3. 契約は約束の元に
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「……で、何があったんだ?」
少し焦げたカレーを頬張りつつ、ナオ姉に尋ねる。
「うーん……」
「おい、ちょっと?」
ナオ姉はじっとスプーンで掬ったカレーを見つめている。
「……どうして鳥なの?」
「え……?」
「どうして豚じゃないの?」
――怒るポイントそこなのかよ!?
「……わ、悪い。 チキンカレー、嫌だったか?」
「ううん。 ……美味しいから許す」
――なんだなんだ……何があったんだマジで……
「……なぁ、ナオ姉」
「なぁに? ユウくん」
嫌いではなかったらしく、普通に美味しそうに食べてくれるナオ姉に、改めて質問をぶつける。
「……何かあった時は、遠慮なく俺に言ってくれて良いんだぞ? 俺にできることなら、なんだってしてやりたいし」
「……何でも?」
「あぁ。 ……いや、もちろん可能な範囲で、だけどな」
ナオ姉はクスッと笑うと、
「ありがとう、ユウくん。 でも、私は大丈夫だから! 心配しないで!」
そう力強く言ってくれる。
「……そうか。 それなら良いんだが……」
ナオ姉の大丈夫が本当に大丈夫だった試しはないが……それでも信じる事にした。
「……うん。 ごちそうさま! 美味しかったよ、ユウくん」
「お粗末様でした。 片付けは俺がやっとくから……」
「ううん。 私がやる! 任せっぱなしも、なんだか悪いし」
「そうか? わかった。 なら俺は風呂でも沸かしてくるよ」
「ありがとう、ユウくん!」
空になった二人分の皿をキッチンへ持って行くナオ姉。
代わりにやってくれること自体は珍しくない。
こういう時のナオ姉は、気分が良い時か、後ろめたい事がある時かのどっちかである事が多い。
おそらくは……後者なんだろう。
……ナオ姉が隠し事か……まぁ、良いんだけどさ……
話したくないなら仕方ない。 話したくなるまで待つだけだ。
「おい、ミオ?」
風呂はスイッチ一つの状態だったので、もう少しすれば沸くだろう。
今はそれよりも……
「……ミオ?」
「ひゃっひゃい!?」
ガタゴトとベッドの下から顔を出したミオ。
「……どうした?」
妙に顔が赤い気がする。 ベッドの下はさすがに狭かっただろうか。
「……ユウヤ。 一つ聞かせて欲しいんだ」
「な、なんだ?」
ミオはベッドの下から這い出ると、
「……実像世界のミルクは、飲めるのかい……?」
何かを俺に見せてきた。
それは……俺の秘蔵コレクションの一つ。
その中の一ページらしい。
……待て待て待て待て……ちょっと待ってくれ……
あまりの衝撃に停止しかけた思考をフル回転させ、脳内会議を開始する。
……今の俺に託された選択肢は二つ。 一つ目は、同意して実践に移すというルート。 もう一つは……
「ああ、飲めるぞ」
「ほ、本当かい?」
「でもな――」
パッとその薄い本を取り返す。
破けるかと思ったが、幸い破損はしなかった。
「――それはたんぱく質だ。 そんなものはやめておけ」
「え? そ、そうなのかい……?」
……よかった……その辺の知識は浅いらしい。 ベッド下に追いやったのは迂闊だったな……
「……てか、ミ――乳製品は、鏡の中じゃ飲めないのか?」
「聞いたこと無いのかい? "鏡の国のミルクは飲めない"って」
……鏡の国……って、もしかして、不思議の国の……?
