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 其の踏み込みが上品にあつらえられた両の鼻緒をぶった切る。死の残滓に満ちた大地を蹴る其の足が両足の下駄を吹っ飛ばす。裸足の裏を切り刻む硝子の欠片が与える痛みも傷もお構い無しとばかりに、碧の足が荒野を駆ける。

「あああァァァっっ!」

 其の赤子の名前の代わりに碧の口から迸る絶叫。絶望と言う名の孤独な檻に閉ざされていた彼女の魂から噴出す感情は鍵を圧し折って碧を外へと叩き出した。解き放たれた碧の心が何度も何度も叫び声を上げて。自分の願いで其の世界が満たされるように。

 其の子は、紗絵の。

 そして私の。

 

 悲鳴だと思った。

 振り返った山田が見た碧は求める心を其の体全部に表して。発露のままに差し出した両手が朝靄の中に舞う。美しい顔を歪めて迫る其の勢いに怯んだ山田が男の懐から取り出そうとした澪の体から手を離した。碧は呆然とする山田の体を勢いのまま脇に押し遣って男の体に覆い被さり、誰の手にも渡すまいとする意志を籠めて無残な澪を抱き抱えた。

「み、碧姉ぇ …… 」

 うろたえる山田の傍で突っ伏して啼き震える碧の背中。『お庭番女衆筆頭』 ―― 其の地位は長門と同等 ―― として『くノ一』を束ねる普段の姿からは想像も出来ない其の姿に山田は、そしてその場に佇む播磨は声も無く見守った。二人が無くした声は碧の泣き声だけをその場に残して。それが碧の嗚咽に時折混じる、意味ある単語の断片を二人の耳に残響させた。

「澪、様 …… 」

 涙に呉れる碧の口から溢れるその言葉に山田の記憶が遡る。聞き覚えのある人の名前。其れを聞いたのは何時、何処で?

「澪って。 …… おいっ、碧姉ぇ! それって ―― 」

 互いに目を見張って視線を合わせる山田と播磨。失念の端境は一瞬にして其の名前で埋められる。

 其の名を『お庭番』たる彼等の誰もが忘れる筈が無い。山田の目の前であられもなく泣き喚く『女衆筆頭』が命懸けで救い出した、長谷寺唯一人の生き残り。

 碧を一変させた、あの日の境目。

「本当か、碧姉ぇ! 本当に其の子なのかっ!? 」

 言葉の真偽を問い質そうと碧の肩に乱暴に手を掛ける山田。接触した部分から碧の体を大きく揺さぶって。その時衝動に駆られた碧の肩が跳ね上がって山田の手を振り払った。涙で汚れた顔が尚も答を求める山田の顔を仰ぎ見て。正気を失った瞳が山田の顔を睨み付ける。

「触るなあっ! 」

 可憐な口を大きく開いて怒鳴る碧の姿。山田の眼前に敵意を隠す事無く叩き付けて来る其の姿は、少なくとも山田が知る碧では無くなっていた。例えるならば其れは、好意悪意に関わらず我が子を連れ去る為に近寄って来る叶わぬ敵に対して、最後に残された牙を剥き出す獣の母と同じ。

「澪に触るなっ! もう誰にも、誰の手にもこの子は渡さないっ! 」

「落ち着けっ、姉ぇっ! そんな奴はもう何処にもいやしねえ。それよりこのままじゃその子の命が危ねえっ!」

 絡んでもつれた様々な要因を整理して、失った碧の正気を取り戻そうとする山田が抵抗を続ける碧の体に手を伸ばす。今一番大事な事は赤子の命を救う事。このまま碧の手に委ね続ければ助かる者も助からない。

 そんな事も解らなくなっているのか、碧姉ぇ。

「だまれえっ!! 」

 山田が物思いの故に浮かべた寸暇の油断。碧の形をした獣が咆哮するなり自由の許された最後の武器を行使した。碧が抱える、正気を失くすまで心を奪われた大事な者を守る為に伸ばす山田の手に齧り付く碧の顎。二人を引き裂こうとする『悪意』で満たされた其の手に刻み付けられる新たな傷。前歯が、犬歯が肉を切り裂いて食い込んだ。

 渾身の力で噛み付いた碧の口と山田の手の隙間から滲む、碧を心から労わる男の血。与えられた苦痛と罰に顔を歪ませて、だが其の瞳は自分が最も大事に思う存在の姿を見守って。

「山田っ! 」

 叫びと共に動く播磨。獣と化した碧の顎から山田の手を解き放とうとして。だが山田はいつもは見られない冷静さで、片手を上げて播磨の好意を静かに押し留める。

「どうして!? ―― 」

「いいから。」

 気が済むまで齧ればいい、と。山田の目は二人の視線に向って黙って告げた。強まる力と深くなる傷が更なる出血を呼び起こして、碧の口から毀れるそれは顎の下にある男の体に滴り落ちる。

 それでもいい。それで姉ぇの心が安らぐのならば。

 どんなに理不尽で、不可解で、破天荒であろうとも。

 あの笑顔を取り戻す為に、この手が必要だと言うのなら ―― 。


 その手が静かに碧の肩に置かれた。その感触に全身を震わせて、正気を失った獣の力は凍える。

 其処に居合わせる三人の意識の外から突然現れた人影。その男はおもむろに、忘我の淵でせめぎ会う二人の傍に跪いた。碧の肩に置かれた手には穏やかな慈しみが湛えられて。

「碧、もういい。 …… 全て終わった。」

 楯岡の声。加減を忘れた万力が力を緩めて、切り潰そうとした『悪意』を離す。静かに戻される山田の手を追う事も忘れて、赤く染まった碧の口は自分の攻撃衝動を封じ込めた手の主を仰いだ。

「あなた …… 」

 碧の瞳に戻る理性の影。其れは碧に新たな涙を呼び起こした。再び訪れる感情と共に湧き出したそれが碧の両頬を派手に濡らして落ちて行く。大事な者を世界から隔離し続けた碧の両手が澪の体を離れて。ゆっくりと楯岡の背中に回されて、繋がれる。

