11.初めての精霊
その後、何とか風呼びの儀を終えたエリアテールは、自室に戻ろうとしたが、未だに震えが治まらな手を見て、気持ちを落ち着かせようと息を吐く。
だが先程、イクレイオスに手を振り払わせた光景が蘇ってしまい、治まりそうになかった。
昔からエリアテールが天然過ぎる性格なので、たまに手が出てしまう事があったイクレイオスだが、それは先日のお茶の時のような頬を引っ張る程度のものだった。
そもそもイクレイオスの頬を引っ張る制裁方法は、もう幼少期から受け続けている制裁なのでエリアテールにとっては、手を挙げられたという内には入らない。むしろ出来の悪い妹に下す愛の鞭という感覚だった。
しかし先ほど手を振り払ったイクレイオスは、反射的につい出てしまったような行動だった。それも今までイクレイオスからは、一度も向けられた事のない嫌悪感を向けながら……。
その事を改めて思い出してしまったエリアテールは、ゆっくり目を閉じた。今の状態で自室に戻ってしまえば、室内にいるエリーナとリーネに心配を掛けてしまう。
そんな事を思いながら何とかして気持ちを落ち着かせたエリアテールは、ゆっくりとドアノブを回し部屋に入る。
しかし入室した途端、何故かリーネがエリアテールはの元へすっ飛んできた。
「エリアテール様! あの! 何かあったのですか……?」
「ど、どうしてそう思うの?」
「だって……先ほどの風呼びの儀での歌が、あまりにも悲しく聞こえたから……」
リーネの言葉にエリアテールは、自身がしくじってしまった事に気付く。
エリアテールが風を起こす際、その時どのような感情かが大きく関わってくる。空気の流れを読み、その流れに自身の感情を乗せて歌う事で風を起こしているのだ。
その為、悲しい気持ちで歌えば、その気持ちも歌に乗ってしまう……。たとえ、どんなに明るく幸せな歌を歌ったとしても、歌い手のエリアテールの気持ちが、その風に乗って広がってしまうのだ。
だがエリアテールはこの国で風呼びの儀をする際、一度もマイナスの感情で歌った事がない。何故ならばこの11年間、ここでは楽しい事しかなかったからだ。
それは聴き手側も同じで、この城の人間はエリアテールのマイナスな感情が乗った歌を一度も聞いた事がない。エリアテールの歌は、いつでも温かくて、柔らかい澄み切った歌ばかりだと思っている。
しかし今回傷ついた状態で歌ったエリアテールは、悲しい気持ちを全面に歌に乗せてしまった。まだ14歳の多感な年頃のリーネは、感受性が強い故にその歌に乗ってしまったエリアテールの心情を、ダイレクトに感じてしまったのだろう。
そんなエリアテールを心配そうにリーネが、じっと見つめてくる。
「そうではなくてね……? 先程、少し失敗してしまった事があって……。その落ち込んだ気持ちで歌ってしまっただけなの」
「でも……落ち込んでいらっしゃると言うよりも悲しんでいらっしゃるような……」
「リーネ」
リーネの言葉を遮るように、エリーナが少し大きな声で彼女の名を呼んだ。
「そんなにエリアテール様が心配なら、あなたが得意な美味しいお茶を淹れて元気付けて差し上げたらいいのではないかしら?」
そう言ってエリーナは、そっとエリアテールに優しく微笑みかける。
「そうね、リーネの淹れたお茶はとても美味しいから、飲んだらすぐ元気になれそう!」
「お任せください! 全力でお茶を淹れさせていただきますね!」
エリアテールは、リーネが張り切りながらお茶を淹れに行ったのを確認し、エリーナに小声で礼を告げる。そんなエリアテールに姉の様な優しい表情でエリーナは再び微笑んだ。
しかし、その日のエリアテールは、一日中イクレイオスに手を振り払われた時の情景が、頭から離れなくなっていた。今までイクレイオスを怒らせてしまう事は何度もあったのだが……今回の怒り方は、いつもとは違う。
そして同時にイクレイオスと顔を会わすのが、怖いと感じている自分に驚く。
たった一度だけ……。
たった一度の初めて自分に向けられたイクレイオスからの拒絶と嫌悪……。
寝台に潜り込み瞳を閉じでも、先程の自分に対して嫌悪感を表したイクレイオスの顔が鮮明に蘇ってくる為、その夜のエリアテールは、なかなか寝付く事が出来なかった……。
そんな眠れぬ夜を過ごしたエリアテールは、翌朝早くからマリアンヌの部屋へと向かい、名乗りながら部屋の扉をノックする。すると、物凄い勢いでマリアンヌが出てきた。
「エリア様! あの……っ!」
「昨日は申し訳ございませんでした……。お恥ずかしい所をお見せしてしまって」
「そんな! その、イクレイオス様もあのような言い方をなさらなくても……」
そう口ごもるマリアンヌ。流石に王太子への不満は簡単には口に出来ない。