「それと同じさ。 乳製品は基本的に飲めないんだよ。 飲んでも吸収されないし、毒でしかない」
「そ、そうか……」
「だから、事故とは言え実像世界に来られたんだ。 ついに飲める日が来たと思ったんだけどね……」
かなり残念そうにうなだれるミオ。
「あー……いや、そんなに飲みたいのか? ミルク」
「止めておいた方がいいんだろう?」
「そ、それはその…………ああもう! ちょっと待ってて!」
部屋を飛び出し階段を飛び降り、冷蔵庫から牛乳パックを引っ張り出し、適当なコップに注いで、来た道を引き返す。
ナオ姉の姿はなかったから、おそらくお風呂に入っているのだろう。
ちなみに俺はナオ姉じゃないから覗こうとか漁ろうとかはしない。
「……ほら、これだよ! 飲みすぎなければ身体に良いから!」
「おぉ、これが実像世界のミルク……。 本当に飲んで良いのかい?」
「ああ。 もちろんだ」
少し震えているミオの小さな手が、俺の持つコップを受け取る。
そして恐る恐るといった感じで、そっと口をつけた。
「……甘くておいしい。 何か入れたのかい?」
「いや、それが本来の味だよ。 加工された乳製品の、な」
ミオはゴクゴクとミルクを飲み干していく。
ただ飲んでいるだけなのに、なぜか微笑ましく感じてしまう。
「……ぷはっ……。 ごちそうさま。 ありがとう、ユウヤ。 キミはやっぱり優しいね」
ニコッと、満足そうに笑ってくれる。
それだけで何か良いことをしたような気分になれるから不思議だ。
……やれやれ……ミルク事件はとりあえずこれで大丈夫だな……
もう少しで取り返しのつかないことになるところだったと思うと、自分の冷静さに敬服せざるを得ない。
「……どういたしまして。 さて……」
コップと本を机の上においておき、ベッドの傍に二人で座る。
「……ミオ。 お前は、鏡の中に戻れないのか?」
「なんだい。 戻って欲しいのかい?」
「まぁそれは……その……」
どう答えても正解で無い気がする。 これは地雷踏んだか……?
「……冗談だよ。 ボクが鏡面世界に帰らないと、誰が調律をするんだって話だよね」
クスッと笑うと、ミオは首を横に振った。
「でも、残念ながら……ではないかもしれないけど、戻れないんだよ」
「戻れないのか?」
「うん。 原因は……魔力不足、かもしれない」
「魔力不足?」
「ターゲットを追っていたと言っただろう? あの調律でかなり魔力を使ってたみたいなんだ」
……結局魔法なんですね……わかってたけどさ……
「てか、魔法なんて存在してるのかよ?」
「もちろん。 世の中の不可思議な現象は、魔法がだいたい絡んでるよ」
言われてみれば、鏡の調律の話もそうだ。 何の能力ももたない少女が一人でこなせるものではないだろう。
「あと、魔法は科学技術の何世紀も未来の姿という説もあるらしいね。 今を生きる人類が到達できない、あるいは理解できない技術が魔法と呼べるのかもしれないね」
「それは存在してるって言えるのか……?」
「もちろん。 ボクの存在がその証明さ」
そう言い切られては、反論の余地がない。
「……それで、魔力不足を補うために、一つ、提案があるんだ……」
急に勢いのなくなったミオ。 何か言いにくそうだ。
「提案?」
「ああ。 ……その、人が持てる魔力容量は、その人によって違うんだけど……みんな等しく持っているんだ。 ただちょっと、使い方が分かっていないだけで……」
なぜ今その話をするのだろうか。
「……それで、さっき思いついた事なんだけど……魔力は分け合えるんじゃないかって。 不足分を他の人から供給してもらえば、回復するんじゃないかって……」
……ん? その話、どこかで見たような……
俺が嫌な予感を感じている中、ミオはこう告げた。
「だから……その、ボクと契約して、キミの魔力を、ボクにくれないか?」
一体、どんな思いでそのセリフを紡いだのだろうか。
それしか思いつかなかったと言うのなら……それは完全に俺のせいだ。
「……それがどういう意味か、分かってるのか?」
「………………」
ミオは何も言わずに頷く。
この恥ずかしがりっぷりは……明らかにさっきの本の影響からだろう。
……最悪だ……いや、これほど待ち望んでいた状況はないけれども……!!
