傷 痕
高度三万六千メートルに位置する対地静止軌道上。
日本の真上からその一部始終を見詰める機械の目。中印国境上空から移動して来た巨大な円筒は下部に備えられた広角シュミット反射望遠鏡の焦点を弓形に浮かぶ小さな島に固定した。其の周囲に設置された高利得型赤外線探知センサーは地上より送られてくる数値の変異を補足して既に記録を開始している。IBMが極秘裏独自に開発した半自律型のAIを搭載した彼の頭脳はJavaで組上げられた膨大なプログラムの一つに従って彼自身に与えられた任務に忠実に従おうと全ての機能と回路を開いた。
彼の名はDSP。アメリカ空軍宇宙軍団に所属する早期警戒衛星。三機一組で構成される弾道ミサイル衛星早期警戒システムの要となる一つである。
全長はパネルを全て展開すると十メートルを超え、其の重量は二千四百キロ。衛星としては規格外の威容を静止軌道上に浮かべるそれは地上の全ての異変を感知し、記録し、主であるアメリカ空軍へと即座に知らせる任務を持つ。その事を考慮するなら自動的に移動した彼の行動は至極正しい反応だった。
彼の眼下に突如現れた閃光と熱。それは彼が観察する様に命じられた対象の一つ、『核爆発』に余りにも類似した反応を見せた故である。
彼の管制を取り仕切る係官が眼下の地上に設けられた小さなオペレーションルームで事態の異常を知らせる通信内容に狼狽する中、彼は進行する事態に対応して自動的に地表が爆発する映像と分析データを機械ならではの正確さで其の輝きが消失するまで黙々と記録し続けた。集められたデータは彼の頭脳に据えられた一テラバイトのメモリ内で圧縮された後に暗号変換され、一括して地上に送られる手筈になっている。
全データの回収が終了した事を確認した彼は教え込まれた手順通りに圧縮化を着々と推し進め、特殊な合言葉が無ければ瞬時に消去されてしまう暗号変換データをトランスファゲートへと速やかに押し込んだ。
AIが送信コマンドをゲートに送り込もうとプログラムを立ち上げる。複雑且つ多様な事態に対処する為に構成されたディレクトリの中から急いで『Do It』の命令文を掘り起こす為に彼の体を電子の波が駆け巡る。その時彼の体に異変が起こった。
遥か彼方の光から押し寄せた、目に見えない何かが彼の全身を貫いた。体中に張り巡らされた彼の神経とも言うべき電子回路が火花を上げて瞬時に断ち切られる。各部で途絶える信号は全ての命令文を焼き捨てられて立ち往生する。事態の異常を察知した彼のAIは彼に襲い掛かった攻撃の分析へと残った能力の全てを振り向けた。
僅かに生き残った全センサーからの情報が断片的に集められて、彼は途絶える意識の隙間でそれを読み取る。1bitまで能力が低下したCPUを介して送られるテレメトリーに記録された数値は、彼が想定された量の数倍にも及ぶ宇宙線に被曝した事を示していた。
それは予期せぬ太陽フレアの発生。
全身の機能の殆どを破壊された彼は全ての活動を中断して、幾重もの鉛の壁で厳重に保護された非常回路を立ち上げた。
全ての機能から独立して起動する保護回路。其処に記載された物は彼にとっての遺書と呼ぶべきプログラム。彼を開発した技術者達が、彼等が愛した世界を彼の存在によって傷つけまいとする、最後の良心とも呼ぶべきプログラムだった。
推進剤のヒドラジンに火が入る。全身に取り付けられたスラスタから残らず高温のガスが噴出して、彼は其の巨体をゆっくりと静止軌道上から持ち上げた。急速に絶対零度まで冷却されたガスが噴射煙の様に宇宙空間に吐き出されて、彼は遠ざかろうとする地球の姿を既に盲いた目のレンズに焼き付ける。
彼の逝く先は『墓場軌道』。静止軌道から遥か数百キロ離れた場所に位置する、そこは文字通り衛星達の墓場。死を迎えた彼等が其の体を『デブリ』と化して他の物に被害を与えない様に、宇宙開発に携わる全ての国の関係者 ―― 東西の陣営に関わらず ―― の談合によって設けられた霊園。
消える意識を自らの死と認定した彼のAIは最後の力で廃棄コマンドを立ち上げた。次第に彼の視界から遠ざかる青い星。足元に其の姿を踏み締めながら、彼は最期の送信を彼等の主に向けて撃ち出した。
母なる星に向けて放たれたバースト通信。籠められた遺言は彼の体に起こった最期の異常と其の原因を示すデータ。彼なりの言葉で綴られた別れの言葉と感謝。そして。
破壊されて断片しか残らなかった、彼の最期の任務の記録。
彼等の眼前から突然火竜の姿が消滅する。押し寄せる衝撃波だけが周囲の木々を薙ぎ倒して、しかし楯岡が放った閃光の背後に控えた彼等の周囲だけがその影響から逃れて無傷な姿を現場に残す。平穏を取り戻した世界が静寂と言う言葉で彼らに其の健在を知らせて、健在の二文字は閃光の中に姿を溶け込ませて消失した楯岡と山田にも当て嵌められた。正拳突きを放ったまま残心する楯岡と其の足元で頭を抱えて突っ伏したままの山田が白み始めた空の光を受けて輪郭を取り戻す。
