side:スオウ 後編
3
僕が通っているフリースクールは、移民原住民を問わず、魔術から経済までなんでも教えてくれるところだ。それなりに在籍者も多くて、僕のような移民三世も珍しくない。おかげで浮かずに済むのは有難いことだ。
先輩は、正門の内側の、何も植わっていない花壇に腰掛けて、何やら分厚い雑誌を読んでいた。あまりに真剣な眼差しで誌面を見つめているものだから、僕はちょっと声をかけるのを躊躇って――『月間:格闘技~今日から君も、ルチャドール~』――雑誌のタイトルが見えた瞬間、迷いは消え去った。
「何を読んでるんですか、先輩」
「お? やぁ、スオウくん。ルチャ・リブレってわかる? ここより南の方で人気の格闘パフォーマンスなんだけど、これがなかなか派手でカッコイイ技を使うんだよ~見てごらんコレ。ほらほら、カッコイイでしょう?」
バッ、と目の前に広げられた誌面には、体格の良い男が、半裸で取っ組み合ってる絵が描かれていた。“投げ技”“突進へのカウンター「パワースラム」”“応用編「ケブラドーラ・コン・ヒーロ」”……まったくもって、よく分からない。
僕が相当しらけた顔をしていたからだろう。先輩は諦めたように雑誌をしまって、立ち上がった。
連れ立って歩き出す。
「それにしてもスオウくん、遅かったじゃん。どうしたの?」
「……格闘実践の補習がありまして」
僕は思いきり顔を歪めてしまった。
すると、まるでつられたかのように、先輩も顔をしかめた。
「えぇ~、スオウくんの身体能力なら、少し頑張れば補習なんて受けなくて済むでしょ」
言われると思った。即座に言い返す。
「嫌いなことはやりたくないんです。先輩だってそうでしょう?」
「う……まぁそうだけど。宝の持ち腐れじゃない? せっかくいい体してんのに」
「興味が無いので」
「……勿体ないなぁ」
食い下がられて、僕は瞬間的にイラッとした。
「それを先輩が言いますか。あなただって散々勿体ないことしてるでしょう。あんなにハッキリと魔力が見えるのに、これっぽっちも磨こうとしないなんて、僕からしてみれば信じられない行為です」
しまった、言い過ぎたかも――
言ってしまった後になってから不安を覚え、僕は先輩を見上げた。
ところが僕の心配をよそに、先輩は子どものように頬を膨らませていたのだ。
「だって魔術なんて嫌いなんだもーん」
その態度が、ほとんど何も気にしていないように見えて、僕は少しだけ安心する。
「僕も、格闘は嫌いです。だから、やらないんです」
「ふーん。――なんで嫌いなの?」
雷に打ちぬかれたような感じがした。バリバリ、ガシャン。胸が引き裂かれたように痛みだして、激しい頭痛とともに忌まわしい記憶の土砂降りが影を縫い付ける。
「なんで、って……それは……」
――それは、一番聞かれたくない、一番思い出したくないことだった。僕の原風景と呼んでも差し支えないほど、遠い過去の記憶。初めて僕は僕の意思で、僕の手で、人を、殺したのだ。あの瞬間の重たい拳。引き攣る背中。白目をむいて泡を噴く男の、生暖かい体と――
僕は全身をびくりと震わせた。
先輩が僕の首に腕を回してきたからだ。
ボーイッシュな方向性に整った顔立ちがぐっと近づく。くすんだ金色の毛先が鼻の頭をかすめた。何とも言えない、不思議なにおいが鼻孔に押し寄せる。先輩の匂い――
「ねぇねぇ、なんでなんで? 教えてよ、ねぇねぇねぇねぇ!」
「離れてください!」
「いーやでーす。教えてくれるまで離れませーん」
「っ……話したくないんです」
「えーそんなこと言わないでさぁ、ナツメお姉さんにちょーっと耳打ちしてごらん? ん?」
「嫌です、絶対に」
「なんだよー可愛くないなぁ。うらうら」
