魔 界
灯篭が放つ仄かな灯りに照らされた石畳を赤塚と松長は駆け抜ける。其の速さ、疾風の如く。
『韋駄天の法』を使役する警護の法力僧とほぼ対等の速度。それは座主たる二人が如何に今まで過酷な修行に耐えてきたか、又誰よりも多くの齢を重ねていながら未だに修行や鍛錬を怠っていない事を意味していた。息をつく暇も無く一気に目的地に辿り着く。
與教上人の御廟 ―― 『奥の院御廟所』と一般に称される建物。それは根来寺最深部に位置する、開祖覚鑁の亡骸を安置した墓所である。普段は木々のざわめきや鳥や虫達の鳴き声に囲まれて佇むこの場所も、覚瑜が報じた異変を境に今では大勢の僧侶達が手にした明かりに照らされて、其の質素な家屋を暗闇の中に浮かび上がらせていた。二人の姿を認めた僧侶達が跪く間を赤塚を先頭に、覚瑜そして松長の順に続いて建物に近寄る。
赤塚が手にした明かりを廟所の入り口に向けた。一見すれば何事も無いかの様な景観。しかし赤塚は一目に異変に気が付いた。そしてそれは後の二人も同じく。
「『金剛封印』が解かれている。間違い無く誰かが開けたのじゃ。」赤塚から漏れた其の言葉の深刻さは隠し切れない。
「はい。破壊ではなく解呪されています。事が事ですので急ぎお知らせした次第に御座います。」
「覚瑜。この封印の解呪を知っている者は? 」三人の落とす影の中に打ち棄てられた、黒焦げの紙切れ。存在に気が付いた松長が其れを ―― 扉から剥された封印札 ―― を拾い上げながら尋ねた。
「はっ。私と座主 ―― いえ、赤塚様と、覚慈の三人に御座います。」
「誠に相違無いか? 他に誰か知っておる者はおらんのか。」
「御意。例え其れを何らかの形で知る者がいた所で、この封印を解呪する事はこの寺の僧には不可能。何故なら解呪に必要な『不動明王印』を使役出来る者が、先に挙げた三名しかおらぬからに御座います。」
覚瑜の口から流れる澱み無い回答が、二人の口から無念の唸りを漏らさせた。次第に明らかになる二人の座主の深刻な面持ちに、不安に襲われた覚瑜が尋ねた。
「非礼を承知で御伺い致します。猊下と赤塚様はもしかして拙僧をお疑いになられていらっしゃるのでしょうか? 」
「違う。『お前』を疑っている訳ではない。」
そう言う松長と赤塚の視線が交錯した。二人が交わした推理の結果は肯定の方向へと大きく針を向けた様だ。ゆっくりと立ち上る二人を追う覚瑜の視線が不安から不審へと変化した。
「お待ち下さい、猊下。それでは拙僧が求むる答えになっておりません。お二方は一体 ―― 」
「理解せよ、覚瑜。答えはもう一つしかあるまい。」
尚も食い下がろうとする覚瑜の問いを断ち切る様に赤塚が答えた。その声が震えている。
湧き上がる失望を押さえる為なのか、吐き出されようとする慟哭を押さえる為か解らない。
「そんな、まさか覚慈 …… あいつが? 」
間の抜けた声だと自分で思った。覚瑜から思わず漏れたその言葉に肯定の意志を示す二人の顔。撤回を求める覚瑜の膝が勢い良く立ち上がって、二人の座主の顔を代わる代わる見詰めた。
「そんな事は有り得ない。奴は今頃金沢でお勤めを果たしている頃です。第一奴が我らを裏切る理由が何処に有るとおっしゃられるのですか? 」
「そう、理由は解らない。」応える松長の意識は既に覚瑜にではなく、御廟の周囲に向けられていた。
「だが、事実だ。覚慈は神奈川の長谷寺に赴き、『裏法要』の最中の星宿の僧らの全てを抹殺したのだ。『月読の陣』ごとな。」
「座主猊下、…… 今何とおっしゃられましたか? 」覚瑜より先に同じ言葉が赤塚の口を突いて出た。
「『星宿の者』が、沈められた? 」其の問いは事情を知る全ての者にとっての衝撃。意味を知る全ての者の瞳が衝撃で見開かれた。
「そうだ。」静かにその場で瞑目する松長の姿。
「我が娘、『第24代 月読』は散華した。離反の者、覚慈によってな。」
断固とした松長の宣言に続いて広がる重苦しい沈黙。其の衝撃の大きさは警護の十二神将まで巻き込んで、御廟を取り巻く空間全体に広がる。
宗派筆頭であるよりも先ず父親。其の口を持って我が子の逝去を宣言する其の心境はいかばかりか? ましてや其の犯人が退魔師とは!