現実というのは非情だ。 理想が思い通りに現実に描かれることの方が少ないのだから。
「自然回復するのを待ったほうが良いんじゃないか?」
「この状況で回復すると思うかい? 鏡面世界ならまだしも、実像世界で魔力を補給する方法なんて……」
先ほどの本を思い出したのだろうか。 顔が再び朱に染まる。
「……これしか、知らないんだ」
どうやらもう、腹を決めるしかないらしい。
「……良いんだな、俺で?」
「もちろんだよ。 キミにしか……頼めない」
ミオが自身の服の裾に手をかけたのを、俺の手で覆ってやめさせ、
「……なら一つ、条件がある」
保険をかけることにした。
「なんだい? もしかして、ボクの身体が欲しいのかい?」
「んなわけあるか!?」
「あれ……? そ、それはそれでちょっと悲しいな……」
「どうして残念がるんだ!?」
必死に理性を保っている自分がバカみたいだ。
「……約束してくれ。 俺が手伝うのは、その取り逃がしたターゲットを倒すことだけだ。 それが終わったら、契約を解いてくれ」
我ながら、冷たい事を言ってると思う。
でも、そうでもしないと……
「……分かった。 キミにはキミの世界があるからね……キミの意見を尊重するよ」
ミオは頷いてくれた。
「……じゃあ、しようか」
「お、おう……」
……改めて考えて見たら、俺、とんでもない状況に置かれてるんじゃないか……?
「……『汝、我をその身の影とし、その心を鏡とし、我の姿をありのままに映さん』」
腕輪を俺に向け、何かを唱えたミオ。
突然の詠唱に反応できなかった俺は……
「『汝、我が身の映し手となる事を誓うか』」
その問いかけに反射的に首を振っていた。
「誓う。 俺の何だって全部持って行け!」
ミオはジェスチャーで俺に屈むように指示した。
疑問に思いつつも、膝立ちになると……
「………………」
柔らかな何かが、俺の唇に触れた。
俺の予想通りなら……
「……んっ……」
「………………」
……あぁ、世の中にこれほどまで愛おしくなるものが存在していたのか。 俺はなぜ、もっと早く気付けなかったんだ……
思えばこれが、俺のファーストキスだ。
小さい時に勢いでナオ姉に奪われた気がするが、まぁあれはノーカンだろ。
「………はぁっ……」
「………………」
あまりに長かった一方通行の魔力交換を終え、肺が酸素を貪りたがるのを感じる。
苦しくても頭がボーッとしても、それを差し引いてもこの感覚は、もっと味わいたいものだった。
「……うん。 これで多分、大丈夫だと思う」
……一体何が大丈夫なんだ……?
魔力的には大丈夫なのかもしれないが、状況的にはあまりよろしくない。
階下からドライアーの音がするから、ナオ姉はまだ上がってこないだろうけど、今はこの状況を覆してくれる役者がいないことに不安すら覚えてしまう。
……ナオ姉の癖っ毛で長い髪は、乾かすのに時間がかかるからな……止めてくれる人がいないと、俺……
「どうだい? 身体に違和感は無いかい?」
言われて自分の体を確かめてみる。
特に痛いところも疼くところもない。
……無い、はずだ。
「……大丈夫そうだね。 良かった」
ずれた帽子を直しつつ、ミオがはにかむ。
その無垢な笑顔に……俺の中の悪魔が消滅した。
「……それで、鏡の中へ行けそうなのか?」
話題を変えて、変な気持ちを鎮めようと試みた。
あの本を全うする必要はない。 むしろそれは避けるべきだ……
「……うん。 行ける……と思う」
ミオは感覚を確かめるように、掌を握ったり開いたりしている。
「ただ……キミの力が、必要だけどね」
「もう俺は引き返せないところまで来たんだ。 それに、約束は約束だからな。 なんだって手伝うよ」
内心、ワクワクしていたのは否定できない。 まるで宝くじでも当てたような気分と言えば伝わるだろうか。
何せこれが……俺の非日常の始まりだったのだから。