「ちょっ……やめてくださいよ、もう!」
頬を拳の先でぐりぐりされる。先輩の指は細いから、圧力が強くて、けっこう痛いんだ。かといって、強く押し退けることは出来ないし。
どうしたものか、と視線を逸らして、――通りに面した店のウィンドウ。そこに映った人影。僕らの後ろで、棒のようなものを振りかぶって――
「先輩!」
こういう時だけは、自分の体が思った通り動くことを感謝するのだ。素早く先輩を押し退け、立ち位置を入れ替えて、迎撃――
――頭では迎撃を想定していた。けれど、相手の動きは想定よりもずっと速く、その衝撃は瞬く間に到達し――。
僕は衝かれる鐘のことを思った。
4
痛みで、目が覚めた。まだ目の前は紗を掛けられたように、ぼんやりと霞んでいる。後頭部が鈍痛を訴えていた。
「っ!」
少し動かしただけなのに、首に激痛が走った。……まぁ、座ったまま寝てたのだから、当然だろう。おかげで意識がハッキリした。
首を回すと、ごきごきと嫌な音が鳴った。背中も伸ばしたい。けど伸ばせない。――後ろ手に縛られている。その上、柱か何かに括りつけられていて、ほんのわずかな身動ぎすら窮屈だ。
何も置かれていない倉庫のような、がらんどうで埃っぽい場所――どこだろう、ここ。薄暗くてよく見えないし、窓も遠くて高い位置にあるから外は窺えない。かろうじて夜である事が分かるだけだ。
なんでこんなことに……考えて、思い出した。そうだった、謎の連中に襲われたんだった。
――……やっぱり、もっと真面目に格闘実践の授業を受けておくべきだったかもしれない。なんて、悔やんでも今更だ。けれど悔やまずにはいられない。反応だけできても、反撃できなければ、仕方がないのに。
……けれど、僕は、迂闊な反撃がもたらす悲劇を、もう二度と見たくない。だから、暴力は嫌いなんだ。この手が奪った命の感触は、まだ、消えずに残っている――
(――っ、そうだ、先輩はっ?)
慌てて辺りを見回した。僕から見える範囲に先輩の姿は無い。首を可動域の限界まで振り向かせて、ようやく、先輩の肩の先が見えた。
どうやら、この細い鉄柱の向こう側に、一緒くたに括られているらしい。
視線を下にやると、指が力なく放り出されている。
僕は出来うる範囲で体を捩じり、指を伸ばした。
ギリギリ、届くか――届け――届いた。先輩の指に触れる。
すると先輩はびくりと肩を震わせて、振り返った。先輩は猿ぐつわを噛まされていた。薄いベージュの瞳が丸く広がって、一瞬だけ潤み、すぐに剣呑な光を宿す。
言いたいことは痛いぐらいよく分かった。半年もコンビとしてやってきたんだから、当然だ。だから僕も黙って頷く。
二度目は無い。
指先を重ねたまま、僕は天上を仰ぎ見た。今の僕にできることは、体を出来るだけ解しておくこと。それと、考えること。体の方は、ご丁寧に膝で一回、足首でもう一回、それぞれ縛られているから、そんなに出来ることはなさそうだけど。手首の拘束だけは、出来るだけ緩めておきたい。一方、考えることはたくさんある。相手は誰で、どれぐらいいて、どうして僕らは殺されずに拘束されているのか?
相手はもはや考えるまでもない。分かり切っている。間違いなく、エンバード・コンパニエだろう。
ということは、それなりの人数がいると見た方がいい。集団を無力化させるための魔術詩文をいくつか思い出しておく。
最後の疑問は、少し難しそうだ。どうして僕らは捕まっているのか? 先日の報復ならとっとと殺せばいい。生かして捕らえておく、ということは、生かしておいた方が価値があると思われたからで、僕らが生きていることで発生する価値といえば――
――『TWIN’s』に対する、脅迫?
