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                 戦 端

「山田。さっきの話、何で内緒だったんだ?」楯岡がナイトスコープを覗き込んだままで尋ねる。一時間ほど前、突然光の帯が根来寺全体を取り巻いて消滅してからは景色に何の変化も無い。腹を裂かれたままで何某なにがしかの言葉を唱えている僧侶の姿だけが其処にあった。

「山田、聞いてるのか? 」

「先輩は子供を助けられなかったのが悔しかったんですよ。」

 楯岡の急く様な問い掛けに対しても、沈黙を守ったままの山田の代りに帯刀が答えた。

「あの時爆発したバスの焼け跡で、先輩、子供を抱き抱えて蹲ってたんです。子供の背中から破片が貫通して先輩の腹に刺さってたのに、先輩『ごめんな、ごめんな』って上言みたいに呟いて。」

 帯刀の代弁を聞いて眉間に皺を寄せながら、山田が其の重い口を開いた。

「任務を放り出して、子供を助けられなくて、失敗して。自分はこんなに修行したのに何にも助けられなかったと思うと、何か恥ずかしいやら情けないやらで。…… だから黙ってればきっと重い罰が下って、其れが亡くなった子供達に対する罪滅ぼしになるんじゃないかなって。」

「じゃあ青木ヶ原に行けば良かったじゃないか。」

 事も無げに言葉を返す楯岡。山田が其の顔をまじまじと見詰めた。

「死ぬのは勘弁ス。死んじまったら汚名が挽回できないっしょ? 」

「返上しろ、ばか。」

 楯岡の突っ込みに、“ん? あれ違ったっけ”等とぶつぶつ言いながら山田が小首を傾げる。そんな二人を見てくすくす笑う帯刀。

 其の時、帯刀の携帯が振動してメールの着信を知らせた。取り出して本文を確認する。

「楯岡様。」其の声にいつもの朗らかな藤林帯刀の色は無かった。例えて言うなら原子炉の制御棒を引き抜いて臨界運転を実施する時の様な緊張感がある。

「長門様から、先発しろとのご命令です。」

「何だ。やっぱり来やがったか。」呟く山田の声と同時に三人は直ぐに行動に移っていた。

 楯岡がルーフのキャンバスをくるくると元に戻す。山田が暗視カメラの電源を落として後部座席の足元に下ろして座席シートを元に戻す。藤林が助手席に置いていた鞄を後部座席に放り出す。そうして三人は最後部の荷台に移動して装備を整え始めた。

 山田が鞄の中から大きな塊を取り出す。油紙に厳重に包まれた其れを開くと、巨大なリボルバーが黒光りを伴って現れる。名前を“フェイファー・ツェリザカ 60NE(ニトロ ・ エキスプレス)”。全長55センチ、重量6キロ。装弾数以外の全てに於いて世界最強を誇る『マグナム・キャノン』だ。

 別名を『エレファント・キラー』。

 それを箸でも取るかの様に軽々と持ち上げて特製のホルスターに刺しこむ。装弾されたスピードローダーの数を確認する。確認が終わった其のショルダーホルスターを肩掛けに背負い、バックルを止めようとする。

「待て、山田。今回は『S装備』で行く。その大砲は置いて行け。」

 山田の装備を眺めていた楯岡から変更の指示が飛ぶ。否定的な目で声の主の顔を見詰める山田。上からの命令にもかかわらず、納得のいかない事には不満を述べる所が、この男だ。

「だって斥候せっこうでしょ? 最初に行ってドンパチやっちゃえば良いじゃないですか。奴らも其の覚悟で来てんだし。」

「お前、」楯岡が睨んでも平気な素振だ。

「ここは日本のど真ん中だぞ。イリヤンジャヤやコソボじゃない。真夜中にそんな物ぶっ放して、近所の家から通報されたらどうするんだ。特殊部隊だけじゃなく警察まで相手にする事になるんだぞ。そうしたら依頼はおろか、『魔法使いの儀式』迄台無しになるだろうが。」

 余りにも筋の通った ―― 当たり前だが ―― 其の意見に、納得する。しかし心情的には諦め切れないらしく、名残惜しそうな顔で銃を鞄に仕舞い込んだ。

「その代わり、あれを持っていけ。」あからさまな山田の態度に苦笑を浮かべた楯岡が、代わりにと狭い車内の天井の闇を顎で示す。

 天井の先頭から後ろまで伸びた一本の黒い棒。帯刀が後部のハッチを開き、棒を固定しているラッチを外してするすると引っ張り出す。長さにして凡そ二メートルの棒を地面に立てて、山田が出て来るのを待っていた。

