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                 対 峙

 何かを言い残して、黒の僧衣を身に着けた獲物は立ち尽くしている。左手にだらしなくぶら下げられていた筈の長鈷杵は何時の間にか右手が添えられて、正眼の位置に上げられている。焦点を失った其の眼は半眼にこそ開かれてはいるが、其の瞳が何かを求めているとは思えない。

 だが生きた(リビング)死体デッドにはそんな状況の変化等何の興味も無かった。

 ただゆらゆらと、以前にも増して動きの取り辛くなった肉体を少しずつ獲物に近づける。脳味噌も眼球も叩き潰された彼が欲する物は、力。生き延びる為でもなく、生き返る為でもない。ただ自分の中の耐え難い渇きを癒す為だけに、喰らうべき獲物を求める。

 度重なる戦闘は、彼の内部に知恵をも齎した。唯一人で自分達に立ち向かってきた、棲む世界を異にする人間。だがこいつはもう脅威では無い。力を無くして怯えている。後ろ足の折れたガゼル。後は狩られるだけだ、この俺に。

 歩を進める彼の間合いの遥か外でゆっくりと振り上げられた、獲物の持つ長鈷杵。瞬く間に其の剣先は地面に。不可視の閃光。

 異変に足を止めた彼の体の真中を何かが通り過ぎて行った、気がする。紙よりも遥かに薄い板。途端に其の足が意思に反して停止した。持ち上がらない、動かない。

 其の事は彼の渇望を一層深めた。早くしないとあいつらに横取りされてしまう。欲求が断絶した筈の運動中枢にアクセスする。電信音の様に途切れながら小脳に伝達された其の信号が、足を動かせと命令した、瞬間。

 メチャッと言う音は何処から? 粘着した物が引き剥がされた音。脳も目も失った頭蓋の骨を通して聞こえた、不愉快な音。

 音の出所を探る彼の意識。だが其れも、音の発生と共に変化を迎えた。

 離れていく。一つであった物が二つに。

 正中線を境にして左右に分かれていく肉体がどさりと下生えの中に横たわる。二つに分かれた舌が未だにえを求めて、其々の口腔内を乱舞している。

 やがて僧侶の肉体を支配していた彼は、自分が現世うつよで存在する事の出来る限界が来た事を悟った。二つに分かれた肉体からどろりと黒い泥が染み出して、地面に吸いこまれて行く。

 人間の体を一刀の元に切伏せた、かつての覚瑜であった者は歩き出した。切っ先を左横手に流して異常な速さの摺り足で。仲間の異変に気づかずに押し寄せて来る死人の囲みの中に、無造作に分け入る。

 再び放たれる炎の槍。覚瑜が発する法力目掛けて投じられていた其の槍も、力の失せた今の覚瑜を正確に狙う事は出来ない。槍の着弾点は一点に収束されずに、覚瑜の周囲にバラバラに散らばって溶け落ちていた。成果の上がらない攻撃に豪を煮やした彼らが一斉に槍を乱れ撃つ。破れかぶれの何本かが覚瑜の体目掛けて飛んでいく。その体を必殺の杭が貫いた。

 残像ディレイ

 貫かれた筈の覚瑜の体が掻き消えて、槍が互いに発火する。巻き上がる炎が周囲の森を真っ白に照らして、闇に溶け込んでいた筈の死人の姿を浮かび上がらせた。其の内の一体の直ぐ傍で、長鈷杵を構える覚瑜の姿。

 再生デジャビュ

 左右に別れて沈んでいく肉体。次の討つべき敵を求めて覚瑜が振り向く。目測にして距離五メートル。

 視線を合わせた死霊は一早く覚瑜の姿を認めて、炎の槍を放とうとしていた。

 大きく開かれた口腔内に渦巻く呪文。舌の様に突き出される槍。火炎呪を纏った槍は詠唱破棄による攻撃ではなく、『呪文を其のまま槍の形に替えた』攻撃であった。無論其れを放つ肉体も唯では済まない。頬の筋肉は熱で溶け落ちて、露出した顎の骨が黒く焦がされて煙を上げる。口先から長く伸びきった其れを必殺の間合いで吐き出そうとした、其の時。

 既に眼前に覚瑜の姿は無かった。

 縮地。

 五メートルの間合いが一瞬にしてマイナスに。姿を見失った其れの背後で残心の構えを執る覚瑜。気配を感じて、振り向く。今度こそ奴を屠ろうと槍を放つ。

 だが自分の意志以上に旋回した首は覚瑜の姿を捉える事は出来なかった。投じた炎の槍が命中したのは覚瑜の先に立つ同胞。体を貫かれた者は炎を上げて崩れ落ちる。思わぬ誤射を果たした彼の、それが此の世に於ける最期の認識だった。

 闇を見ていた。木々の隙間から降り注ぐ星と、まばゆいい月光。見上げる視界の淵には頭の無い胴体が立っている。

 それが今の今まで自分の物であった事を認識できぬまま、意識は地面に沈んでいった。

 かつて生者で有った者達は、怯えた。死者を狩る剣、遣う者。それは人では無くなっている。 

 自分達が食らおうとしていた者は、死して罪を犯した存在を裁く為に地獄より送り込まれた一兵の獄卒。振るう剣は、地獄の審判。絶たれたが最期、二度と転生も叶わぬ程、煉獄の池深くに沈められてしまう。

