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                 誕 生

 波を打って乱れる視界は、致命的な故障に見舞われた映写機の様に景色を不鮮明に歪ませた。断片的にしか認識出来ない映像を前に覚瑜の焦りが募る。

 頃は夕暮れ。斜陽に正対する己が瞳に映る光景は朱の世界。夕まづめに吹く風が覚瑜の鼻腔に鉄の匂いを運んでくる。つん、とする、嫌な、芳しい、吐きそうな、興奮する、そんな匂い。まるでそれが自分の世界の一部であるかのような奇妙な安堵感、恐怖感。

 これは、誰だ? 俺は何をしている。

 両手に握り締められた二刀。左手に脇差、右手に中太刀。共に相州伝正宗の作。

 何故俺に解る? 俺はこんな物知らない。

 ここは何処だ。奥の院の森は何処に消えた? 覚慈は? それとも此れは、

「死後の世界なのか? 」

 その考えに行き当たって少し可笑しくなった。

 成る程、人並み以上に得度を詰んだつもりの筈が、全然足りなかったと言う事か。こんな所に来て迄刀を振るっているとは天罰極まっている。

 さて、ここは何という地獄なのか? 俺はこの手にした刀で今から何を斬り、何に切り刻まれる事になるのか。

 心に誓っておきながら何一つ無しえる事の出来なかった、それは『罪』。

 自分の奥底に抱えた『魔』。

 其の全てを清算できる機会を得て、若干だが嬉しくも有った。

 さあ、早く来てくれ、と。俺はここにいる。

 いまだに継続する途切れ途切れの映像。自分の周りに横たわるおびただしい数の屍。 自分がやったのか、とふと思う。景色を彩る朱の輝きよりもどす黒い朱に塗れて、刀の波紋を伝わって流れる黒。弾いた刃が陽光に煌いている。

 さあ、早く来てくれ。俺はここに ――

「違う! 此れは俺ではない! 」

 叫んでいた。何故俺はこんなに興奮している? 違う! ここは地獄などではない! これは俺ではない! これは俺の、

「思いでは、無い筈。」

 叫びに逆らって高まる気合。早鐘の様に打つ鼓動。まなじりは沈み行く夕日を見詰めたまま、何かを求める。

 さあ、もう時間が無い。貴様と死合える時間は後僅か。早く来てくれ、俺はここにいる。

 地平に彷徨う夕日の光にその姿を滲ませながら、遂に現れた黒い影。見つけた途端、最高潮に鼓動が高まる。早まる。

 来たか。俺は、貴様を待っていた!

「違う、止めろ! 」

 俺は人など斬りたくは無い! 俺が斬るのは『魔』のみ! 人を斬る等と言う大罪をこれ以上犯す事は出来無い!

「『魔』は『人』の内より出でて、また『人』に還る物也。即ち同等の物。何故なにゆえ躊躇(ためら)う事有らん也? 」

 その言葉には何の感情も、抑揚も無く。念仏の如く唱えられたその声に向って、覚瑜は声を荒げる。

「何を言っている!? そのような侫言ねいげんを口にするのはお前か! 」

 覚瑜の心の中を御し難い激情が吹き荒れる。それが全身を押し包み、今度は激痛に変化する。唐突に収束する意識。最期の視界の中に僅かに残った赤。赤い鎧。…… 誰だ。

「お前は …… 誰だ? 」

 最後の問いかけも虚しく、覚瑜の視界は闇の中へと没した。


 ぼんやりと目覚める意識を寒気が襲う。それが大量の出血による物だと気付くまでに幾許いくばくかの時間を要した。

 黒い槍によって空けられた幾つもの傷口から流れ出る血液が背中を濡らす。良く此れで生きているものだと、自分の体の頑丈さに感銘を受ける。

 それでも緩やかな死を迎えつつある肉体を騙しながら、覚瑜は左手一本で上体を起こそうと試みた。と、何かが引っかかって再び仰向けになってしまう。

 何だろうと首を左右に振って確認してみると、未だ感覚を無くしたままの右手を貫通する木材の破片が目に留った。やれやれ、又傷が増えてしまったか。

 上体を左に捻って無理やりそれを引抜く。右手の自由の代償に支払われる、今となっては貴重な血液。しかし、もうそれもどうでもいい事かもしれない。敗北の烙印を押されてしまった自分にとって。

 左手に目をやる。其の掌に長鈷杵の柄だけが残されている。成る程、と。自分が何故生きているのか大体納得が要った。

 あの瘤に襲われた時、反射的に左手を振り上げて其の攻撃を受けたのだ。

 何を未練な! 生き足掻こうとした挙句にこの体たらくか! 自分の命と引き換えに唯一の武器を失ってしまうとは。

 全く、『生は虜にさる』事ここに極まれりだ。惰弱者め。

 結局お前は何も為す事無く、ここで朽ちていく事になるのだな。まあそれも一興だ、と思う。

 先に三途の川で待っていろ。後から来る者がお前に呪いの呪詛を叩き付けて極楽に行く様を、指をくわえて眺めるが良い。お前に与えられる罰は、それからだ。

 軽い脳震盪で、視界がはっきりしない。壊れた屋根の隙間から神々しい光を放つ月が見える。其の時、ふっとある考えが疑問となって過った。

「 …… 一体、ここは何処だ?」

 残り少ない力で目の焦点を合わせようと試みる。それで、自分が何処かの建物の中にいることに気付いた。ゆっくりと辺りを見回す。

 質素な設え。調度品などの類は一切置かれていない室内。いや、室内と呼べるのだろうか? 人が暮らすにしては余りに狭量な空間。認識を果たした覚瑜の、機能不全を起こし掛けている脳味噌の芯で変な音がした。其れはあたかも空箱の中身を確かめる為に討ち振るわれて、その存在を示す様に音を立てる、何か。

 何処だ、ここは。俺はここを知っている。何故だ。

 何故俺は知っている?