 楯岡の胸に顔を埋めて泣き続ける碧の震える体を、楯岡の手が抱き締めた。


 手にした晒しを引き千切って細い帯にする。碧の口によって新たに刻まれた傷口に其れを巻き付ける山田の視線に映る長門と帯刀、そして其処に終結を果たしたお庭番衆の姿。

「山田、報告しろ。」

 冷たい声で放つ長門の命令はありがたい事に山田のさざめく心を落ち着かせてくれた。包帯代わりの晒しを手に巻き終えた山田が長門の前に跪いて、其の命令に従う。

「生存者を発見しました。人数は二名。私共が取り逃がした僧侶と、恐らくこの儀式に参加した赤子と思われます。それ以上の事は ―― 」

 振り返って横たわったままの男と、胸に抱かれた澪。自分が今し方与えられた苦痛と死の影を心の内に押し込めて、それでも尚忌々しげに影の様に地面に伸びるその姿を眺める。

「 ―― 意識が戻ってからでないと分かりません。報告できる事は、以上です。」

「僧侶? 」

 長門の後ろに隠れていた祥子が山田に尋ねた。その声を聞いたお庭番衆が長門も含めて祥子の為の道を空ける。跪いたままの山田の頭上から祥子の声が降り注いだ。

「そんな報告は受けていないわ。貴方達が取り逃がしたのが僧侶だったなんて。」

「 …… 言ってなかったっけ? 」

「聞いてないわよ。『侵入者』としか。」

 咎める祥子の声。自らの手落ちに心の中で舌打ちしながら、山田が尋ねた。

「申し訳ありません、と言いたい所だけど、それってやっぱり俺のせい? 」

「当たり前でしょ。あんたが一番最後までその男を見てたんだから。」

「だよな、やっぱり。 …… でもよぉ。」

 諦めた様に呟いて立ち上がる山田。その視線が男の体の傍に落ちた忍刀の残骸に向けられる。

「形は僧侶かも知んないけど中身は唯の化け物だぜ? 結界の中に入って行っただけじゃねえ。あの炎の中で生き残った挙句に俺の奥義を噛み砕いて破る様な奴を、『僧侶』だとか『人間』だとか。俺の口から言えるかよ。」

「ふーん、噛み砕いて、ねえ? 」

「なんだよ、信じてねえのかよ! 何なら播磨に聞いてみろよ。直ぐ傍で一部始終を ―― 」

「悪い、山田。」

 声を張って潔白を主張する山田の感情の高ぶりを冷ます様に、播磨が言った。

「見てなかった。」

「何だとぉ!?」

「まあいいわ、それはそれで。信じる信じないは別として、現に二人生き残ってるんだから。 ―― 其れよりその僧侶の意識はあるの? 」

「いや、気を失ってる。もっとも意識があったら俺が殺してた。碧姉ぇが止めなかったら ―― 」

 きっと刃は届いていたと。自分の選んだ選択の是非を尚も自分自身に問い掛ける山田の言葉が其処で途切れた。消えた言葉の続きを想像して、其の選択の正しさを肯定した祥子が山田に向って優しく声を掛ける。

「そう。碧に感謝しなきゃね。」

 他人に正しかったと言われてもはいそうですかと納得できる心境ではない。首に残る痣を撫でながら山田は思った。自分に其の痣を刻んだのは紛れも無く其の男の右手であり、其処には殺意があった。与えられた痛みが残る以上、其の男が善人の一員であるとは到底容認できる筈が無い。

 其の善意が万一仇となって自分達に降り懸ってきた時に、自分が執るべき責任を自分はどう表現すればいいのか。

 やはりこの男は此処で命を絶っておく必要があったのではないのか?

 自問自答を続ける山田を尻目に、直ぐ脇を通り過ぎて横たわった男へと歩み寄る祥子の足。仰向けに晒されたその顔を一瞥して浮かぶ疑問の表情。其れが確信に替わった時、祥子の口から其の男の正体を露にする名前が思わず吐いて出た。

「なんて、事。 …… 覚、瑜、貴方が。」

 万が一に備えて祥子の傍に付き従う長門がその言葉を聴き止めて、尋ねる。

「御婆様、知っているのですか? この僧侶を。」

 長門が祥子の隣まで体を進めて、向けられた視線と同じ場所を見下ろした。

 痣だらけの顔、腫れ上がった瞼、抉られた頬。素手喧嘩の敗者の様な惨状を呈するその顔をまじまじと見詰める。元の形など想像も出来ないその顔から僅かな面影を拾い出した祥子の顔が自分の判断に確証を深めて。

「間違い無い。この僧は根来寺の寺務長。加えて言うなら真言宗派の退魔師の中でも五本の指に入る実力者よ。」

「寺務長、と言う事はこの寺のナンバー2と言う事ですか、あの裏切り者の『座主』に次ぐ。」

 素性を知った長門の声が冷酷に響く。二番手に存在する者が今晩に起こった出来事の一切に関与していない等有り得ない。陰謀に加担したとしか考えられない僧侶の体を眺めるその目に、山田とは違った死神の瞳が宿る。

「そう言う事になるわね。それにこれ程の法力を有する者なら、赤塚と共謀してこの法要を潰そうとした事も十分有り得るわ。」

「成る程、つまりは重要な容疑者と言う事ですな。 ―― とすれば、」

 長門の視線が男の顔から胸へと向けられた。其処に未だに抱えられたままの赤子の姿を見止めて、呟く。

「有資格者の唯一人の生き残りをこの男が抱えていると言う事にも、何らかの意図があるという事ですな。」

「其れを聞く為にも、この男は生かしておかなきゃね。 ―― 忌々しい選択だわ、全く。余地なんてありゃしない。」

 出来る事なら今直ぐにでも殺してやりたい。殺して皆の無念を晴らしてやりたい。並の人間とは比較にならない祥子の理性でさえ、其の激情で押し潰されそうになる。

 この男が生きて自分と対峙していたなら、自分は其の持てる力を全て使い切ってこの男を叩き殺していただろう。いや、今もしこの男の意識が戻って自分の罪を告白したなら其の瞬間にでも直ぐに出来る。