 死者の恐怖、回帰への否定。己が既得権益を守ろうとする物共。死者生者の違いこそ有れど其の行動原理は変わらない。存在を滅ぼそうとする力の元から、只わらわらと逃げ惑う。

 狩りの主従は其の瞬間に逆転した。覚瑜は追い求め、斬り続ける。

 その場に動く物が存在しなくなるまで、ひたすらに。


 法力で組上げられた“白き繭”は男達が思った以上に堅固な代物であった。手にしたナイフは勿論の事ながら銃弾まで跳ね返す。力の発生源を探ろうと周囲を隈なく捜索しては見たが、彼等の常識の範囲内にあるような、それらしい装置は見当たらなかった。

 大地から自然発生的に現出した完全防御の繭。下した結論に彼等は畏怖を禁じえない。

 ブリーフィングの段階でこの事は一つの情報として記載されてはいた。しかし実際に目の前にしてみると其の有用性に興奮する。

 何故なら此れは人の力で為し得た物。此れだけ広範囲の地域を戦場で防御するのに本来ならばどれぐらいの資材と人員が投入されるだろうか? そうして構築された砦でも敵の攻撃に晒されれば何らかの被害を受けてしまう。被害個所を補修して又襲撃を受けると言ういたちごっこ。彼等が参加した多くの戦場で常に悩まされ続けた命題の回答が今ここに存在していた。

 成る程、この技術が手に入れば今までの戦略を大きく転換する事も可能になるだろう。防御に人員を裂く事無しに、其の大半の戦力を攻撃に投入する事が可能になる。その事によるパワーバランスの変化が自分達に齎す恩恵は計り知れない。

 作戦本部が躍起になってこの計画を推し進めた理由を指揮官は理解した。そして、『同盟国』たる日本本土に自分達の様な殺人集団を送り込んだ理由も。

 そう、ここは同盟国、日本。其の縛りが彼等の士気を微妙に弛緩させていたのかもしれない。周囲に気を配る事無く、只目の前に聳え立つ摺りガラスのドームを見上げる。

 其の彼等に向かって、背後から声が投げ掛けられた。

Heyよう,Guysだんながた

 一斉にその場にうずくまる影。額に上げた暗視スコープを装着し直し、背中に廻した自動小銃を手元に引き寄せる。振り返るような野暮な連中ではない。ただ其の状態の侭後方に意識を集中して声の出所を探った。次に届いたのは、人を食った様な声。

Wellいや,I mayじつは be doneライター away ()withなくし my lighterちまってね.」

 ハンドサインで情報を交換する。しかし其のどれもが区々《まちまち》で要領を得ない。様々な方向から響く声、『木霊の術』。

Pleaseわるい lendけど meひぃ a lighterかして of siger'(くんね)? 」

 今度は上から大きく覆い被さる様に。堪り兼ねた一人が、潜入スニー工作キングでは禁忌の行為に手を染めた。

Whoだれだ!  Whereどこに areいや youがる! Sonこの-of-aくそ Bitchやろう! 」

 振り向き様に銃を構える。其の声には日本語で答えが返って来た。

「今、『サノバビッチ』って言いやがったか? この『毛唐』。」

 叫んだ男の口を別の手が背後から覆う。男の動きが停止する。ぼんのくぼを貫かれた男は頭と胴体の神経を切断され、死後痙攣を起こす事も無く、静かな瞑りに就く。影が死体の首からゆっくりと刃物を引き抜く。

 其の光景を凝視する彼らの暗視スコープに映った男の顔。嘲っている。

 周囲の闇から影に向かって射撃が開始された。障子紙を指で勢いよく破る様な消音器の音が林に木霊する。

 狙われた其の影は慌てる事無く、有ろう事か自分が今仕留めたばかりの其の獲物を軽々と持ち上げて盾にした。肉体に着弾する度に踊る、今迄仲間であった死体。まるでそれは拙い子供が操る等身大の操り人形の様に見える。

 不細工に操り続けた、銃弾と言う名の糸が切れた時には暗殺者の姿は無かった。見失っても男達は慌てていない。現在の不利を打破する為に、隊形を変化させようとハンドサインを交換する。

 其の時、又しても影の声が聞えた。今度は様々な方向からではなく、只一点から実体を伴って。

「慌てんなよ。まだパーティーは始まったばかりじゃねえか。」

 木々の隙間から差込む月光に浮かび上がる影。暗視スコープでは眩しい程の光の中に男は立っていた。右手には黒い棒、左手には仲間を絶命させたと思われる30センチ程の刃物を携えて。 其のたたずまいの余りの無防備さに攻撃の手が止まる。それ程其の男の出現と立ち姿は、只々美しかった。

 左手の刃物が手首で返される。

 一本の刃物に見えたそれは実は三枚の刃物が合わさっていた様だ。左右に開いて固定された其の全貌は十文字。男はそれを右手の棒の先端に当てた。勢いよく捻るとそれは自重で回転してしっかりと固定される。完成したその十文字槍をまるでウォーミングアップでもするかの様に、体の周囲で自由自在に振り回す。刃が月明かりに煌めく。美しい。