 見上げた先に浮かぶ月。瞳に遠慮無く差し込む光から僅かに視線を外した。

 視界の隅から忍び込む暗い天井。血塗れになった床が月光を撥ね返して天井を微かに染めている。

 其処に描かれた絵画。中心に菩薩。取囲む様に蓮の葉に鎮座した僧侶の姿。間違いない。

 俺は此れを知っている。

「胎蔵界曼荼羅 …… という事は、」

 覚瑜は呟いて、建物の奥を振り返った。暗闇の中にあるその壁面へと目を凝らす。

 天井一面に描かれた胎蔵界曼荼羅。それがある建物は根来寺の中でも一ヶ所しか存在しない。曼荼羅の中心に描かれた菩薩は、真言密教最高位に置かれた大日如来。結縁灌頂にて其の加護を受けた者は古今東西現在過去に至るまで、只二人の僧侶のみ。

 一人は開祖、空海。もう一人は新義真言宗宗祖、覚鑁。

 それが描かれているこの場所の正体は。

 振り向いた先には小さな仏像が、質素な壇に祭られていた。それはかつて伝説の仏像師、運慶がこの地を鎮護する為に寄進された大日如来像。そして其の手前に設えられた小さな白木造りの棺。全ての情報を手にした覚瑜が確信して叫んだ。

「ここは御廟か! 」

 その思い。失われた筈の力が何処からか蘇って、覚瑜の体を動かした。

 これは、『希望』。現世の者のみが持ち得る究極の力の源泉。

 幽界かくりょに潜む者が決して持ち得る事の無い、人の心の最期の寄る辺。まだ終わってない。

 揺れる膝を押さえながら立ち上がった。

 まだ、終わってないぞ。俺は。討つべき手段が其処に残っているのならば、それを手にして戦うまで。例えこの身が擂り潰されようとも、この力が手に入るならば魂だけででも戦い続けて見せる! 

 そしてお前は俺と共に、冥府の統括者『閻魔天』の御前にて正当な裁きを受けるのだ。

 だから待っていろ、覚慈。今度こそお前を葬ってやる。この俺の手で。

 這うよりも遅く、しかし確かな足取りでゆっくりと棺に向かって歩み始めた。ほんの僅かしか無い筈の距離が、途轍もなく彼方に感じる。それでも其の一歩を進める毎に、覚瑜の体に確かな力が蘇って来ていた。

 それは『希望』と言う物ではなく、最早『啓示』に近い物。御仏から与えられた使命を果たす為に自分は『生かされたのだ』という確信。それだけが今の覚瑜の心の支えになっていた。

 御廟の中央に安置されている白木の棺に手を伸ばしてしがみ付き、倦怠感に襲われる体を支える。

 そうして覚瑜は一礼する事ももどかしく、棺の蓋を持ち上げた。そんな少しの力でも全身の傷口から鮮血が溢れ出て、足元に零れ落ちる。

 其処に収められた、干からびた小さな亡骸。座主のみに着用を許された白い法衣。間違い無い、

 其れこそが真義真言宗開祖、興教上人の即身仏。

 上体を折り曲げて棺の中へ。触れるだけで崩れてしまいそうな其のミイラの肩に、委細構わず手を掛けた。

「上人様。お許し下さい。神仏穢したるこの身の上、後々如何様(いかよう)な裁きも謹んでお受け致します。然らば其の御力、」肩から左手を離して、貫手に構える。

「貴方様の遠き弟子である拙僧、覚瑜にお貸し戴けます様。」

 心臓の位置目掛けて貫手を放った。まるで薄いビスケットを割る様に、深深とミイラの中に突き刺さる。其処に有る心臓を抜き取る為に、覚瑜はミイラの体内を弄った。

「 …… 馬鹿な。」

 何かの間違いだ、と思った。場所を間違えたのか? すぐさま手を抜き、もう一度狙いをつけて貫手を放った。再び体内を探す。しかし、求めている物は見つからなかった。

 体同様に干からびて、間違い無く其処に存在する筈の心の蔵。体内を激しく掻き回す覚瑜の手の動きに合わせて、其の朽ちた身体ががくがくと動いている。

 やがて覚瑜の手が静かに、覚鑁たる即身仏の胸から抜かれた。その場に力無くへたり込む。

「何故だ …… 何故見つからない? 」

 覚瑜の体を動かし続けていた『希望』が『絶望』と言う名の闇に侵食され始めていた。

「どういう事だ …… まさか既に覚慈が奪って行ったと言う事なのか。」

 だとしたらもう勝ち目は無い。後は全てが其の力に蹂躙じゅうりんされる所を傍観するしかないのだ。自分の身の行く末も含めて。

 呆けた様にその場に座る覚瑜。刹那、御廟全体を激しい地震が揺るがした。状況の変化に自己を取り戻して慌てて立ち上がる。左手でバランスを取ろうとして棺の縁を掴んだ。

 途端に頭上で幾つもの破壊音。屋根ごと天井が何ヶ所も破られて、其の一つ一つから覚慈の体を構成していた瘤の顔を張りつけた大蛇が侵入を果たす。恐怖に覚瑜の心身が共々凍り付く。

 室内全体を嘗め回す様に蠢く大蛇の群れ。やがて其の顔は其々の方向から只一点に向かって視線を集中させた。吐き出される瘴気と共に長く伸びる舌。魔疽を伴って長く伸びたそれが覚瑜の体に絡みつく。

 物理的にそれに抗う力も無く、裁きの場に引き出された罪人の如くその場に組み伏せられた。

「覚慈、何故だ。何故裏切った!? 」床に額を押し付けられたままで叫ぶ覚瑜。

 最早自分の死は確定的。ならばせめて自分達を襲う理由だけでも知って置きたかった。

 自分を捕らえた瘤の先に潜んでいる筈の、かつて覚慈であった者に届く様な大声で尋ねた。

「答えろ、貴様にはその義務がある筈だ! 何故『月読』様を殺した? 何故上人様の御廟を破った? 何故 ―― 」

 聞く事への一瞬の躊躇い、一番聴きたく無い答え。「 ―― 俺を裏切った!? 」

 覚瑜の問いに答える様に、御廟の入口が大音響と共に破壊された。そこに現れる巨大な黒い肉の塊、魔界の使者。そこに張り付いた瘤其々が放つ呪詛の祝詞のりと。二つが互いに共鳴して覚瑜の聴覚に侵入した。