「あの、それで実は本日マリー様にお願いがあって……」
「わたくしに出来る事ならば、何なりとお申し付けください!」
自分を気遣うマリアンヌにエリアテールが口ごもりながら用件を伝え始める。
「誠に申し訳ないのですが……。その、しばらくマリー様とご一緒されて頂いているお茶のお時間を少し控えさせて頂きたいのですが……」
「え……?」
「マリー様とお茶をする際、必ずイクレイオス様がお見えになるので。その……正直な所、今イクレイオス様とお会いする事に少し抵抗がございまして……」
そして「マリー様とお茶を楽しめない事は、大変心苦しいのですが……」とエリアテールは、敢えて付け加える。
そんなエリアテールの言葉に青い顔をしたマリアンヌが聞き返してくきた。
「で、ですが……そこにエリア様がいらっしゃらないと、イクレイオス様はまたお怒りになってしまうのでは?」
「それは恐らく大丈夫だと思います。それともう一つ……」
一度言葉を詰まらせたエリアテールだが、更に言いづらそうに言葉を続けた。
「お誘い頂いた豊穣祭なのですが……そちらも辞退させて頂こうかと……。折角の素敵なお祭りにこんなにも暗い気持ちの人間が傍にいてしまったら、マリー様もきっと楽しめないと思うので……」
エリアテールのその言葉を聞いたマリアンヌは、を今にも泣きだしそうな表情を浮かべ始める。
その反応にエリアテールが、困ったように眉を下げながら苦笑する。
「もちろん、この埋め合わせは、後日必ずさせて頂きますので」
まるで自分の事の様に悲しんでくれているマリアンヌの心配を少しでも軽減させようと、エリアテールは、敢えてで明るい笑みを浮かべた。
そんなエリアテールの想いに気付き、それに応える様にマリアンヌも微笑む。
「ええ! 是非、その埋め合わせの機会をお待ちしております」
こうして婚約披露宴まであと三週間前という時期にエリアテールは、イクレイオスの事を避け始めた。しかし、不思議な事にイクレイオスは咎める事もなく、何も言ってこない。ある意味、その状態にほっとしたエリアテールだったのだが……。
そんなイクレイオスが、豊穣祭で信じられない行動に出る。
なんと豊穣祭の地の精霊王の舞いを王族専用のボックス席にマリアンヌを招き、共に観覧したのだ。城内はその事で騒然となり、特に王妃イシリアーナは大激怒した。
国民側の方でもマリアンヌをエリアテールだと思い込む者まで出てきてしまう事態を引き起こしている。
だが、その状況を何よりも喜んだのが4大侯爵達だった。
その好機を逃すまいと、豊穣祭の翌日の朝、早々にイクレイオス宛に婚約相手の変更を打診する提案書を上げてきたのだ。その提案書を今回の騒動の元凶であるイクレイオスが、執務室で熱心に目を通している。
そんなイクレイオスに対して、ここにも一人激怒している人間がいた。
「イクレイオス様、その様な提案書に目を通されて、どういうおつもりですか?」
口調は静かだが、いつもよりも数段低い声でロッドが問いかける。
「どうもこうもない。興味深い内容だから目を通している」
「興味深い……。それは4大侯爵家の方々にお考えに同意されているという事でしょうか?」
「たぬきどもの案なのは気に入らないが、改めて検討する価値はある」
「それは11年もの間、婚約者として過ごされてきたエリアテール様との婚約解消をご検討されているという意味でしょうか?」
ロッドへの返答が面倒になって来たイクレイオスは軽くため息をつきながら、目を通していた侯爵達からの提案書を机の上に置いた。
「ロッド……。お前は一体、何が言いたい?」
「イクレイオス様は当初エリアテール様の風巫女としてのパフォーマンス性の高さから、国民の支持率アップを視野に入れ、正式なご婚約者にと希望されたはずです。それが何故、急にマリアンヌ様へとご興味が移ったのですか?」
「簡単な事だ。エリアを妻に迎えるよりもマリーを妻に迎えた方が、得るものが多いからだ」
イクレイオスがマリアンヌを略称で呼んだ事に、ロッドがピクリと反応する。
その様子を確認したイクレイオスは、再び深いため息をつく。
「確かにエリアの風巫女のパフォーマンス性は国のイメージアップに有効的だ。だが、それはあくまでエリアが巫女力を維持出来ている間だけだ。王太子の妻になるからには世継ぎを産む義務がある。だが処女性を失えば巫女力も失うエリアには、その後は何も残らない」
「ですが、当初はそちらもご考慮した上で――……」
反論してきたロッドの言葉を遮るようにイクレイオスは更に言葉を続けた。
「その考えはマリーと接するうちに変わった。彼女は、すでに今まで行っていた慈善活動で国民からの支持が絶大だ。そして生まれ持つ恵まれた容姿により、その支持率はどんどん上がるだろう。しかも世継ぎを作る為に処女性を失っても、そのメリットは変わらない」