 一連の動作が終った時、男は槍を腰だめに構えた。恐らく見える筈の無い敵に向かって、愉悦の笑みを浮かべて、声を上げた。

「Let'sさあ playゲーム theやろ gameうぜ.Al'light?」


 意識が繋がり、視界が回復する。途端に襲ってくる激痛。全身の関節がバラバラになりそうだ。覚瑜は両腕を抱きしめたままうずくまって、押し寄せる痛みに耐えていた。

 視界が壊れたテレビ画面の様に途切れてからの記憶は曖昧だ。自分の物ではない、誰かの記憶。法力を使っても為しえようの無い移動速度。体幹移動。何よりも自分が今まで使ったことの無い剣技。どれもが夢の中の事の様に思える。

 しかし眼前に広がる結果は其の考え全てを否定する様に其処に、あった。夢の中の出来事をなぞる様に僧侶達の体は分断され、覚瑜の前に転がっている。

 最期の願いが通じたのか、と覚瑜は思う。願いの果てに彼に与えられたのは法力ではなく、未だ知り得ぬ未知の力。結果的に彼は全ての障害を打ち破って命を永らえてここに生存していた。 

 だが、其の心に去来する物は感謝ではなく、恐怖。

 あの時。自我が破れて溢れ出した黒い闇。あれは何だったのかと自問する。

 夢の中で覚瑜を支配し続けた声。『斬』 ・ 『切』 ・ 『伐』 ・ 『剪』。真言の代わりに自分の中から溢れ出した『キル』という言葉。自分では無い誰かの渇望があの時、総てを支配していた。 

 おぞましい事に、それに身を委ねて得る事の出来る快感は、言葉に言い表せないほど心地好い。正にそれこそが覚瑜の抱く恐怖の正体であった。

 人を護る為に退魔行を行っていたと思い込んでいた自分は、実は『キル』事の快感を求めていたのではないのだろうか? もしそうであるならば、今彼らを無慈悲に切り続けた自分が本当の自分の姿だとしたら、それは、只の『人斬り』だ。人間ではない。

 自分が今まで調伏し続けた『魔』の要素が、実は自分の中にも色濃く存在しているかも知れないという疑問が、覚瑜の心を凍らせた。

 そんな力を使ってはいけない。と、思う。また何時それが具現化し、其の時の状況が緊急時で無かったら。自分で無い自分がまたぞろ蘇って、今度は人を斬ってしまうかも知れない。そして何時の日にかその堕天の快楽に身を委ねてしまったら。

 体の隅々まで恐怖の悪寒を行き渡らせながら、痛む手足に力を込めて立ち上がった。

 十分に回復していないその視界に建物が写った。見覚えのある小さな祠。それは紛れも無く覚瑜が目指した『奥の院』であった。

 そこに辿り着かなければならない理由がある。法力も体力も、自分が戦う大儀すらも枯渇しかかっている自分に今、一番必要な物がそこにある。まだ終わってはいないのだ。

 長鈷杵の剣先を引き摺りながら、歩く。

 その力を手にしない限り、万に一つも勝ち目は無くなった。ならば一刻も早く上人様の肝を食らわねば。その法力を手にして、せめてあの男だけでも封じなければ。

 例え刺し違えたとしても今となってはその方が好都合に思える。魔に身をやつした嘗ての我が友と共に、我が内に在る『魔』も封じる事が出来るならば一石二鳥ではないか! 寧ろそれが好ましい幕引きに違いない。

 覚瑜は一刻も早く ―― 覚慈に自分の姿を認められる前に ―― 体制を整えようと、痛々しいまでに衰えたその歩みを速めた。

“護るのではないのか”

 唐突に、余りにも唐突に女の声が覚瑜の鼓膜を貫いた。足を止めて、辺りを見回す。

 人影は無い、当然だ。動く物は既に自分が ―― 覚瑜ではない誰か ―― 全て斬ってしまっている。空耳かと思い再び歩こうとした其の時、

“お前は、護るのではなかったのか”

 女の声だ。今度ははっきりと耳にした。なけなしの力を振り絞って長鈷杵を持ち上げる。

 しかしその行為一つ採っても力の衰えは見た目に明らかであった。剣先が上下に大きく揺れ、重みで体のバランスが大きく前に崩れている。迎え撃つには余りにも不十分な体勢のままで覚瑜は叫んだ。

「誰だ、何処に居る!? 」

 叫びが切っ掛けとなったのかも知れない。途端に覚瑜の周囲の空間に充満する魔疽まそ。それは其処だけに留まらず奥の院を取り囲む敷地全体から湧き上がっていた。

 草の根を掻き分け、岩のひび割れをなぞりながら立ち昇る陽炎。大気の密度を侵食したそれが覚瑜の視界を歪ませている。が、其の陽炎の向こう。

 奥の院を背にして仁王立ちする人間の姿。待ち兼ねた様に、愛しむ様に、悲しむ様に、そして嘲る様に。朽ちた黒の僧衣を纏い、僅かに俯いた其の顔から表情を読み取る事は出来ない。だが確かに覚瑜には感じる。

 奴は待っていたのだ。かつての相棒が全ての仕掛けを噛み破り、自分の元まで唯殺されに来るだろうと言う事を信じて。

 致死量ギリギリまでアドレナリンが噴出して、頭の芯がくらくらした。それは全身を隈なく駆け巡って黄泉よみほとりに佇んでいた肉体と魂を賦活ふかつさせる。最期に咆哮へと形を変えて覚瑜の口から飛び出した。