 自らの身の上の不遇、殺した者に対する呪い、現世への未練。それらの負の澱が紙縒こよりとなって、覚瑜に残された最後の「人」の部分を貫こうとする。

「違う! 手前らに聞いてるんじゃない、俺は覚慈に聞いている! 」

 それを拒んだのは法力でも何でもなく、最後に只一つ残された、覚慈という友人に対する信頼。幼き頃に共に孤児院より拾われ、共に同じ道を歩んできた自分の半身に対するほんの僅かな、しかし揺ぎ無い信念。

「答えろ、覚慈! 聞こえている筈だ! 」

 しかし、覚瑜の慟哭どうこくに応える者は無い。

 ゆらゆらと覚瑜に近づきつつある肉塊。それは散々自分に抗い続けたこの不届き者を取り込まんと、黒い泥を吐き出しながら覚瑜の体に圧し掛かろうとしていた。

 いよいよか。覚瑜は覚悟を決めた。

 舌を大きく突き出して歯の間に挟む。このままこいつが圧し掛かって来れば僅かな力でも舌が噛み切れる。かつて数々の退魔行で見た、悪霊に取り込まれた人々の最期。何の尊厳も認められずに冥府へと鎮んで行く魂。自分はそうはなりたくなかった。

 故に自害を選ぶ。それは前々から、自分に万が一の事が起った時に決めていた事だった。静かに目を閉じ、其の時を待つ。

  

  「やれやれ。若いのに、詮無い事よの。」


 聞こえる筈の無い、こんな所で聞こえてはいけない人間の声。それは紛れも無く、自ら命を絶とうとしている覚瑜に向けられての物だった。


「百二の者を、これへ。」松長の声に、始まった頃の様な力は無い。

 僅かに背中を丸めながら搾り出すように言葉を繋ぐその姿は、今にも息を引き取りそうな老人に見まごうほどだ。十分な準備を怠ったままに始めたこの法要が、如何に松永の法力を消耗させたかという事の証明でもある。

 室内は十二神将が張り続ける結界によって未だ変わらず緋色の光に満たされ、左側に控える赤塚の姿も殆ど変わりが無い。松長の姿だけが、まるでそこだけ時間が一気に進んだ錯覚に囚われてしまう程に憔悴の色を浮かべている。

 身体の耗弱を抱えながらもじっと祭壇を見つめる松長の瞳には、明らかな焦りの色があった。

 百人以上の赤子を試しても尚見つからない事。残った赤子は後何人も居ないと言う事。時は黎明を迎えつつあると言う事。そしてこの法要によって生み出された新たな『黒い泥』の瘴気の為に、何人もの法力僧が横死しているという事。

 既に結界の何箇所かは綻びて、死人の呪いたる『黒い泥』は大師堂付近までの接近を果たしている。その脅威に辛うじて大師堂周辺に展開した結界が持ち応えてはいるものの、その抵抗が何時まで続くかは定かではない。

 いや、いずれにしても払暁を迎えればこの法要は事の如何に関わらず終了を余儀なくされる。そうなれば、もうお終いだ。多大な労力と人命を失った挙句に、何も成す事の出来ないまま自分達はこの世の終焉を迎えることになるのだ。

 我が娘、月読が星宿によって捉えた『天魔波旬』の力によって。

 先程までは堆いままだった祭壇の下に広がる白い灰も、今では護摩壇の上全体を覆い尽くす程に広がっている。それが自分の犯した罪のかさである事を松長は知っていた。

 だからこそ報いたい。百余の命に百余の人生。命を奪われた者達が成し得たであろうかも知れない数多あまたの可能性の喪失。報いるためにはこれをやり遂げなければならないのだ。

 たとえ最後に、それが間違いであったとしてもだ。

 扉が開き、青白い顔をした僧侶が白い産着を大事そうに両手に抱えて入室してきた。もう何人替わったかも覚えていない。その僧侶は緩やかな足取りでゆっくりと祭壇に近づこうとして、突然松長の横でその歩みを止めた。そのまま跪いて松長の方に向き直る。

 周囲を固める十二神将の意識が一斉にその僧侶に向けられ、内の一人が錫杖を構えた。気配を察知した僧侶に怯えの色が走る。しかしその場を動く事は無い。

「どうした。」視線を向ける事無く、松長は言った。

「その者を、祭壇に置け。もう時間が無い。」

 叱責にも似た松長の命令を受けても、その僧侶は微動だにしない。今まさに儀式を迎えんとする赤子を抱いたまま、じっと松長の顔を見つめている。その態度を不審に思った松長がその僧侶の方に向直った時、ゆっくりと産着が松長の手に手渡された。

 慌ててその僧侶の顔を見る。その男は今迄赤子を運んできた僧侶達の長であり、『ある規定』に則って赤子を選定し、連れ去ってきた実行部隊の僧都であった。

「何故お前が。未だ終わってはおらんだろうに。」傍らの赤塚が声を掛けた。

 この僧がここに来るとは只事ではない。総ての赤子を攫って来たと言う点において、この男の犯した罪はここに居る松長や赤塚と同等。本来ならば最後の赤子をここに連れてきて、事の顛末てんまつを見定めるのがこの僧の役目なのだ。

 集められた赤子は全部で百八人と聞いている。それが、ここでこの僧侶が現れるとは何か思わぬ事態が発生したのだろうか?