「了解です。」

 山田はニヤリと笑って再び鞄に手を差込む。取り出したのは長さが30センチ程の皮の鞘。其れを腰に巻いたガンベルトに取付けて、外に立つ帯刀に目配せして車外へと降り立った。

 最後の出て来た楯岡が後部のハッチを静かに閉じた。音が全くしないのは閉じる瞬間に気を発して押すからである。

「準備は良いな。」楯岡の確認に頷く二人。

「北からいきますか? 」

 山田が帯刀から黒い棒を受け取りながら尋ねた。頭上で二回、体の左右で一回ずつ回転させて地面に立てる。隣に立つ帯刀との間隔は三十センチにも満たないのだが、振り回した棒の一部分とて触れる事は無い。其の扱いを見る限りに相当の使い手であることが見て取れた。僅かな時間に披露した剣舞を横目で眺めて、小さく口笛を吹く帯刀。

「そうだな。愛宕峠の辺りは長門様が押さえるだろう。俺達は奥の院の方 …… 北側から侵入する。時間的に見ても相手に先を越されている筈だから、遭遇戦になるのは間違い無い。心して行け。」

「了解。」さっきまでの気軽な口調はもう存在しない。与えられた任務を冷徹にこなす戦闘機械の顔が其処に存在した。

「先鋒は山田。中堅は藤林。殿しんがりは俺が行く。」楯岡から指示される配置を聞いてにっこりと帯刀が微笑む。

「なんだよ、そんなに中堅が良いのか? 」尋ねる山田に向かって、其の笑みを崩さないままで。

「だって久しぶりじゃないですか。先輩の槍が見られるなんて。『宝蔵院の演舞』を特等席で見られるなんて早々無いですから。」

「まあな。」腰に着けた皮の鞘をぽんと叩く。渇いた音が夜の闇に響く。

「だが、此れを使うほどの手誰で有ってくれれば良いがな。ひょっとしたら使う間も無いかもしれんぞ。」

「大丈夫ですよ。そしたら僕、其の状況になるまで一切援護しませんから。」

 其の言葉に山田はハアァと小さく溜息を漏らした。

「そうだった。お前はそういう奴だったよな。」

 何時までも続きそうな二人の掛け合いを、無言で掲げた楯岡の手が中断させる。其の行為を合図に、三人の持つ空気が緊張の色を孕んだ。

「では確認するぞ。山田。」

「はい。我々は根来寺奥の院北側の森林より敷地内に侵入。」

「遭遇する敵性脅威目標を殲滅処理します。」帯刀が命令の復唱を締めた。

「よし。…… 見てみろ。」楯岡が何かに気が付いて視線で二人の注目を促す。

 視線の先には『リトル・ウィッチ』と書かれた花屋の看板が有った。

「『小さな魔女』か。この先の寺で起こっている事を考えると、偶然としても中々に韻を含んでいる店名だな。商売敵としては憎らしいが。」

「いや、それより『神様』が女かどうかも分かんないし。」緊張感の無い其の発言に呆気に取られる山田。

“今からそんなに張り詰めていてどうする? ”と、山田の顔を眺めてにやりと笑う。

 その楯岡が命令した。

「では始めるぞ。各自分散して移動、合流地点は奥の院北五百メートルに立つ一本杉だ。 ―― 行け。」

 頷く二人。次の瞬間には三人の姿は其処から消え失せた。仄かと言うには余りにも明るすぎる満月の光の中を、三匹のぬえが音も無く走り去って行く。


「六十五の者を、これへ。」

 松長が傍らに控える僧侶に声を掛ける。法要の最初に控えていた者とは違う其の僧侶は既にカタカタと震えていた。顔色は青を通り越して蒼白。血の気の引いたその僧侶が松長の声に反応して、からくり人形の様に立ち上がり、法要が行われている部屋を後にする。

