開 幕
煌煌と輝く月は真上にある。影を失くして浮かび上がる其の景色は何処となく異界の景色の様に思える。赤塚は大師堂に面する境内の広場に佇み、蒼白い月光を其の身に受けながら思った。建物の周りに立てられた松明が控えめな炎を上げながら大師堂と多宝塔の威容を強調している。
嘗てこの場所は虐殺の現場となった場所。他の建物はその際に焼失してしまったが、この二つだけは創建当初からの存在を遺している。言うなれば、幾度もこの地を襲った戦火から逃れた大師堂と多宝塔、この二つの由緒ある建造物だけがこの地に生きた人々の繁栄も、地獄も目の当たりにして来たのだ。過去に遡るとある日時に皆殺しにされた多勢の僧侶、罪の無い女子供達。瞑る事の無い怨念がこの地に棲み付き、封印され、今又『創生の法要』によって開放されようとしている。
例え覚瑜が入定結界の再構築に成功したとしても、この地は何れ終焉を迎える事になる。開祖覚鑁の持つ超常の力なればこそ為し得た封印。如何に強大な法力を行使し得る男の身を持ってしても、以前と同様の結界を構築する事は叶うまい。それ程にこの『根来寺』という場所は人成らざる者に『穢された土地』なのだ。
そう、正しく『あの土地』と同じ様に。それに其の結界を覚瑜が為し得ようにも ――
赤塚が歩を進める。白い法衣が月明かりに揺らめく。侵入者の存在を感知する為に一面に蒔かれた玉砂利の上を。砂利の鳴る音を聞きつけた根来寺の僧侶達が一斉にそこに集まって来た。大師堂の入り口迄赤塚の両側に並んで跪き、自らが敬愛し、信頼の対象として敬うべき『元』座主の為の道を作る。
大師堂に到達した赤塚が階段を上り、今来た道を振り返る。其れを合図に一斉に立ち上がる僧侶の畔。月の光に朧気に、しかし其の場に満たされた、人々の希望の輝きは赤塚には眩しく。一世一代のこの法要に立ち会う事の出来る誇りと感動が彼らの心を満たしている。其の彼らの齎す晴れやかな感情は、其の全てが大師堂の濡れ縁に立つ赤塚に向けて放たれている。
事ここに至って自分は未だに根来寺の座主であると、全ての者に認められている事を知らされた。
“そうだ、私はお前達の主だ。”
内なる声が彼らに向って語り掛ける。
“そして今羽ばたこうとしている名も無き鳥だ。鳥が高く飛立とうとする時に生え変わる一枚一枚の羽根、それがお前達だ。しかし鳥は高みに飛立った時に抜けた羽根の事など忘れるだろうが、私は違う。私は死ぬまでお前達の事を覚えていよう。”
面に出す事も、語る事も出来ない其の決意だけが赤塚の心中で響き渡る。
“それがお前達の献身に報いる為の、私の覚悟だ。”
「皆の者。」それ程大きくなく、しかし染み入る様な声が境内の静寂を破った。
そう、其の声は「43」番達と初めて出会った時に掛けた物と同じ声音。
「いよいよ『創生の法要』を執り行う。…… 今まで本当に良く頑張ってくれた。座主であったこの赤塚、礼を言う。」合掌して頭を垂れる。其の姿を認めた僧侶達が、其れまで畔であった様相を済崩しにして一斉に赤塚の足元へと駆け寄る。
「座主様、御言葉勿体のうございます。」
「我らは座主様の為なら如何なる事でも為し得てご覧に入れます。」
其々の口から声高に発せられる同音異句。赤塚は合掌を解き、其のまま片手を上げて、彼らの喧騒に満ちた発言を押し留めた。
「もう儂は『座主』ではないと申すに。…… まあ良い。今より『破戒の僧』となる拙僧には嬉しい餞じゃ。有り難くその名、受け取らせてもらうぞ。」
赤塚の其の言葉に思わず涙ぐむ僧侶達。感涙と共に至福のオーラが彼らの周りを取り巻く。
“儂に出来る事はこの位だ。せめて安らかに逝くが良い。明日の朝日と共に”
「だが、儂亡き後の後事は決めねば成らん。良いか。」強く宣言する。
「儂が下野した後の新義真言宗座主は覚瑜。以下に申し送る。良いな。」一斉に頷く。
「今、覚瑜は退魔行の最中じゃ。敵は強大かつ邪悪では有るが、奴は必ず帰ってくる。儂が必ず奴を助けて見せる。この命に代えてもな。だから皆の者は心置き無くこの法要の成功に集中してくれ。」