様々な思惑に凍り付く空気を打ち破るように突然、松長の喝が響き渡った。
「馬鹿者! 呆けておる場合か、周りを見ろ! 」怒鳴った松長と赤塚は既に両の手で印を結んでいた。
松長の喝によって石化を解呪された僧達も直ぐに異変に気づいた。松長達を取囲む様にして一斉に円陣を描く。
「覚慈め、入定結界を壊して地縛を開放したな。」
そう言う赤塚の右手には既に独鈷杵が握られている。松長の方は未だに印を結び続けていた。詠唱が終わるや否や金色に輝く両手を地面に叩きつける。金色の光が松長を中心に同心円の波と化して一体の林の中をひた走る。光の中に浮かび上がる異形の者。形など無く、ただぶよぶよとした黒い肉塊の様な物が完全とも表現できる包囲を完成させていた。
「奴の狙いは唯一つ、」立ち上った松長の手にも既に金剛杵が握られていた。
「この法要の阻止だ。我らさえ亡き者にすれば『摩利支の巫女』はこの世に現界しないからな。」
「やはり『天魔波旬』が裏で糸を引いていると? 」赤塚はゆっくりと立ち上って右手を前に差し出す。左手は雷帝印を結んだまま右手に添えて。
「我が身内が篭絡するなど、どう言う手を使ったのだ? 」
「何ともいえんが、相当に強力な力を持つ者には違いない。いや、あるいは、」松長は金剛印を結ぶ。右手の金剛杵の両側が光の刃となって伸びていった。
「組織かも知れんぞ。我等の様な。」
不確定な分析結果を松長が口にした瞬間、外円部を守る僧侶達の一角が遂に異形の者達によって悲鳴と共に崩された。
元々退魔師ではない彼らにとっては、このような死霊の群れを相手にする事など不可能だ。座主を守らんとする義務と襲われる恐怖の板挟みになった心の迷い。死霊はそこを容易く突き、心に侵入し、支配する。形を持たぬ彼らが一番望む物とは現世で活動を果たす為の『肉体』に他ならない。黒い肉塊は彼らを飲み込み、染み込み、そして支配した肉体を利用して新たな獲物に迫るのだ。
そうなってはもはや一巻の終わり。彼らの魂ごと成仏させる以外に助かる方法は存在しない。
生き残りの僧侶達が我先にと逃げ出した。逃亡は円陣瓦解の連鎖を呼び、防御陣の外円部が崩れをうって壊れ始める。その時。
逃げ惑う僧侶の濁流を掻き分けて死霊の眼前へと進み出た黒い法衣が、混沌の連鎖が続く僅かな間に立ち塞がった。何事かを小声で呟きながら、ゆっくりと左手を悪霊の群れの前に翳す。
「破っっっっ!!」
小声は詠唱。言葉の終わりに間髪要れず、裂帛の気合と共に打ち出される法力。覚瑜の眼前の空間に一瞬にして展開した魔方陣が、今正に襲いかからんとしていた死霊を跡形も無く霧散せしめた。血煙の漂う其の中を覚瑜はずい、と更に進み出る。
「皆の者! 猊下と赤塚様を連れてこの場を立ち去れ。神将、何をしている。此処は根来で最も穢れた地であるぞ。消耗戦に陥りたいのか!? 」
そう怒鳴って右手の長鈷杵を勢い良く地面に突き立てた。真言を唱える声と共に胸の前で組まれる両手が、結印の残像を仄かな光の中に奔らせる。
「オン シュチリ キャラロハ ウンケン ソワカ! 」
詠唱の終了と共に長鈷杵を引き抜く。浮かび上がった刃の長さは凡そ4尺。大太刀に変化したそれを、覚瑜は肩に担いで悪霊達の前に対峙した。
敵を睨む眉は釣り上り、口元は粗野な笑みさえ浮かべるその貌は既に何時もの温和な僧侶の風貌ではない。それが一部の者にしか知られていない“根来の阿吽”の片割れの素顔であった。
大威徳明王真言。結縁灌頂によって覚瑜の守護神と成った大威徳明王。降三世明王・毘沙門天と並んで神代の時代より悪の調伏を生業とした憤怒神の一。西国で不敗を誇った其の力を、覚瑜は解放しようとしている。
十二神将に取り囲まれながら赤塚は叫んだ。
「いかん、覚瑜よ! 此処で力を使ってはならん。上人様の御廟の御前であるぞ! 」
赤塚の危惧も、覚瑜の戦意を抑える事は叶わない。