 震える両手が其の殺意を僅かに現して。隣に立つ長門の首筋を逆立てる気配が長門自身に祥子のそれ以上の関与の危険性を教える。その判断は声となって、背後で立ち尽くしたままの山田に向けられた。

「山田。其の赤子を確保しろ、今直ぐに、だ。」

「? 何で俺が? 」

「 ―― 碧に渡してやれ。お前の手で、じかに。」

 其の言葉が意味する長門の好意が山田の表情を思わず綻ばせた。全てを此処で失った澪に与える事の出来る唯一つの物。今澪を此の世で最も愛している者の手に委ねる事が、この地獄を生き延びた彼女に対する最大の贈り物だと思う。そして其の栄誉は、最後まで共に戦ったお前の手から授けてやれ、と。

 全てを語らずとも其の目で分かる。其の温情を否定する者がこの場に誰もいない事も、又事実。

 綻んだままの顔を隠せない山田が、長門の其の気持が変わらぬ内にと言わんばかりに小走りで動いた。祥子の反対側に回りこんで両手で澪の体に触れる。碧に付けられた真新しい傷が痛む事さえ嬉しく思える。血の滲む晒しを巻いた山田の掌が澪の体を包み込んで持ち上げようと ―― 


「どうした、山田? 早く碧に ―― 」

 長門の視界に映る山田が凍り付いた様に動かない。一瞬前まで浮かんでいた能天気な笑いは裏返る。体の動きと同調するかの様に一点を見据えたまま凝り固まった視線。山田の周囲だけを止めた時間が映す不自然な画像は長門の口からそれ以上の言葉を紡ぐ事を中断させた。静止した世界の中で山田の気配の変調を感じる、全ての者。祥子も、碧も、播磨も、帯刀も。碧を抱きしめたままの楯岡でさえもその急激な山田の変化はある種の不安を齎した。

「そんな …… 何でだ? 」

 止まった景色を動かしたのは其れを見詰める山田の口。呟きが漏れる其の顔が答を求める様に祥子に向って振り上げられる。そんな顔を見た事が無い、と祥子の記憶は山田との最初の出会いまで記憶を遡って、この男の直面した事態の異常さを認識した。

 認識は祥子自身も気付かずに其の足を山田の傍へと運ばせる。山田の背後から肩越しに山田を凍らせた物を山田と共に見詰めて、凍えた。

 声すら。

 握り締めた澪の左手と握り締められた男の左の小指。強く引き付ける男の手が澪の体を包み込む様に抱き締めている。思わず目を逸らしそうに成る程焼け爛れた澪の表情は微かな笑みを浮かべているかの様に穏やかで、健やかな寝息を立てて。その幸せを噛み締める様に安らかな表情のまま気を失っている、無残に腫上がった男の顔が見詰める山田の胸を打つ。

 水晶が朝靄に煌く。澪の掌に埋められた聖疵スティグマの証が男の指にも疵を刻み込む。混じり合った二人の血が渇いてそれを決して離すまいと。張り付く黒が久遠の誓いの様に二人の体を其の場所だけで繋ぎ止めて。

「御婆様、俺は頭が悪いからこういう事は上手く言えねえ。だけど、これは ―― この二人は、」

 其の光景は山田の声と共に、祥子の胸の内に燻ぶる怒りを燃やす為の何かを奪った。声も無く山田の呟きを耳にしながら、残り火の在り処を探す。

「 ―― 恋人同士、に。 …… 見えねえか? 」

 思いも掛けず呟いてしまった其の言葉。自分の生き様の中には決して在りうる筈の無い存在を声に出してしまう事に躊躇しながら、しかしそうとしか表現しようの無い説得力を見せ付ける二人の姿が、山田の中から祥子の心中と同じ様に憤怒の炎を奪い、新たな疑問を生み出そうとしている。

 この男は、一体何なんだ?

 澪の体に手を添えたままで動けずに、其の二人を引き離す事に戸惑う山田の姿。其の耳に遠くの地平から迫って来る、鳥とは違う羽音が忍び込んで来た。

 

 其の音は明け行く東の空から。山の稜線を彩る兆しを追い越す様に黒い影を現す鋼鉄の鷹。日本国内で運用する為の濃緑色の迷彩を纏ったMH-60Gは其の巨体をひらりと翻して、『先駆の鷹(ペイヴホーク)』の其の名が伊達では無い事を示す様に山肌に沿って進入を開始した。

 足元のスキッドが木々の先端に触れ、生まれたばかりの薄緑を派手に蹴散らす。二機搭載されたエンジンの出力は合わせて四千馬力。最大重力の掛かる地表付近での浮力を得る為にほぼ全開で回すローターが草原の様に杉林を掻き分ける。つんのめる様に機首を下げて舞い降りる鋼鉄の鷹は現世と地獄の境界を一足飛びに飛び越えた。

「迎えが来たわ。 ―― 兵庫。」

 影を見詰めて呟く祥子。視界の隅を下忍の何人かが着陸場所を示す為に硝子の荒野を駆け出している。朝の薄明かりに浮かぶ人影を確認したヘリは航空灯を点滅させて彼らの要求に応えるべく、舞い降りようとする機体を宙に浮かべた。停止飛翔ホバリングで巻き上げる風が滑らかな地表を滑って、離れた位置に佇む彼らの裾を大きく揺らした。現実を取り戻す様に彼らの頬を撫でる暖かな夏の風が、彼らが生息を許された世界を蘇らせる時間が到来してしまった事を知らせた。

 そう、パーティはお開きだ。

 言外に込められた祥子の催促と山田の心の内から溢れ出る其の思いが、其の手の支配を山田自身に取り戻させた。添えた手をゆっくりと、繋ぐ澪と男の手に持って行く。其処に光る水晶の鏃を摘んで強く引き抜いた。

 山田の手の中に残る水晶と後に残った、赤子の手に残る大きな傷跡。自分のした行為に忸怩じくじたる思いを残す山田の背後から左目の水晶を仄かに光らせた播磨が意味深な言葉を掛けた。