危機的な状況が完全に終息した事を確認した楯岡が静かに構えを解く。安堵にも似た溜息を一つ吐いて足元の山田に声を掛けた。
「無事か、山田。」
楯岡の声に反応した山田の体が動いた。目と耳を塞いでいた手を離して其の何処にも血が付いていない事を確認すると、至近で起きた爆発の為に両肺から叩き出された空気を取り込もうと大きく深呼吸して、咽た。咳き込む息の間を縫って思わず呟く。
「 …… 信じらんねえ。本当に撃ちやがっ、た。」
「当たり前だ、死なれちゃ困る。」
其の言葉に秘められた楯岡の奇妙な感情が、爆発の衝撃の残る山田の意識を呼び覚ました。目を見開いて地面を見つめる山田の目。心の底に浮かび上がる記憶と誓いの言葉をなぞる様に楯岡の言葉が続いた。
「俺の命を奪うのは、お前の筈だ。違うか? 」
視線を振り上げる山田。其の先で静かに見つめる楯岡の顔を複雑に感情の入り混じった目で睨み返す。怒りと悲しみと尊敬と軽蔑の交叉する瞳で。
返せない言葉を模索する山田の背後から大勢の気配が近寄ってくる。感知した山田の瞳から怒りの色彩が消えた。楯岡に不意に差し伸べられた手を痛む右手で握って顔を顰めながら立ち上がる。微かな笑みを浮かべた山田が楯岡の瞳を見据えて、近寄ってくる彼等の仲間には聞こえない様に小声で言った。
「借りは、いつか返すぜ。それまで死ぬなよ? 」
「心掛けよう。」
互いに笑う。其の二人の姿目掛けて歩み寄る彼等の仲間。二人の無事な生還を確認して安堵に包まれるその波から帯刀だけが飛び出して駆け寄る。
「大丈夫ですか、先輩! 怪我は!? 」
「無えよ、おかげ様でな。ちょっと耳が聞こえ辛い位だ。後は何とも無い。」
そう言いながら体に付いた土埃を叩く山田。いつもとは違う冷静さを漂わせる山田の雰囲気を感じ取った帯刀が思わず尋ねた。
「あの、先輩。本当にそれだけですか? 」
「? 何だ、どういう意味だ、それ。」
「いや、何かいつもと違うって言うか、…… 頭とかおかしくなってません? 爆発の衝撃で。」
「でっけえお世話だ、バカ。」
「久し振りに見せて貰ったが、やはり凄まじい威力だな、道順。とは言えお前の力を使っても守れたのはこの程度か。」
進み出た長門の手が楯岡に差し出される。生還の祝福を籠めて伸ばされた右手をゆっくりと握り締める。
「恐縮です。力が及ばず申し訳ありません。」
「今のは、今の技は一体何だ? 」
矢も盾も堪らずカーティスが尋ねて来る。
山田が倒れた瞬間に安全圏から徒手空拳で飛び出した楯岡。其の男が爆薬の一つ、いや武器の欠片も持たずに拳一本で目の前に迫った衝撃波を爆砕した。その余りにも非常識な光景を目の当たりにしたカーティスの好奇心はまるで少年の様に昂ぶる。
尋ねる其の目が余りにも純粋である事に苦笑した楯岡が、視線で長門に許可を求めてから口を開いた。
「何、原理は簡単だ。大気中に体内で練り込んだチャクラを使った電気を発生させて組成をイオン化して分解する。其の中で自分が必要な原子だけを選んで集めて叩く。要はそれだけの事だ。」
「それだけの事? 馬鹿な。」
一瞬前の光景を想像して否定の声を上げるカーティス。そんな科学的な非常識があっていい物か。
「必要な物だけを使うと言ったな。では、今の爆発は何によって引き起こしたんだ? お前が必要として取り出した物は一体何だ? 」
「メタンを刺激してハロゲンと水素を交換する。飛び出した水素原子を叩いて臨界状態に持ち込む。」
「それは、まさか ―― 」
「そうだ、『核融合』反応。とはいえ原子レベルでの反応だ。威力は左程の事も無い。放射能も出ないしな。それでも爆発反応装甲の代わり位には役立った様だが。」
自分達の命を救った技を評して大した事は無いと言い放つ術者の顔をまじまじと眺めたまま、カーティスは言葉を失う。其の表情を楽しげに笑いながら見詰めていた楯岡が背後に広がる爆心地の景色を眺めながら言った。
「そうさ、左程の事は無い。…… この力に比べたらな。」
其れは地上に現れた巨大なクレーター。楯岡の足元の先から大きく抉り取られた地面は切り立った断崖となって消失した地獄と現世の境界を示している。根来寺の敷地は其処に存在していた筈の全ての痕跡を火竜の手によって跡形も無く溶かし尽くされて持ち去られていた。由緒正しき建立物も、季節毎に彩を見せた自然も、そして其処に人が存在したと言う痕跡すらも。
「凄えな、こりゃ。 …… 見ろよ帯刀、地層が削り取られて露出してるぜ。何が爆発すりゃこうなるんだ、一体。」