「赤塚様。残念ながらその御命令は承諾出来かねます。」
視線も向けずに応える覚瑜の目が、ちらりと十二神将を見やって移動を促す。有無を言わさぬその眼光が残った円陣を構成する全ての僧侶達の行動を支配した。参道の出口の方に少しずつ移動を始めた防御陣を確認して、覚瑜が言った。
「奴は ―― 覚慈はそれ程甘くは無い様です。」
「やはり此処に来ているのか!? 」赤塚の声が更なる緊張を呼ぶ。僧侶達が一斉に周囲の森を見渡した。それに応えるかの様に、森全体が魔咆を轟かせる。
「はい。それも、」目を細める。「今迄見た事も無い位に、大きく、禍々しい。兎に角『常世の者』を総て調伏せねば、引きずり出せないでしょう。」
そう言うと大太刀を一振りして、体の脇にだらりと垂らした。二階堂平法、八の位。退魔行の死闘の中で自然と身に付いた構えである。
「此処は私が引き受けます。猊下と赤塚様は安全な所に。 ―― 神将。此処を離れたら何でもいいから結界を張れ。奴らの一片たりとも外に逃さぬ様にな。」
「主はどうするのだ? それでは主も出られんぞ。」松長の問いにも覚瑜の覚悟は微塵も動じない。
「覚慈もろとも、私が全て調伏致します。」
覚瑜は二人を横目で見た。
「猊下。赤塚様。もうお会いする事も出来ないかもしれません。 ―― 私は罪を犯しました。」悔いる様に、恥ずかしそうに語る。
「私は先程までこの法要を阻止しようと考えておりました。“星宿の予言”の違える事が無いと言うのならば、今日見出される者は神の力を持って数千万 ―― いえ、もっと多くの命を殺める運命を宿した者。如何に『救世』の為とはいえ、その様な者を見出して良い物かどうか。もっと他に良い方法、」
覚瑜の右手が震え始める。法力の集中が始まっていた。
「善良な人々が悲しむ事の無いような、我らだけで戦う方法が無いのかと考えておりました。」
覚瑜の告白に、松長と赤塚を警護していた十二神将が一斉に手にした錫仗を構えた。シャリンという金属の響きが覚瑜の無防備な背に向けられる。だが十二本の殺気を浴びせられても、覚瑜は全く意に介さなかった。
常に視線は悪霊達に向けられ、「懺悔の邪魔をするな」と言わんばかりの眼光で悪意の侵略を奥の院の大地に縫い付けていた。
「待て、神将。構えを解け。」松長の命令だった。もう振り返る事の出来ない覚瑜の背に向けて言った。
「主の本心、多分間違っておらん。儂とて ―― 」
「いいえ、猊下。 ―― 私は間違っていた。」
その物言いは松長が驚く程の勢いで強く言い放たれる。二の腕が輝き、腕と長鈷杵が光で繋がり一本になろうとしていた。
「私の相棒を篭絡し、月読様を殺し、敬愛する上人様の眠りを妨げ、この地に鎮める怨霊を解き放ち、我ら真言の導き手を抹殺しようとする。」
直下を揺さぶる地鳴りが足元から波動となって地面を突き抜ける。覚瑜の憤怒は法力の逆流を生んだ。押さえ切れない力が周囲から噴出し、焔の様に体全体を包み込む。
「そう言う輩が、私達の敵。人の心を惑わせ、弑虐し、支配しようとする。それは私と覚慈が調伏した物と何ら変りが無い。『天魔波旬』が人かどうかは解りませんが、奴は調伏されるべき『魔界』の者です。」
そう言うと覚瑜は一歩を踏み出した。焔の輝きに押されて、その場を埋め尽くした黒い肉塊が後ずさる。
「さあ、もう時間が有りません。直にここは怨霊の放つ瘴気で「生」を禁ずる場所になります。御早く御立ち去りください! 」
「だが、覚瑜。相手は主の相方ぞ! 勝てる見込みはあるのか? 」
二人の力量を知るからこそ、赤塚の不安は増大した。
両者は法力の性質こそ違えど、ほぼ互角。『攻の阿仁王』覚瑜と『守の吽仁王』覚慈。互いが弱点を補ってこそ『阿吽』と名を冠された者が袂を分って戦えば一体どう言う事になるのか? いや、そもそも悪鬼と化した覚慈に人の身たる覚瑜が敵うのだろうか?