「その事を後悔するのなら、せめて其の水晶は澪様に返してやれ。 ―― それは澪様の命に纏わる宝物だ。そして何れは二人の繋がりを証明する。」

 其の水晶こそが彼を此処まで導いた灯台。その事を暗に指し示す声の主を肩越しに見る山田。二人の間柄を詮索し、引き離す事の是非を葛藤する迷いを見透かされた事を恥じ入る様な微かな笑いが浮かんで、手の中の水晶を握り締める。

「 …… そうだな、お前の言う通りだ。此れで最期と言う訳じゃねえ。」

 澪の右手の中に手の中の水晶を押し込みながら、呟いた。

「生きてりゃ、必ず巡り合える。 …… 例え其の場所が『つい(たもと)』だったとしても、な。」

 切ない笑いだった。自分にはもう二度と叶わないであろう愛しき者との出会い。修羅の未来を歩むと、自らの心と師の亡骸に誓ったあの日に失った願いを山田は其の手で澪に託す。

 決意した其の手が澪の体を抱える。力を込めて持ち上げる其の手が二人を引き裂いた。離すまいとする決意と偶然によって繋がれた二人の手は僅かな抗いを見せただけで容易く結び付きを失い、それでも失くす感触を無意識に求める互いの手と手が微かに動く。

 振り切る様に目を伏せた山田が立ち上がる。進める歩の先にいる姉同然の、喪った者を取り戻した碧の姿が映る。近寄る山田の顔を呆然と見上げながら声も無く。

 山田は手の中で安らかな眠りに着いたままの澪をそっと差し出して、言った。

「ほらよ、碧姉ぇ。あんたのもう一人の娘だ。 …… 大事に育てな、二度と失くさない様に。」

 其の目が澪を覗き込んで。碧の体を抱き止める楯岡の顔を見上げて。至宝を得る権利を持つ碧が戸惑いの表情を浮かべた。其の顔を優しく見詰めて頷く楯岡。

「育てよう、碧。百合と一緒に、姉妹として。」

 後押しされて動き出す碧の手。山田の手の中の澪をおずおずと受取る血塗れの掌が震えて。重みを噛み締める手が静かに胸に引き付けられて。傷に塗れて夢を見る、黒焦げの至宝を見下ろして。

 そして ――

 碧に浮かんだ表情を見た楯岡と山田が、思いも掛けず互いに顔を見合わせた。


 感動的な再会の光景を脇役として静かに眺めるカーティス。其の景色は大きな笑みとほんの少しの潤みを彼の瞳に齎した。古今東西人の親ならば誰しもが持たずにはいられない感動の再会。何時しかカーティスは碧と澪の姿に、遠く離れたイギリスで帰りを待ち侘びる娘の姿を重ね合わせずには居られなかった。

 自分が死んだとの連絡を手にした家族はどんな思いで日本への道程を過ごすのだろうか。日本で再会した時、自分はどんな顔で彼女を出迎えるのだろう? やはりあの子は泣くだろうか、此処で泣いていたあの母親と同じ様に。

 感慨に一人耽るカーティスの視線。思考の銀幕に映し出される来る日の光景を眺め続ける彼の意識。大きく現実から逸脱しようとした其の瞬間、彼の視界と体が突然叩き付けられた頭上からの空気の塊によって大きく震えた。膝まで砕こうとする其の圧力は彼の思考を現実へと引き戻す。

 圧に抗い頭上を見上げるカーティスの目に飛び込む巨大な影。音も無く忍び寄った巨大な怪鳥は眼下に佇む彼らを空気と交えて押し潰す様に降下しながら、耳目に其の存在を刻み付ける。そのシルエットの持ち主は兵役の長いカーティスの記憶でも世界に唯一つしかない、其処に在り得てはいけない物の筈。驚愕と衝撃で満たされたカーティスの口が思わず其の機体の名を大声で叫んだ。

V-22(オスプレイ)! 」

 鷹に先んじて其処に翼を休めようとする其の機体は両翼の先端に取り付けられた二つのプロペラを真上に向けている。機関停止状態で離陸曲線に沿って降下し、自然に発生する揚力のみで落下速度を調整するオートローテーションは体に似合わぬ大きなプロペラを大気圧に委ねて回し、機体の平衡を保ち続ける。

 しかし自由落下にも似たその降下速度を維持したままでは地表への激突大破は必至。その後に続く惨状を想像してカーティスが目を細めた瞬間に、彼を支える二機のエンジンが突然息を吹き返して朝の静けさの中に爆音を轟かせた。フレアと呼ばれるティルトローター機に許された独特の空戦機動は地上で到着を待つ祥子達に猛烈な風を浴びせ掛ける。

 劈く風とエンジン音は発生と同時に引力を否定する。地表擦れ擦れでふわりと浮かんだ機体はそのまま綿にでも触れるかの様に足を地面に触れさせた。接地を待たずに開放されていた後部ハッチから白衣を纏った集団が飛び出して、猛風の吹き荒れる地面の上を頭を下げながら駆け出して来た。

「安心して下さい。あれは合衆国所属の物では無い。れっきとした自衛隊の救難隊の物です。」

 其の存在の認識と共にカーティスの心を大きく支配した疑念を否定する様に長門が言った。

 そう、其の機体は合衆国武器輸出管理法の保護下に、F-22(ラプター)と共に置かれている機体の筈。禁輸措置と厳重な守秘義務の枷に繋がれた兵器がカーティスの目の前に姿を現した事によって新たに生じる疑惑。

 実はこの作戦自体の目的が自分の覚悟と言う物を合衆国によって試す物であったのではないかと言う。又窮地に陥った自分が下した結論 ―― 背信行為 ―― によって自分に類する物に危害が及ぶのではないかと言う恐怖。此処に居る長門達自体が、実は実行部隊の本体であったのではないか、と言う疑い。

「国際軍事教育訓練(International Military Educationand Training: IMET)と言うのが同盟国間の取り決めの中に在りましてね。其の一環として日本に極秘裏に配備された虎の子の一機です。まあ、これも日米安全保障条約の恩恵という奴ですかな。」

 長門の言葉には全てを見透かした上でカーティスの欺瞞を払拭しようという響きがある。その声によって齎される安心感と信頼は、彼の経験に基づく疑問を長門にぶつけるに到った。