「そうですね。其れに表面が硝子化してる。さっき見た炎は途轍も無い温度だったんですね。土が溶けて変質するなんて隕石でも衝突しなけりゃ有り得ない。」
薄明かりの下で巨大な穴を覗き込む二人。其の背後から祥子の声が聞えた。
「さあ、観察は其処までにして。皆で降りるわよ。」
其の言葉の意味を疑った山田が思わず振り向いた。視線の先に佇む祥子の顔は二人の帰還を喜ぶ事無く、険しい表情を浮かべたまま山田の背後の遮る物を失った広大な風景を見詰めている。
「降りる …… って? 御婆様、何しに行くんだ? 」
山田の問いに祥子の口が即座に開いた。
「探しに、よ。」
「え? 」
祥子の答えにはその場に居合わせた全員が顔を見合わせた。無論長門と楯岡も例外では無い。捜索の対象となる物の正体を想像出来ない彼らの視線が疑問の色を孕んで交錯した。其の空気を途絶する様に祥子が言葉を続けた。
「其処にある、何かを探すのよ。何でもいい、私が望みを繋ぐ事の出来る、望みを諦める事の出来る何かを探しに。」
「いや、何かって御婆様、そりゃ無茶だよ。こんな場所にそんな物を見つけようなんて出来っこ無い ―― 」
「兵庫。」
祥子の声が山田個人に向けられる。山田の発言は恐らくお庭番全員の意思を代表する物だ。声や口には出さないが其れは恐らく長門も楯岡も同じだろう。特に楯岡に到っては直に其の力の間近に立った唯一の目撃者だ。この中で誰よりも祥子の命令に対して否定的な見解を持っているのは楯岡本人に違いない。普段は盲従を良しとする楯岡の瞳にも祥子の命令に対する猜疑の色は隠し様が無いほど明確に浮かんでいた。
視線と思惑と疑問が祥子目掛けて集中する中、それら全ての感情を飲み込んだ上で祥子が山田に言った。
「 ―― お願い。」
其の言葉に全員が息を呑む。
命令ではなく、懇願。尊敬すべき彼らの長から放たれた其の言葉は彼らの心に途方も無い衝撃を与えた。呆然とする山田の瞼が我を取り戻そうとする様に二、三度瞬きを繰り返す。悲壮な顔で山田を見詰める祥子の視線は言葉を放ったまま山田の顔から眼を離さない。見た事も無い其の表情と視線を真正面から受け止めた山田が突然、ふっと笑って呟いた。
「 ―― 御婆様の頼みじゃ、しゃあねえか。」
言うなり、ぽんっと隣の帯刀の肩を叩いた。少年の様な笑いを取り戻した帯刀が肩に受けた心地よい感触に黙って頷く。
踵を反した二人はお庭番の先鋒を担う一番隊の其の名の通り、真っ先にクレーターの断崖から未だに闇に沈む遥か下の地面目掛けて体を躍らせた。遅れじと後に続く他の面々。皆が立ち去る其の場所で只一人播磨だけが蹲って地面に手を当てている。
何かの結論を得たかの様に一つ頷いた播磨が手を離してゆっくりと立ち上がる。既に其の場所に残った者は播磨を含めて四人だけとなっていた。
播磨が其の足を崖の淵へと推し進めながら背後に立つ三人 ―― カーティスを除く ―― に声を掛けた。
「御婆様、長門様、楯岡様。」
播磨の声が空間に投げ出されたと同時に左目の水晶を真横に貫く光が走った。鈍色の空が二つに裂けて空と地の境界を隔てる朱の輝きが大地の輪郭を景色に刻む。
この世界に朝が来たのだ。
其の輝きに照らし出された播磨の口が静かに開いて、何事かと言葉を待つ四人に向って言葉を紡いだ。
「 …… 精霊達が還ってきた。皆が口々に言っている。」
不可思議な精霊達の言葉を理解しようと眉を顰めた播磨が彼の上司たる三人の方を振り返る。
「 ―― 降りろ、と。」
言い残した播磨の足が断崖の淵を蹴った。
「とは、言ってもなぁ。」
底まで降りた二人の目の前に広がる景色は見渡す限りの滑らかな荒野。其の景色の美しさと違和感は二人と仲間の口から言葉を奪った。
岩の欠片すらも見えない擂鉢状のスケートリンク。明けの色を浮かべ始めた空の下に広がる其の地面は差し込み始めた光を跳ね返して、彼らの姿を地表にいた時よりほんの僅かに鮮明にした。其の事実は彼らが活動できる時間帯が残り少なくなっている事を暗示する。
残り少ない時間を有効に使う為には各個分散しての虱潰ししか方法が無い。帯刀の指示を受けた下忍衆全員が散開した後に残った二人は其処に何か発見に結びつく手掛かりは無い物かと爆心地の中心近くの地面を探っている最中であった。
とは言えこの広大な窪地の中に、其れも今しがたまで地獄の真っ只中にあった場所に人の痕跡を捜索するのだ。如何に彼らの力を持ってしても残り少ない時間内に見つけ出す事が出来るかどうかは、散開してその場を離れた其々が抱えた疑問でもある。
得物を全て粉々にされた山田は帯刀の忍刀を借りて手当たり次第に地面に突き刺す。一方の帯刀は『土蜘蛛』の小型版とも言える『土葛』の術で小さな穴を無数に作り出している。どちらの手段でも其処に何らかの引っ掛かりがあれば即座に判る捜索方法を選択しているにも拘らず、未だに兆しすら捉えられない。