 赤塚の問いにも答えずに、その僧侶は松長の顔をじっと見つめている。口には出せない何かの感情をその表情に込めて、静かに告げた。

「座主様、お孫様に御座います。」

  室内が凍りついた。

「松長、お主知っていたのか? 」しばらくの沈黙の後の赤塚の問い掛け。声音が硬い。

「自分の孫がここにいるという事を、知っていたのか? 」

「この子は私生児でな。」ぽつり、と松長が呟いた。

「我が娘は禁忌きんきを犯したのだ。高野山の中で人知れず逢引を繰り返した挙句に、此の世に生を受けてしまった子だ。」

 静かに語られる松長の言葉で受ける、再びの衝撃。戒律の厳しい御山の中に在りながらそのような狼藉に出る僧侶がいようとは。

「禁忌? という事は父親は僧侶なのか? 」

 赤塚のその言葉に僅かに頷く松長。何かを思いつめる表情が灰の残り火に照らされ、石王尉いしおうじょうの面の様。

「そうだ。名は言えぬが退魔師の一人だ。 ―― 身篭った事が発覚した時、俺はすぐさま月読を問い詰め、父親の名を聞きだし、そして破門した。月読は高野山から下野させて長谷寺に蟄居ちっきょを命じた。尼僧筆頭に加えてお役目を担う立場でありながら戒律を犯した。 …… 其の時の俺はそれが許せなかったのだ。 ―― だがな。」

 震える松長の手が赤子の顔を優しく撫ぜる。差し出されたその指を、母親の乳首を求めるかのように、一心に啜った。

「その様な所業を自分の娘夫婦同然の者達に行いながらも、反面嬉しかった。あの子が尼僧になった時に諦めた筈の孫の顔を見る事が出来ると思うと、素直に嬉しかった。」

「何故長谷寺等に預けた? そう言う事なら御山より遠く離れた寺に移すという事も出来ただろう。わざわざ他教の寺社に預ける等、自らの恥を晒すような真似をしなくても ―― 」

「そうする必要があったのだ。御山の尼僧筆頭が私生児を身ごもったという事実を、他の宗派の連中が手に入れたらどうすると思う。自分達の権益を拡大しようと躍起になっている彼らにとってそれは格好の取引の材料だ。となれば自らの手中にある『切り札』に対してぞんざいな真似などする事は無かろう? 」

「自分の弱みを掴ませる事で、娘と孫の身の安全を保障させたというのか? 御山の座主という名誉と誇りを捨ててまで? 」

 赤塚のその問いに松長は思わず面を上げた。

「そうだ。法要に召集される赤子の第一用件を満たしている孫を、捜索の手より逃れさせるには、この方法しかなかったのだ。」

 赤塚はその一言で納得した。松長の一連の行動の動機は総てそこに帰結していたことが理解できる。

「近親者、もしくは祖先の内に法力者が存在する、という条件だな。」

「父親が退魔師、母親が尼僧筆頭。他に挙げられた赤子の候補の中で、これほど条件の整っている者は稀だった。このような微妙な時期に身篭ってしまった月読を軽率だとは思ったが、それを咎める気にはなれなかった。月読本人がその事を一番後悔していたからな。」

 それは、そうだろう。自らが星宿によって見定めた『摩利支の巫女』の必要案件の一つに我が子が当てはまる。万が一、条件をすべて満たしてしまえば生まれたばかりの我が子を永遠に奪われてしまう。例えその子が無事に『創生の法要』を潜り抜けたとしても、である。

「最初の母体検診の時は、俺も父親の代わりに立ち会ってな。医者に、まあなんて歳の離れた夫婦だろうと誤解されたよ。いや、これは私の娘だと言っても、今は流行りだとか何とか言われてなかなか取り合ってくれんのだ。挙句の果てに、ご主人、これから大変ですね、とまで言われたよ。全く。」

 悲しげな表情を浮かべていた能面が、一瞬だけ破顔した。

「出産予定日を尋ねると、順調にいけば春先になるだろうと言われて、俺と娘は喜んだ。―― 予言の日時からは遥かに違っていたからな。さて、そうなれば何時この事を皆に発表しようかと考えた。誰か適当な者を外部から呼んで婚姻させてしまえば私生児を身篭ったという事実は無くなる。それとも彼女を下野させて見合いをさせた、とでも言おうかとも考えた。何れにせよこの子が禁忌を犯した末の結果であるという事実を隠す為に、色々と手段を講じようと手を回していた矢先に、」

 そこで松長は沈黙した。宙を見上げてその日の事を思い出す。

「長谷寺から知らせが来た。月読が破水したという知らせだ。」


「今すぐ車を回してくれ、長谷寺に向かう! 」

 火の点くような形相で命令された僧侶が転がる様に座主の寝所を退室する。松長は白い長襦袢の上から衣を羽織ると、身支度の僧侶が来るのを待たずに廊下へと飛び出した。

 そのまま廊下を急ぎ足で玄関の方へと向かう。丑三つ時前にもかかわらず、高野山全山の燈火が一斉に点灯した。

 玄関に回された黒塗りの車に松長が到着した時、息を切らせて傍御用を勤める僧侶が、両手一杯に荷物を抱えてやってきた。それを後部トランクに詰める様に指示すると、後部座席に滑り込む。

 トランクを自らの手で閉じたその僧侶が後から乗り込もうとするのを、松長は制した。

「待て。今日は俺一人でいい。これは私事だ。お前まで来る必要はない。」

 その言葉に当事者である僧侶は目を丸くした。

「座主猊下。それはなりません。如何に私事といえども猊下が移動なさるのであれば、お供をするのが私の役目に御座います。どうか同乗の件お許し戴きます様。」

「今日だけは許可できん。お主はここで俺の異変が知られぬ様、各方面との連絡を取ってくれ。嘘偽りを言っても構わん。俺が長谷寺に行った事だけは内密にするんだ。良いな。」