「だが私はあの機体が実際に運用されているのをアンマン(ヨルダンの首都)で見た事がある。『ウィドウ・メーカー(未亡人作り)』とまで言われた不安定な機体を此処まで過激に扱えるパイロット等、見た事が無い。」

「日本の自衛隊を舐めちゃいけない。」

 長門が薄笑いを浮かべながらも眼光鋭くカーティスを睨んだ。

「この国は先の大戦で世界に其の名を馳せた撃墜王(エース)、坂井三郎や笹井醇一を輩出した国ですぞ? 彼らが死んでもその理論や思想、発想や技術は連綿と受け継がれて此処に在る。彼だけではない。先人の遺した物を受け継いで新たな物を創り上げる、其れこそがこの極東の地で常に東側の強大な脅威と直面し続けた日本の原動力と財産。そして世界が『日本』と言う国を常に怖れる真の理由も、其処にある。」

 強く断言する長門の言葉に納得するカーティス。

 確かにそうだ。彼の率いた、彼の育てた『殺戮部隊』はこの地でたった一人の若者に為す術も無く全滅させられたのだから。彼の持つその技術が先人達の創り上げた技術の集大成による物ならば、全ての日本人の血脈の根底に隠れている其の資質はあの若者と同じ物である事は自明の理。

 其れこそがあの大戦後に壊滅した日本と言う国土を瞬く間に復興して再び世界の表舞台へと伸し上った、日本人の力。

「まあ、同盟国とは言えども其の思惑には色々と表と裏があるのですよ。決して胸襟きょうきん開き合う間柄とはいかない。其れは策に踊らされた貴方も身を以って思い知らされたとは思いますが。」

「まだ、私の知らない秘密が隠されていると言う事なのか。裏の世界に生き続けた私達にも知らない、何かが。」

「其れを知る為に貴方は生きる事を選択した。死ぬ事を選ばないという事は人にとって、何かを知りたいという好奇心によってしか生み出す事の出来ない貴重な感情なのですよ。獣とは違う。」

 互いに呟くカーティスと長門の視線が白衣の集団の動きを追っていた。担架を抱えた彼等が一目散に祥子の元へと向っている。其の一部始終をぼんやりと眺めながら、カーティスなりに湧き上がる疑問を長門に尋ねてみようと思った。

 此処で展開されている全ての光景。表向きには保持している筈の無い最新鋭の二機の垂直離着陸機。そして此れだけの騒ぎにも拘らず、未だに報道ヘリの一機も見当たらない静かな空と沈黙を守り続ける大地。この二つを成し遂げる為には国家単位での完全なる規制が必要な筈。

 それも『戒厳令』に匹敵する程の巨大な権力が。

「では、長門。一つ尋ねたい事がある。 ―― 貴方達『お庭番』とは、一体何だ? 」

 其の質問は恐らく彼らの正体の核心に触れる物なのだろう。其の力を縦横に駆使する彼らが『民間人』と自らを名乗るのはおこがましい。正そうとする其の質問を受けた長門が、不敵な笑みを浮かべたままカーティスに告げた。

「『鎮護の群』。今はそうとだけ申し上げておきましょう。積もる話は後ほど、お茶でも啜りながら皆と一緒に。 ―― どうやら帰り支度が整った様です。」

 其の顔に浮かぶ、息子と同じ笑顔。長門は其の答えに釈然としないまま頸を傾げるカーティスに向ってにこりと笑うと祥子の方へと吹き荒れる風の中を悠然と歩き始めた。


「此処にお連れになった碧様と其のお子様ではないのですか?」

 当初に予定された物とは異なる命令を受けた其の医師は戸惑いながらも祥子に尋ねる。医師と見受けられる白衣を纏った男の問い掛けに静かに首を振って否定する祥子。否定の意図を察した医師が、残り一つとなった選択肢を確認する様に言った。

「では、搬送するのはそちらの僧侶でよろしいですか?」

「そうして頂戴。この男の方が事態は深刻な筈。機内で救命措置をお願いするわ。私達も一緒に乗り込むから。」

「拝命しました。」

 素早く頷いた医師が振り向き様に、背後に控える集団に向ってがなった。

「 ―― おい、急いでこの男を機内に運んで! 生命維持装置の接続とドーパミン(強心剤)一単位を静注。必要ならばモルヒネも投与して構わん! とにかく殺すな、何としてでも生かして置け! 」

 声を荒げた医師の言葉に弾ける様に走り寄る集団。其の体躯の大きさに翻弄されながらも四人に抱えられた人形が、広げられた担架の上に静かに降ろされる。

 収まり切らずにはみ出した黒い右手が硝子の大地に置かれて、其の見るからに邪悪な色を彼らの目に焼き付ける。担架を持ち上げても尚も名残惜しそうに地獄をなぞる掌が静かに離れて。見た目に反して軽々しい男の体を乗せた担架は彼が全てを失った地獄を後にする為、騒々しく鳴り響く集団の足音と共に彼の到着を待つ怪鳥の腹へと向う。

「我々がこちらに乗り込むのですか? 」

 歩み寄って来た長門が祥子の命令を小耳に挟んで尋ねた。

 当初の予定では負傷者と生存者を足の速いオスプレイで搬送し、長門と祥子は事情を説明する為にペイヴホークで御山に向う予定だった。だが其の予定は状況の変化によって大きな変更を強いられている様だ。少なくとも祥子の発言を聞く限りではそう思える。

 祥子の下した判断を正確に受取る為にする長門の質問に祥子が答えた。

「御山には楯岡のチームに行って貰うわ、碧と澪様と一緒に。顔見知りが居た方が話は通りやすいでしょう。其れに澪様の治療もお願いしなくてはならないし。栄俊には心苦しいけれど、今は其れが最良の選択だわ。」

「ふむ。 …… では我々はこの機体であの男とどちらに向うと? 」

「岩手県平泉。」

「平泉? 」

 其の地名を聞いた長門の顔が僅かに曇った。眉を寄せ、再び祥子の発言を確認する様に尋ねる。

「まさか、『蝦夷えみし(すめらぎ)』の元へ行かれると? 」

 其の名を口にする長門の声にも驚きの色が浮かぶ。滅多に見せない長門の顔色を無視して祥子は言葉を続けた。

「そう。『薬師如来真言大呪』を使役できるもう一人の僧侶。彼でなければこの男の命を繋ぎ留める事は出来ないわ。それに事情を知った栄俊ではこの男を有無を言わさず殺しかねない。蘇生にかこつけてね。」