「赤塚様 …… 」叫びを受けた覚瑜の両肩が微かに動く。
そう。覚瑜にも確固たる自信は無い。
断言したのはいいが、その身に感じる力は以前の覚慈の物では無い。それは眼前に聳え立つ崖の様に大きく、若しくは足元に切り立つ千尋の谷の様に深く。自分が過去に調伏した如何なる存在よりも、圧倒的な力の差を感じずにはいられなかった。
だが、しかし。
「 ―― 座主様。御心を煩わせて誠に申し訳御座いません。しかし。」
禁忌を犯して、赤塚の事を再び『座主』と呼ぶ声が一瞬途切れた。慟哭と悲哀。溢れる二つの感情を必死に押し留めたまま。
「幼き日に我らを引き取り、育てて頂き、有難う御座いました。座主様の恩に報いる為にも、私が奴を止めます。それに、」覚瑜の視線がちらりと御廟の方に流れた。
「全く無策と言うわけでも御座いません。」
目を逸らさない赤塚にこそ理解できるその意味。それは唯一無二の禁断の手法。
「上人様の肝を食らう気か!? 」
覚瑜は赤塚の其の叫びに答えた。
「もし我が力が及ばない時には、上人様の御力をお借り致します。」
“災いが起きた時の唯一の方法”それがこれだった。「其の上で、上人様の代りに私自身が入定結界を張って、この地を鎮めます。」
「覚瑜! そのような事を儂が許すとでも ―― 」
「解った、覚瑜。主にここは任せる。」激昂した赤塚を押し止めて松長が静かに言った。
それはここで死ね、と言う事。赤塚にそれを言う事は出来ない。二人の息子を互いに殺し合わせる事が出来る親などいない。しかし其の方法に委ねるしかないのであれば、そうするしかないのだ。
そしてそれを命令するのは真言宗座主たる自分の役目。非道と呼ばれても貫かねば成らない己が使命なのだ。例えそれで心が襤褸に引き裂かれたとしても。
「お許し戴き、ありがとうございます。 ―― 猊下、」
緊張していた覚瑜の声音がふいに緩んだ。其の変調に、松長と赤塚は既に一介の退魔師と化した男の背中を見た。
「今でも私は『摩利支の巫女』を認めた訳ではありません。他の方法が有る筈だと信じています。ですが、」
構えが変る。八の位から一の位へ。上段に引き上げられた長鈷杵が法力の焔を纏って唸りを上げる。
「もし、彼女が生まれて来るしか術が無いのなら、大勢の人々を彼女が其の手に掛けるしかないのならば、」
一気に振り下ろす。光の刃が目前からその後方彼方に到るまでの死霊を斬り捌いた。轟音と同等の呪詛の声が森中に響き渡る。
「私は彼女の傍に居りとう御座います。万が一、生きてこの場を潜り抜けられたならば、私は。」
何故そんな言葉が浮かんできたのか? 死地に赴こうとする我が身が抱えたいと願う、その身の程知らずな言葉を思って、覚瑜の口角が微妙に笑いの姿を象った。
「 ―― 守りたい。」
それは、決意であり希望。言い終わりの力が下段の刃を逆袈裟に斬り上げる。空間を奔る光と共に上下に分断され大地に沈む怨霊の群れ。
「彼女を、絶望の宿命から。そして出来るだけ人を殺さぬ方法を彼女と二人で …… いや、そうじゃ無い。彼女の運命に関わってしまった全ての存在と共に考えたい。」
構えは再び八の位へ。両腕を斜め下に広げて怨霊の只中に分け入ろうとする。
「そう。」最早それは覚瑜の声ではない、何か別の存在が発する音と化していた。
「人にも神にも、定められた運命など無いのだから。」
赤子が、目覚めた。空を睨む。
奥の院から続く石畳が途切れた所で十二神将が結界を張った。風の様に走り去り、あっという間に奥の院を取り囲んだ十二人の法力僧が一斉に呪文を唱え始める。