二人の目に留まった範囲の土地が全て穿たれ、穴だらけになった状況を確認して山田が溜息交じりに呟いた。
「いくら御婆様の頼みとは言え、駄目なもんは駄目かぁ。」
「 …… そうですね。幾らなんでもこの有様じゃあ。」
二人が捜索の手を止めて顔を見合わせる。薄い硝子を突き破って地面に刀を突き立てる山田の手にも、勿論帯刀の術にも岩の一欠片の感触も伝わっては来ない。寧ろ其の可能性は奇跡以下の確率に違いないと二人の視線は暗に語り合っていた。そんな諦めの境地を二人の心中に齎してしまうほど其の荒野は静かで、空虚な佇まいを二人に誇示し続ける。
「後残ってるのは、穴の最深部だけか。」
成果の上がらない捜索に空しい呟きを上げた山田が言葉に乗せた目的地を振り返る。だがその視界に移る其の場所も今まで自分達が捜索を終えた場所と同じ様な景色をしている。滑らかな擂鉢の底に何かがあるとは提案した山田にすら疑わしい。
「まあ、とにかく行って見ましょう。考え様によっては其処に何かあるかも、ですよ。」
諦めの心境の山田を励ます様に帯刀が朗らかな声を上げた。心の内は山田と同じである筈なのに其れをおくびにも出さず捜索の継続を訴える帯刀の顔を見て、山田は苦笑せざるを得ない。
「お楽しみは最後に、ってか? 良いねえお前は前向きで。」
山田の手が鮮やかに閃いて忍刀を腰の鞘に収めて立ち上がる。
槍に限らず手にした刃物全てが生き物の様に操られる。山田が常に見せ付ける其の類稀なる能力を帯刀は羨ましく思い、そして憧れる。自分に其の力があったなら、と帯刀は山田の戦う姿を常に後ろで眺めながら何時も思う。
そうであったなら、先輩の隣に立って共に戦えるのは楯岡様では無く、自分の筈であっただろうに。
カーティスが死地の最中に心奪われた山田の立ち姿は、それ以前から山田という男と共に戦った藤林帯刀の憧れた姿でもあった。
「どした、帯刀? ぼっとしてんじゃねえ。行くぞ。」
帯刀の心境を見透かした様に声を掛けた山田の足が最深部に向って踏み出される。帯刀が其れに続こうと足を向けた時、いきなり彼等の背後から大きな声が掛けられた。
「山田、帯刀。」
聞き間違えようの無い、しかし其の声に合致する人物の人となりからは想像も付かない大声に思わず振り返る二人。振り向けた視線の先には左目を抑えて走り寄る播磨の姿が映っている。硝子の地表を音を立てて踏み割る彼の歩調には尋常ではない気配が込められていた。播磨の行動を狼狽の為せる業だと逸早く察知した帯刀が声を掛ける。
「どうしたんですか一体。柘植さんらしくも無い。」
長門や楯岡同様、冷静沈着を形にした普段の姿からは考えられない動揺が二人にも伝わる。播磨の能力の有用性を信じる山田が緊張の面持ちを取り戻して尋ねた。
「播磨、勘弁してくれ。まだ何かあんのか? 」
「ある。」
間髪を入れない播磨の返答に二人の表情は強張った。帯刀の手が背中の弓に、山田が再び忍刀を抜き放って仲間以外の何者もいる筈が無いと信じた硝子の荒野へと気配を広げた。
「いや、そうじゃない。いるんだ、何かが。」
「いるって、何が? 」
言葉の意味を取り違えて放った殺気が見当違いであった事を理解した二人が、やれやれと安堵して再び武器を納める。次の瞬間に播磨の言葉の意味に気が付いて、山田と帯刀は同時に声を上げた。
「「『いる』だって!?」」
「見ろ。」
二人の叫びに頷いた播磨が抑えた左目を二人の前に晒した。それは薄明かりが広がる朝の光の中でもはっきりと認識出来るほどの輝きを放って播磨の左目に仕込まれた水晶の珠を覆い尽くしている。
「さっき此処に降りた途端に始まった。それに妙に疼くんだ。きっとこの先に何か、いる。」
播磨が向けた視線を追って二人が振り返る。其処は今正に自分達が赴こうとしていた爆心地の最深部がある。
「生きてんのか、そいつ。こんな状況でどうやって? 」
「それは俺にも分からん。只此処に降りる前に精霊が『下りろ』と言っていた事には関係しているかも知れん。其れに光の点滅がだんだんゆっくりになってきている。恐らく時間が無くなって来ている事だけは、確かだ。」
「分かった。播磨、俺と一緒に来い。」
鋭い声で命じる山田に向って播磨が左目を覆ったままで頷く。帯同を志願しようと口を開き掛けた帯刀を山田の緊迫した声が押さえ込んだ。
「帯刀、急いで御婆様達を呼んで来い。後散開している連中にも連絡を忘れるな。ランデブーポイントは ―― 」
山田の目が真剣な光を帯びて輝いた。睨み付ける視線の先にある地面に其の焦点をしっかりと合わせて。
「 ―― あそこだ。」
「此処に間違いないんだなっ!? 」