赤塚が全員の顔を見回す。力強く頷く彼らの表情。
“良し。皆、良い子だ”
「では、其々の持ち場に就け、合図と共に全ての結界を展開する。遅れを取るでないぞ、良いな。」
赤塚の命令と共に僧侶達は引き潮の如く其々の持ち場へと駆け去る。見送りながら漏れる小さな溜息。
そして赤塚は意を決して踵を反して、大師堂の入り口を静かに開け放った。
「終わったのか? 」赤い方位を着た松長がそこに座したまま、振り向きもせずに訊ねた。「まるで今生の別れのような言い草だ。」
そう言うと傍らに山と詰まれた護摩札を見やり、一番上にある一枚を手にとって眺めた。一番上に不動明王の種子を表す『カーン』の文字。その下に真言が悉曇文字で記されている。
「そうなるやも知れません。もしこの法要が上手くいかなければ、我らは真義真言宗次期座主を失い、尚且つ覚慈は我らにも襲い掛かるでしょう。真言宗はその要である執行部の総裁を空位にしたまま活動する事を余儀無くされ、再び体勢を立て直した頃には ―― 」
「既にこの世界は『天魔波旬』の意のままの世界、か。」
松長は動かない。赤塚の言葉を補足して連ねた台詞が、考えられる最悪のケースである事は間違い無い。其れにも増して危惧する事は、今現在の状況がその目標に確実に向かいつつあり、悪化の一歩を辿る状況を回避する材料が何も無いと言う事だ。
「だが、遣らせんよ。」手にした護摩札を元の位置に帰しながら、松長が力強く答えた。
「我らは必ず『摩利支の巫女』を見出す。そしてお前はその力を持って時期座主を救い出す。それで万事事も無しだ。そうだろう? 」
「果たしてそう上手くいくでしょうか? もし今日集めた赤子の中から其の者が洩れていたら ―― 」
「儂は、月読の星宿を信じる。」松長の右手が懐へ入った。中に忍ばせてあった手鏡 ―― 恐らく形見の品である ―― をそっと握り締めた。
「赤塚、これは月読の能力とか法力の大きさの問題じゃない。彼女が儂の娘だったからこそ、信じるんだ。…… 根拠の無い確証かも知れんが、儂の最後の頼みと思って付き合ってくれ。」
「御意に御座います、猊下。」
決意に返す言葉も無く。松長の背後で恭しく一礼した後、赤塚は定められた自分の席に着いた。松長が護摩壇の南、赤塚が西。周りを十二神将が円陣を組む。松長が周りを見渡してその配置を確認すると、ゆっくりと印を結んで目を閉じた。彼独特の、低く千里の果てまで貫き通す様な、澄み切った声が真言宗最大の『裏法要』の開演を宣言する。
「これより『創生の法要』仕儀執り行う事を、古儀真言宗第412代座主・松長有慶の名に於いて宣言する! 尚、今この時より法要終了の宣言が我より為される迄、一切の入山・下山を禁じる。各々その瞬間まで不惜身命の決意にて対処せよ。」
松長の宣言は波となって根来寺中に響き渡る。配置に就いた総ての僧侶達が一斉に肯定の黙礼を取る。
但し、赤塚と「傀儡」と化した八人を除いて。
赤塚が胸の前で十五個の印を整然と結ぶ。結び終わった途端に赤塚の纏った白い大袈裟が淡い光を放ち始める。中に仕込まれた八個の袋が一斉に真言を唱え始めた。赤塚を中心に魔方陣が形成され、そこより放たれた光円はまるで声の主を捜し求めるかの勢いで一気に根来寺敷地の外縁部に到達した。そこには嘗て真言を唱え始めた舌の持ち主であった「傀儡」達が配置されている。
展開の終了を感じ取った赤塚は、大師堂を震わさんばかりの大音量で、吼えた。
「結界の展開を始める! 初の陣、観自在菩薩十五尊絶界陣、始め! 」
八方位に配置された人型の「法力発生器」が同時に胸の前で印を組む。舌無き口腔が開いた瞬間、彼らの目前に魔方陣の壁が立上った。書き記される様々な凡字で織り上げられた壁は、一瞬の後に巨大な帯へと分割される。不可視の風を孕んで閃く帯は多頭の昇竜となって八体の傀儡の前を駆抜け、やがて彼らの配置によって囲まれた地域全体を球状に包み込む。
「ニの陣! 虚空蔵菩薩陣の一『破軍』始めよ。」
大師堂の境内を取り巻く大勢の僧侶達が、赤塚の命令と共に印を結んで詠唱を始める。金色の光の帯が彼らの足元から引き伸ばされて、渦を巻いて大師堂を取り囲み。其の先端は建物の丁度真上で結着した。