 其の姿を見送りながら、あの男もそう長くは持つまいと松長は思った。

 護摩壇の中央に置かれたセラミックの籠が小さな炎を纏ってくすぶっている。その下にはうずたかくなった白い灰の山。傍らに山と詰まれていた護摩札は既に半分を切った。

 建物全体に立ち込める、焦げた肉の匂いに顔色を変える事も無く、赤塚と十二神将は平然と其々の真言を唱え続ける。逆に彼らの其の普遍の行動と存在が、松長の意志と気力を支えていると言ってもいい。松長は小さな炎が更に小さくなっていくのをじっと見詰めながら、短い未来を予言された其の僧侶が次の『有資格者』を携えて戻って来るのを待った。

 やがて其の僧侶が赤子を抱いて本堂に入って来る。自分の行動を躊躇う様に其の足取りは遅く、しかし其の体に染み付いた“座主への絶対服従”と言う強制力が、彼の意志を支配する。 震える手を差し出して、松長の手に其の赤子を渡す。絹織りの純白の産着に包まれた赤子。無垢な其の子は、松長の顔を見て笑っている。

「笑って居るのか …… 」そう言って立ちあがろうとする松長の袖を、赤子を其処へと誘った僧侶が握り締めた。

「離しなさい。」其れはその者にとっては神から与えられた神託にも思しき一言である筈。しかし冷酷に響く松長の声を耳にしても、僧侶はかぶりを振って拒否した。

「猊下、どうか。…… どうか、後生に御座います。もう此れ以上は。」

 其の眼から涙に似た体液が流れだして、見上げる其の頬を濡らす。袖を掴んだまま微動だにせず、松長の翻意を求める僧侶の顔を見下ろして、松長は再び言った。

「其の手を離しなさい。」

「猊下、どうか。我らの命がどうなっても構いません! 戦いに死ねと言われれば喜んでこの命を差し上げます。ですから、ですからどうか御考え直しを! やおら明日有る赤子の命を此れ以上失う事は拙僧には耐えられません! せめて残りの赤子達の命だけでもお助け下さい、お願い致します! 」

 其の言。其の可能性は嫌と言う程考えたのだ。

 覚瑜も言っていた様に、自分達だけで『天魔波旬』に立ち向かえる方法に関しては、ありとあらゆる方法を思い付く限り考え、其の度に『月読』に星宿をさせた。そして否定されたのだ。唯一つ、微かに残った可能性だけを残して。

 言うなれば此処は、迷走の辿り着いた極致。

「それでは足りぬのだ。我らが如何に力を糾合しようが『天魔波旬』に立ち向かう事は出来ん。この法要は其れを踏まえた上での結果なのだ。…… さあ、其の手を離しなさい。」

「どうしても翻意為されませぬか、猊下。」

 其の声は一抹の殺気を孕む。松長の袖を離した手が懐に伸びる。再び現れた其の手には抜き身の懐刀が握られていた。一息に頭上に振り上げて叫んだ。

「猊下、御覚悟! 」

 其の手の中の赤子を放す事も無く、微動だにしない松長。静かに、しかし哀れみの面持ちで其の僧侶の姿を見詰めて発した一言。

「愚かな。」

 突然室内を照らし上げていた緋の光が消えた。訪れる暗闇。次の瞬間には鈍く、何かが食込む音と男の呻き声が大師堂に木霊する。光の中では確かに松長の命を奪おうとしていた僧侶の姿は、闇の中を引き摺られる音と共に本堂の外へと消えて行った。

 闇の中で赤塚が言った。

「無理も無い。奴の言は誰もが一度は考えた事だ。否定する事なぞ出来ん。」

「そうだな。俺もこんな立場でなければ奴の行動を非難する事なぞ。寧ろ協力するかもな。」 そう言うと赤子の機嫌を損なわない様に手の中であやす。とばりの中に赤子の楽しげな笑い声が響いた。

「しかし、うまい物だな。子供をあやすのが。…… 残念だったな。月読殿も臨月だったんだろう。せめて孫の顔でも見たかっただろうに、寄りにもよってお腹の子供共々亡くしてしまうとはな。主の気持ちを考えると慙愧に耐えん。」

