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                 火 竜

 境目が無くなり混沌とする覚瑜の記憶。光の泡は其々に違った意識を持つ故に、矛盾や摩擦を引き起こして互いを拒絶しようとする。幸福は幸福であり続けたいと願い、不幸は幸福の放つ癒しの輝きに縋り付いて其れを欲しがる。互いを隔てる線引きが取り払われた事実はそれらを一つの繭として生まれ変わらせた。

 混在を拒否し続ける、内部に織り成す大理石マーブル模様。其の姿は渦を為して廻り続ける潮のぶつかりを上から眺めている様だ。正と負が結び付いて零となる事を承服出来ない泡沫は囲いの中で永遠の輪舞曲ロンドを奏で続けるかと思われた。

 だが全ては一つの意志が手に握り締めた経験。其の根底に流れる物は只一人が思い、感じて、下した結論。

 泡沫の主は彼らを率いて駆け抜ける決意をした。過去と現在いまを棄てても未来への微かな希望を、言葉に託して。


 左の掌に満たされる強烈な輝き。それは男の言葉を引き金として赤塚の体内へと吸い込まれた。意志に連なる泡沫は導かれるままに其の先へと無数の手を差し伸べた。届かなくてはならない約束の地を目指す光の塊は楕円に、何時しか光の帯に形を変えて男の体から離脱した。

 掌に食い込んだ刃を通り抜けて切っ先を目指す。偶然に到達した切っ先が置かれた其の場所に人の自我を、心の在り処を示す光の粒が仄かに息衝いている。破壊の使命に特化した力の奔流は其の存在を否定し、抹殺をよしとする聖なる力。赤塚の体内の奥深くに隠された光の粒と対を成して殺到する其の輝きこそは神々の末端に連なる事を許された『人』誰もが必ず持つ、退魔の力。

 迸る其れは全ての力を其の瞬間に凝縮して、自我の輝きに対して牙を剥いた。叩き付けられた力は更に刺突の意志を孕んで先端を尖らせて穿ち始める。

 破られまいとする外殻が領域を守護する為に抵抗する。だが無限を約束した闇全ての力を注ぎ込んで聖なる力を跳ね返そうと躍起になる赤塚の無意識は、其処に置かれた刃の切っ先によって阻まれる。金剛石にも傷を付けると言われた正宗の切れ味は触れただけに過ぎない外殻にさえも容易に皹を入れ、其処から迸る退魔の力の先鋒としての役割を十二分に果たしていた。

 光の粒を串刺しにする光の帯。一瞬にしてひび割れ瓦解する外殻。其の過程は以前覚慈の闇の肉体が崩壊した時に現れた物と同じ光景だ。ひび割れ全てに染みとおった破魔の光が境界を包む殻を無理やり引き剥がし、赤塚の自我を露にした。

 追い打つ様に目掛けて叩き付けられる覚瑜の記憶。正の白、負の黒は交じり合う事は無く、しかし同じ意思を共有して其の内部へと殺到する。

『紛い物』の自分の存在を証明する為に。

 其の刹那を超えて存在するであろう、澪の未来を護る為に。


 見開かれたまま眼下の赤塚を見つめ続ける男の目。其の虹彩から黒が消滅する。

 怒りも恨みも。全ての感情が消滅して行く両の瞳。

 侵食する緋色が其処を埋め尽くして。赤の双眸は地獄の闇の中で其の輝きを静かに放ち始めた。


 赤塚の自我は遂に保持限界を超えた。叩き付けられた力は目的を見失う事無く、覚慈や松長の自我に対して手掛けた振る舞いを繰り返して容赦なく光の粒を破壊する。

 炸裂する赤塚の自我。炸裂する覚瑜の記憶。砕けた互いは求め合う様に宙で混じって地平へと散乱する。

 動きを止めた二人の姿は闇夜に浮かぶ漆黒の影絵となって吹き荒ぶ嵐の中心に存在を誇示し続けた。死を忘れた赤塚の体が今わの際の痙攣を起こす事は無く。心を亡くした男の体がそれ以上の意思を示す事も無く。