「長谷寺へ向かわれるのですか? …… ! まさか、月読様の身に何か ――  」

 その言葉を僧侶が発した途端、松長の表情が一変した。ドア越しに立っている僧侶ににじり寄ると、胸座むなぐらを掴んで、思い切り引き寄せた。

「いいか。」鬼面を浮かべて静かに言う。

「この事を知るのは俺と主のみだ。もし誰かに知られていればそれはお主が洩らしたという事。そうなったら、俺はお前を許さん。」

「ひ、…… いえ、私は決してその様な。座主猊下を裏切るような真似などいたしません。どうか御信頼を。」

 肝まで冷やして、震えながらその哀れな僧侶は松長に誓った。

「ならば、良い。だが、万が一の事があれば、お主はこの日の本にて生きる場所は無くなると心得て置け。あの男と同じ様にな。」

松長が手を放すと、その僧侶はその場にへなへなと座り込んだ。

 目の前のドアがばたん、と勢いよく閉まると松長を乗せた車はタイヤを軋ませながら発進した。その侭の姿で見送る僧侶。

 駆け付けて来る大勢の僧侶の気配を背後に感じて、その僧侶は我に返った。まずい。この場を何とか取り繕わないと、自分の身が危うくなる。

 座主猊下の先程の言が脅しではない事は、長く傍御用を務めた自分だからこそ良く分かる。現に半年ほど前に一人の退魔師がこの件に絡んで破門されているのだ。いや、その後の座主猊下の行動から察するに、その退魔師は日本の全ての宗門に絡むどころか、如何なる仕事に従事する事も叶わぬのではないかと思われる程の徹底した手の廻し様だった。

 あれではあの男は浮浪者になるしかあるまい。そして何時かの年の冬に、自分の行いの迂闊うかつさを噛み締めながら、無縁仏になる運命なのだと思う。

 そうはなりたくない。

「栄俊殿、如何なされた? 先程の車は座主猊下の物とお見受けしたが。」

 背後に駈け寄って来た僧に声を掛けられて、覚悟は決まった。ゆっくりと立ち上がって、ぱんぱんと、尻に付いた土を払いながら振り返った。

「如何にも。急な御出立ゆえ見送り不要と仰せ付かりました。」

「それにしても性急な。…… してお主、何故座主猊下に付いて行かなんだのだ? 傍御用の役目にある者が付いていかねば何かと不用心であろう。このような所で拙僧と立ち話などしている場合ではない様に思えるが。急ぎ、後を追いかけられよ。」

「いや、それには及びません。実は先程、宝泉寺より連絡がありましてな。」心拍数の上昇を気取られない様に、軽く深呼吸をする。

「今度の法要に付いて急ぎ知らせたい事が或る故、金沢にお越しくださいと先方が申されて。座主猊下はあの通りの御気性でおられる故、取る物も取り敢えず御出立成されたという訳で。」

「おお、例の法要の事に付いてか。それでは急がれるのも無理はない。」

 心の中で溜め息を吐く。良かった、どうやら騙しおおせたらしい。

「しかし車を呼んだ僧は、座主猊下は長谷寺に向かうとの言を聞いたというのだが、」

 ドクン!心臓が爆発したかと思った。大きく鳴った。

「い、いや、聞き間違いでしょう。私には金沢に向かうと申しておりました。間違い無く。」

 急激な血圧の上昇で目眩がした。いかん、意識が遠くなる。

「まあ、お主が言うのならそうなのだろう。…… しかし山本様の気紛れにも困った物だ。過去に仲違いをした間柄で在ると言うのに、今回の件だけはあの方の言にいつも振り回される。これではどちらが真言宗の守り手なのか解らなくなるなぁ。お主もそうは思わんか? 」

「まあ仕方ありません。それだけ今度の法要が重大な事は、我らならずとも知られている事です。神経質になるのも致し方無いかと。」

「そうだな。…… いや、手間を掛けた。もうこんな時間ゆえ、主も休んでくれ。もうすぐ朝の作務の始まる時間だ。」

 そう言うとその僧侶はきびすを返して、背後に集まっていた僧侶達に事情を説明し始めた。

その姿を見届けてから寝所に向かうべくその場を後にする、栄俊と呼ばれた僧侶は思った。

 騙し果せた安堵感と、嘘の引き合いに山本様まで巻き込んでしまった罪悪感。果たしてどちらが罪深い事なのだろうか?


 小春日和を感じさせる朝日の中を松長を乗せた車が、長谷寺裏手に或る関係者専用の駐車場に転がり込む。既に到着の一報を受けていた寺社関係者が一堂に会する中に、松永は悠然と降り立った。

 心中は穏やかならず。しかしそれを表情に出す事はできない。

 何故ならここは元真言宗でありながら江戸時代の初めに浄土宗に改宗した、教義を異にする宗派の単立寺社。

『単立』とはその宗派に属していながら如何なる関わりも持たない、独立した寺社の事。しがらみを持たないが故にその縄張り意識たるや生半可な物ではない。如何に最大派閥の長とて到底歓迎される筈の無い場所。

 硬い表情のまま頷くと案内の者に導かれるままに寺社内へと歩を進めた。

 神奈川県鎌倉に居を構える長谷寺。正式名を海光山慈照院長谷寺と言う。

 奈良時代に創建されたと伝承されているが、時期、経緯に吐いては明確にされてはいない。 開祖は大和長谷寺と同じく徳道上人。真言宗開祖・空海の流れを汲む僧侶である。鎌倉時代より度重なる戦火に晒され、その度に修造・修復・改修を受け続けて今日に至る。

 江戸時代の初期に徳川家康が伽藍がらんを修復した際に浄土宗へと改宗。当時の住持・玉誉春宗を中興開山の祖とする、日本でも稀な出自を有する寺社である。

 松長が通された場所は『阿弥陀堂』と呼ばれる場所だった。既に一人の男が阿弥陀如来像の前に座っていた。無言で着座を求められる。下座である。

 松長は勧められるが侭にその場所に座した。互いに一礼して面を上げる。

「遠路遥々(はるばる)御足労戴き、誠に申し訳御座らん、松長殿。由々しき事態ゆえ何の持て成しも出来ぬが、容赦されよ。」

 丁寧な口調と相反した表情。下卑た笑いを浮べている。

「いや、この度は我が娘の事でご迷惑をお掛けして誠に申し訳ない。松田様のお力在ればこその寛大なご処置。この松長、心よりお礼申し上げる。」

 両手を床に付け、深々と頭を下げる。その松長の姿を見て、松田は如何にも不愉快そうにふん、と鼻白んだ。毒の篭った言葉が続く。

「魂の入らぬ礼など不要よ。真言宗座主ともあろう者がそのような戯言を吐くとは、主達の宗派もお里が知れるというものよ。そうは思わんかな? 松長殿。」

 栄俊を連れて来なくて正解だった、と松長は思った。栄俊が今の言葉を耳にしたら、次の瞬間にはこの男に飛び掛っている事だろう。

 第一、この男のこの物言いは今に始まった事ではない。正に傲岸不遜ごうがんふそん。浄土宗でありながらその組閣を認可されず、認可の拒否にも拘らず、その多大な収益の大半をお布施の名目で召し上げられる。都合のいい自動引出し機の地位に甘んじているが故の妬みがこの松田という男の立ち振る舞いを形作っているのだろう。