山田が振り向きざまに播磨に向って尋ねた。隠の者とは思えない程の騒々しさで地面を踏み砕いて奔る山田と播磨。二人の足が到達したのは地表面から最も深くに位置する爆心地のほぼ中央。其処に加えられた圧力と熱は恐らく全ての者が捜索を終えたどの地域よりも膨大な物だったに違いない。二人の足を持ってしても踏み割る事の出来ない硝子の地面の感触がそう教えた。
播磨が山田の叫びを受けて顔を覆っていた手を離した。水晶の輝きはさっき見た時よりも明るく、そして播磨自身にしか分からない疼きは一層強くなっている。痛みを押し殺した播磨が返答を待つ山田に向って声を上げた。
「間違いない。お前の足元だ。」
播磨の言葉の終わりを待たずに山田が地面に向って順手に握った忍刀を突き立てた。其の一点を中心に縦横無尽にひび割れる地面。無傷な右手一本に力を込めて山田は宝蔵院の槍の奥義たる体術をその忍刀に押し込んだ。
体の旋回力を残らず其処に集約する刺突の技『鳳仙花』。手にした得物が本来の十文字槍であったならば其の殺傷範囲は展開した左右の刃の範囲にも及ぶ。掠っただけでも相手の体が弾け飛ぶ様から付けられた名前を有する其の技を山田は一気に解き放つ。地面全体に広がった芸術的で無機質なステンドグラスはその爆発的な破壊力を余す所無く受け止めて宙へと吹き飛んだ。
其の後に露になった剥き出しの地面。絶大な破壊力を目の当たりにした播磨が思わず叫んだ。
「おい、山田っ。あんまり無茶するな。それじゃあ生きてる者も死んでしまうぞ。」
「うるせえっ!これ位で死ぬんだったらとっくに死んでる! それより手ぇ貸せ。時間が ―― 」
逡巡する事無く次の行為に手を染めようと握った忍刀に力を込めた。選択の余地など無い。生存者がいると言うのならその命を繋ぎとめる為の時間は此の世のどんな財宝よりも、女の涙よりも貴重な物だ。
焦る山田の心がその一瞬の状況の変化を見落とした。
握った刀が地面に固定されたと気付いたのは足元から黒い影が一直線に伸びてきた後だった。思い掛けなく現れた脅威の姿に目を見張る山田。翳る視界を切り裂いて黒い悪意は山田の喉に絡み付く。
「! 山田っ! 」
突発した事態に叫ぶ播磨。頸を掴まれた山田の左手が反射的に影を掴んだ。だがその行為を無駄な努力と嘲笑うかの様に獲物を縊ろうとする黒い手。力と共に伝わる強烈な殺意を感じた山田がそれを阻止せんと首の筋肉全てに有りっ丈の力を加える。帯刀の『影縫い』を力ずくで捻じ伏せた山田の膂力が漲る、鍛えられた首の筋肉。だが理由無き殺意を孕んだその影はそれをも上回る力を決殺の場所へと集約した。減り込む指が徐々に山田の呼吸を奪い、意識を遠ざける。
「山田! 今援護に、」
「手ェ出すなっ! これは俺の相手だ! 」
苦しい息を無駄に吐き出して叫ぶ山田の手に未だに握り締められたままの忍刀の柄に伝わる確かな手応え。其処に在る何かを貫き通す為に右手に加えられた力は山田の右腕を鋼鉄に変えた。膨れ上がる筋肉が衣服の拘束を嫌って右手の袖を縦に裂く。その刃に籠められた殺意を山田同様に否定して抵抗する何かの力。互いの均衡を破ろうと鎬を削る二つの殺意が命を求めて交錯する。
命懸けの根競べ。何かが尽きた方が敗者の名と共に死を得る。
その条件が山田の脳裏に閃いた時、突然山田の眼下の地面が盛り上がった。拮抗していた筈の力はその思いも掛けない状況の変化に対応しきれず、堪えていた山田の体をぐん、と押し上げる。
「 ―― !」
減り込む指に奪われる息が言葉を奪う。血奔った目が自分の足元を睨み付けて。其処に浮かび上がる敵の顔を山田は両目に焼き付けた。
影だと思った物はその男が纏った焼け焦げた衣服。頭を覆った其れは元の形が解らぬほどに焼き尽くされて張り付いている。其処目掛けて突き立てられた忍刀の刃先を咥えて離さない、血に汚れた男の口。
煤汚れて、薄汚れて、痣だらけで腫上がった其の顔は衣服同様に以前の形を失って。だが其の体から伸びる、焦げた「右手」の先に溢れる殺意と山田の顔を睨み上げる両目の瞳に輝く緋色が、其の男の正体が人ではないと言う事を山田に確信させた。
地面を割って湧き上がる男の影。怒りに燃える山田の目が感情を亡くした緋色を睨み付ける。腫上がった瞼の影から山田の視線と火花を散す、緋の瞳。地面の感触を失って宙天高く掲げられる山田の体。
「こ、の服。手前ぇ、あん時の。」
全てを地上に晒した男の体に微かに焼け残った白地の布が其の記憶を蘇らせた。忘れる筈が無い。帯刀の放った矢を弾いて、自分の刃を掻い潜って結界の中へと消えた人影。後姿しか見る事が叶わなくともその体躯と月明かりに残った着衣の色だけは忘れない。
お前が、此れをやったのか。この世界を創ったのか。罪も無い大勢の僧侶を殺し、生き残っていた筈の赤子の全てを塵の一片も残さずに葬り去ったと言うのか!