「そう、か …… 」

 男の顔を見上げたままの赤塚から言葉が漏れた。

「これが、『大いなる存在』の意思と言う事なのか。偶然でも奇跡でもない、儂がお前に討たれると言う事は最初から決められていた『必然』じゃと。」

 言葉を紡ぐ口から吐き出される致死の泡。肉体を構成する闇の触手が結合を解かれて黒血と共に溢れ出る。其の僅かな間隙を付いて赤塚の呟きが漏れ続ける。

「神も魔も超えて唯一つ、存在の頂点にすその力。貴方はそう言うのか。貴方が創り上げた全ての者同士で戦い合えと。互いに向き合い、互いを否定し、互いを憎み合い、互いを殺せと。」

 溶け始める赤塚。弾け飛んだ光の粒と共に投げ出される闇の触手が諸共に事象の地平下に吸い込まれていく。

「そして遥かな高みからそれを嘲笑おうと! 彼と『摩利支の巫女』が最期の地に互いに向き合い其処で互いに滅んだとしても何を憂う事も無く、それすらも愚かな遊戯の結末だと論じて新たな世界を創生しようと言うのかっ! 」

 輪郭を喪った赤塚の体が一気に男の手を掏り抜けた。赤塚が放つ怒声は既に形の無い口を離れて、男の足元に流れ出した黒い泥の中から猛烈な瘴気と共に打ち出される。未だ宙に浮かんだままで微動だにしない男の刃が其の勢いに撃たれて、震えた。

「儂等の抱える罪はそれほどに大きい物なのか。貴方が許せないと、一から出直そうと感じる程大きな。―― だが! 儂はそれを認める訳にはいかん。それだけはっ! 」

 個体としての赤塚は其処にはいない。声のする場所を隠す様に広げられた白い大袈裟を見つめる赤い瞳。だが其処に意思も感情も無く。焦点すら無くなった男の両目は其の一点を唯見ている。

「貴方が儂らを否定すると言うのなら、許さないと言うのならそれでも構わん。だが、貴方が創った『存在』は貴方の思惑を受け入れられるほど寛容でもなければ従順でもないっ! 」

 言葉聞いた男が宙に浮かべたままの左手をだらりと下ろした。纏わり付いたままの黒血は泥と化して床へと吸い込まれる。其の一滴たりともその場に存在する事を拒否するかの様に。後を追う男の血が床に滴り落ちて。

「それも貴方が創った『存在』の力じゃ。抗い、もがき、苦しんでも生き延びようとする。それを否定しようと言うのなら ―― 」

 音量は無くなりつつある。それは魔の力が現世に存在する事を禁じられた事を意味している。消えようとする赤塚の叫びが空間の嵐を掻き毟って、自らの主張と意思を何者かに向って吐き出す。

「我らは戦いを挑み続けるっ! 貴方が創り上げた『理』に、そして『神仏』に。儂が正しいと信じる、儂が尊きと信じる『人』の為にっ! 」

 振り上げられた言葉の拳が空間を打つ。その声が消え逝こうとする最期の瞬間、男の耳に小さな言葉が響いた。

 それは男の知らない言葉。だが其処に存在した、男以外の者であれば全ての者が知っている言葉の羅列であった。呟きは風に削られて不確かな物となっている。だがそれは確かに赤塚が目的とする者共に、届いた。

「ナウマク」

 声と共に男の足元に広がる大袈裟の一部が震えた。其処に盛り上がったままで蠢く八つの膨らみが言葉を放つのを止めて硬直する。

「サマンダ、バザラ」

 八本の舌に刻まれた梵字。赤塚の声で光を放ち解凍される術式。発動させるのに法力はいらない。ただ其処に刻まれた、今日という日に於いて自分しか唱える事の無い言葉が全ての鍵(キーワード)

 解凍された術式はそれぞれの舌に絡まって小さな炎を上げた。たちまち燃え広がって自分達を収めていた白い大袈裟を焼き尽くす。

「ダン 、カン。」

 言葉の言い終わりが男には届く事は無い。掠れていく声と気配は男の足元へと何かに吸い込まれる様に消えて行く。だが赤塚より放たれた真言だけが何者かに向って放った罵声と共にその残響を空間に残している。

 不動明王真言。それが赤塚明信と言う、人の世を護る為に闇へと身を委ねた『破戒』の僧の最期の言葉。

 そして其れを使う事など予期していなかった赤塚が仕掛けておいた、最期の罠。

 言葉と共に顕現する炎は其の瞬間に業火と化して、八本の火柱を形作った。


 異形の僧侶は燃え上がる。その光は絶対の領域を形成する結界の壁を通して地獄の林を白く染め上げる。蒼光から白光へと光源を変えた地獄の林の中に待機する祥子達の姿はその輝きの中に鮮やかに浮かび上がった。