「生まれて居る。」ぼんやりと呟く松長の言葉に赤塚が表情を変えた。

「何? 」

「何を驚いている? 言う暇が無かったので伝えてなかったが、ちゃんと生まれている。予定日よりはかなり早かったがな。」

「そうか …… 生れて居ったのか。」表面に浮かび上がる内心を必死の思いで押し隠す。

「いや、驚いたぞ。何故早く教えん? 色々と為すべき事も有ろうと言うのに。水臭いにも程があるぞ。」

「ああ、まあ色々有ってな。…… そうか、孫か。そう言う事になるのだな。」

 何かを思いつめた様に松長が呟いた。

「どうした? 嬉しく無いのか、初孫なのに。」

「いや、人の親になり、其の子が又、人の親になる。己が血を綿々と繋いでいる者が、今こうして他人の血脈を絶とうとしている事に矛盾を感じてな。…… 俺は死しても身佐木に引っ張られて地獄行きだろうが、せめて今亡くなっていく命位は地蔵様の元に送りたい物だ。」

 其の時、室内に再び緋の光が灯った。十二神将は元の位置の佇み、再び詠唱を始めている。 松長を襲った僧侶の姿は既に見当たらず、彼が立っていた其の場所に僅かに血の跡が残っていた。

 松長が立ち上がって、手の中の赤子を護摩壇の中央の籠の中に安置する。

“この子であってくれ”心の中で何度も強く念じながら、赤子の額に人差し指で『摩利支天』の種字を描く。笑いながら見上げる其の顔が一層の心の痛みを誘った。

 振り切るように背を向けて元の位置に座る。赤塚が見つめる中を、松長は胸の前で『摩利支天印』を結んだ。

「オン マリシエイ マリシエイ」

 天地印を結んで唱えるのは摩利支天加護呪法。

「ナモラタナニラヤヤ マリクリタヤ」護摩壇の中央に光の柱が立ち上り、上下に魔方陣が形成される。

「マバテイイシャミ タニャタ」光の柱が広がり護摩壇全体を覆い尽す。

「バラレイ バタリ バラカモクケイ」上部から光の粒が降り注ぎ、

「サバトシセイ ハンタハンタ」赤子目掛けて集まってくる。安置されている赤子が両手を挙げて何かを求めている。

 彼女には今何が見えているのだろう? 天使の姿か、はたまた真に摩利支天の姿なのか。

「ソワカ」真言を締める。赤子を包み込む様に光の粒と柱と魔方陣が集まり、一個の光の玉が護摩壇の中央に置かれた籠を中心に形成された。

 その光の中に息吹く赤子の姿。“よし、ここまで来てくれたか”と松長は心から自らの信じる神に感謝した。

 六十五人の内、この段階に辿り着けたのはこの赤子も含めて僅かに五人。後の者は光の玉が形成される段階で法力の粒子に食い尽くされて跡形も無く焼け落ちた。生を、或いは理不尽に自分の命を奪おうとする敵を求めてもがく命の残滓を、松長の傍らに積まれた護摩札と赤塚の不動明王火炎呪で跡形も無く灰にする。

 第一の段階を潜り抜けた四人も其の後の火炎呪に耐えきれずに、先達の者と運命を共にした。さあ、この子は。この子こそ我らの求める『摩利支の巫女』であるだろうか?

 松長が天地印を解き、傍らの護摩札に手を伸ばした。二枚の札を光の玉目掛けて投げ入れる。

 ふわり、と宙を舞って光の玉に当たった其れは二つに割れて籠の周囲へと落下した。落下した途端に粉々になり、微細な木粉が光の玉を中心にして円形に広がって浮かび上がる。其れを見て取った赤塚が、松長に遅れて詠唱を始めた。

「ナウマク サンマンダ」浮かび上がった木粉が結界陣へと変化する。

「バザラダン センダ」陣が発火を始めた。緋に染まる室を、別の朱が照らし出す。

「マカロシャダ ソワタヤ」回転を始める。弾み車の様に最初はゆっくりと、徐々に早く。炎の陣は輪へと変化する。

「ウン タラタ」輪から玉へ。炎の玉が光の玉を飲み込む。

「カン マン! 」詠唱の終結が呪の、幕開け。玉の中を紅蓮の炎が吹き荒れる。

 自分を取り巻く環境の激変に耐えきれず、赤子が泣き出した。其の存在を真っ向から否定する様に尚も威力を強める浄化の炎。拮抗する為に松長が再び天地印を結ぶ。加護呪法。

 祈りを込めて、願いを込めて。発せられる法力と印を解くまいとする渾身の力で、両手が揺れた。伴って痙攣する体。赤子の嗚咽が絶叫に変わる。赤子の体を護り続けていた結界が遂に綻び始めたのだ。

 尚も自らの法力を増そうと前頭葉に、海馬に、脳幹に命令する。増幅された力が浄化の結界を貫いて光の玉に届く。松長の両目は炎の熱に炙られたまま、其の全てを見逃すまいと見開かれている。

 力を出し惜しむ事等出来そうに無い。この子はこんなに生きたがっているではないか! お前が『摩利支の巫女』と言うならば我が力を用いてこの子を助けよ。我が望みは救世。しかし今は其れよりも、このいと小さき命の救済にのみ我が力を捧げる!