「覚慈ぃ! 貴様ぁぁっ!! 」

 痛みを忘れた肉体が覚慈目掛けて躍動した。狙いは只一つ、その首のみ。

 石畳を駆ける其の足音は終焉への時を刻むかのように規則正しく、せわしなく木々に木霊した。迷う事無き道標。この手で奴を倒せば、全てが、終わる。

 ドクン。危険を知らせる心臓の大きな高鳴り。魔疽が突然覚瑜の周囲から消えた。

 いや、消えていない。それは空気中で幾つかの塊に纏まりながら、覚慈の立つ方向へと吸い寄せられていた。視覚から取り込まれた情報が一瞬の内に分析され、はじき出された結果が覚瑜の足を急停止させた。理由は皆目見当がつかない。だが、魂の底で何かが叫んでいる。

 近寄るな、あれは相当に危険な物だ。

 覚慈は先程から一歩も、身動ぎ一つせずその場に立っていた。いや、『身動き一つ』というのは間違いだ。よく見ると体中で何かがうごめいている。

 呪いを掛ける三尸さんしの虫にも似た、得体の知れない物。それは覚瑜の知識の中にも存在し得ない物。魔疽の繭から供給された擬似生命。覚慈の体に接続された黒い糸が脈動する度に虫の数が増えていく。

 覚悟を決めた筈の覚瑜の心に黒い茨が纏わり着く。恐怖。もしくは畏怖。

 心を絡め取られた体が全ての行動を拒否した。差し向けたまま微動だに出来ない其の剣の先で、突然覚慈の体が爆ぜて、巨大化した。

 出現を果たす黒い瘤の集合体。瘤の一つ一つが口を開け、血のよだれを垂れ流す。高さ三メートルにも及ぶ巨大な死のオブジェが絶叫した途端、覚瑜を除外した草や木々、生きとし生ける物全ての活動が、其処で終わった。

 枯れ、崩れ、溶けていく。覚瑜を取り巻く何も無い世界、地獄の蔓延。

 数々の退魔行を経て魔疽に対して耐性を持つ覚瑜の体も、流石に此れには耐えられなかった。ひざまずいて血反吐を吐く。自分の肉体を『魔』が蝕んで行く。胃の中、肺の中を何かが何かを求めて這いずり回っている。押し寄せる不安と痛み。

 しかし、皮肉な事に、其の痛みこそが、今の状況に置かれた覚瑜にとって一番必要な物だった。運動神経を活性化させるド―パミン、怒りに噴出するアドレナリン。焦りを押さえるエンドルフィン。その他諸々の、生成でき得る脳内麻薬。全てが交じり合って形成される『多幸感ユーフォリア』を覚瑜は法力に変換し、再び真言を詠唱した。

「オン シュチリ キャラロハ ウンケン ソワカァッ! 」

 左手の長鈷杵から再び伸びる大威徳の刃。覚瑜は震える膝を押さえながら立ち上った。

 こんな力が長く続かない事は覚瑜自身が一番よく知っている。しかしこの一瞬で良い。此れを交せば其の先には御廟。其処まで持てば良い。手にした刃を振り上げてそれとの間合いを一気に詰める。

「哈ァァァッ!! 」渾身の一振りが行く手に立ち塞がる、黒い肉塊目掛けて繰り出された。

 切っ先が届こうとするほんの一瞬前。覚瑜は確かに笑い声を聞いた。

 途端に全身を襲う鋭い痛みで、覚瑜の動きが止まった。頭以外のあちこちを、瘤から吐き出された黒い槍が貫通している。事態を察した肉体が手にした刃を使って、反射的にそれらを切り払った。魔力を送り込まれて顕現していたと思われる黒い槍が消滅した途端に、穴と言う穴から血が噴き出す。

「この! 」此れが最期。

「野郎! 」残った力全てで四尺の刃を振り翳す。

 ドン、と鈍い音。衝撃は後から。それの背後から涌き出た触手の塊が覚瑜の体に叩き付けられて、踏ん張る事も叶わずに宙を舞う。襲い掛かる暗闇。

 意識を失う瞬間に覚瑜は、自分に終わりが来た事を悟らずにはいられなかった。


 

 槍一本。たかが槍一本しか持たないこの男に何故ここまで翻弄されつづけている? 

 かつて米軍が参加したあらゆる紛争地帯において“皆殺し部隊”と恐れられた自分達の実力を、この男は只一人で否定する。目掛けて放たれる銃弾の雨を独特の歩法で躱し続け、少しずつだが其の間合いを詰めて来ている。こんなジャングルの中では全く不利な筈の武器を持って近寄る影。

 いたずらに弾薬を消耗しながら指揮官は毒づいていた。畜生、何故だ! 何をそんなに笑っていやがる!?

 一方『槍使い』の山田にとって、接近戦での銃は余り脅威的な武器とは言えなかった。

 銃口から発射される弾はほぼ一直線に目標に向かう。と言う事は、其の攻撃を槍の攻撃の延長と考えればかわすのは容易い。向けられた全ての銃口を認識し、其の延長線若しくは交点に自分がいなければ被弾する事は無い。

 連続射撃による小数点以下で変化する弾道を、山田の頭脳が脅威の演算能力で分析する。交点の隙間 ―― 安全地帯 ―― を一瞬の内に弾き出して移動、其の度に後ろ手に構えた槍の穂先が月光に煌く。