「播磨っ! 」

 山田が叫んだ。其の声に同調して播磨が両手を地面から手放して立ち上がった。其の顔を静かに上げて、左目の義眼に其の光を映して祥子の背後から声を掛けた。

「御婆様、限界です。これ以上は ―― 」

 声は届いている筈だ。だが祥子は播磨の言葉に応えない。其の両目は業火に沈む僧侶の姿を見つめたまま動かない。闇に生き、闇に死ぬ事を生業とする彼等が其の姿を白光の下に露にして、しかしそれすらも厭おうとしない祥子の足はその場から離れようとする事を拒否している。何かに耐える様に強く噛み締められた雅な唇から鮮血が滲み出して顎を伝った。

 動きを止めた群狼、従える白き狼(ブランカ)。無音の白昼と化した其の場所に張り付いたまま動く事の出来ない彼らの拘束を解く為に、遂に祥子が口を開いた。

「 ―― 此処を離れます、長門。 …… 命令を。」

 命を受けた長門の手が祥子に向けて差し出される。其の手の中に在るハンカチを受取ると祥子は静かに顎に垂れた血を拭った。

「ありがとう。洗って返すわね。」

「いえ、お気になさらず。其れよりも殿しんがりをお願いします。時間は一秒でも稼ぎたい。」

「承知したわ。」

 最高責任者の身柄を躊躇無く最後尾の守りに置く長門と、その事を当たり前の様に引き受ける祥子。 守るべき者を矢面に立たせるという、自分の常識では計り知れない其の会話に目を丸くするカーティスの目に祥子の右手に握られた飛び苦無が映った。指の間全てに挟まれた四本の全てに白い札がぶら下げられて月の輝きを受けて煌く。

「皆、聞け。御婆様よりこの場から撤退せよとの命が下った。先頭は長門が勤める。殿は御婆様にお願いした。道順、お前のチームは御婆様の直ぐ前で掩護しろ。いざとなったら帯刀を盾にしても構わん。」

「了解。」

 楯岡の返事は短く。其の背後でニヤニヤと笑うチームの残り二人の顔。視線を合わせた長門と二人がそのまま軽く頷いて互いの意志を確認すると、長門が命令を下した。

「よし、では逃げるぞ。遅れても墓など作ってやらんからな。 ―― 散開ちれっ! 」

 鋭く発した声と共に闇に消える長門の姿。大地を蹴る音も無く、辺りに散乱した枯れ枝を踏み折る音も立てずに気配だけが消滅する。其れは一人、また一人とこの場を去る配下の者にしても同じ。『完全な(パーフェクト)隠密ステルス』を具体的に実践する彼らの姿を見てカーティスは密かに胸を撫で下ろして言った。

「無知とは幸運でもあり、不幸な事でもあるな。これほどの実力を持つ集団にたったあれだけの人数で戦いを挑むとは。我々が敗れたのも頷けると言う物 ―― いや、そうだったな。俺達はやはり騙されていたという事か。」

「そうね。貴方達が全滅した事を受けて向こうとしてはどう出るのかしら。其れについては興味がある。それによっては此方としても態度を決めなきゃだわ。貴方の葬儀もしなきゃいけないし。」

「葬儀? 」

「ええ。」祥子が微笑を浮かべて背後のカーティスを振り返った。

「貴方は此処で死んだ。でも貴方だけこの山奥で遺体が見つかった。無縁仏として葬られる所を日本政府が介入して身元が判明する。で、葬儀を行う。」

「それはそうだが、その事に何の意味があるのですか? 」

「日本の葬儀では其れを取り仕切る喪主が必要。身内の者がしなければならないわ。そして参列者。貴方に関わったごく近しい人達がやってくるでしょうね。」

 其の言葉がカーティスの脳裏に閃きを齎した。浮かんだ考えが思わず口を付いて出る。

「其れは私の家族や、『不可視の七人』、そして彼等の家族を日本に呼び寄せる格好の口実になる ―― 」

「はい、正解。」答えに行き着いたカーティスの聡明さを褒める様に、祥子が笑った。

「非合法な活動をしていた人物の死。其の人物がイギリス人である事を認める事は出来ても、其の遺体を引き渡せとは公式には要請出来ない筈。何せ表面上はお互い西側の一員だし、この事が露見してしまえば其れはイギリス政府を大きく揺るがす事件として扱われるでしょう。遺体の引渡しは葬儀終了後と言う事にしておいて、保護しなければならない全員が日本の地を踏みさえすれば、後は手出しは出来ないわ。今回の様に隠密裏に行動しようとしても、其処には必ず私達がいる。予期せぬ被害を被る事になるでしょうね、今日の貴方達と同じ様に。」