「終の陣『八葉』。始めよ! 」
大師堂本堂を巡る濡れ縁の上。黒い覆いで其の表情を隠した僧侶が印を結んだ。傀儡達が配置された方位とは互い違いになる様に、八方位に配置された僧侶一人に就き一枚の巨大な光の花弁が具現化を始める。光の蓮の花が一斉に持ち上がり大師堂本堂を包み込む。
「十二神将。薬師如来封魔結界、展開せよ! 」
赤い光が本堂内部の壁沿いに立上る。薄暗かった室内がまるで紅蓮の炎に包まれたような錯覚に陥るほど、赤い。燃える緋の光の中で二人の座主は護摩壇の中央を見つめていた。
セラミックで作られた特別製の祭壇。どんな高温にも耐え得る『選定の籠』。
赤い光に照らされた其れは、床から生え出した悪魔の掌の様に思える。
しかし今は此れに縋るしか、人が生き残る望みは無いのだ。例え其処に現れる者がどのような運命を携えていたとしても、その是非を問う事は出来ない。其れが『救世』を為し得る物であると確定している以上、我らは結果に就き従うのみ。
それこそが遥か昔に定められた、呪にも似た宿命。
松長が傍らに控える僧侶に視線を向けた。静かに、告げる。
「一の者を、これへ。」
「始まったのか ……? 」息を切らせて巨木に拠りかかる影。覚瑜。
黒の法衣は襤褸布の様に切り裂かれ、体の到る所には抉り傷が残る。幸いにも傷は黒く焼け焦げ、出血には至っていない。だが自分の置かれている状況が『極致』の窮みである事には何の疑問も無かった。
「流石だ、覚慈。こんな隠し玉を取っておくとはな。」呻く様に呟いて左手で印を結ぶ。
暗い森の中で覚瑜を囲む悪霊達。敵の御株を奪うような悪鬼羅刹の働きで、あと数体を残すのみの状況にありながら、彼は苦戦を強いられていた。
「薀! 」気合と共に左手を背後の木に叩きつける。
法力が振動となって幹を伝わり、大きく頭上に広がった枝葉の全てから法力の波が広がって行く。発せられた波は障害物に跳ね返って覚瑜の元へと戻る。其の無数の跳ね返りの中から敵の存在を嗅ぎ分ける。
そして今時点での状況は最悪であった。「チッ、完全に囲まれたな。」
手元に残る情報の束。分析の結果は覚瑜の立てた戦略が破綻した事を意味していた。
稀有な退魔師で有る覚瑜には、この絶望的な戦いに於いても一つの戦略を立てていた。其れはこの結界の中に湧き出す悪霊を、自分の持つ最大の力で短時間の内に破壊処理してしまう事。そうすれば手詰まりになった覚慈は雌雄を決する為に、自分の前にその姿を現す筈。
其の時点で戦えるならば、五分の勝負とはいかないまでも刺し違えるだけの体力と法力は残っている計算だった。
地の底より湧き出して来る黒い肉を斬り、突き、薙ぐ。
凡そ順調に組み上がっていた筈の『戦略』と言うパズルが戦術レベルで変調を来したのは、肉の現出が鈍って来た辺りからだった。それまで形を持たなかった悪霊が、突然人の形をして立ち向かって来たのだ。
それが今しがた取りつかれた僧侶達だと言う事実を、覚瑜は切り口から迸る返り血を其の目にするまで認識出来なかった。自分の行為に対する一瞬の怯み。狡猾に長けた悪霊はその心の揺らぎを逃さない。憑依した肉体に流れる法力を駆使して覚瑜に逆襲を開始した。
思い掛け無く手に入れた力に戸惑っている間は、まだ良かった。闇雲に放たれる攻撃呪文を防ぎながら切伏せれば其れで済む。しかし其れがある時期から一定の規則性を持ち始めた時に、覚瑜の旗色は変った。彼の法力の『弱点』を突かれ始めたのだ。
そして此処に追い込まれた覚瑜は、自分の戦略に大きな間違いが有る事に気付かされる事となった。
今対峙している『彼ら』は、法力の性格という物を完全に理解した上で攻撃を仕掛けている。取りつかれた僧侶達は法力こそ有るものの、退魔行等の荒事を経験した事の無い者達だ。それはさっき襲われた時の反応を見ても明らかだろう。
しかし今は自らの意志で、手にした法力を攻撃の道具として自在に使いこなし、呆れる程的確にこちらの弱点を衝いて来たのだ。
何故か?