僕は思わず鼻で笑ってしまった。先輩が振り返った気配がした。なんでもないです、という代わりに、頭を横に振る。
僕らを盾に、『TWIN’s』を脅す、か――本当にそんなことをしているのだとしたら、それは随分と愚かな行為だ。警察の犬をやっているから、通用するとでも思ったのかもしれないけれど、それは甘い。
僕らは、そんな人道的な組織じゃない。
ビーンさんもローズさんも、場合によっては平気で僕らを見捨てるだろう。むしろ脅迫を逆手にとり、一旦撤退した振りをして騙し討ちにする、くらいのことは平然とやってのけそうだ。
最小の犠牲で最大の公益を。それが『TWIN’s』のモットー。
と、いうことは、だ。
(相手方の人数は少し減るかもしれないな……むしろ、向こうで全滅させてくれる可能性もある)
『TWIN’s』のメンバーは僕らだけじゃない。僕ら以上に破壊力があって、容赦の無い連中が、雁首を揃えているのだ。人間的にはまったく信頼できないけれど、その実力だけは信じるに値する。
彼らはきっと後悔するだろう――『TWIN’s』に、喧嘩を売ったことを。
5
どれぐらい時が経ったか。途中、何度か意識が途切れたから、それなりの時間が経過したと思う。
錆びついた扉を無理やり抉じ開けたような轟音。と共に照明が点けられ、あまりの眩しさに反射で目を瞑る。
涙で滲んだ視界に、――ざっと数えただけで、五十人以上はいる軍勢だ。その先頭の男が、通信機を隣の奴に放り投げる。そして非常に不機嫌そうに、唇を曲げて、吐き捨てた。
「男は殺せ。女は適当に犯して、服引ん剝いて街中に捨てろ」
先輩の指先がびくりと震えた。ずっと重ねたままでいたことに、ここで初めて気が付く。
「貧相なまな板相手じゃ、起つモンも起たねぇかもしんねぇけどな」
下卑た笑いがぐわんぐわんと反響した。
僕は何だか急激に頭が痛くなってきた。瞼を膝頭に押し付ける。首から下は死体のように冷たい。なのに頭の中だけは、地獄のように熱いのだ。地獄の灼熱に焼かれる気分とは、こういうことを言うのかもしれない。
『ナツメくんを、きちんと守ってあげるんだよ』
ドリーさんの言葉が地獄の窯で茹でられている。真っ赤に色づいて今にも弾けそうだ。
自分の呼吸が他人事のように聞こえてくる。ハァーッ、ハァーッ、ハァーッ。さながら猛獣のごとき荒い呼吸。世界がぐらりと傾いで、極彩色に歪むのを幻視した。或いは瞼を圧迫し過ぎたためかもしれない。
『なツめクンヲきちントまモッテアげるんだヨ』
目の前に散る、火花。
バッと顔を上げると、振り下ろされた手斧がまさに僕の脳天目がけて落ちてきているところだった。咄嗟に顔を背け、体を限界まで捩じり、右肩を犠牲に差し出す。
“ここなら刺さっても大丈夫”
肩峰に刃先が突き立った。骨を劈く音が頭蓋にまで響いて、
「っ、い゛、あああああああっ!」
灼けつくような痛みに僕は堪らず声を上げた。けれど体は“まだ大丈夫だ”と主張するのだ。そんな、そんなはずあるものか! “いいや大丈夫。片手を失ったくらいで僕は止まらない。”ふざけるな、こんなに痛いのにどうして動けるんだよ!