「しかし葬儀といっても私の家はれっきとしたイギリス正教で ―― 」

「それは貴方が本当に死んだ時にやってあげる。ところで、」

 祥子の表情が真顔に戻ってカーティスの体躯をじろじろと見た。頭から爪先までを何遍か行き来した挙句に、ポツリと呟く。

「 …… やっぱり大きいわね。何キロ位在るのかしら。ま、いいか。」

 そう言うとカーティスに其の小さな背中を差し出した。

「はい、私に捕まって頂戴。急いで此処から逃げるわよ。」

「え …… 」

 カーティスの戸惑いは当然だ。カーティスの身長はイギリス人としては小柄な方だがそれでも百七十センチを超える。対して目の前で背中を差し出す祥子の背丈は百六十センチ位に過ぎない。彼女の背に自分が負ぶさる行為は誰がどう見ても間違っている。

「いえ、しかし、それは。」

「いいから早く。時間が無いわ。」

 促されて渋々と祥子の肩越しに腕を回して背に体を預ける。当然両足は地面に付いたまま。其の姿を見た山田が大笑いを上げた。

「ワハハハッ! 見ろよ帯刀。ちっこい猟師がひぐまを仕留めて担いでいるみたいじゃねえか! 」

 山田の声に引かれて振り返った帯刀が噴出しそうになって、慌てて口を押さえる。押し殺した笑いが堪え切れずに指の隙間から漏れ出して、全身を震わせた。途切れ途切れの息を使って、やっとの思いで言葉を口にする。

「 …… 此処、で笑えるのは、先輩位のもんです、よ? 命知らずな。」

「だ、だってよ、あれ、あれは無いぜ? 誰が見たって可笑しいって! 」

「だ、だから、笑っちゃ駄目ですって。」

 そう言いながらも未だに震えの収まらない帯刀。二人の姿を黙って見つめていた祥子が、突然低い声を上げた。

「おい、そこの下駄箱。」

 其の声で二人の笑い顔が切り取られた様に硬直した。声に籠められた微かな殺気が二人の感情から『嬉』だけを貫く。

「下駄箱なら下駄箱らしくちゃんと役に立てよ? もしあたしの靴が無くなってたりしたらあんた達の今月のお手当ては無いからね、あたしの靴代として。」

「嘘っ!? 」

「僕も!? 」

「出るぞ。」

 二人の叫びと楯岡の声は時を合わせて林に木霊した。途端に消え失せる楯岡と帯刀の姿と気配。山田一人が其処に残って祥子とカーティスに向かって声を掛ける。

「カーティス。」

 其の声で焦点を合わせるカーティスの瞳。視界の中に未だに笑いを貼り付けた山田が両手を前に差し出し二度三度と動かして、言った。

「揉むなよ? 」

 誰が、と思ったカーティスと石礫いしつぶてが山田の顔を通り抜けたのはほぼ同時だった。残像だけを其処に残した山田は既に闇の中へと消えている。見えぬ姿を見送る二人だけが残った林を異形の僧侶を焼き尽くそうとする業火が齎す光だけが照らし上げる。祥子の右手が其の光の中で鮮やかに閃いて、手の中の苦無を残らず宙に放った。

背後に消えて行くそれらは彼等の退路を塞ぐ様に上下左右に展開して白骨の樹木へと突き刺さる。

「これでよし、と。さあ行くわよ。振り落とされない様にしっかりあたしに捕まっててね。」

「今のは? 」

「おまじないよ、ほんの気休めの。それでも少しは時間を稼げる筈だわ。」

 そう言うと祥子は真言を唱え始めた。言葉を理解出来ないカーティスにとってはそれが何を意味するのかは分からない。だが其の言葉によって齎される変化は明らかに認識出来る。言葉の終わりと共にカーティスの足元にある祥子の両足が蒼白く輝いた。