 突然炎の中に光が輝き、赤子の絶叫が止む。光の玉を包んでいた結界陣が炎の中に透けて浮かび上がっていた。やがて其れは、中にいる赤子が笑っている姿が見えるほど大きく膨れ上がり、炎の玉を突き破ろうとしている。

 松長と赤塚がお互いの顔を見合わせる。松長は喜びの余り、赤塚は『予想外の出来事』に呆気に取られて。

「この子か。この子が『巫女』なのか。」松長の声が喜びに打ち震える。

 己が手で其れを見出した事、我が娘の遺言を証明できた事、はたまた未来への希望を手にした事。何れかの思いが彼の心に去来する。光の中から、いや今まで彼女を苛んでいた地獄から救い出して我が手に掻き抱こうと。

 松長が立ち上がった、其の時だった。

「松長、まだだ。」赤塚の鋭い声。叱責にも似た声が松長の動きを止めた。

「見ろ。…… 結界が破れていく。」

 それは小さな、小さ過ぎて解らないほどの異変だった。光の玉を構成している加護結界。其の結界のマントラの一字一字を小さな炎が焼き切ろうとしていた。炎の妖精でも扱いに困る程の、小さな炎。それは一文字を焼ききる毎に、まるで焼いた梵字を我が力に替えるかの勢いで次第に大きくなっていく。

 何も知らない赤子が笑っていた。松長の脳裏に焼き付く其の記憶。

 松長は瞬きもせずに行く末を見守っている。赤塚は目を閉じたまま。既に真言は無く、六十五回目の仕儀の結果を認知させる為に、ただ絶望の時だけが空しく流れて行く。

 最後の梵字が焼き切れた。光の玉の消滅。復活する紅蓮。松長に向けられた笑い顔が炎で遮られた。

 迸る絶叫。人の者では無い獣の雄叫びが、松長の心に絶望と言う名のたがねを打ち込む。保とうとする精神こころが、鳴く。いや、喚く。

「松長、信じる限り疑ってはならん。」為す術無く立ち尽くす松長に、赤塚が言った。

「まだ、終わってはおらんのだ。」

「ああ …… 解っている。解っているさ。」

 其の言葉が松長の中から何かを喪失させる。糸が切れた様に、その場に座り込む。

 其の動きを合図に絶叫が止んだ。また一つの命を飲み込んだ火の玉が収縮を始め、やがてそれは小さな光の粒となって天井へと昇って行く。見上げながら松長は呟いた。

「オン カカカビ サンマ エイ ソワカ」

 諦めの吐息と共に唱えられる地蔵真言。賽の河原を父母を求めて彷徨さまよう子供達。 どうか菩薩様の御力で導いて戴けます様に願いながら。


 乾いている、何かが乾いている。この耐えがたい渇きを早く癒したい、と其れは思った。  喉、いや違う。何か別の、有って当たり前で無いと堪えられ無い物。其の何かを捜し求めるのだが、肝心の体が上手く動かない。体の左側が時々何かに引っ掛かって動けない。其の事が焦燥をより一層募らせた。四度目ともなると、遂にイライラは我慢の限界を超えた。思い余って、動かなくなった体の左側にどんよりとした視線を向ける。

 大きく口を開けた刀傷。左の肩口から腰の辺りまで真直ぐに断ち割られている。左手を含めた残りの体の部分は腰の上で辛うじて繋がっていて、それが林の所々にある下生えに引っかかって動けなくなっていた。

 何だ、そんな事か。

 体の向きを変え、下生えに引っかかっていた左手首を拾い上げる、其のまま引っ張る。鈍い音と共に繋がっていた部分が千切れた。右手に其のパーツをしっかりと握り締めたまま、身軽になった肉体を再び前へと進める。