 其の美しさに目を奪われている場合ではない。あの男の舞いは、死の舞。手に携えた槍は間違い無く死神の鎌に違いない。

 カコッ。空撃ちの音が微かに林に木霊する。誰かのマガジンが空になった事を敵味方全ての者に知らせる音。其の瞬間、山田の姿が全員の視界から掻き消えた。

 恐怖と焦燥。視野の狭い暗視スコープでは消失した目標を再発見する事は難しい。指揮官は一番右翼に配置した兵士の方向を見た。それは今しがたマガジン交換の必要に迫られた筈の男であり、自分がもし敵ならばどうするかと言う事を検討した結果の行為であった。

 果たして、そこに山田は立っていた。今正に振り下ろされんとする死神の鎌。引抜いたばかりの空のマガジンを握り締めて、自分の命を奪おうとする相手に向けて引かれる引金。沈黙したままの銃口。恐怖に歪む顔。

 何かを叫ぼうと大きく開かれた口。

 指揮官の手から振り向けた銃口と、兵士の首目掛けて走った光は同じタイミングだった。放った銃弾は山田の影すら捕らえられずに兵士の体に吸い込まれて行く。着弾の度に撥ねる肉体、そして皮一枚で垂れ下がる首。大量の血を噴出しながらドサリ、とその場に倒れる。

 暗視スコープに映った一連の光景は、指揮官に撤退を決断させるには十分な説得材料だった。得体の知れない脅威、兵士、弾薬の消耗。どれ一つ取ってもこの劣勢を挽回できる要素は無く、最悪の場合は全滅の可能性まで考えられる。特殊部隊の指揮官としてそれだけは避けなければならないケースだった。

 全滅してしまってはこの戦闘のデータを本部に持ち帰る事が出来ない。任務遂行が第一義ではあるが、特殊部隊としての最低限の任務は『全滅の回避』が一番の目的なのだ。

 相手を偵察し、戦闘を行ってそのデータを基地に持ち帰る。そこから相手の戦力、戦闘パターンを分析して次の戦いに役立てる。時にはアイテム、時には兵器を開発するための重要な情報。 

 ベトナム戦争で発足して以来その目的は今までなんら変わることなく、暗黙の了解として存在していた。

 故の撤退。ソマリア・アフガンと転戦してきた部隊が、自らのプライドと引き換えにして持ち帰る情報。それには珠玉の価値が見出されるはずだ。何故ならこの部隊は死んだ数より殺した数の方が遥かに多い“殺戮者ジェノサイダー”なのだから。

 いや、そんなことより、この事実を知らせずに全滅する訳には行かない。『臆病者チキンアーミー』だと思っていた日本の自衛隊に、こんな化け物が存在していたと言う事を一刻も早く知らせなくては。

 ましてや彼らは自分達と対峙して戦闘状態に入った。これは重大な条約違反ではないか! 

 しかる筋に報告して政治的な判断と報復を促す切欠としなければならない。それで始めて任務を達成したと言えるのだ。人力の防御壁の生成や魔法使いの確保など、あくまで二次的な産物にしか過ぎない。

 自分たちが無事生還して軍に齎す情報に比べれば。

 周囲に注意深く気を配りながら、林の中を進む四人。周囲に人の気配は無い。

 だが安心は出来ない。あれは音も無く近づいて一瞬で命を絶つ事の出来るスキルを有する、『俺たちと同じ世界』をテリトリーとする獣だ。今この瞬間も何処かで見張っていて、俺達を捕食する隙を窺っている筈。その前に回収ポイントに到達しなければならない。

 こちらの意図に気づいて焦って攻撃を仕掛けてくれば、それはそれで存分に仲間の仇を取らせてもらう。消耗したとはいえ、未だ此方には人一人殺すには充分過ぎるほどの弾薬と、熟練兵が四人も残っているのだから。

 殿を務めながら、それにしても、と指揮官は一連の事態を邂逅かいこうしていた。

 最初に無線手を殺られたのは大きかった、と思う。あれさえ無ければもっと楽に戦えていただろう。援護を要請して新たに部隊を送り込む事も、この辺り一帯を気化デイジー爆弾カッターで焼き払う事も出来ただろう。

 軍事行動である以上、同盟国国内に於いてもその選択肢は存在した。だがそれも無線手を失う事で御破算になってしまった。お陰で今こうして苦境に立たされた俺達は、鷹に襲われる野兎の様にびくびくと辺りを伺いながら逃げ回る羽目になっているのだ。

 だが、何故無線手が解ったのだ?

 指揮官は尚も考える。ベトナム戦争の頃ならいざ知らず、現在携行する無線機は目立ったアンテナなど立てなくても十分に交信が行える性能を持っている。言い換えれば一目で無線手だと言う事は判別できない様になっているのだ。それを何故、あの男は的確に狙う事が出来たのだ。只の偶然か?