「目は瞑っていた方がいいかも。貴方が経験した事があるというのなら話は別だけど。」

「どの様な経験でしょう? 私も大概の恐怖は経験しているつもりではありますが。」

 肩越しに尋ねるカーティスの好奇に満ちた表情をチラリと眺めて、祥子は薄笑いを浮かべた。

「直滑降で林の中に突入した事がある、と言うのならね。 ―― じゃ、行くわよ。」

 言い終わりと同時にカーティスの体に圧し掛かる強烈な加速。引き剥がそうとする力に屈するまいと回した両手に力を込める。其の瞬間にはカーティスの両足は既に地面の感触を知る事は無く、吹流しの様に宙に投げ出されて祥子の背中に付き従っていた。

 声を上げる暇も無くその加速を体験するカーティスを背中に、祥子の体は尚も速度を上げ続ける。両足に湛えた『韋駄天の呪法』の輝きが残す光跡だけを林の中に残したまま。


 悶絶する八本の舌。浄化の炎に其の身を焦がして跳ね上がるそれらが唱える真言は、赤塚が最期の術を発動した時点で別の物へと変化していた。

 十五文字の文字を只ひたすらに紡ぎ上げ絶対領域を構成し続けていた舌が替わって唱え始めた、其の持ち主であった八人が見た事も聞いた事も無い真言。それは長く複雑で。だが其の真言が唱えられる毎に彼らを焼き尽くそうとする炎は勢いを増して闇の領域を染め上げる。

 不動明王火界真言大呪。

 赤塚が最期に残した真言は『一字呪』と呼ばれる、法要等で使用されるごく一般的な真言に過ぎない。だが今此処で展開されている真言大呪こそは正に不動明王その者が持つ力の真髄。改心する情の無い生粋の悪を調伏する為に備えられた、神仏の中でも数少ない憤怒の形相を持つ明王の力。其処に存在する魔を全て滅するまでは慈悲も温情も欠片も与えずに力を振るい続ける、退魔の業火。

 閉鎖された空間内を満たす闇、そして事象の地平下より吹き上がる瘴気は格好の餌。故にこの環境が消滅しない限りこの炎が治まる事は絶対に有り得ない。焼き尽くす為に火勢を上げる八本の火柱は見る間に巨大化して一本の巨大な紅蓮の火柱と化した。其の火柱は自らが巻き起こす空気の対流と地平下から吹き上がる風に煽られてまるで火竜の様に全長を伸ばして空間内を嘗め尽くす。

 それは紅蓮の竜巻。外延部に沿ってとぐろを巻く火竜が内壁に蓄積された瘴気と法力を共々にその飽く無き食欲を持つ胃袋へと収める。飽食による力の拡大は更なる延焼を引き起こして、激減する酸素の欠乏は澪と男の呼吸を苦しめた。

 思いがけずに訪れた生命の危機を感じて堪りかねた澪が、吹き荒ぶ嵐に負けない程大きく上げていた泣き声を止め、薄い大気の中から必要な酸素を取り込もうとして咳き込んだ。

 その時。

 浄化の火竜が突然絶叫した。風の流れに沿って規則正しく二人を取り囲んでいた筈の胴体部を震わせて、次の瞬間には無秩序な成長を始める。流れに逆らい、勢いに抗い、自らの体躯の急速な成長に耐え切れずにのた打ち回って暴れ始める。

 摩利支天を封印する為に外部から完全隔離された空間内に満ちているのは、彼女等『神仏』と相反する『闇』に属する物だけでは既に無くなっていた。『狂乱の詠唱者』を立ち上げた月光菩薩の、そして其の術を破ろうと有りっ丈の神力を開放した摩利支天の力の残滓が暴風の渦に翻弄されながらも交じり合って存在している。見境を失ったまま闇と共にその神力を摂取せざるを得なかった不動明王の化身は体内に過剰に蓄積されていく、二人の神々の力に耐え切れない。

 その暴走こそが赤塚が仕掛けて置いた最期の罠だった。

 不慮の事態が発生した事によってこの計画が中断若しくは失敗した時に ―― 自分が討たれる事を含めて ―― 全てを一瞬にして焼き尽くし自分の存在諸共証拠を抹消しようとする、自分が組した『天魔波旬』の存在の痕跡すら抹消する為に仕掛けて置いた自爆装置の正体。