「成る程、一理ある。それにこの男を尋問するにもあのお方は適任だ。最適と評しても良いでしょうな。 …… 我々はご遠慮願いたい物ですが。しかし、あの世捨て人がそう簡単に人の頼みを聞き届けてくれる物ですかな? 」

 祥子の危惧を脳裏に浮かべて頷く長門。加えて『蝦夷の皇』と呼ばれる男の顔を思い出して思わず嫌悪感を露にする。あのサディストの手に掛かったら並の人間では死を選択するであろう。並の男とは思えないあの僧侶も、其の精神を何時まで保ち続ける事が出来る物か。

「聞くわよ、必ず。其の為の『玩具』をあげるんだもの。」

 其の瞳に残る怒りの炎。仄暝ほのくらく残る負の感情が長門の心に忍び込んで、祥子の持つ憤りの深さを認識させる。

 不憫な運命の待ち受ける男が担架で運ばれる姿を横目で眺めながら、長門が集合の合図である指笛を鳴らした。一瞬鳴る、甲高い其の音は朝焼けの雪原に踊る鶴の泣き声の様に静寂を裂いて、滑らかな大地を駆け抜ける様に響き渡る。

 其の音によって集まる人影はまるで磁石に集まる砂鉄の如し。あっという間に平伏す彼らの前で、長門の澄んだ声が響いた。

「御婆様より撤収の宣言が為された。本作戦は現時点を持って状況を終了する。各自速やかに準備に掛かれ。 ―― 楯岡、碧と共に御山に行ってくれ。澪様の治療の手配と事情の説明はお前に任せる。其れとこれを ―― 」

 長門の手に握られた一枚の手紙。其れは松長が掛川の廃寺で月読に手渡した物と同じ、連名の血判状だった。

「 ―― 依頼と共に御婆様に送られて来た物だ。栄俊殿に渡してくれ。猊下亡き後の今後の事が記されている。」

 風に煽られて千切れそうになる、松長の遺言。其の風に抗うには余りにも儚く、頼り無く舞い踊る其の書状を楯岡の手がしっかりと握って。懐の置く深くへと大事そうに仕舞い込みながら静かに頷く。

「長門様、解散する前に一つお伺いしたき事が御座います。」

「何だ、改まって。」

 楯岡の問い掛けに目を丸くする長門。其の声に隠された深刻な感情を聞き止めた祥子も静かに楯岡の問い掛けに耳を澄ませた。

「澪様 ―― いえ、『澪』の事に御座います。私共がこの子を引き取り育てる事には何の依存も御座いません。しかし仮にも座主猊下の忘れ形見である澪をこのまま私共が引き取って良い物でしょうか? 生き残った澪には澪なりの、座主猊下の後を継ぐ事になるかもしれないという大儀が存在するかも知れないというのに。」

 冷静であるが故に其の深刻な口調は浮き彫りになって長門と祥子の耳に届く。碧の心中を代弁する質問はそのまま楯岡や山田の憂慮となって質問に形を変えた。

「私には栄俊殿にその事を求められた時に応える言葉が見つかりません。如何に御婆様の命と言えども、猊下の散華と言う事実に直面しなければならない栄俊殿の心中を察すると、私には。」

「道順、お前は一つ大事な事を見落としている。」

 楯岡の質問に対して、否定的な見解から答を導入しようとする長門。其の物言いに楯岡の目が長門の目を見詰めた。

「生き残ったのは澪様とあの男だけ。事実関係だけを拾い出してみれば、それ以上でもそれ以下でも無い状況だ。だが考えてみろ。此処で只一人生き残ったという事は何を意味する? 『創生の法要』という神の代行者を見出す為の儀式を潜り抜けた『有資格者』の事を、我等は何と呼ぶんだ? 」

 其の答えに楯岡と碧の瞳が煌く。山田と帯刀が長門の問い掛けの答を記憶に準えて呟いた。

「 …… 『摩利支の巫女』。」

「そうよ。」

 祥子の声が強く。其れは澪を助け出したという希望と、真の『摩利支の巫女』を失った絶望と言う相反する感情に満ちている。それでもこれから広がる過酷な未来に対する決意を秘めた、『澪』を掲げて共に戦うと決断した『お庭番』の長としての声音が澪の未来を宣言する。

「『摩利支の巫女』を育てるのは山本家代々の慣わし。その事に付いては誰にも異論は挟ませない。そして其の子は ―― 澪様は唯一人生き残った有資格者として『摩利支の巫女』を名乗って生きて行かなければならない。 …… 本人の意思や力の有無に関わらず、否応無しに、ね。」


 鳥が啼く。風が吹く。其の世界をみてぐらとする生き残りが舞い戻る。変わり果てた住処の惨状に抗議の声を上げる彼等を粛清する様に、人に造られし怪鳥は二つの羽から風を切り裂く嬌声きょうせいを上げた。彼の羽の下で圧縮される濃密な大気が捌け口を求めて硝子の荒野を駆け渡る。

 吹く風に抗って開放されたままの後部ハッチへと向う祥子達の後姿を見詰める山田の瞳。其の隣では帯刀が数を数えている。撤収の際に残存する兵士の数を数えて損耗数を調べるのは殿の役目である。オスプレイの後に離陸する楯岡のチームはペイヴホークの機内に乗り込んだまま、課せられた義務を遂行していた。

「 …… 九、十。それとあの男とカーティスさんを入れて十二。大丈夫、損害ゼロ。異常有りません。」

「 …… 何だ、お前いつの間にカーティスの事を『さん』付けで呼んでんだ? 」

 帯刀が付けたカーティスの敬称を聞き咎めて山田が尋ねる。其の問いが心外だと言わんばかりに帯刀はそっけなく答えた。

「今からですよ。だって仲間になるんですから。それに年上の人を先輩の様に呼び捨てにする度胸は僕には無いですよ。」

「じゃあ聞くけどよ、何で俺の事は『山田さん』とか『兵庫さん』じゃなくて『先輩』なんだよ。播磨の事は『柘植さん』とか呼んでるくせに。」

「呼びましょうか? 今からでも。」

 悪戯っぽく笑いながら声を掛ける帯刀の顔を見詰める山田。宙に視線を躍らせて頭の中で其の言葉を反芻はんすうする山田。幾度か頭の中で繰り返した挙句に、諦めた様に呟いた。