 だがそんな心の捩れを抱えた住職が治めているからこそ、松長は自分の娘を隠す場所にここを選んだのだ。この男の陳腐なプライドをくすぐってさえいれば、娘の身は安泰な筈だ。

「いいや、決してそのような事はござらん。松田様のご尽力あればこそ、我が娘もこうして安心して出産に臨む事が出来ると言う物。嘘偽り無く、本当にて御座る。」

「ふん、まあいい。どのように思っていたとしても、あの娘が主の弱みである事には変わりが無い。その辺は弁えていよう? 」

 それにしても腹の立つ男だ。湧き上がる怒りを深く沈めながら、松長は尋ねた。

「して、松田様。娘が破水したとは本当に御座るか? 未だ身篭って七ヶ月余りでそのような ―― 」

「所詮は信用しておらぬようだが、まあいいだろう。御付のあまの言によると、昨晩に不可解な陣痛が始まったそうだ。急いで産婆を呼んで診させると途端に破水して、出産が始まったと告げられた。で、今別室にて分娩を行っていると。理解できたか? 」

「そうか、いやかたじけない。で、娘はどうなのだ。大丈夫なのか? 」

 尋ねる松長の表情をじっと見つめて、松田は問いには答えなかった。暫くの沈黙が流れた後、松田が嬉しそうに言った。

「主、孫の安否は気にならんのか? さっきから一度も俺に訊かんが。」

 思わず松田の顔を眺めた。松長の勘が危険の匂いを察知する。

「生まれようとする孫が超未熟児であるにも拘らず、娘の心配ばかりとははなはだ不自然だとは思わんかと聞いて居るのだ。『松長座主猊下』。」

「どういう事ですかな? 拙僧にはさっぱり、貴殿の意図する所が解らんが。」

 とぼけてはみるものの危険な匂いは未だ鼻腔をくすぐったままだ。松長の心配を尻目に松田が言った。

「座主猊下をここにお通ししたのは他でもない。実は内密のご相談があっての事だ。」

「内密とは、如何なる御相談か。込み入った話であるならば後日という事にした方が良くはないか? 拙僧としては一刻も早く娘の分娩に立ち会いたい所存なのだが ――  」

 松長の懇願を無視して、松田は懐に手を入れた。次にその手が抜かれた時、純銀の浮き彫りでかたちどられた懐中時計が握られていた。上蓋を開いて時間を確認すると、愉悦の笑いを浮かべたまま松長の前にそれを滑らせる。

 午前八時三十分。

「時間が気になってお出での様だ。俺のを使うといい。 ――  松長殿、何をそんなに気になさっている? 一刻も早く娘の傍に行って、何をするつもりだ。…… 言いたくなければ代りに言ってやろう。」

 勝ち誇ったように胸を張る松田。間違い無い、この男は何かをを知っている。しかし、何故だ、何処から漏れた!?

「生まれたばかりの孫を、その手に掛ける気であろう? 『摩利支の巫女』を選定する法要の有資格者に成ってしまった自分の孫を。違うと言うなら申し開きでも何でもするが良い。」

ビシッと。噛み締めた奥歯の割れる音がした。それは松長の我慢が限界に達した事。全身から殺意の気配が立ち上る。

 凡そ並みの者なら金縛りにでも遭いそうなその気迫を、松田は軽く受け流した。それは自分の置かれている立場の絶対的優位を信じているからこそ。そしてそれは紛れも無い事実。

「松長殿。残念ながらお主を月読の元に行かせる事はできん。」

 そういうと右手の親指をパチンと鳴らす。途端に阿弥陀堂の全ての障子が開き、軽戦甲冑を身に纏った完全武装の僧兵達が雪崩れ込んできた。あっという間に二人の周りを取り囲む。痛恨の表情を浮かべる松長。それを見て松田は哄笑した。

「アアッハッハッハァァッ!! 高野の座主と言えども所詮は人の子か。このような仕掛けにも気付かぬとは余程娘と孫の事に気を取られていたようだな! 愉快な事この上ないわ! 」 笑い続ける松田を睨みながら松長は尋ねた。

「松田、一体何が望みだ。お前は何を知っている? 」

 その問いに松田の笑い声が止んだ。不遜ふそんな表情を浮かべて松長をしげしげと眺める。

「おお、いきなり呼び捨てか? いいぞいいぞ、いよいよ化けの皮が剥がれて来たようだな。『お前』呼ばわりした事は許してやろう。勘違いするな、今許してやるのは俺の方で許されるのはお前だ。解ったか? 」

 そういうと左手を上げて僧兵達に退出を指示する。

 潮が引く様に彼らが退出すると、室内は元の静けさを取り戻した。再び対峙する二人。だがそこには『勝者』と『敗者』という以前とは違った関係が存在していた。

「先ず最初に断っておこう。あの子は産ませる。普通にな。」そういうと松長の前に置かれた懐中時計に目をやった。

「このままならば後三十分もすれば生まれるだろう。晴れて有資格者の誕生と言う訳だ。お主も嬉しかろう? 何せ初孫だからな。」

「それが何を意味するのか判って言っているのか。そうなれば我が方としても黙って見過ごす訳にはいかん。力尽くでもその子を連れて行く事になるぞ。それでもいいのか? 」

 脅しではなく、真実。有資格者を一人たりとも洩らす事など出来ない。それが過去何十回も行われた『創生の法要』の絶対の約定。

「我が浄土宗対真言宗の全面戦争か? お主がそれを望むのは構わんが、残念ながらそうはならんのだ。」松長の方に僅かに頭を近づける。

「お前の孫は今日から俺の子になるのだ。」

「なっ! 」予期しなかった言葉に思わず声を失う。

 眼力で殺せる者なら殺してやりたい、今直ぐに。睨み付ける松長を嘲笑う松田。

「内密の話とはこの事だ。つまり、月読を俺の嫁にする、と言う提案をしているのだよ。『お父上』。」

 怒りと動揺で松長の頭は混乱した。こいつは一体何を俺に提案しているのだ!?