「秀吉に処刑された、法力僧、か。」
そうか。今覚瑜に立ち向かってくるのは、過去に同胞だった僧侶達。先達。かつてこの地この場所に於いて理不尽に命を奪われた者達が、生者に対する呪いに突き動かされて立ち向かって来ている。彼らが生前に為し得た修行や行は、彼と同等。
この時点で覚瑜は退魔行ではなく法力僧同士の戦いに巻き込まれたと言っても過言では無かった。
突然周囲の闇から十本単位の炎の槍が覚瑜目掛けて放たれた。気配を感じた覚瑜がありったけの力で体を前へ投げ出す。
槍は覚瑜の背中を掠めて、其れまで背中を預けていた大木に残らず命中した。穿進の唸りを上げて其の全てが貫通を果たす。地面に伏せたまま其の光景を見上げて。
「詠唱破棄して尚この威力かっ! 」
槍が掠めた背中が微かな煙を上げて燻っている。だが心中には薄ら寒い物を感じずには居られなかった。此れが魔の域に陥ちた法力僧の力と言う物なのか?
彼らが覚瑜に放った『光弾』は法力の扱いに於いては初歩中の初歩、つまり退魔師が一番始めに習得する攻撃方法である。
真言を唱え、両の掌に法力を集中させて、放つ。単純では有るが、其の中に法力を使う為の全ての基礎が含まれている。だが彼らの行使している力は、覚瑜が知り得るどの知識にも当てはまらない代物であった。
第一に、詠唱を破棄していると言う事。詠唱しない法力など、只の中国拳法の発勁に過ぎない筈。
第二に、全ての攻撃が「属性」を持っていると言う事。「光弾」と言う物は無属性。炎を纏うなど有り得ない筈。
第三に、「弾」ではなく「槍」の形状をしていると言う事。本来、弾の形状をした物が螺旋回転で物体を貫通する等聞いた事が無い。
しかしこれら全ての事が魔界に寄り添う魂によって引き起こされる物だとしたら、
「覚慈には一体どれ程の力が備わっていると言うんだ? 」
思考する時間も祈願の時間も、勿論攻撃する暇も彼らからは与えられない。
地面に伏せた覚瑜目掛けて正確に放たれる炎の槍。青白い輝きは其れ自身一万二千度に近い熱量を保持している事を意味する。地を転がって攻撃を躱した其の場所目掛けて突き刺さった槍は、自らの放つ高温で周りの地面をドロドロに溶かして消滅する。
こんな物を真朋に食らったら ――
そう思った矢先、覚瑜の視界に炎の槍が飛び込んできた。「時間差か!? 」
回避不可能な距離から現れた光が一息に飛び込んで来る。左の手を其の方向に広げて念を込める。
「破ァッッ! 」
詠唱する間も無い。破棄して、防御の為の魔方陣を盾の様に展開する。途端に盾に突き刺さる三本の槍。
覚瑜程の退魔師ならば、詠唱を破棄した事に拠る威力の半減を鑑みても十分に阻止出来る威力しか持ち得ない筈の其の攻撃。しかし ――
「くっ! 」左の掌に力を集中して尚、槍は空中に留まったまま落下する気配を見せない。
それどころか展開した魔方陣を貫通せしめんとドリルの様に穴を穿ち始める。槍の持つ光と熱に、覚瑜の苦悶する表情が白く照らし出された。
やがて貫通した槍は其の穂先をゆっくりと覚瑜の体目掛けて進ませる。其れをさせじと自らの限界近くまで法力を高める。緩やかに魔方陣を突き抜けた穂先は覚瑜の体を三ケ所、浅く穿った所で其の進みを止めた。肉の焦げる匂いと煙を残して、虚空に掻き消える。
「カッッ …… アッッ …… グウ! 」緊張の余りに溜めた呼吸を一気に吐き出す。
失った呼気を補おうと吸い戻す覚瑜の生命維持機能。自らの肉の焦げた匂いまでも其の肺一杯に吸い込んで、咽る。不快で、吐きそうだ。
腹の底から上がってくる物に手を当てて押し戻し、思いっきり嚥下する。ぬるりとした感触。掌を見ると夜目にも鮮やかな赤色。内臓をやられたかと思ったが、それは思い違いだ。
血は両目から。過度の法力の使用によって涙腺が裂けている。尚も流れ出る血涙を法衣の袖で拭き取る。薄汚れた袖は月闇の中で仄かに緑色の光を湛える。
「畜生、このままじゃジリ貧だ。何とかこの包囲だけでも突破しなければ! 」
両の足に韋駄天の法を載せて高速移動を試みるが、其の動きでさえも読み切られている。不規則に動く覚瑜に合わせて規則的に動く包囲陣。戦況が不利に成り始めた頃から何回同じ事を繰り返し、同じ結果に終わった事か! 決戦の為に節約した体力も法力も、常備して置いた部分は空に近くなり、かといって予備を使用する事は躊躇われた。