 だが既に現世から退場を果たした当の赤塚がこの状況を予想していたとは考えられない。

 何故なら、其れは。其の空間は。

 言葉では言い表す事の出来ない熱と焔が封殺する限定解除の爆心地。

 拡大して空間を埋め尽くそうとする紅蓮。一瞬にして焼け野原と化す事象の地平。魔法陣を描いた赤塚の黒血は瞬時に蒸発して痕跡すらも残らない。其の瞬間に大師堂の本堂としての空間は現実の世界への帰還を果たした。

 境界線の消失は地獄の領域の拡大を意味する。火竜は成長を続ける肉体を収める場所を確保する為に制御者不在の結界の外殻を一気に押し広げ始め、其の姿は限界を超えて膨張の一途を辿った。


 暴走する火竜にとって善悪選択の余地は無い。取り囲んだ全ての存在を葬る為に席巻する焔の嵐は悶絶と咆哮を繰り返しながら勢いを増して行く。無慈悲且つ凶暴な破滅を齎そうとするあぎとは狂った様に其の牙を剥きながら焔を吐き出して、その残り火が中心に立つ男にも、そして澪の身にも容赦無く襲い掛かった。

 噴出した炎に炙られて、火炎に中に沈んだ澪が絶叫する。守護者を失った彼女には其の炎から身を護る力を失っている。彼女の周囲に散らばる百余人の赤子と同等若しくはそれ以下の力しか持ち合わせなくなった今の澪には『神仏』の力を御する事も、抗う事さえ不可能なのだ。

 其の光景こそは彼女の体の下に広がる白い灰の持ち主達が辿った過程と同じ道、同じ世界。彼らと同じ絶叫を上げる、人としてその場に立たされた澪の姿。

 だが護摩天蓋を通して地蔵菩薩の元へと送られた彼らと今正に地獄の責め苦に会う澪の間には僅かな違いが現実として存在していた。

 男の存在。

 澪の絶叫は其処に佇む男の心を鷲掴みにした。周囲を取り巻き男の纏った法衣を焦がす焔と同じ色をした緋の瞳が火炎の中の澪の姿を見定める。其処に宿った意志の光。

 男の体躯が深く沈み込む。歩く等と言う行為は今の男の心境にはそぐわないのだろう。踏み込まれた両足が男の体を熱風となった嵐の中へと撃ち出そうと最後の力を溜め込んだ。

 届け、今度こそ。

 心の奥から湧き上がる叫びが男の足に力を与える。そして男の足は澪の体を焦がし続ける火炎の渦へと男の体を投げ出した。

 一直線に宙を跳びながら求める様に伸ばし切られた左手。埋め込まれて突き出した刃が炎の光に煌きながら、男の意志や思考を論外に置いて澪目掛けて突進する。差し出された刃には意味は無く、其の先にある結果を主に知らせる事も無い。それが例え澪の絶命を司る物だったとしても男と男の左手はひたすら澪を、渇望した命の輝きを目指して。

 澪の体に刃が迫る。其の先端が男の左手に先んじて澪の胸に届こうとした瞬間、高速で押し寄せた炎の筋が男の左手に襲い掛かった。猛烈な熱が失った筈の男の痛覚に進入して正気を取り戻させ、纏った風が男の手から刃を引き抜いて焔の渦へと奪い去る。

“護って。”

 風が孕んだ其の声は、男の知らない女の声。だが其の声には強さと、優しさと。

 そう、まるで我が子を見守る母親の様な、切ない声。

 声の導きに引かれた男の手が遂に其処に届く。白い籠から炎を纏った澪の体を毟り取って掻き抱いた。床一面の灰燼かいじんを跳ね上げて命の残骸に塗れ、勢い余って転がる二人。役目を失った白い揺り篭が二人の姿を見送る様に、取り巻きながら範囲を狭めつつある紅蓮の渦の中へ消えて行く。

 焼け焦げた男の左手がくすぶり続ける澪の産着の炎を掃って消し止める。自分の法衣に引火した炎には目もくれずに一心不乱にはたき続ける。焦げる産着の下で澪の体を守る様に包んでいた上質の絹布。描かれた鮮やかな七宝の柄が露になった時点で、澪を焼き続けた炎は其の火種を消滅させた。