「馬鹿な事を言うな! そんな事が許せると思うか。大体この子の父親は他に ――  」

「抹殺したんだろ? 社会的に生きられない様に手を日本の隅々まで廻して。…… いや、流石は真言宗宗家の座主ともなるとやる事が違う。娘の意思も考えずに、やる事がえげつ無いわ。残念ながら俺はその野郎の二の轍を踏むのは御免だ。だからこうして直々にお願いしていると言う訳だ。どうだ、筋も通って礼儀もわきまえてると思わんか? 」

「無礼者めが! そんな申し出、受けれる訳が無かろう!お主の様な外道にあの二人を渡せるか! …… 俺がこの話を打診した時に一も二も無く快諾したのはこういう事だったのか!? 」

「気付くのが遅いんだよ、ばーか。まあ馬鹿(つい)でに確認してやろう。」

 卑しき勝者の嘲いが、松田の顔を歪ませる。

「本当に断っていいのか? 」

 その問い掛けが、松長に危険を知らせた根源の物だと理解する。

 そうか、危険の匂いはここからか。

「何もかも喋っちまうぜ。お前達が今からやろうとしている事、『摩利支の巫女』の事、それとその子がどんな運命を背負っているのか。俺は全て知ってるんだぜ。」

 言葉を失う。どういう事だ? 何故他宗の、それも単立寺社の住職如きが知り得ているのだ。

「驚いて、声も出ない様だな。教えて差し上げよう。 ――  あの娘はとても素直で良い子だが、あんた、ちょっと世間知らずに育てたな? 彼氏と無理矢理引き離され、父無し子を身篭った女など落すのは簡単な事だ。ちょっと優しくしただけで色々と喋ってくれたよ。そんな事をしたあんたにもよっぽど恨みがあるんだろう。悪い父親だぜ。」

 割れていた奥歯が砕け散る。怒りによる法力の暴走を痛みで押さえる。

「まあ、手篭てごめにする事は出来なかったが、それは後のお楽しみに取って置くとして。さて、本題はこれからだ。あんたの娘と結婚するという事は俺はあんたの娘婿になる、という事だ。で、あんたは今度の法要で二度と法力が使えなくなるほどのダメージを受ける。力の無い事を隠してあんたは座主の地位に居続ける事になるんだが、それではなんかあった時に困るだろう? ―― そこでだ。」

 松田が再び懐に手を入れる。今度は一枚の紙を取り出して松長の膝元へと投げよこした。

「あんたには今度の法要が終わったら引退して貰って、後継者に俺を指名するという念書を書いてもらう。ああ、今すぐじゃなくていい。法要が始まるまでの間に、だ。」

「そんな事が出来るわけが無いだろう。」馬鹿馬鹿しい。何を言っているのだ、この男は。

 調子付くにも程がある。

「高野山の座主は代々執行部の合議制で選出される事に決まって居る。そんなことをして他の僧侶が黙っている訳が無かろう? 大体貴様の様な他宗派の僧侶が如何なる理由で座主の地位に就けるというのだ? 」

「あんたならできるさ。その政治力を使って裏に手を回す等造作も無い事だろう? 何なら俺が改宗していきなり金剛峯寺に現れたっていい。そういう事はあんたの方で考える事だ。」

「貴様。」獣の唸りの様な声。「どこまで心根が腐っている。それが仏門に帰依きえした者の言う事か? 」

「あんたの言う事は、俺には褒め言葉にしか聞こえんがね。取り合えず、礼は言っておく。」

「第一そんな事をして座主になった所で、お主が言う所の『何か』が在ったらどうするのだ? 今のお主とて法要が終わった後の俺と大して変らんだろうが。貴様の目論見等所詮は『愚者の浅知恵』にしか過ぎん。」

 松長の非難を浴びても松田は一向に動じない。寧ろそれが快感であるかのように、徐々にその本性を現し始めた。

「ったく。あんたの頭の中は何処まで御目出度く出来てんだぁ? そんな事分ってんだろうが。だからあんたの娘と結婚するって言ってんだよ。『ぽっと出座主』の言う事は聞けなくても尼僧筆頭のあんたの娘の言う事ならば、少なくとも真言宗に関わりの在る者ならば聞くしかあるまい? それにいざとなったら」松長の顔面を指差す。