「ちっ、めんどうなガキだなオイ!」
首の下あたりを踏まれて、無理やり斧を引き抜かれる。骨と刃がせめぎ合い、僕の体の中でいびつな音を立てる。
「あ、ぐぅぅうううううあああああああっ!」
ブツリ、と、何かが切れる音がした。痛みで全身に力を籠めた拍子に、ずっと動かしては緩め続けていた手首の縄が、切れたのだ。弾け飛ぶようにして解放された左手が、その勢いのまま、男の足首を握りしめる。
今度呻き声を上げるのは男の方だった。思い切り握りしめ、潰すつもりで握りしめて、浮き足立った瞬間真横に放り捨てる。と、男は無様に転倒して――そのポケットからナイフが転がり落ちた。爪先で弾いて手元に寄越し、それを拾って、すぐさま縄を切る。
「てっめぇっ!」
周りの連中がいきり立つ、が、僕は先輩の右手を解放できればそれだけでいいんだ。
指先はまだ重なったままで、僕らは背中を合わせているのだから。
そして――僕の左手の甲を、先輩の右手の甲と、重ねる。
《開かれしは宇宙の狭間、或いは真理の空隙、若しくは深淵の淀みと壺中の天地、孰れも孰れも須らく人の身に余る領域なり、然り而して回廊は連結せり、奔れ!》
世界は百八十度回転し、しかしこれが正位置だ。
じっとりと重たい体。怯えを残し、僅かに震えている体。僕の頭で扱えて、一番しっくりとくる体――他人の、体。
感傷に浸る暇など無い。僕は半秒ほど目を瞑って魔術回路を開くと、金色に輝く視界を真っ向から見詰め、思い切り踵で床を打った。
(《解放せよ!》)
瞬間、すべての縄という縄がひとりでにほどけて床に落ちた。先輩ほどになれば、この程度の魔術、言葉すら必要としない。猿ぐつわについた唾液が糸を引いていた。僕は口元を乱暴に拭った。
「逃げるよ!」
「逃がすかぁっ!」
僕の声と男の声が重なって、次の瞬間僕は宙に浮いていた。僕の体は十五センチ近くある身長差などものともせずに、先輩の体を軽々と抱き上げて、走り出していた。
「壁! 破って!」
「――《砕けよ!》」
先輩の指示に間髪入れず指を鳴らす。魔力によって打ち砕かれて、開いた大穴から、夜の冷たい潮風が吹き込んできた。
そのまま夜闇に駆け込む。
猛々しい怒号が一気に遠退いた。先輩が土を蹴る音と、波が岸壁を削る音しか聞こえなくなる。
「三分じゃ逃げ切れない。どうにかできるっ?」
先輩は息一つ乱さずにそう言った。好戦的な先輩が、撤退を即断したのだ。普通に走ったのでは逃げ切れない、と確信しているらしい。
ならば、物理法則を超えてみせよう。それが魔術師の役割だ。
「どうにかします。合図をしたら止まってください」
「了解っ」
僕は体を先輩に預けて、目を瞑った。意識的に、深く、深く呼吸をし、闇を吸い込む。夜に溶け込む。輪郭がぼけていき、自分と世界が曖昧に一体化する。
(必要なのは、覚悟。それから想像力。大丈夫――先輩の体なら、出来る)
ごめんなさい、先輩。僕はこっそりと謝った。僕が今からやることは、先輩の体に大きな負担をかける行為だ。それでも、やらなくてはならないんだろう。他に、走るより早く逃げる手段は無い。
今必要なのは、魔術ではなく、魔導。金色の二本の鍵の再現。魔術とは詩文だが、魔導とは神秘だ。必要なのは想像力と才能。言葉はあくまで補助でしかない。もっと原始的で、根源的な、具体性を持たないもの。
僕は目を開けて、空を仰いだ。先輩はこの暗闇の中を、真っ直ぐ飛ぶように疾走していく。それでいながら僕を抱える腕は安定していて、まったく揺らがないのだ。だから僕は安心して、半分に欠けた月を眺められる。
(半月――ドリーさんの本の表紙)
視界が金色に光り輝く。夜とは思えない。僕ですら眩暈がするような光景だ。頭がぼんやりと熱くなって、意識がふわりと浮かんだ。熱病に侵された夢遊病者のように、僕は口を開く。
「《我らが知る半月は彼の本のもの。空に浮かぶあれに非ず。しからば我らがここにあること不条理にして、反自然的なり。さすれば自然に従いて、林檎が天から地に落ち、風が西から東へ流れ、星が夜瞬き日が朝輝くように、我らをあるべき場所へと導け!》」
僕は先輩の肩を叩き、左手を真っ直ぐ前に伸ばした。先輩がぴたりと立ち止まり、慣性の法則で僕の上半身が少しだけ傾く。
「《扉を開けよ、レ・クレドール! 我ら半月を手にせし者なり!》」
バツンッ、と伸びきったゴムが切れるように、僕の意識は吹き飛んだ。