 いや、そんな事は有り得ない。奴は狙って殺した筈だ。連絡手段を絶つ事を目的に、最初の獲物を『無線手』と決めて掛かっていた筈だ。しかしどうやって ――

 其処まで考えた時に思い当たった、ある事実。

 最初、奴は英語を話していた筈だ。しかし無線手を殺してからは日本語しか使っていない。と言う事はあそこで立体音声を使って英語で話しかけ、

「部隊の中で一番戦闘経験の浅い奴を狙ったって事か。」

 一概にそうとは言い切れないが、小隊無線手が選ばれる場合、語学が堪能であったり機械に強いとかいった「高学歴」の者が採用される事が多い。故に他の隊員と比べても押しなべて戦闘経験が少ない者が実戦投入される事になる。

 勿論グリーンベレーやデルタ等の特殊部隊に属する者は一通りの機器が扱える様に訓練されてはいるが、実際に経験する修羅場の経験値は実働部隊の兵士とは遥かに異なる。

 奴は恐怖を煽って動揺を誘い、正確にその柔らかい脇腹に食いついたのだ。無線機を回収し様にも、自分達で蜂の巣にしてしまってはどうしようもない。あの時無線手を担いで盾にしたのもそう言う狙いが有ったに違いない。

 結論は導き出された。奴は特殊部隊と言う物を習熟している。恐らく戦ったのも此れが初めてではない筈だ。

 奴の思惑通りに撤退させられるのはしゃくに障るが、これではいた仕方ない。

 その代わりこの付けはは二倍三倍にして返してやる。お前の正体を見破って、必ず追いかけてやる。世界中の全ての戦場を駆け巡ってでもお前を探して今日の仇は必ず取ってやる。何時か其の首を俺達が刈る日まで ――

 待て、今俺は何と言った? 『撤退させられる』だと? 『させられる』?

「Why doてったい I hadさせ nothingられ to do but a retreatだと ? 」思考が思わず音声に変わる。

 今撤退をしているこの状況でさえ、奴に仕向けられた物だったとしたら? 奴が俺達を生かして帰そう等と、はなから考えていないとしたら?

 邂逅を続ける指揮官の思考は隊列の異変によって中断された。自分の前を一列縦隊で歩いている筈の兵士が、並んでしゃがんでいる。上体を伏せながら小走りに近づいて尋ねる。

Whatどう happen'(した)!? 」

 返答は無かった。代りに兵士の眼が指揮官の視線を誘導する。

 見遣った先に一番先頭を歩いていた兵士が立っていた。そう。歩いているのではない。ただ、立っているのだ。事態の異変に対応するべく静かに銃を構え、観察する。

 よく見ると首の根元から何かが突き出ている様に見える。それは血に塗れてもはっきりと分かる、白銀の光る刃。引金を引く事も忘れて凍り付く三人を嘲笑うかの様に、それはゆっくりと引抜かれた。

 崩れ落ちる兵士の体。現れる影。其の顔には最初と変わらず、『笑いの仮面』が張りついている。

「Wahooooo!! 」それは恐怖の雄叫び。支配された肉体が人差し指に力を込める。二人の兵士は男目掛けて乱射した。

 しかし新兵の如く、狙いもつけずに放たれた『うろたえ弾』が当たる筈も無く。男の体は射線を難なく躱して、兵士との間合いを詰めようとした。約二秒間の斉射の後に起こる空撃ち。それは裁判官が叩く木槌の音にも似て。

 指揮官は二人の兵士の死刑宣告を避けようと、立ち上がって二点ダブル連射バーストで男を狙った。当てなくても良い。ただこの牽制射撃の間に二人がマガジンチェンジを終えてくれれば未だ勝ち目は有る。ここを一気に切り抜ければ林を出られる。そうすれば幾ら化物といえども人里では手出しできない筈だ。

 必ず生きて帰ってやる。お前に復讐する為に!

 頭の中で数える残弾数が一桁になったとき、二人の銃把に予備弾装が叩き込まれた。

 勝ちを拾ったと確信する。此れで後は ――

 安堵によるほんの一瞬のリズムの狂い。山田にとって付けこむには十分な隙。あっという間に三人との間合いを詰め、手にした十文字槍を二人の間後方に位置した指揮官目掛けて突き出した。

 咄嗟に後方へ飛ぶ。仰向けに倒れる指揮官の顔に生暖かい液体が降り注いだ。

Goddamnガッデム! 」

 貫かれた場所を必死に探す。痛みを探す。変だ、何処にも無い。

 見上げた中空に槍の穂先が浮かんでいる。其の後ろで首を半分掻っ切られたまま動かない兵士の姿。男は指揮官を狙ったのではなく ―― あわよくば二兎を狙ったのかも知れないが ―― 槍の穂先の左右に取り付けられた小さな刃で、前の兵士の首を狙っていたのだ。頚動脈と延髄を切断されて絶命した兵士。其の隣で運良く難を逃れた兵士が痴呆のような顔で山田を見上げていた。死神を目の前にして全身が硬直している。失禁する。

「んだよ、汚ねえな。」吐き棄てるような死神の声。

 初弾をチャンバーに送りこむ為のボルトに指は掛かっているのだが、凍り付いた様に動かない。山田は突き出したままの槍の穂先をゆっくりと兵士の首に当てた。

Rockボルト'n rollをひけ!!  Cageケイジ!! 」

 その指揮官の叫びに兵士の体は自動的に反応した。一気に引かれるボルト。振り上げる銃口。「Die (くそっ)you (たれ)Mother-Fuckerがあ!! 」叫びは足掻き。引金を ――