一字金輪の結界法。効果は短時間ではあるが、如来部の結界の中では上位に属する。何よりその利点は全ての事象 ―― 特に音 ―― を全く外部に漏らさないという事である。無論完成してしまえば十二人分の法力で構成されるそれは、中からも外からも打ち破る事は至難の業となる。
詠唱が終わると、法力僧の足元から擦り硝子の様な壁が立ち上がった。それは見る見る高さを増して完全な半円型になり、奥の院を大きく取り囲んで、消えた。
先程までの喧騒が嘘の様に静まり返った境内。だが囲まれた結界の中ではどちらかの息の根が止まる ―― 或いはどちらも死に絶える ―― 迄続く闘鶏が行われている。
赤塚は、今は闇の向こうへと消えた奥の院をじっと睨んでいた。その結果を見届けたいと言わんばかりに。その赤塚に向けて松長の緊張した声が向けられた。
「赤塚。法要の時間を前倒しにしようと思う。急いで準備してくれ。」
「松長。 ―― いえ猊下、御待ち下さい。未だ覚瑜が退魔行の最中にございます。せめて大勢が決するまで。」
「で、覚瑜が敗れれば御主が次に出て行くと言う訳だな? 」赤塚の考えは御見通しであった。
我が友、我が弟子の犯した不始末を濯ごうという赤塚と、覚瑜の気持ちは良く解る。
「だが、それで主まで敗れればどうするのだ? 」
あの覚瑜の覚悟に触れた者なら誰でもが持つ、素朴な疑問であった。
真言宗の中でも五指に入る退魔師、覚瑜。それ程の実力者があれだけの法力を開放して尚の決死の覚悟。禁則まで使用して互角と言うのであれば、覚瑜が破れた後に如何なる力が通用すると言うのか?
確かに赤塚も松長も比類無き法力を備えた退魔師の一人では有る。しかし赤塚とて一介の人間に過ぎないのだ。
松長の問いに赤塚は答えない。汚名を濯ぐ事も許されず、唯じっと“二人の息子”が果てるのを待つしかない老人の背中が震えている。
解るのだ。実の娘を失った我が身なればこそ。
「赤塚、やるぞ。」反問は許さず。短い言葉に強い決意が表れる。松長は尚も声を張って、避難して来た僧侶達に告げた。
「これより二時間後、『創生の法要』を執り行う! 予てより打ち合わせた通り、各々準備にかかるのだ。よいか、」言葉を切る。筆頭として考えてはならない事。しかし今は其の言葉を口にする。
平等で無くては成らない立場を捨てて、娘の敵を、怨敵を調伏しようとしている男の為に。
「覚瑜の覚悟を無駄にするな。必ずや『摩利支の巫女』を見出し、比類無き退魔の力を手に入れるのだ。それが彼の覚悟に報いる唯一の方法だ!」
松長の言葉に赤塚が振り返った。『力を手に入れる』、其の言葉に松長の真意を読み取る。
「猊下、時間を早めたのはもしや、巫女の力を御使いになろうと、」
「覚瑜を救い出すには唯一、この方法しかない。」光を見出した男の、しかし表情は深刻で有り。
「一刻も早く彼女を見つけ出し、御主が其の力を手にするのだ。」
「猊下、其の様に事を急がれましては、猊下の御体が持ちません! 我らが前で万が一の事が有ったら、我々は如何にすればよいのですか!? 」
『創生の法要』。その全貌を知る者は少なく、ましてや其の中心にて加持祈祷を行う者がどういう事になるかを知る者は、座主の立場に座る者しか知り得ない事だ。
無論二人は知っている。この場合、中心に立つ松長は其の法力を全て使い尽くす事になるのだ。そして彼は二度と力を行使する事の出来ない、只の僧侶となる。『座主猊下』という恩名を死ぬまで抱えて。
それ程の事を、準備も侭ならないまま始めればどう言う事になるのか?