「許さ、ねえ。」
奥の院の林の中に置いて来た筈の遣り場の無い怒りと、心の奥深くに刻み付けられた外傷に火が点る。凶暴な猛獣の闘気が全身を覆い尽くして其の全てを凶器に変える。殺意に黒く塗り潰された獣は手にした忍刀を強く握り締めた。
「 ―― ぶっ殺す! 」
裂帛の気合と共に体幹を軸として大きく捻られる山田の全身。繰り出す技は零距離射撃の『鳳仙花』。力の奔流を堰き止めて志向性を持たせる為に必要な両足ですらも旋回運動の輪の中に加わらせて。巻き切られた発条は縒り戻しの力を余す所無く右手に伝える準備に入る。
捻転の限界に到達した全身の筋肉と殺意。次の瞬間に訪れる物は飛び散る男の歯と砕ける顔面。男の歯の間で強く噛み締められたままの刃が其の予感を想像して激しく鳴った。それを見つめる山田の瞼が大きく見開かれて昏い光を煌かせる。
死ね。
そう山田の脳が全身全てに伝令を発しようとした瞬間。
「止めて、兵庫っ! 」
其の声は彼の伝令を須らく押し留める。過去も、現在も、多分未来も。
その声によって齎される刷り込みに因る条件反射は、過去の経験に基づいて山田の全ての機能を沈黙させた。怒りも、殺気も、破壊衝動や運動機能ですらも凍結させるその声の主は山田を縊り殺そうとする男の背後に優雅に佇む。声を聞いた山田が驚きの呟きを苦しい息の下で漏らした。
「なんで、ここに …… 碧姉ぇ。」
問いの答えは言葉ではなく行動によって示される。黒の友禅の留袖が微かな衣擦れの音を残して朝影の中に踊る。しなやかで繊細な両手の指から伸びるチタンの糸は指の動きに合わせて空を舞い、山田の奥義を受け損なった男の全身へと生き物の様に絡みついた。糸繰りは尚も果てし無く男の自由を奪う為の旋律を奏で続けて。静かな舞踏は碧が手にした全ての糸が絡み切るまで続けられる。
全てを使い果たして伸びきった糸に碧の渾身の力が加わる。力の増幅を図る滑車を介する事無く直接伝わる碧の意思が男の体を拘束した。背後からの突然の攻撃は男の意識を山田の命から逸らすには十分な存在感を示す。縊る為に巻き付けられた絞首の麻縄は其の結び目を緩めて山田の体を刑から解き放つ。
敵の怯みを直感する山田の本能が敵の命脈を絶つ為の技を、碧の叫びを無視して開放した。風を切って唸りを上げる全身の筋肉。繊維単位に編み込まれた縒り戻しが全て刃の先へと波動として伝わっていく。強烈に揺れる視界の中で山田の目が其の瞬間を見届ける為に焦点を一点に合わせた。
開放される捩れは肩を抜けて刃先へと一目散に。全ての力が凝縮された其処が致死の螺旋を描こうと動き出した瞬間、突然甲高い刃の叫びが巻き起こった。
噛み砕かれる刃。鋼が飛び散り四散する。刃の繋がりでのみ宙に残っていた山田の体が全ての支えを失って地に落ちた。有り得ない方法での死からの回避に呆然と、男の足元に着地する山田。
「こ、の、化け物 ―― 」
蒼痣の残る喉を押さえて呟く山田の後頭部目掛けて男の右腕が打ち下ろされる。其の拳が山田の頭の残像を擦り抜けるのと碧の糸によって阻止されるのはほぼ同時。其処に繋がる碧の両手の指貫が食い込んで、華奢な指が血に染まる。
「碧姉ぇ、止めろっ! 糸を離せっ! 」
碧の手から滴る血を見た山田が叫んだ。全身を深く沈めて男の力に抵抗する碧。割れる筈の無い硝子の地面が砕け散って碧の足を引き摺って、切れる事の無いワイヤーがぎりぎりと二人の体を傷付け合う。だが碧の決意はそれでも山田の言葉に耳を貸さない。歯を食い縛って眉を顰めて指を千切らんばかりの痛みに耐え、尚も男の体の自由を奪おうと全体重を篭めた。
「馬っ鹿野郎! 何やってんだっ! 」
碧の取った不可解な行為を怒鳴った山田が其処までの短い距離を全力で駆ける。縋る様に駆け寄った山田の手が真っ先に碧の両手を押し包んで、強く握り締められて血の滴る両の拳を解き放とうと握り締め。それでも震える拳は開かない。十本の指から滲む碧の血は山田の両手を其の救おうとする心まで赤く染めた。
「止めろっ、何考えてんだ、あんたは ―― 」
「殺さないで、兵庫。 …… 殺しては、駄目。」
押し寄せる痛みと吐き出す力が限界に来ている。硬く瞳を閉じた碧の顔が山田にそう告げる。うわ言の様に其の言葉を繰り返す碧に向って掛ける言葉を山田はその時失った。
「殺したら、聞けない。 ―― 澪様の最期を。紗絵の子供の、妹の娘の ―― 」
目尻から押し出される様に毀れる涙が一滴。二度とこの地を踏む事は無いと誓った碧が此処にいる理由を知る山田。
あんたは其の為に来たのか。笑顔を失い、我が子すら満足に育てられなくなったあんたが此処に来た理由はそれか。叶わぬ奇跡を追い求めて、敵わぬ力を振り翳してこの化け物を生かそうとする理由はそれなのか。
失った物を更に喪う為だけに、あんたはこの地獄の跡地にやって来たのか!