「やっぱ、いいや。 …… 気持ち悪い。」

 予想通りの回答に破顔する帯刀。其の目が困惑したままの山田の顔から再び、オスプレイの腹の中に飲み込まれる仲間の姿へと移動して。

「皆の事をそう呼べる内は僕の好きに呼ばせて下さい。いつかは僕も先輩の事を『山田』と呼ばなければならない日が来る。 …… 父さんと楯岡様みたいに。」

「ああ、そうだな。そうしてくれ。俺も其れまでに敬語の使い方を覚えておかなきゃな、楯岡様にでも教わるか。」

 感慨深げに呟く山田。帯刀の置かれた立場 ―― 次期頭首 ―― を考えればそれは何時訪れるか分からない。それは今直ぐかも知れないし、自分達のどちらかが死んでしまえば永遠にやって来ないかも知れない。だが其の光景を現実の物にする為には、しようと望むのならば。

「 ―― 強く、なんなきゃな。お前も、俺も。今以上に、今日以上に。」

 言葉を切って選びながら呟く山田。其の言葉を噛み締めながら小さく頷いた帯刀が突然、小さな疑問の声を上げた。

「あれ? 」

「どした、帯刀? 」

 帯刀の声に反応する山田の目が、恐らく其の原因であろうと思われる光景を目にする。オスプレイの後部ハッチから乗り込もうとする仲間の列からするりと人影が擦り抜けた。其の人影は立ち去った道筋を辿って駆け戻って来る。

「 ―― カーティスさん、ですね? 」

 帯刀が声にするまでもなく山田はカーティスの姿を認識していた。離陸寸前にまで高められた推力の風圧に飛ばされそうになりながらそれでも頭を下げ、抗って走るカーティス。其の足は迷う事無く、山田達が乗り込んで出立の合図を待つだけのペイヴホークへと向っている。

「何やってんだ、カーティス! 置いてかれちまうぞ? 」

 既に頭上で咆哮を始めたエンジンの音に負けない様に、笑みを浮かべながら叫ぶ山田。其の言葉を掻い潜る様に走り寄るカーティスは、山田の目前へと。辿り着くなり息も切らさずに、カーティスは山田に言った。

「忘れていた。さっき思い出したんだ。長門と楯岡が手紙を受け渡ししていたのを見て。」

「忘れていたって? 何を思い出したんだ、一体。 」

 山田の前に差し出されるカーティスの手。其の指に摘まれた、折りたたまれた小さな紙片を山田は不思議そうに眺めた。

「君にこれをお願いしたい。『此処で死んだ』私には其の資格が無いのでな。」

 カーティスの目が真剣な色に充たされている事を、瞳を見詰める山田は知った。其の願いを聞き届けようとする意思を表す様に、無言で其の紙片を手の中へと収める。

「何の資格だ、カーティス? 」

「死者が死者を弔う事は出来ない。それにこの有様では此処で命を落とした私の部下達の亡骸も私の存在と同じ様に跡形も無く失せているだろう。 …… 誰にも知られる事無く、認められずに消えて行く彼等の魂のはなむけに、君がこれを此処に置いて行ってくれ。」

 指揮官として、部下を死地へと追い遣った責任。そして只一人生き延びた事への悔恨。此の世を為す術も無く後にした部下への憐憫を言葉に覗かせながら、カーティスは山田の顔を見詰めた。山田の視線が紙片を握り締めた拳に落ちて、静かに尋ねる。

「何故、俺に頼む? 」

「君が彼等の最期を看取ったからだ。君には其れをしなければならない責務がある。」

 一貫する動機と道理、そして共感。反論の隙すらないカーティスの申し出に、山田は振り返って暫くの時間の猶予を楯岡に視線で求める。懇願する山田の瞳が小さく頷く楯岡の動きを目にして、再びカーティスに向き直った。

「分かった。これは俺の手で必ず此処に置いて行く。 ―― 何が書いてあるんだ? 」

「聖書の中の、私が好きな一節が書かれたページだ。 …… 今までは其の言葉で何度も心が救われたが、今の私には必要の無い物だ。」

 満足げな言葉を残して踵を返すカーティス。『人殺しの親玉』として長く暗い闇の夢魔に侵され続けて濁った瞳が、薄明かりに充たされて自分の目と同じ青い色を取り戻そうとする空を仰いで、言った。

「やっと戦う意味を手に入れた、私と『不可視の七人』には、な。 ―― ではよろしく頼む、『山田』。」

 初めて名前で呼ばれた山田の目が丸くなって。呆然と見詰める其の視界の中を、山田と同じ様にして得たであろう時間を取り戻す様に駆け出すカーティスの後姿を眺めながら隣の帯刀が楽しそうに呟いた。

「『少年』から格上げですね。名前で呼ばれるなんて。」

「ちぇっ、もう仲間気取りかよ、全く。」

 そううそぶく山田の声にも不快な響きは微塵も無い。帯刀と同じに嬉しそうな声音で呟いた山田の足が足元のスキッドを蹴って地面へと降り立った。其の姿を煽る様に、吹き渡る風は嵐に変わる。

 巻き起こる旋風の中心へと視線を送る山田の先で、離床したまま定置旋回するオスプレイの機体が朝日を受けて煌いた。両翼端のエンジンが徐々に其の巨大なプロペラを前方へと倒し始めて、離床に費やす力を残らず推力へと変換する。掛かる力の速やかな移行は、山田とペイヴホークの機体を絶えず震わせていた巨大な大気の塊を地表面から消失させた。

 緩やかな離陸上昇線を描きながら山田の頭上をけたたましく通過する怪鳥の影。相対速度を上げて飛翔するオスプレイに向って暫しの別れを告げる様に、一回だけ山田の手が空を掻く。其の影は山田の見送りに応える様にやはり一回だけ両翼を振って、そのまま次の目的地を目指して朝日の中へと消えて行った。

