け入れる状態で今まで過ごしてまいりました」
「そう……か……。だが、このような土壇場で婚約の解消をされる事に怒りはないのか?」
流石のイクレイオスも罪悪感からか、バツの悪そうな表情で気遣うような言葉をこぼす。
「何故そのような事を? わたくしにとってイクレイオス様もマリー様も大切な友人なのです。ですから、そのお二人の幸せを壊す様な真似は、絶対にしたくはございません」
エリアテールがそう言い切ると一瞬、イクレイオスがピクリとするような反応を見せる。
「友人か……。それより何故マリーの事を?」
「恋愛事に疎いわたくしでも流石に気付きます……」
「そう……か。本当にすまない……」
「お気になさらないでください。そもそもそういうお約束の婚約だったではありませんか。ですが、一つだけお伺いしたい事があるのですが……。今後はわたくしと予定されていた婚約披露宴は中止にし、改めてマリー様をご紹介する為の準備をなさる方向でお考えという事でよろしいでしょうか?」
「いや、すでに招待状を出してしまっている為、今まで準備していた内容で婚約者だけをマリーに変更して決行するつもりだ。長い間この国の為に尽くし、ここまで準備に付き合わせてしまったお前には本当に申し訳ないとは感じているのだが……」
ハキハキと言葉を発するエリアテールとは対照的に何故か返答の歯切れが悪いイクレイオス。
今までのイクレイオスなら、たとえ罪悪感があったとしても堂々と自分の意見を言うはずなのだが……。何故か今日のイクレイオスは、やはりいつも違って様子がおかしいとエリアテールは再度感じ始める。
「それで……実はわたくしからも一つお願いがございまして……」
「ここまで酷い扱いをしてしまったのだ……。遠慮せずに言ってみろ」
「お二人の婚約披露宴の際、わたくしよりお祝いの歌を捧げたいのですが……」
その言葉を聞いたイクレイオスは、急に執務机に両手を突いてゆっくりと立ち上がる。
「お前……どうしてそこまで……」
「先程もお伝えしましたが、わたくしにとってはお二人は大切な友人なのです。婚約披露宴でわたくしがお祝いの歌を披露すれば、マリー様の謂れのない悪い噂も打ち消せるかと思いまして……」
現在マリアンヌには、エリアテールよりイクレイオスを奪った令嬢という汚名が、一部で囁かれてしまっている。だが二人の婚約披露宴でエリアテールが祝いの歌を歌えば、エリアテールが二人の為に自ら身を引き、二人の仲を祝福しているように周囲の目に映る為、その誤解は解けるはずだと考えた。
少しでも二人には順調な滑り出しをして欲しいと思い、エリアテールはその提案を思いついたのだが……。
何故かその案を聞いたイクレイオスはグッタリするように席に着き、右手で両目を多い俯いてしまった。その様子にまた怒らせてしまったのではないかと、エリアテールは不安になる。
「あの……ご対応頂く事はかなり難しい状況でしょうか……」
「いや、そうではなく……。流石にそこまではお前を蔑ろにする事は……」
「ですが、このままではマリー様が不当な言われようをされてしまいます。それだけは、わたくしは我慢なりません。ですからお願……」
「分かった。ではお前の言葉に甘えよう……」
「良かった! では打ち合わせ等はファルモの方に……」
「ああ。話しておく。すまないが……実は仕事が立て込んでいる。もう下がってもらっていいか?」
「え? あ、は……い」
早々に退出を要求して来たイクレイオスに違和感を覚えつつも「失礼致します」と礼をし、エリアテールは足早に部屋を出ていく。だがそれを確認した瞬間、イクレイオスは両手で頭を抱えるようにして勢いよく机に突っ伏した。
「くっ……そ!! 何故……急に……」
エリアテールが部屋に入って来た時は、特に何の症状も出ていなかった。
婚約解消の話をし始めた際は、少しだけ痛みを感じた程度だった。
だが、エリアテールが自分の事を「友人」と称した際、いつもの酷い頭痛が発症し、更に祝いの歌を提案された途端、その痛みは何倍にも膨れ上がった。
そのあまりの激痛に冷や汗どころかガクガクと震え出したイクレイオスは、何とか痛みから気を紛らわせようとして、あえて机に自分の頭を打ちつけてみるが、頭痛は全く引かない。
正直、今までの頭痛の中で一番酷い状態だ。
「一体……、何……なんだ……」
あまりの激痛にイクレイオスの意識が飛びそうになった瞬間、かすかに扉が開く。
「イクレイオス様!?」
同時に慌てたようなマリアンヌの声が室内に響き渡る。
その声でイクレイオスが顔を上げると、心配そうな表情を浮かべたマリアンヌが真っ青な顔色で駆け寄ってきた。
すると、嘘のように激痛がスッと引き始める。
「マリー……」
そう呟いたイクレイオスは、マリアンヌもここへ呼び出していた事を思い出す。
「どうされたのです!? 誰か人を……!」
「いや、もう大丈夫だ……」
「ですが!」
「本当に大丈夫だ……。それよりも今日は大事な話があるので、お茶の時間に付き合って貰えないだろうか……」
「は……い」
先程の尋常でないイクレイオスの苦しみ方に疑問を感じたマリアンヌだったが……。
がっしりと手を掴んだまま、熱っぽく見つめてくるイクレイオスの勢いに呑まれ、思わずその言葉に頷いてしまった。