 引く事は遂に叶わなかった。闇を切り裂く一筋の光。それが通りぬけた後、兵士の物であった筈の頭はゆっくりと胴体を離れ、林の中を転がり落ちていく。

 指揮官はこのチャンスを逃さなかった。一瞬にして弾装は交換され、再び男に狙いを定める。槍を勢い良く振り、穂先に付いた血糊を吹き飛ばしながら山田が言った。

「さっきの牽制といい」身体の周りを自在に巡る槍の穂先。

「今の間にマガジンチェンジする所といい」動きが止まり、

「あんた、良い兵隊だな。」

 切っ先が指揮官に向けられた。「殺すには惜しいが、悪く思うな。」

 繰り出される槍と自動小銃の撃発はほぼ同時。山田は身体を捻りながら、指揮官は後ろへ飛びずさりながら御互いの攻撃をかわす。

 体の捻りを利用して、繰り出した槍を薙ぎの動作に変化させる。其の間合いに一気に突っ込んで来る指揮官。横合いから迫る柄の部分を小銃の銃床で受け止め、左手に隠してあった拳銃を振り上げる。山田の頭に狙いを定めて、引鉄を引く。

 銃口の前に山田はいなかった。止められた槍を其のままの力で地面に突き刺して体を宙に浮かせる。空中で槍を頭上に引き上げて一気に指揮官目掛けて振り下ろす。

 頭上の刃を防ぐ為に、咄嗟に小銃とと拳銃を交差して、二刀の要領でそれを受ける。刃先が小銃の銃身に食込んだ。なんて鋭さだ!

 山田は止められた穂先を即座に引っ込めて再び腰だめに構えた。月夜の眼にもはっきりと、楽しげに笑う。

「やるねえ。あれだけ部下が殺されるのを見ても、冷静に相手の武器を分析していたとは。こりゃますます殺すには惜しい人材だ。どうだ、うちに入る気は無いか? 」

 何を日本語で喋ってやがる。喋るなら相手に解る様に喋りやがれ、この化け物が!

 再び左右の銃を振り上げて交差したまま引金をがく引きする。掠ればいい。それで相手の機動力を少しでも削げれば、生存の確率が高まる。こんな化け物相手に勝つ事は既に諦めた。今は何とかこの場を脱出する事に全精力を傾けなければ!

 指揮官の意に反して、弾はまたしても山田を捕らえ損ねた。射線の下。今度はしゃがんで足を払いに来ていた。

 水面蹴り。後ろに下がって躱した所を遅れて槍が襲ってきた。どうやら『機動力を削ぐ』という考え方は相手も同じだった様だ。横合いから来る槍の柄を向う脛で下段蹴りを受ける様にして止める。激痛に加えてメキッという音がして。

 指揮官は受けた脛の骨にひびが入ったことを実感した。蹈鞴たたらを踏んで後ずさる。最悪だ。

 痛みを無視しても反応速度は落ちる。これでは満足に攻撃を躱せないだろう。次が最後。

 次の攻撃で一発逆転の手段を講じなければそこで総てが終わる。自分も他の隊員と同じ様に、遠い日本の地で客死した事を国に認められないまま消えて行くのだ。

Fuckくそ!! 」

 押し留めていた感情を遂に声に出しながら指揮官は再び死神と対峙した。不思議な事に男の顔からはあの嫌な笑顔が消えている。真剣な眼差し。じっと指揮官の瞳を覗き込む。

Alsoやっぱり, I talk (さっきの)into (はなし)invitation for youマジ is real.Doおれ youたちの figureむら in ourこね companyえか? 」

 何を言っているのだ、この男は。この期に及んで自分を勧誘するだと? 命の取合いの最中になんと間の抜けた質問をするのか。

Whatなんだと? 」聞き返す指揮官に対して山田は短く問う。

Give (くる)a replyのか,yesこな or noのか? 」

 腰だめに構えた槍が真直ぐに指揮官の胸目掛けて構えられた。

「Hey,Kidぼうず.Listenよく to meききな carefully,」そう言って笑う、窮地に立たされた指揮官。

 「I thinkてめえ that yourさそい inventionなんか is」マシンガンを山田に向けて振り上げる。

kick (だれ)out yourうける ass-holeかよ!! 」

 声を聴いた山田の表情に落胆の色が浮かんだ。「Sureそうか,I regletざんねん it.」

 引かれる引金、煌く刃。腰だめの構えから瞬時に間合いを詰めて槍の穂先を小銃の銃把に絡める。其のまま上段へと構えを変化。

 宝蔵院流表十四本の一、粘花ねんげの型。銃口が撥ね上がり、虚しく中空に放たれる銃弾。予想通り防がれたか。だが此れは囮だ!

 跳ね上げられた勢いに逆らって手にした小銃を山田目掛けて目一杯の力で投げ付けた。再び一閃。空中で機関部の所から真っ二つに切断される。なんだそれは!

 だが其の一挙動の隙。指揮官が今一番必要とする物だった。このまま後ろに跳びながら奴が体勢を整える前に有りっ丈の弾を全弾撃ちこむ。幾ら達人と言えども構える前ならば避けられまい!

 ドカッッと背中に何かが叩き付けられて、指揮官の思惑は中途で挫折した。

 大木にしたたかに背中を叩き付けられて息が詰まった。必殺の一撃を繰り出そうと迫り来る死神の影。無駄だと解りつつも最期の奇跡を信じて、指揮官は左手の拳銃を、今まさに手にした鎌を振り下ろさんと目の前に聳え立つ死神に向けようとした。

 

 惜しい事をした、と、十文字槍を振り上げながら山田は思った。今まで自分が差しで戦った相手の中でも極上の部類だ。戦闘指揮、判断力、個人としての戦闘能力。どれを取ってもこの男だけは他の兵士と比べても異質な存在に思えたのだ。