“未だ戦いは序盤。真打が登場しない内に使い切ってたまるか”
考えあぐねて、取合えず目に付いた大木の蔭に身を潜める。右手の長鈷杵の法力を解き、静かに木の根元に突き刺した。両手で隠形の印を組んで気配を消す。
法力の使用は極力避けたい所では有ったが、是非も無い。気配を隠す事で囲みを抜け出せたなら背後から襲う事が出来る。圧倒的に不利な状況から優位に立つには其れしか方法が無い。
覚瑜の守護神・大威徳明王。天界に於いては『金剛部』に位置する。破魔滅悪の性を第一とする神では有るが、そこに『金剛部』ならではの弱点が存在した。
所謂『相剋』である。
万物の成り立ち、五行。『木』『火』『土』『金』『水』の五元素の生滅盛衰によって天地万物が変化し、循環するという考え。
その五行における互いの関係の中に『相手を打ち滅ぼしていく、陰の関係』という物がある。これが『相剋』と呼ばれる関係である。
金剛部に属する大威徳明王は『金』属性を持つ仏である。『金気』は『土気』(帝釈天等)や『水気』(水天龍王等)とは『相生』の関係を成して互いに力を発揮する事が出来、『相剋』の関係にある『木気』(薬師如来等)に対してはその力を押さえ込む事が出来る。
それと同様に『金気』と相剋の関係を成すのは『火気』(不動明王等)である。つまり大威徳明王の力を擁する覚瑜にとっての一番の敵は、不動明王の持つ火炎呪なのである。そしてそれは今正にここで起こっている現実であった。
放たれる槍に込められた力は紛れも無く、不動明王火炎呪。如何に覚瑜の類稀なる法力を以ってしても自然の摂理を捻じ曲げる事だけは叶わない。自らの法力の続く限り敵の攻撃を耐えるのが精一杯の抵抗であった。
だがそれも風前の灯になりつつある。そうなる前に何とか事態の打開を図らなければならない。其の為の穏形印。
自らの気配を一切絶って、奴らをやり過ごす。そうして包囲の外側から奇襲を仕掛ければ、法力を極力使わずに倒す事が出来る筈だ。何せ此れで終わりではない、まだ後には魔界に魂を売り飛ばした自分の片身との戦いが待っているのだ。
追い込まれた焦りで覚瑜は自分の犯した致命的な失敗に気付かなかった。気配を絶って暗闇と同化する其の姿。其の中で只一つ。血を拭った袖だけが、命尽きる際の蛍が放つ光の様に仄暗く光っていた。
「変ね、どうもおかしいわ。」自分の携帯画面を見つめながら、藤林に“御婆様”と呼ばれている女性は呟いた。
声の深刻さ ―― この御方は多少の事では動じる事が無い事を良く知っている ―― に藤林長門は、笑顔を崩さずにさりげなく尋ねた。
「どうしました? 」其の問いに対して、声の代りに自分の携帯を差し出す。
長門が受け取って眺めると、其処には帯刀から送られたメールに添付された動画が映っていた。赤塚が傀儡の腹を裂き、胸に独鈷杵を突き立てる。
凄惨な光景を流し続ける其の画面を、笑みを浮かべたままで何事も無いかの様に動画を見る長門。
「これは『傀儡の呪法』ではないわね。はっきり見えないけれど、良く似せた全く別の物よ。」
其の言葉にほう、と言う顔をして手にした携帯を閉じる。そっと差し出された携帯を其の手に収めて“御婆様”と呼ばれる女性が言った。
「決定的なのは、最後に胸に独鈷杵を突き立てているでしょう? あれ、私の知っている文献には何処にも載って無いのよ。」
「社長がご存知無い、と言う事は凡そ日本の宗教秘術の何処にも無い、という事ですな。しかし、肝心の結界標を殺してしまっては法要自体の守りが成り立たんでしょう。」
「殺してないのよ。」そういうと“御婆様”は再び動画を再生して長門に渡した。
「其の最後に胸に独鈷杵を突き立ててるわよね。それ、多分微妙に心臓を外してる。」
「心臓を外している? 」長門は眼鏡を指で持ち上げて外しながら、再び差し出された携帯の画面に映る一つの光景に目を細める。
「なあに、それ伊達眼鏡なの? 見辛いのならしなきゃいいのに。」
「いやいや、これも人を欺く為の手段ですよ。太平の世に潜む為には如何なる努力も惜しまずに。―― ああ、確かに。少し中央寄りですなあ。心動脈からも辛うじて外れてますね、見もせずに上手いもんだ。」