赤塚の懸念をそっけなく受け流す松長。
「死ぬかもしれんが、仕方ない。」法力の枯渇は生命の枯渇と同義。しかし松長の言葉に恐怖は無かった。
「だが、覚瑜も言っていただろう。」松長がじっと、参道の闇を見詰める。
「それしか方法が無いのだとしたら、そうする。後の事は残った者が引き継げば良い。それが ―― 」
それは自らも掲げる持論。そう言うと松長は踵を返した。石畳を寺務所に向かって歩き出す。
「 ―― 遺志、という物だ。」
赤塚が独鈷杵を手にした。小さな声で念を込めて参道の奥へと放り投げる。一直線に闇を掛けぬける光の矢は突然、空中で弾かれた。乾いた金属音を残して地面に突き刺さる。
「赤塚。」松長が言った。
「結界の準備を頼む。御主の結界が準備出来次第に法要を始めたい。どのくらい掛かるか? 」
既に二人は座主とその配下の僧侶の関係に戻っていた。松長の背後で跪きながら頭を垂れて答える。
「最速で一時間半ほどかと。」、
「遅い。一時間で仕上げろ。良いか? 」
松長の問い掛けに赤塚は黙って頷く。今この時点に於いて、座主の発する命令は絶対である。こうなった以上は松長の意志に従うしかない。座主自らが命を掛けると言うのであれば、そこに何の疑問を挟もうと言うのか?
「それでもあの男は、夜通し敵と戦う事になる。」心無しか、松長の歩みが速まった。
「俺はな、赤塚。此れほどまでに神仏に奇跡を祈った事は今まで無かった。 …… それはお前達のやり方であるにも関わらず、だ。」
赤塚は其の言葉に微かに頷き、立ち上って松長の後に続いた。自分の為さねばならぬ事を準備する為に、松長と分れて境内の闇の奥へと姿を消した。
赤塚の投じた独鈷杵がブンと唸りを上げた。地面に突き立ったまま細動を始めたそれは、纏った微かな光を宙に撒き散らし始めた。光は粒となって一字金輪の結界に張りつき、弾ける。不可視であった筈の結界のドームが弾けた光の繋がりによってゆっくりと視覚化されつつあった。
―― 急げ、時間が無い。――
“じかんがないのだ、とおもう。ここはどこだろう。なんだかからだがぶよぶよするぞ。”
嘗て『43』番と呼ばれていた男の体が、棺桶より粗末な箱から幾人かの僧侶の手によって放り出された。両目・腕・足凡そ稼動可能と考えられる全ての場所に不動明王金縛印の封印を受け、まるで丸太の様にゴロゴロと転がり落ちる。其の丸太が、やはり幾人かの手でその場に立てられた。
「薀!《オン》」という掛け声で封印が一斉に切れた。突然の開放に『43』番はふらつく。
“あれ。ふわふわする。なんで? ひろいぞ。ここ、やま。 だれ? ”
薄っすらと『43』番は目を開いた。瞼の封印によってはっきりとした視界は確保出来無い。しかし狂った感情を持ってしても今が夜だと言う事は理解できた。
「目覚めたか、『43』番。儂が分るか? 」赤塚が『43』番の眼前に立つ。闇の中に浮かぶ白い法衣。どんよりとした眼が見つめる。
“だれ? しろいふく、だれ? みたことある。だれ? おそろしい。だれ? ”
赤塚がゆっくりと印の結ばれた右腕を『43』番の目の高さに掲げた。光を放つ。白い光が『43』番の瞳のに反射する。その光が『43』番の網膜に光と、それに纏わる在りし日の記憶を結ばせた。
“ひかり。て。しろいふく。しろい。しろい。こわい、こわい、だれ? だれ? 誰だ? 誰だ …… 貴様かあぁぁっっ!!!!!! ”
聲亡き咆哮! その姿は最後の記憶の時のまま。現人鬼と化した『43』番は、自らの姿を鬼に変化せしめた敵に向かって怒りを叩き付けた。絶命させんと振り上げた右手には法力の玉が宿る。叩き付ければ、いやせめて掠りさえすれば、それで十分息の根を止められる筈だ。自分の命と引き換えにして集めた有りっ丈の力を、この男に食らわせるだけでいい。それさえできれば、
“この身は地獄に落ちようとも構わない!! ”
『43』番の乾坤一擲の一撃は、果たして放たれる事は無かった。