そこで一端、話を区切ったイクレイオスは、ジッとロッドを見据え言い聞かすように再び口を開く。
「どちらが今後この国に利益をもたらす王妃になるか……誰でも分かるはずだ」
今までの行動からでは、全く信じられない自身の考えを告げてきたイクレイオスにロッドは愕然とし、思わず瞳を見開いた。
「では……イクレイオス様は、お国の利益の為だけに今までこの国に尽くして下さったエリアテール様を捨て、利益が高いと思われたマリアンヌ様に乗り換えるという事でしょうか?」
「ロッド、その言い方では私に対しての不敬になるぞ?」
「これは失礼いたしました。そのようなつもりではなかったのですが」
言葉だけで全く謝罪する態度ではないロッドに対して、イクレイオスは再び深く息を吐く。
「お前は、私が国に有益となる妻を求めていた事を知っていたはずだ」
「ですが、それだけでご婚約者を乗り換えるような事をなさるのは、エリアテール様にもマリアンヌ様にも失礼では?」
「お前はバカか? 誰が好き好んで興味のない相手を未来の伴侶に選ぶのだ?」
イクレイオスのその言葉に、ロッドが大きく目を見開く。
「それは……どういう意味で……」
イクレイオスの言葉の意味が全く理解出来ないロッドに対して、イクレイオスは更に信じられない事を告げ始める。
「私は国益の為だけでマリーを選ぶわけではない。彼女の素晴らしさを認め、自らの意志で望んで将来の妻に迎えたいと思っている」
その言葉を聞いたロッドは、時が止まった様に絶句する。
「本気で……おっしゃっているのですか……?」
驚きのあまり、やっと声を絞り出したロッドの問いにイクレイオスはキッパリと返答する。
「本気に決まっているだろう。次の議会で今まで進めていた婚約披露宴は延期か変更する案を出す。エリアにも折を見て話すが……お前も今後、そのつもりで動け」
しかし、あまりにも衝撃的なイクレイオスの言葉は、茫然とするロッドにの耳には全く入って来なかった。
そんなやりとりが執務室で行われていた頃、エリアテールは風呼びの儀を行うバルコニーでベンチに座り、今後の事を考えていた。
イクレイオスがマリアンヌと豊穣祭を楽しんでいた噂は、もちろんエリアテールの耳にも入って来た。だが今のエリアテールには、その事はどうでもよかった。それよりもイクレイオスと顔を合わす事への恐怖心が拭えきれない現実の方が、大きくのしかかってくる。
そもそもエリアテールの中でのイクレイオスは、どんなに自分が呆れるような行動をしてしまっても呆れながらも必ず手を差し伸べてくれる面倒見の良い兄的なイメージしかなかった。その為、まさかそんなイクレイオスから拒絶される日が来ようとは、夢にも思っていなかったのだ。
しかし手を振り払われたあの一瞬で、そのイメージは大きく崩れ去る……。
何よりもエリアテール自身が、イクレイオスから拒絶されるという状況を全く受け入れられないでいる。
全く予想していなかったイクレイオスからの拒絶は、エリアテールの心に今まで一度も抱いた事がなかった恐怖心を一瞬で植え付けてしまったようだ……。
もし今後イクレイオスが婚約者をマリアンヌに変更するなら、それでもいい。
しかしイクレイオスに恐怖心を抱いてしまった自分は、今までのようにイクレイオスとの関係を築く事は難しい……。
エリアテールの中では、イクレイオスとマリアンヌの仲が進展した事よりも、自分とイクレイオスの関係が壊れてしまう事の方が、何よりも恐ろしかった。
それだけこの11年間、イクレイオスと過ごした時間は楽し過ぎたのだ。
婚約披露宴まであと三週間……。
これからどうなってしまうのだろうか……。
もういっそ、自国のサンライズに帰ってしまいたい……。
この国に来てから一度も抱いた事の無い考えが、今回初めてエリアテールの脳裏を過り出す。
そんな状態で途方に暮れ始めたエリアテールは、自身の顔を両手で覆った。
不安でたまらない時に遭遇した際、姉のフェリアテールから教えて貰った対処法だ。
両手で覆う事で、目の前が真っ暗になって何も見えないその状態が自分だけしか存在しない空間にいるような感覚を抱かせてくれるので、全てをシャットアウトしたい時にとても安心出来るのだ。
そんな何も見えない状態のエリアテールの背中を優しく風が吹き撫でる。
その風は、二つに束ねたエリアテールの細く量の少ない髪をリボンの様に巻き上げた。
だが、あまりにも優しく髪を巻き上げられたので、その空気の流れの感覚にエリアテールがおもむろに顔を上げる。
すると、いつの間にか自分の目の前には長身の美しい男性が風を纏いながら立っていた。