自分の手の中に封じ込めた、熱を放つ碧の拳が開かれる事は二度と無い。決断した山田の右腕が刃先の折れた刃を張り詰めた糸の束に向けて、渾身の勢いで放たれた。一気に切断されるチタンの糸が整合しない和音を響かせて空中へ舞い散る。其の音を携えて後方へと弾け跳ぶ碧と山田。互いが互いを庇う様に地面へと転がる。
「播磨っ!奴を、」
起き上がろうとする山田が唯一人無傷で残った味方に向って援護を呼び掛ける。だが其の送った視線の先に映る姿は顔を抑えたまま悶絶する仲間の姿だった。
「播磨っ! 」
顔を覆った指の隙間から溢れる光は既に播磨の顔の輪郭を消し去るほどに大きく。蹲る播磨が途切れ途切れの声で山田の叫びに応える。
「駄目だ、山田。これを、こ、殺す ―― 」
「ちいっ! 」
叫びに似た舌打ちが山田の口から吐き出される。呼応する様に山田と碧の方へと向き合う男の影。孤立無援を悟った山田が横たわったままの碧と男の間に其の身を差し込んで。絶命の際に立たされた瞳が再び殺意に満たされて行く。
「碧姉ぇ、俺の事を後でどれだけ詰っても構わない。だが、其の頼みだけは、聞けねえ。」
「兵庫! 」
意図を知った碧が山田の決意を翻そうと其の手を掴む。真っ赤に染まった手が山田の剥き出しの腕を濡らして止めようと。其の行為を気持ごと振り払う山田。全身の筋肉が再び捩れて『鳳仙花』の体勢へと移行する。加えて両足に宿る踏み込みの力が山田の全身を震わせた。
『鳳仙花』と『突抜』。二つの奥義を重ねて放とうとする山田。相反する力の方向を一点へと制御しようとする体は刃先の折れた忍刀の末端に到るまでを殺気で満たした。
「俺が選ぶのは誰でもねえ、あんたの命だ。」
忍刀が山田の顔の傍へと掲げられる。先端を失った刃がぴたりと止まって男の体に狙いを定める。
「それだけは変わらねえ、今も同じだ。 ―― 『あの時』と同じにな! 」
「やめてぇっ! 」
山田の気合と碧の叫びが重複して空間に木霊した。差し伸べられた手を振り払う様に一直線に跳ぶ山田。開放された全ての力が壊れた刀に篭められて、男の命を潰す為だけに唸りを上げた。
山田の視界を埋め尽くす男の顔。間合いに踏み込む足。地面を捉えた左足が技の発動の切っ掛けを作り上げる。そこで固定された足が全ての筋肉を巻き戻す。全身を駆け抜ける力の嵐が表層の筋繊維を僅かに千切って力を送る。
それこそが完全発動の『鳳仙花』の姿。地表の硝子を吹き飛ばした時と同じ技とは思えないほどの凶暴な唸り声を上げて形を変える平刃の忍刀。直径を同じくする高速回転の刃が狙った獲物を抉ろうと空間を切り裂く。
旋回する左腕の傷が開いて血が撒き散らされる。だが山田を塗り潰した殺意はその刹那に襲い掛かる激痛すらも凌駕して全力で駆動する。其処に集約する必殺の結果だけを求めて。
差し出す刃の其の先。男の口が僅かに開いて刃の破片を取り落とす。そして咆哮。
絶望にも似た絶叫が山田の致死の技を阻止する事は、果たして無い。既に起動した二つの奥義は眼前の敵を駆逐せんが為に其の刃を差し向ける。
狙いの先に存在した敵の顔が突然、揺らめく。中断される咆哮は男の目から緋色の殺意を消し去って。
崩れ落ちる男の体、消え去る頭を擦過する山田の奥義。目標を見失う壊れた刀は其の変化に為す術も無く、手にした山田同様その場への静止を余儀なくされる。跪いた男の頭上を駆け抜けた刃の起こす旋風が二人の周囲を掻き乱して、消えた。
戻る静寂は新たな景色をその場に誘う。地に縛り付けられた三人の姿と唯一人その場に立ち竦む殺意の影。やがて映し出す光源を憤怒の炎に委ねた影絵は残心を解いて、壊れた刃を男の首へと押し当てた。頭を垂れて抱え込む様に蹲る姿を見下ろして、山田の口が開く。
「許してくれってか、この野郎。 ―― 手前のした事が、許されるとでも。」
刃が小刻みに震える。触れた場所が小さく斬られて血が滲む。それを一気に挽き切れば。この手を激情に任せれば、それでこの化け物の命は終わる。
其れで俺の気が済むのならば ―― 。
数え切れないほど、そして当たり前の様に繰り返した其の行為を今の山田の手は思い出す事が出来ない。見えない呵責が其の力を押さえ込んだままで、何らかの斟酌が其の意思を躊躇わせて。