 一瞬の安堵を手にした男の緋色が胸の中の澪を見る。

 焼け爛れた顔、そして黒く焼け焦げた産着。醜く糜爛びらんした彼女の両の瞼が開いて、彼女を取り巻く世界を彼女が見る事は二度と叶わないであろう。

 だが澪は男の手を、感触を、命を感じて泣き止んだ。求める両手が差し出されて男の顔に押し当てられて、左手に突き立った水晶の鏃が男の頬を深く抉った。

 交じり合う互いの血。混じり合う互いの、人としての証。

 男の頬から滲み出した血が澪の体に零れ落ちる。自分の血で赤く染まってゆく澪の姿を見つめる男の表情には微かな喜びが湛えられたまま。

「護るさ、護ってみせる。」

 男の言葉に、声に反応した澪が確かに笑った様に男には見えた。顔の火傷の痛みに耐え、震えに憑かれる小さな口の端を僅かに持ち上げて。しかし其の形も長くは持ち堪えられない。澪の口は再び元の形を取り戻して大きく咳き込み始めた。減少する酸素は再び澪の肉体に窒息の症状を齎し始める。残り少ない生を求めて顔色を青ざめさせて息を荒げる澪。精一杯の力で呼吸を繰り返す澪の、醜く焼け爛れた顔を見つめて、男は其処へと顔を近づける。

「きっと、誓える。」

 男の口が澪の口を塞いだ。送り込まれる男の呼気が澪の肺に満たされて。澪の手が自分の体を離すまいと力を込めて抱き止める男の左手をしっかりと握り締める。

 地獄の中の邂逅かいこう。焔と浄化の嵐の中で果たされた二人の出会いは次の瞬間に業火の中へと押し潰された。

 此の世に這い出る隙間も与える事は無いかの如く絶対的な輝きを放ちながら渦巻く『火竜』の中へと。


 火竜は周囲を囲んだ結界諸共に生息範囲を拡大して、遂に観自在菩薩十五尊絶界陣の外縁部に到達した。肥大を続ける胴体によって際限無く押し広げられた月光菩薩の結界の壁が燃え盛る八体の異形の僧侶の背中を勢い良く蹴飛ばした。地に其の両足を縫い付けた独鈷杵が弾け、自由になった体は地面を捉える事無く宙を飛ぶ。其の先にある自分達が構成し続ける絶対領域の結界の内壁に向って。

 奏者を失った彼らは体の内部から湧き出す炎に其の身を焦がしながらも本来の制御を取り戻していた。逆詠唱が収まり、彼らが唱えるべき本来の真言が焼け爛れた口から炎を纏って吐き出される。『鬼道』の力を失い、聖なる特性を携えた障壁は冠する絶対の文字を証明する為に再び内部の変化を封じ込めようと其の力を発揮する。

 胸の前に置かれた、痙攣を起こす両手が自分達の命と引き換えに手にしたあの印を無心に紡ぎ続ける。其れは自らの命を持って何かに抗議をしようと焼身自殺を図った僧侶の姿。炎に巻かれた異形は其の先に控えた運命を知る事も無く、自分達が果たした『お役目』の成果へと叩き付けられた。

 砕ける掌。尚も圧力を上げる背後の壁と彼等の前に立ち塞がる絶対の壁。

 人の圧壊が始まった。


 その時『乾』は光を見た。

 最後に其れを見たのは何時の事だったのだろう。何かに命じられて急かされるままに操られた彼の意識が其の記憶を求めて彷徨っていた。

 耐え難い冷気と体を焼く灼熱が彼を襲う。暗闇の中で真逆の感覚に耐え続ける彼の瞳が何かを見つけた。

 其れは遠くにあって近く。傍にあって遥か彼方。光の粒は其の輝きを増して、そして失って乾の渇望を煽り立てる。

 手を伸ばそうと力を込めるが手が何処にあるのか分からない。其処へ行こうと足を伸ばすが踏み締める地は何処にある?