 身軽になったのは良いが、今度は平衡へいこうを取るのが難しくなる。よろよろと蠢きながら、それは自分の欲望を満たしてくれる物の答えを尚も探す。

 そして見つけた、緑色の蛍に似た光。淡い輝きを放ちながら暗闇の中にそれはあった。目にした途端に沸き上がる欲望。それに触れたい、吸いたい、喰らいたい。それと ――

 一つになりたい。

 手にしていた自分の左手を地面に投げ捨てて、一目散に駆ける。

 誰にも渡さない、あれは俺の物だ。

 近寄る度に其の姿が確かな輪郭を持って暗闇に浮かび上がる。生きている人間の姿。座ったままの人間。

 取り込む為か、執り付く為か。何れかの手段を要したあぎとよだれを垂らしながら大きく開いた。


 近くで何かが落ちた。続いて草木が掻き分けられる音。覚瑜の意識が瞑想の淵から大急ぎで現実のきざはしへと辿り着く。印を解いて目を開いて、見張った。

 暗闇に慣れている筈の目にも捕らえられぬスピードで、何かが飛んできた。それが顔だと解ったのはほんの眼と鼻の先。涎に塗れた口は大きく開かれて、覚瑜の喉笛目掛けて一直線に飛んで来る。

 咄嗟に右手を振り上げて捕らえられまいと防御した。与えられた銜え込む貌、激しい衝撃! 背にした木に叩き付けられて意識が一瞬飛んだ。

 ジュウウと、直ぐ傍から音がして意識が戻る。

 奴にしてみればそれは何処でも良かったのかも知れない。犬歯が易々と覚瑜の右手の皮膚を突き破って動脈に到達している。噴出す血液は残らずそこに吸い取られ、血に溶け込んだ法力の放つ燐光がそれの顔を闇の中に浮かび上がらせた。

「最初に俺が叩き切った僧か! 」最初に出会い頭に袈裟懸けに切り落とした唯一の男。致死の血量を巻き上げながら倒れた筈だ。何故ここに? 

 そう思って覚瑜は自分の失念に気づいた。

 そう、こいつらは死人だ。動けない様に成るまで斬り潰さないと何時までも追って来るに決まっているではないか。

 覚瑜の血を体の中に取り込む毎に痙攣している。それが右手の傷の痛みと共に、覚瑜に危機の訪れを警告している。奴が致死量を吸い込むのに後何十秒も無いだろう。

 残った左手で、悪鬼と化した其の僧侶の法衣の襟首を掴み、圧し掛かって来る腹部に足を押し当てて、柔道の巴投げの要領で渾身の力を込めて其の体を背後の木に叩き付けた。右手を銜えたまま、それは脳天から木の幹にめり込む。

 ぐしゃり、と嫌な音を発して頭蓋が破裂した。脳漿のうしょうとぐずぐずになった其の中身が覚瑜の顔面に降り注ぐ。

 そうしてやっと右手は開放された。破裂の衝撃を受けて痙攣しているそれを脇に放り投げ、開いた傷口を左手で強く圧迫しながら立ち上がる。眩暈めまいがした。

 失った血液は相当量。これで自分が死の淵に追いやられてしまったのは間違い無い。それよりも深刻な問題は、攻撃に廻す法力が完全に枯渇してしまった事。

 法衣の裾を引き千切り、右手の傷口に強く巻付ける。見る見る内に血が染み出して包帯代わりの布を血液の中に溶け込んだ法力が仄かに光らせている。

 目前に突如として浮かび上がった気配に、戦慄した。

 それは今倒した筈の僧。目の前に立っている。

「馬鹿な …… 」下半分の頭と、左がそっくり欠けた胴体。顎をカタカタ震わせながら、それは目の前にいる。そして覚瑜の脳裏に閃光が走った。

 俺はどこかで此れに似た物を何処かで見た事がある。それは ――

「傀儡の儀、終の行。…… 『43番』! 」

 そうだ。これは正にあの時見た鬼。『43番』が相手の血を啜った時に起こった体の変化に酷似している。

 しかし、どういう事だ? あれは法要の儀式の為に禁呪を犯して作り上げられた結界標の筈。如何に禁じられた物と言えども宗理そうりに則って造られる以上、それは『魔』では無い筈だ。しかし、この地の地縛を纏って人間を襲う彼等は、何故、こんなに似ている?