 加えて最期まで抗おうとするこの精神力。圧倒的に不利な状況と解っていても必死に活路を見出そうとするこの男を、山田は惜しいどころか好ましいとさえ思っていた。

 だが、そう言う信念の持主だからこそ翻意は難しいと言う事も理解できる。だから命を絶つ決心をする。

 生かして再び野に放とうものなら、次は絶対的な力を有して何処かの戦場で合間見える事になる。そうすれば此方の被害は甚大だ。個人で如何に超人的な力を駆使しても、戦場における絶対的な勝利の法則とは敵を圧倒する戦力と物量だ。それをアメリカ合衆国が保持している以上、我々に勝ち目は無いのだ。

 ここは個人の情よりも後々の利益を確保せねばならない。忍として今の世に生きる山田兵庫の下した結論が、それだった。

 耳に忍び込んで来る泣声。聞えたような気が、する。

 ばかな、と思う。相手に収束していた意識が聴覚へと振り分けられる。なんで泣声が? 

 それもこれは赤ん坊の声じゃないか!

 其の事が山田の全てを鈍らせた。必殺の間合いに入った槍を振るう事も出来ず、立ち止まる事すらおぼつかない。気が付いた時には逆に相手の間合いの中、それも振り上げた銃口の目の前に立っていた。

 木にもたれ掛ったままで山田の眉間に銃口を押し当てる。男は複雑な表情で笑っていた。

「あらら、じくじっちまったか。」


 日本語で何かを呟く男。いや、月明かりで良く見えなかったが、指揮官の予想は当たっていた。振るう槍こそ悪鬼の所業だが未だ子供ではないか! 幾ら東洋人が若く見えると言っても目の前に立っているこの男は控えめに見て二十歳そこそこにしか見えない。そんな子供が自分の部隊を壊滅させたと言うのか!?

 自らも理解できない笑みが顔に浮かぶ。それは安堵だけでもなく、感謝だけでもない。多くの感情が入り混じった末の『笑い』と言う表現。ただ其の中に『仲間を殺された怒り』という感情が芽生えてこないのは不思議だった。さっきまであれだけ仇を取りたがっていたにもかかわらず、だ。

 眉間に銃口を押し当てられたまま山田は事も無げに立っている。手にした槍は既に右手にだらりと垂らしたまま。其処で指揮官は自分の笑いの正体に気が付いた。

 そうか、これは勝利の笑みだ!それも一発逆転の賭けに勝つ事の出来た賭師ハスラーの笑いだ。

What'(おまえ)s your name? 」命の賭けに勝った勢いで指揮官は山田に尋ねた。

Whyきい do you (どう)askする thing? I can'tむだ tell thisだよ one.」山田が即答する。

 それはそうだろう。自分が同じ立場だったら間違い無くそう答える筈だ。

Wellそうか,I'mわたし a ()lieutenantカーティス Curticeモントゴメリー Montogomeryちゅういだ.」

「A lieutenantなんだ?  You'reエスエー SASエスか? 」

 山田の問いに動揺する。正体がばれてしまったが、まあいい。ここは自分が有利な筈。

「Ya,Iそうだ askもう youいちど once moreきく time.Whoおまえ're youだれだ? 」

 再びの問い掛けに銃口の先で山田が薄っすら笑う。

Negativeいえま,Sirせん.」ふざけて軍隊式の返答が帰ってくる。

 成る程、どうやらこいつは筋金入りの戦士の様だ。相手の命を奪う事も自分の命が奪われる事もこの男にとっては等価。だから絶対的に不利な状況下でも動揺が無い。『死』と言う言葉はこの男の日常に組み込まれた只の事象にしか過ぎないのだ。

 だがこの男は余りにも危険な存在だ。ここで生かしておく事は出来ない。それは自分が生き残る為の絶対不可欠な条件なのだ。

Sighそうか,I'm veryざんねん sorry.Remenberおぼえ my nameおけ.」引金に力を込める。

Is (おまえを)a nightころす-mareものの」撃鉄が落ちる。「Ofなだ you.」 

 サイレンサーの先から僅かに発射のフラッシュが伸びた。

 指揮官は驚いた。其処に有るべき筈の的が無い。射撃のリコイルで撥ねあがる拳銃の直ぐ横。発射された弾の衝撃でこめかみから出血しながら、しかし変わらぬ笑いを浮かべて山田が立っていた。

 再び狙いを付けようと。ええい、何でこんなにスローモーションなんだ!? 将星を追う其の視界の片隅に山田の右手の動きが掠めた。どうやら槍を振り回そうとしている様だ。

 しかしこの場所、この間合いでは其の獲物の長さが命取りだ。突くにしても薙ぐにしても此れだけ接近していれば不可能だ。後ろに下がれば其の時こそお前の最期だ。どちらにしても、俺が銃をお前に突き付けた時に勝負は決まっていたのに、どうやってこの王手詰み(チェックメイト)を回避すると言うのだ?

 山田が振り回した右手の槍の柄。指揮官の背の立ち木に当たる寸前に手首を捻る。柄が三等分に分かれ、其の一つ一つが黒い鎖で繋がれていた。三節棍と化した槍の穂先が猛烈な勢いで木の幹を回り込む。

 指揮官の将星の中。大写しになった山田の顔、笑っている。いいさ、其の笑い顔を見るのも此れで終わりだ。お前は先に行っていろ。

 突然に指揮官の視界を襲う白銀の光。幹を回り込んだ槍の穂先が勝ち誇った男の顔面に襲いかかった。


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