「何処だか判る? 場所。」再び携帯をパチンと閉じて返す長門。
「恐らく、動結節じゃないですかな? それも刃先が当たるか当たらないかのギリギリで止めている様です。」
「成る程ね。じゃあそこに独鈷杵を刺した意図は? 」
尋ねられた長門が眼鏡を外してポケットに仕舞い込む。それは合図だった。宴会場の雰囲気は未だドンちゃん騒ぎの域を出ないが、騒いでいる社員たちの目付きだけが変化する。長門の姿をじっと追う、何十もの瞳の群れ。
「医の志が薄いので其れこそ推測にしか過ぎませんが、意志で制御する事の出来ない不随意筋 ―― まあこの場合は心臓ですが ―― その筋肉を動かす最初の電気信号の出所を押さえる事によって、文字通り『自分の言う事だけを聞く人形』に密かに仕立て上げた、まあこんな所ですか。昔そんな術を使う陰陽師が居たとも聞いてはおりますが。」
そう言いながら長門の両手は凄まじい勢いで動き出した。手話だ。釘付けになる全ての瞳。
「まさか、あの男が裏切っていたなんて …… 一体どう言う事なのかしら? 仮にも真言宗の一派の頂点にまで上り詰めた男が。」
表情はにこやかな侭だが、動揺は隠せない。その“御婆様”の呟きに被せる様にして、長門が声を上げた。
「はーい! 全員注もーく! …… えー、宴も酣では御座いますが、この辺にて中締めとさせていただきたいと思いまーす! 今日は此処、『徳助』さんのご好意で宿泊も出来る様になっておりますので、まだ飲み足りないと言う方がいらっしゃいましたら、中締めの後ご自由にお飲み下さーい! 」
そういうと徐に立ち上がる。「それでは全員ご起立下さい。これより山本社長より一言戴きまして、一本締めとさせていただきます。では、社長。」
長門に促されて“御婆様”が前に出る。沸き起こる拍手。
「皆さん。」いつ聞いても聴き心地の良い声だ、と長門は思う。
「本日は日頃の皆さんの努力に感謝して、ここ和歌山に社員旅行として赴いた訳ですが、楽しんでいただけましたか? 」再び拍手。あちこちから声が上がる。
「今は世間では軒並み不況が叫ばれています。人々は日々の生活に追われ、満足に心を安らぐ事も出来ない世の中になりつつあります。しかしながら私達、山本観光社はそう言った風潮に負けない、ご利用戴いた御客様に心から御満足して戴ける様なサービスを続けて行きたいと思います。」
言葉を止める。全員の顔を見まわす。言葉とは裏腹な、強い命令を湛えた瞳で。
「これからも皆様には何かとご迷惑を掛ける事になるとは思いますが、どうかこの『山本祥子』を信じて、」全員がしん、となる。“御婆様”がにやりと笑って言った。
「 ―― 付いて来てくれると嬉しいわ。宜しく、お願い、ね。」
言葉の終わりと共に一斉に拍手が上がる。涙ぐむ女子社員までいる。
「じゃあ、一本締めで締めるわよ。皆様、お手を拝借! 」掛け声と共に拍手が一本。そして又拍手。
万雷の鳴り止まぬ中を山本と長門は揃って部屋を後にした。
「では“御婆様”は『徳助』の買収と待機をお願いします。先ほど持主の方には交渉しておきましたので、後は書類の方を。」
濡れ縁を奥に設けられた離れに向かって歩く二人。「女衆を残しておきますので、ご自由に御使い下さい。後片付けと『巫女』の受容れの方は彼女達でやれると思います。」
「行くの? 」
「はい。精鋭五名にて。」そう言うと軽く一礼する。
「先発に楯岡らもいますから、此れでも多い位ですよ。」そう言うと口の中に指を刺しこみ、綿を取り出す。顔の輪郭が面長になり、本来の顔が現れた。印を結んで息を吐き出す。大量の空気と共に突き出した腹が見る見る内に萎んで行く。
「相変わらず、凄いわねえ。貴方の妖人術。『藤林課長』とは全く赤の他人だわ。」呆れた様にまじまじと見つめる山本の視線も意に介さない。
「いやいや、まだ背も手足も伸ばせますよ。今回は此れ位が状況的に丁度良いんじゃないかと思いまして。」
「でも、どうするの? 」呆れた視線が心配に変る。
「法要は既に始まっているから、中に入る事は出来ないでしょう? 結界標が死んでないのなら一番外側の絶界陣は、外側からは誰にも破れないわ。ただ事が終わるのを周りで眺めているなんてネガティブな発想で出て行くんじゃないでしょうね。」