「あんたの孫が居る。」

「 ―― 貴様!! 」限界を超えた。立ち上がる。

 このような奸賊を生かしておくわけには行かない! その痩せこけた素っ首を捻じ切って向後の憂いをこの場で絶つ! 必殺の気合を込めた右腕が松田の首目掛けて伸びる。

 その時だった。


   「ンギャア …… ンギャァ …… ンギャ …… 」


 赤子の声。遠く離れた何処からか朝の空気を伝わって。

 松長の右手が松田の首を捉える寸前で、止まった。瞬殺の間合いに入った事実にも動ずる事も無く、松田がにやり、と笑った。

「おめでとう。これであんたも御祖父ちゃんだ。」

振りかざした手が震えている。「孫をどうするつもりだ? 娘のみならず孫までも使って、貴様は何をしようというのだ? 」

「慌てんじゃねえよ。俺はあんたの孫を助けようと思ってこういう事を言ってるんだぜ? 感謝こそすれ恨まれる筋合いは無いね。」

 この男の生死は今間違いなく自分が握っている筈。だのに何故この男はこんなに落ち着き払っている? 何時でも右手を伸ばして松田の首をくびれる様、松長は身構えた。

「あんたの孫は『創生の法要』を受ける事無く『摩利支の巫女』を名乗るんだ。どうだ、いい考えじゃねえか? 」

 それは悪魔の提案だった。松長の心の奥底に封印した人としての欲望を掻き乱そうとする毒針。

「貴様、俺ばかりか我が真言宗まで愚弄するとは最早我慢ならん。彼の世で悔い改め ―― 」

「あんたに殺れんのかよ? 」人の顔形をした悪魔が嘲った。

「それであんた達は、終わりだ。俺が死んだら例の話を書いた書簡を弁護士の元に届ける様に他の者に言ってある。まあ、話的には眉唾もんだが、それがマスコミに知れたらどうなると思う? 」

 松田の首を掴もうとしていた右手が拳に変る。爪が掌の肉を突き破って血が滲み出した。ぽたぽたと松田の前に、怒りに震える指の間から滴り落ちていく。

「あんた達の考えている事は時代錯誤も甚だしいんだよ。『摩利支の巫女』が世界を救う? ハッ! 馬鹿馬鹿しい。どいつもこいつもそんな大昔の坊主の黴臭い戯言に囚われてるから、訳解んない事言う様になるんだよ。教義? 戒律? そんなもんが一体何になるって言うんだ? 『摩利支の巫女』とかいう者だけじゃねえ。あんた達の誰かがそれを使って今迄に、一回でも世界を救った事があるのか? 在るんなら教えてくれ。」

「では聞くが、それを信じぬ貴様が何故仏門に居る? 今の貴様の物言いは俺からすれば罪人のそれと変わらぬ。」

「俺がここに居る理由か? 金になるからだ。特に宗教と言う物はな。」

 そう言うと松田は、目障りと言わんばかりに松長の右手を払い除けた。

「あんたがこの話を持ち込んできた時には小躍りして喜んだぜ。何せこれで俺もやっと大っぴらに金を集める事が出来るってな。俺はこれを使って日本で最大の宗教集団を作る。浄土も天台も神道も全てを飲み込んで、やがてはあの腐った政治家共も牛耳って、日本と言う国全ての頂点に立つんだ。つまり、あんたの娘も、その孫も。俺にとっては大金を生み出す最高の素材だという事だ。。せいぜい大事に使わせてもらうぜ。」

「そんな事をしてどうなる!? もし今度の法要で真の『摩利支の巫女』が見出された時は? 『一つの時代に唯一人』と言う掟に反する事になるぞ。そうなったらお主と娘達に勝ち目は無い。我らは全力を挙げてお主等を叩き潰す事になる。それでも良いのか!? 」

「まーだそんな威勢が残ってんのか? しぶといじじいだな、全く。生憎だがそんな事にはならねえよ。」

「何? 何を根拠にその様な侫言ねいげんを吐くのだ、貴様は。」

 何かがおかしいと、松長の危機管理を司る部署が警告を発している。

 世間的に見てこの男の置かれている立場は、地方の一寺社の唯の住職にしか過ぎない。そんな男が何故ここまで強気に出れるのだ? いや、そもそもこの男は誰からここまで詳しく法要の事を聞いたのだ?

 この男の持つ情報量は、明らかに月読の持つ情報を遥かに凌駕している。

「もう、既に手を廻してある。俺のバックを通じてな。」

 そこで松田の言葉は止まった。互いに顔を見合わせる二人。松長は呆然と、松田は失態を後悔する表情を浮かべて。

「貴様、まさか、天魔 ―― 」

 声を絞り出すのが精一杯だった。

 

 松田が何事も無かったかの様に立ち上がり、自分の判断の過ちが自分を取り巻く全てを未曾有の危機に陥らせたと知った、苦悶の表情のままで睨み上げる松長の顔を不愉快そうに眺めた。

「話はここまでだ。返事はさっき言った通り法要が始まる迄でいい。良い返事を期待しているぜ、お父上。それと、」

 足元の懐中時計を拾い上げる。

「今日の所はもう帰んな。そんな人殺しみたいな顔で俺の嫁に会うんじゃねえ。分かったな。」

 捨て台詞を残して、踵を返して松田がその場を立ち去る。残された松長。正対する阿弥陀如来像と対を成す仏像の様に固まったまま、怒りに全身を震わせている。

 松田がその部屋を退室するべく、濡れ縁へと続く障子に手を掛けた。

 肩越しに松長を見遣りながら、「そうだ。もう一つ、良い事を教えてやろう。松長。」

 松長の逆鱗の琴線を掻き乱す、その声。さも愉快だと言わんばかりに、投げ掛けられる。

「あんたの所の真言宗とやら、人が多すぎる所為せいか、上手くは纏っていない様だな。」

 松田の声が爪弾いたのは、松長の逆鱗ではなく、驚愕だった。

「この期に及んで何が言いたい? 」

 その言葉に隠れる更なる脅威。無造作に与えられた情報が、松長の心中で分析を始める。

 それは、何を示唆しているのか? まさか ――

「別に。…… ま、精々頑張って法要でもなんでもやってくれ。今更あんた一人の力では止める事が出来ない様だからな。俺は今から娘に御対面してくる。あんたは遠くで指でも咥えて待っているんだな。」

 勝者の高笑いを残して松田は阿弥陀堂を後にする。

 感情の高ぶりで荒ぐ吐息以外の音が消失した阿弥陀堂の中。突然、松長の血塗れの手が溢れる法力と共に叩き付けられて、床板が露出する程大きな穴を畳に穿った。

 娘を、孫を守ろうとした事が逆に窮地に立たされる事になろうとは、これこそ神罰というものなのか。

 松長は自身の慧眼けいがんの不明さと、松田と言う男の無法の嵩を見誤っていた事を後悔しながら、暫くその場から動く事が出来なかった。


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