「バイッ! 」赤塚の掛け声と共に眼前を走る閃光。それが『43』番が最後に見た景色だった。
印を結んだ右手が顔を横切ると、両の眼がぱっくりと裂けた。出血が少ない所が異様だ。裂け目から目を構成していた粘りのある水分がだらりと垂れて頬を濡らした。老人に叩きつける筈の法力は其の事を切っ掛けに右の掌より消滅した。集中が途絶えたのだ。
狼狽する『43』番を尻目に赤塚はしゃがんだ。その両手にはそれぞれ独鈷杵が握られている。それを気合もろとも『43』番の両足の甲に突き立てた。二本は易々と貫通し大地に彼を固定する。
赤塚は立ち上がって男の貌を見た。人であった頃は聡明であったこの男も、今では只の凶暴な鬼と化している。醜悪な顔。怨嗟にまみれたこの顔も、結局の所人間という種の持つ一面に過ぎない。 いや寧ろ此れが本質なのだ。故にいまだ嘗て如何なる宗教や強大な国家の力を用いても、人は真の安らぎを得られないでいる。我らが如何に頑張ろうともそれは叶うことの無い夢。手段無き理想など幼子の描く未来予想図となんら変わりが無いのだ。
「しかし、あのお方ならば …… きっと導いて下さる。」ぼそりと呟くと今度は両手に印を結んだ。光を放つ両手が『43』番の耳に差し込まれる。
「『43』番。お前は『戌亥』《いぬい》の方角の担当だ。しっかりお役目を果たせよ。」そういうと両手を『乾』の耳から引き抜いた。渦巻きに巻いた肉片。内耳だ。その瞬間『乾』からは表情が消えた。あれほど露にしていた憤怒の形相でさえも消え失せ、生気無き彫像となる。
舌、目、耳。脳に一番近い三つの神経を支配下に置くことによって、人を操る外道の技。かつて西行が考え、外典に記された『傀儡の呪法』の完成であった。この術を施された者は自らの肉体が活動不可能なまでに損傷するか、術者が死ぬまで、その命令を忠実に実行し続ける。
「よし。これで終わった。」赤塚はそう言うと『乾』の法衣をはだけて腹部を剥き出しにした。懐から取り出した独鈷杵を男の脇腹に突き立て、そのまま中央まで引く。腹圧で腸やら何やらの内容物がぬらりと顔を出した。溢れ出す血液の上から封印の札を貼り付けて襟を元通りに戻す。
血液の放つ緑色の光が、黒衣の上からでもはっきりと判る。目から溢れる血流が腹部の傷に届き、更に大きな流れとなって左足を伝わっていく。地面に達した血液は僅かな輝きを残して地面へと消えていった。
「赤塚様、今のは。」
あまりの凄惨な光景を目の前にして、随伴してきた一人の僧侶が尋ねた。夜目にも分かるほど顔色は悪く、かたかたと小刻みに震えている。
「万が一の備えじゃ。」そう言うと、今しがた『乾』の腹を割いた独鈷杵を黒衣の上から左胸へと刺した。「ひいっ」と言う僧侶の悲鳴が闇に響く。
「うろたえるでない。この法要は失敗する訳にはいかんのだ。例えどのような事態になったとしても、備えておかねばならん。」
赤塚は周りの僧侶にその場を離れるように促した。自らも『乾』の傍を離れる。離れ際にふと立ち止まり、既に音を失った男の耳に、周囲に聞こえない程の微かな声で呟いた。
「後生だから、言う事を聞いてくれ。」言うなりその場を足早に離れる。
離れた所で赤塚を待つ僧侶達と合流し、赤塚は宣言した。
「自在天絶界陣は完成した。皆の者はそれぞれの配置に就け。私はこのまま大師堂に向かい、猊下にこの旨報告する。」傍らに控える僧侶から大袈裟を受け取った。それを羽織る。
「明日の運命は今日、ここで決まると言ってもいい。各自、自らに与えられた任務を怠るな。良いな。」 その言葉で僧侶達は一斉に持ち場へと散らばって行った。只一人残った赤塚は大師堂への道を急ぐ。
道中、大袈裟の内側を確認する。九個の封印された肉塊 ―― かつて彼らの舌であった物 ―― と干からびた拳大の肉。赤塚はそれを手探りで確認すると、安堵の笑みを漏らした。
「これで、何とか為る筈だ。これで、」それはかつて放った冷酷な聲だった。
「私の望む未来を拓く事が出来る筈だ。」