「いや、まあ。」半分は図星だった。依頼を受けたとはいえ今回ばかりは勝手が違う、と長門は思っていた。
先に山本に言った『中の事は当事者に云々』と言うのは、彼の本音である。魔法使いの仕掛けた魔方陣の中に飛び込んで行くなど自殺行為だ。魔法使い同士の戦いは魔法使いに任せておけば良い。自分達に遣れる事はあくまで人の領域を、ほんの少し逸脱する程度の事しか出来ない。
其れに状況は多分“御婆様”が考えている以上に複雑な方向に移行しつつあるのだ。
長門は黙ってワイシャツの胸ポケットから自分の携帯を取りだし、山本に渡した。山本が其れを開くと一通のメールの本文が表示されている。
「厚木 ・ MCSTP2PM100 ・ RIP」声に出して読む。意味が解らない。首を傾げる祥子に向って長門が説明を始めた。
「今日の二時に送られてきたメールです。発信元は以前から内部調査に送りこんでおいた『草』からです。これが最期になりましたがね。」目を閉じる。
「実に良い娘だった。」
「どう言う事? この内容って …… 」
「彼女は厚木基地のPX(売店)で働いてまして。某所の依頼で、米軍の動静を逐一監視する任務に就いていたんですが、今日になって突然このメールを私に寄越したんです。私が此処にいる事を承知した上で。」
言葉を続ける長門の手に祥子が携帯を返す。長門の手が壊れ物の様にそっと蓋を閉じる。
「『MC』は『Maline Corp』海兵隊。『ST』は『Specal Team』、特殊部隊。『P2』は『Platoon 2』、2小隊、つまり十二人ですな。『PM100』は午後一時に出発したと言う事。」
「最後の『RIP』はどう言う意味? 」
「『Rest in Peace』。…… 自害したんでしょう。いつもなら施設の通信室に忍び込んで米軍のバースト通信を使う手筈になっていたのですが、余程時間が無かったんでしょうな。感知される危険も顧みず自分の携帯でこのメールを送信して、案の定発見されて自害した、多分そんな所でしょう。」
「じゃあ何? ここに米軍の特殊部隊がやって来るって事? 」
山本の問いに軽く頷く長門。
「どうやら彼らも我らと同じ様に二の手、三の手を打っている様です。赤塚が失敗すれば外側の結界が解ける筈です。その期に乗じて境内に侵入して事を成すつもりでしょう。その『事』と言うのが『巫女』の殺害なのか拉致なのかは定かではありませんが。まあでも、其の方が我等としても仕事はし易いと思いますがね。」
「そうね。松長がそこまで考えて我等に依頼を持って来たとは思わないけど、結果的には彼の考えたシナリオの最悪の方向に向かっていると言う事ね。」
「ええ。ただ裏切り者を勘違いしている事がかなり致命傷ですね。もっと早くに判っていれば事前に手が打てたでしょうに。」
「あの二人の関係を考えると、それは無理な相談だわ。あなた、楯岡が裏切る事等考える事が出来る? 」
固有の名前を出して質問するなんて、我乍ら意地悪な質問だわ、と思う。しかし長門は軽く哂って言葉を返した。
「勿論です。信じて寝首を掻かれたくありませんから。」
「そう。」呆気ないものだ。「流石は『お庭番』頭領、藤林長門ね。超一流の隠と評されるだけの事はあるわ。馬鹿な事を聞いたわね。」
「いや、無理も無い。」長門がにっこりと笑った。
「我々は生きながらにして、既に『死人』ですからな。人の世の真っ当な考え方が出来無くなってるんですよ。乱世や戦国の世ならともかく、この平和な時代にあっては只の厄介者にしか過ぎません。そういう風に人を信じられなくなっている自分が、」
手の中にあった携帯をぎゅっと握り締めた。恐らく部下の死にも心を痛めることが出来ない自分に腹を立てているのだろう。
「少々疎ましくなる。」
山本が気付いた時には既に五人の男達が長門の左手の庭に控えていた。時代劇に出てくるような黒装束ではなく自衛隊の現用夜間迷彩を身に着け、眼出し帽を被っている。武器は拳銃 ―― SIG・P226にショートサイレンサーを取付けている ―― と防刃防弾ベストに刺しこまれているスローイングナイフ、そして腰に下げられた脇差のような忍刀が一本のみ。世界最強の特殊部隊を相手にするには、聊か装備が貧弱ではないのか?