 怪鳥が飛び去った後に残る、静寂とは言い難い荒野の上を歩き出す山田の足。ペイヴホークのローターが巻き起こす風の支配から逃れた、目と鼻の先の剥き出しになった地面に目指す物は落ちていた。

 爆心地の地面に転がっている壊れた忍刀を拾い上げた山田がその場に跪いて、カーティスから預かった紙片を丁寧に、破かない様に開いてみる。

 それは恐らく其の持ち主と共に数々の戦場を渡り歩いた物なのだろう。黄ばんで、折り目が破れ掛けて朽ちた紙片。だが持ち主の心を救い続けた其の一節を囲んだ色鮮やかな赤い線だけは、折れない心を携えたカーティスの人と形を主張する様に山田の目を捉える。

 静かに其れを地面へと広げる山田の手。指で押さえた其の紙片目掛けて、もう片方の手に握り締めた壊れた忍刀を力一杯突き立てた。

 彼の手向けが彼らの魂から離れて行かない様に。

「 …… またな。」

 片手を胸の前に上げて目を閉じて、静かに拝む山田の姿。

 剣に貫かれて地に留められたカーティスの遺言が山田の祈りに応える様に、風に吹かれて手を振った。


 離陸したペイヴホークは彼等を乗せて超低空で地獄の跡地を離脱する。滑らかな硝子の荒野が跳ね返す朝日が機内へと乱反射して其処に乗り込んだ仲間と『巫女』の現実を照らし出す。応急処置として包帯でぐるぐる巻きにされた澪の顔を見詰める碧と、澪を抱える碧の姿をぼんやりと眺める山田。

 やがて其の光景も境界線を飛び越えた瞬間に光と共に消失した。正面から新たに差し込む太陽の輝きに照らし出される山田の顔。押し寄せる新たな今日に其の目を細めて。

「 …… そう言えば、先輩。さっき、」

 山田の正面に向かい合わせに坐る帯刀が何かを思い出した様に尋ねた。其の問い掛けに無言で視線を向けて、其の先の言葉を促す山田。

「碧様に澪様を手渡した時に、楯岡様と驚いた顔をしてましたよね? 一体何があったんですか? 」

 無邪気な其の問い掛けに、暫くの無言を貫く山田。眩しそうに目を細める其の表情は決して何時もの山田の表情で無い事が帯刀には理解出来た。

 何処か不機嫌で、悔しそうな其の顔。

 真直ぐに、視線を逸らさずに不機嫌の答を求める帯刀。其の瞳の力に耐え兼ねた様に、山田が重い口を開いた。

「 …… 笑ったんだよ、碧姉ぇが。」

 そう呟いた山田の目が蓮向かいの楯岡の方を見る。楯岡は無言で朝焼けに照らされた窓の外の景色を見下ろしたまま、身動きもしない。雰囲気こそ異なるものの二人の心には共有した経験による共通した心理が流れている事が、第三者である帯刀には見て取れる。

 違える景色を眺める二人が共有する物、其れは敗北感。

「良かったじゃないですか、碧様に笑顔が戻るなんて。それだけでもこの作戦の成果じゃないですか。 …… 何でお二人ともそんなに不機嫌なんですか? 」

「そんなの俺達の手柄じゃねえ。」

 吐き棄てる様に山田が毒吐いた。押さえていた悔しさが込み上げて、山田の口が独りでに動き出す。

「澪様を助け出したのはあの坊主だ、俺達じゃねえ。 …… 碧姉ぇの笑顔を取り戻したのも、結果的には奴だ。俺達に出来た事は其れを周りで眺めながら、逃げ出した。 …… それだけじゃねえか。」

「そんな事言ったって、あの状況じゃしょうがないですよ。御婆様の法力も、楯岡様の秘儀も通用しない相手とどうやって戦うって言うんですか? 僕達は人間です。彼等の様な『魔法使い』じゃない。」

「分かってる! 」

 山田の突然の怒声に帯刀が息を呑む。其の反応を見た山田の瞳が、遣り場の無い怒りを帯刀にぶつけてしまった事を侘びる様に視線を逸らした。

「分かってるんだけどよぉ …… 」

 其の目は自然と彼らが後にした地獄の跡地へと向う。回り込む様に旋回して人目に付かない航路を取るペイヴホークの窓から、朝日に輝く巨大なクレーターが林の影へと隠れて行く。遠ざかる景色を見詰めたままの山田の口が、決して人には漏らさないであろう其の言葉を思い詰めた様に呟いた。

「 …… くそっ、負けた気分だぜ。」

 眉間に皺を寄せたままの山田の目が再び碧と澪を振り返る。視線の先に浮かぶ碧の笑顔を見詰めたまま、敗北と安堵の入り混じる、受け入れ難い複雑な想いに包まれて。


 遥か彼方に遠ざかる鉄の羽音と入れ違いに、遠くで巻き起こる現実の喧騒。大勢の人いきれとサイレンの音。全ての者が立ち去った異界の爪痕を、世界は取り込む為に新たな産声を上げる。

 その意志を嫌う様に、未だ無人の荒野を吹き渡る一陣の風。其れは朝日に煌く刃の先に繋ぎ止められた一片ひとひらの紙切れを強く揺らした。

 研ぎ澄まされた刃が其の紙片を切り裂いて。戒めを解かれた其の紙は、押し寄せる現実と人の目から逃れる様に、風の導きに従って空高く舞上がる。

 其処に記された聖書の一節。それは旧約聖書の中に記された、ソロモン王が契約の箱を前にして神に誓った言葉であった。

 神に誓った其の言葉は、神の御許へと舞上がる。

 人が犯した罪に許しを請う様に。




       あなたは、あなたのすみかである天で聞いてゆるし、かつ行い、おのおのの人に、

   

       その心を知っておられるゆえ、そのすべての道に従って報いてください。

 

       ただ、あなただけ、すべての人の心を知っておられるからです。





                       ―― 列王紀上 第八章 第三十九節 ――




                               

                                             序章  了

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