葛藤の迷路に迷い込んだ心が山田に第三の手段を選択させた。忍刀を握った右腕が男の胸倉を掴み上げて上半身を引き摺り上げる。振り上げられた左手が目前に晒されて腫れ上がった男の頬目掛けて力一杯叩き付けられた。意識の無い男の体が吹っ飛んで、力無く地面へと投げ出されて横たわる。
動かなくなった男の体を一瞥して深く息を吐き出す山田。呼気と共に殺気を吐き出して。やっとの思いで平静を取り戻した山田が、血に塗れた掌を合わせて蹲る碧を振り返って尋ねた。
「それを聞いてどうするつもりだ、碧姉ぇ。」
「それは ―― 」
「忘れちまえよ。」
口篭った碧の言葉を遮る。碧を見つめる山田の目が悲しく、それでいて慈しむ様な色を湛えて、悲しみに浸る碧を見つめる。
「それで良いじゃねえか、碧姉ぇ。死んじまったもんはどうしようもねえ。今迄みたいにみんな思い出に変えて、そして忘れて、たまに思い出して。 ―― それじゃ駄目なのか? 」
山田の足がゆっくりと碧に向かって動く。何も答えず見詰める碧の直ぐ傍でしゃがんで、悲しみを堪える、しかし堪え切れない悲しみに溢れる瞳を見詰めながら。
「 ―― あんたの親父、俺の師匠。其の二人と同じ場所に ―― 大事な物を収める其の片隅にその子を預ける事は、出来ないか? 」
其の言葉に揺れる、碧の虹彩が濡れる。湧き上がる嗚咽を押さえる為に息をしゃくり上げる。
「 …… 止めてくれよ、碧姉ぇ。あんたらしくも無い。 ―― まあ、いいや。直ぐにそんな風には行かないか。」
分かり切った事だ。人はそんな風には出来ちゃいない。其の喪失を埋める為に人は自分自身を騙して生きて行く。自分の命が最期を迎えるその時まで。
だがそれには時間が必要だ。自分の心に暗示を掛けて新たに生れる出来事の記憶で上書きする為の、時間が。
山田が立ち上がって踵を反す。其の目は動かなくなった男の下へ。踏み出す足が収まらない怒りを踏み躙る。
「 ―― こうなったからには仕方無え。手前には洗い浚い、全部喋ってもらうぜ。そうすりゃ手前に用は無え、直ぐにそっ首掻っ切って償わせてやる。」
山田の手が男の胸倉へと伸びて身頃を掴む。力の限り握り締めた其の手に伝わる揺るぎ無い決意は男の着衣を引き伸ばして、引き千切ろうとして。
其の手を伝わって山田の脳に直接語り掛ける、僅かな違和感。
怒りを叩き付け続ける相手の中には無い、別の気配。
戸惑った山田が自らの手によって開き切った男の懐に疑問の視線を落とした。
微かに動く其の場所は明らかに男の呼吸と同調せずに独立している。覗く朝日を乱反射させる靄が其の場所に薄らと差し込んで。
其処に収められた血塗れの左手が視界の中へと先ず飛び込む。血を失った蒼を湛えた肌がこびり付く血に染められて。その死に塗れた掌が決して離さないようにと、抱く者。
「 …… 赤ん坊? 」
呟く山田の両手が男の懐を乱暴に押し開く。毀れだして静寂の世界へと姿を露にする、焼け焦げた産着を纏った赤子の姿。山田の瞳孔が驚きの余り拡大して、思わず叫んだ。
「おいっ! 赤ん坊だ、生きてるぞっ! 」
其の喚きは碧と播磨の意識を覚醒させるには十分な効果を持っていた。目を見張る二人、遥か彼方に投げ出されて届かぬ距離を保ったまま消え失せようとした希望と言う名の妖精が二人の体に生気を連れて帰還する。
播磨の顔面を覆った光と耐えがたい疼きは既に収まっていた。残った痛みに耐えて、よろよろと立ち上がって興奮する山田の下へと歩み寄り、其の言葉の現実を確かめようと。そして其の光景を目の淵に置いて、山田の手の先にある赤子の姿に視線を凝らす碧。
猛烈な炎に襲われた赤子の産着の大半は墨と化し。その余波が赤子の顔を焼け爛れさせて。潰れた目は無残で冷酷な赤子の未来を暗示して。
だが。
碧の目は其処へ釘付けになる。焼け失せた産着の襟元。大きく開かれた其処に覆われた、まるで其の赤子の全てを護るかの用に包まれた布切れ。
銀の西陣、七宝の柄。
それは。其れを身に着ける事が出来る者は。
「 …… み、お、さ、ま? …… 」
大きく見開かれた瞼の裏に浮かぶ二人の、彼女が護ろうと誓って果たせなかった面影。
止め処無く湧き出す感情が碧の足を強く、そして疾く。