「心配要りませんよ。私なぞ、ほれ、この通り。」
祥子の心配を払う様に話し掛けられる声の主に視線を移すと、長門は既に着替え終わっていた。他の五人と同じ服装だが、長門は銃すら持っていない。軽い身のこなしで山本の目の前で蜻蛉を切る。恐ろしい事に踏切りも着地も全くの無音だ。
「戦いとは装備の優劣ではありません。鍛え抜いた肉体と ―― 」
「知恵で決まるのよね。ハイハイ、解ったわ。」腰に手を当ててやれやれと言った風情の祥子。
「実績があるからまだ信じられるけど、此れで負けたら只のお馬鹿さんよ、其処の所は理解して頂戴。」そう言うと静かに両手を合わせた。
「気を付けて、いってらっしゃい。」
声と共に庭に控えていた五人は無言で一礼し、あっという間にその場から姿を消した。只一人、長門だけがその場に残っている。
「長門、どうしたの? 」不審に思った山本が声を掛ける。長門は山本の方を振り向かないままで呟いた。
「御婆様、さっき言いかけましたよね。何故赤塚なる者が裏切ったのか、と。」
「ええ、言ったわ。仮にも一時期共に高野山で修行した者同士が、今になって何故敵味方で争わなければならないのか。」そこまで言った時、長門の手が祥子の言葉を遮った。
「そう、そこです。私が引っかかっているのは。私が思うに、この戦い、誰が敵で、誰が味方か? 」
「え …… 」長門の言葉にしばし考え込む。沈思黙考する祥子を横目に見遣りながら、長門は言葉を続けた。
「今、我らにとって赤塚なる者は確かに、敵です。しかし彼らが ―― まあ米軍も含めてですが ―― 今から見出される『魔法使いの正体』を既に知っているとしたら、彼らが行なおうとしている事は、果たして悪、と言い切れるのか? 」
其の言葉に祥子は答えない。解っているのだ。今自分達が守ろうとしているのは救世の使命を携えた者。しかし其の未来に広がるのは夥しい死体の山と大きな湖を満たさんとする程の流血。
それは正義、なのだろうか。
「多分此れから始まる戦いには、何処にも正義なぞ無いのですよ、御婆様。」そういうと静かに庭に降り立った。蒼光を見上げる。
「言うなれば、御互いの正義を証明する戦いになるでしょう。ただ憎み合い、殺し合う。もし仮に正義を口にする者がいるとするならば、それは、」
音も無く長門の体躯が浮かび上がって塀の上に降り立った。祥子の姿を見下ろす。
「最後に立っている者だけに、其の資格がある。」
そう言い残して長門の姿は闇に消えた。
長門の言葉に体が震えている。それは怒りでもなく、畏れでもなく。
祥子にも其れは解っていた事だ。ただ口に出来なかっただけ。救世を唱えながら多勢の人間を不幸にする存在など、過去に存在する数多の独裁者と何ら変らない。歴代の『摩利支の巫女』を養育する立場である『山本家』でも、そのような定を持ち得た者を育てた事は無かった。
ましてや今回は人の世において最大の救世の宿命を背負った『巫女』。
「でも、やるしかないのよ。長門。」姿無き虚空を見つめて、呟く。
「私達は、私達の信じる道を行くのよ。例え『天魔波旬』がその行く手に立塞がったとしても。この戦いの最後に立っている者は ―― 」
踵を返した其の足が、月明かりに照らされた濡れ縁を踏み締めて。
「私達の内の、誰かでいましょう。」