「 …… 赤塚様は一体何を造られたと言うのだ? 」

 其の声が、覚瑜の目の前に佇む現実離れした僧侶の起動スイッチだった。

 欠損だらけのそれが覚瑜の声を頼りに動き始める。慌てた覚瑜が反射的に右手で長鈷杵を抜き取ろうとして、叶う事無く掌を擦り抜けた。

「感覚が、無いっ! 」慌てて左手で抜く。

 長鈷杵の切っ先を敵に向けたまま、其の左手の甲で右手に触れてみる。手は上がる様だ。しかし感覚 ―― 特に触覚 ―― が無い。手の先から二の腕までが全く。

 生臭い瘴気が鼻を突いた。今の騒ぎを聞きつけた残りの連中が一斉にこっちに向かっている。恐怖で、中段に構えた長鈷杵の切っ先が震えた。後ずさる。

 もう作戦など関係無い。奴らは数の力で押し捲れば良いだけの話だ。それに対抗する為の『最後の手段』は奴らの群れの向こう側にしか存在しない。

 実は現在の位置取りが覚瑜にとっての本当の致命傷だった。

 このまま終わるのか、と思った。このまま何も無し得ぬまま。只奴等に食い散らかされて終わってしまうのか。

 養父の名誉と友の名誉。其の二つを守る為に死地に身を投げ出して、この様か。情けない! ここで俺が倒れれば、覚慈は大師堂に赴き、長谷寺同様にこの法要を破壊するだろう。奴の行為が意味する物は、座主猊下や赤塚様、十二神将をはじめとする法力僧や、根来寺で働く全ての人々を犠牲にする事と同義。それに何よりも、あの『摩利支の巫女』をも失ってしまうのだ。

『天魔波旬』に対抗する為の唯一の存在。生還できたならば残りの命を捧げてでも守ろうとした赤子。顔を見る事こそ叶わなかったが、其の誓いすら守れずに死ぬのか? 

 それでいいのか、覚瑜よ。

「否、断じて! 」強き思いが言霊になる。

 許さない、許されない。魔を調伏する退魔師である以上、其の弱気は完全に否定されなければならない。

 神を信じるからこそ、疑わない。必ず俺はこいつ等を冥府に叩き返し、覚慈もろとも葬り去る。我が信仰が尽きぬ限りそれは絶対の運命、そして結果の筈。

「だから、俺に、力をくれ。」

 何でもいい、与えられるのならば一適の法力でも良い。この囲みを蹴破って奥の院まで辿り着けたなら、必ず為し得て見せる。我が誓いを成就させようとする存在が有るとするのなら、心から願う、祈る。…… 「たのむ。」


「 ―――――――――――― 」


 例えて言うなら、波の音、或いは砂の音。いや違う。雑音、不協和音。

 耳障りな音が始めは小さく、次第に大きくなって覚瑜の聴覚を侵略する。訪れる焦り。

 聞えなくなったら気配が判らなくなる。嘲笑うかの様にそれは耳元迄。周囲の音が完全に閉ざされる。

 それは妄想。目の奥に有る黒塗りの大きな壺。蓋を開けると百足むかでが溢れ出る。

 只の百足ではない。其の全ての足が刃物。体を捩らせながら這い回る。無数の刃物で傷つけられる何か。ちくちく、ぎちぎち。自我の境界に入れられる切取線。

 やめろ、其処を破るな。それをやぶってはいけない。

 百足が全て抜け出した空の壺。覗き込む。壺の底に這い回る『もの』。それは覚瑜の存在を見止めた途端に出口目掛けて一斉に押し寄せた。

 血塗れの手、掌、腕。伸ばされたそれらが切取線に爪を立てた。びりびりびり。千々に千切れる自我。先に有るのは光ではなく、闇。闇の泥が覚瑜の瞳の水晶体に侵入する。

 やめろ、やめろ。覚瑜の叫び。目を奪うな、耳を奪うな。戦えない、戦えなくなる。やめろ、お前は、俺、から、出る、な、

 壺に入る亀裂。それはぼろぼろと崩れていく。アレイス トゥアレイスに。残ったのはこえ。零れた一滴が激流と化して覚瑜の全てを飲み込んだ。

 一瞬の、そして完全なる支配下。流れは覚瑜の言語を宿主として外界に飛び出した。


 「 ―― 斬る ―― 」


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