 不自由は彼の渇きをより現実に近い物にして彼に与えた。亡くなった目が探す。亡くなった耳が探す。亡くなった舌が叫ぶ。

 其れを私に。手にする事が出来るのならば、報われる。

 心の中に響く彼の願い。そして光は其の願いを聞き届けたかの様に彼の視界を覆い尽くそうと範囲を拡大させて彼に迫る。

 光に満たされる乾の心。怨みも哀しみも怒りも憎しみも忘却の淵へと追い遣って、彼の心は其の輝きを揺り篭として満たされていく。

 そして彼は平穏の中で何かが壊れる音を耳にしながら、喜びに満ち溢れた声で呟いた。

「なんだ、此処にいたんじゃないか。神様は ―― 」


 壁と壁の間の空間はその時、物質が物質足るべき圧力の限界を超えた。

 瞬時に挫滅ざめつする八体の異形。飛び散る炎。肉も骨も纏めて潰され液体と化して結界の内壁へと張り付く。そして間髪入れずに人の形を無くした汚泥の様な液体を蒸発させる火竜の業火。

 彼等の喪失。人柱を失った観自在菩薩十五尊絶界陣は唯一の弱点を其処に露呈した。想定される筈の無い内部からの攻撃は絶対を誇る結界をいとも容易く崩壊へと導く。

 炸裂する外殻、舞い散る法力の欠片。そして其れすらも飲み込み、巻き込みながら尚も拡大し続ける火竜の全容。

 絶対領域と言う緞帳どんちょうを失った火竜の放つ焔光えんこうが根来寺を取り囲む山々の稜線を、夜明けが近付く空を背景にして鮮やかに浮かび上がらせた。


 祥子の放った苦無にぶら下がった札が火竜の熱で燃え上がる。炎に触れるまでも無く其の周囲の温度は紙が自然発火する二百三十三度を優に超えて現世への浸潤を果たしている。黒焦げになった紙の残骸は秘められた力を放つ事無く焼き尽くされたと思われた其の瞬間。

 空間に展開される網。次の瞬間には厚みを増して巨大な立方体の壁となって姿を顕した。炎の光を透かして揺らめく其の構成元素は、水。

 目の前で燃え上がった異形の僧侶の姿。其処から導き出した破滅の正体に対抗する為に祥子が選んだのは、相克の法則に基づいて『火属性』の弱点を携える『水天』の術であった。

 水天の瀑布。大気中の水分を法力によって限定した空間へと凝縮させる防護壁。耐熱、対物理、対衝撃に優れた力を発揮する五大元素の一、地上の殆どに存在を確認する事の出来る物質を使った巨大な壁が、まるで神の怒りに抗う人の意思を表すかの様に火竜の行く手を遮った。取り込まれる水の量が増大する毎に厚みを増す壁が遂に火竜の本体へと接触する。

 其れは金属の弾ける音と共に起こる。火炎は接した部分の水分の相転移を一瞬で完了した。急激な物質の構造の変化は不安定な状態で放置されて、次の瞬間には最小単位で弾け跳ぶ。其の連鎖は接触面全体に拡大して。

 界面接触型の水蒸気爆発。チェルノブイリ原子力発電所四号炉の天蓋を上部構造物もろとも吹き飛ばした物理現象が其処に発生した。世界を揺るがさんばかりの爆音と衝撃波が火竜の周囲を取り囲む結界全体に伝播し、勢いを止め、押し戻す。肥大する体を押さえ込まれた理不尽に怒りの雄叫びを上げる火竜。

 周囲の山々に木霊する其の音は逃げる彼等の耳にも届いた。僅かに振り向き、その結果を確認する祥子の目。

 其の術が押し寄せる破滅の足音を押し留める事が出来るか否かと言う事は、祥子が仕掛けた一つの賭けであった。播磨が退避を口にしたからにはそれなりに強大な脅威が発生している事を意味する。故に相手の力が大きければ大きい程其の威力を発揮するこの術を使う事に決めた。そして今の所其の判断は吉と出ている。

 爆発によって吹き飛ばされた立方体の水分が蒸気となって濛々(もうもう)と立ち込める。苦痛からの開放を求めて悶える火竜が其の炎と熱を更に増して水の壁へと再び襲い掛かる。そして繰り返される爆発と衝撃波。火竜の体を覆い尽くした衝撃は其の体を見えない球体の中に押し込めて、現世に拡大する被害の範囲を其処で留めようと抵抗する。

 終息間近なこの術が最後の時を迎えるまでそう遠い未来ではない。祥子の術は神の怒りを人の英知によって押し留める事に成功した、唯一の例として記録されるかと思われた。

 だが祥子自身が其の術を『気休め』と呼んだのは謙遜でもなんでも無い。祥子には其の術が出来る事は足止めにしか過ぎないと言う事を知っている。

 成功など在り得無いと言う事は其の術を仕掛けた彼女自身が一番良く知っている。

 無尽蔵無制限に供給される、水の立方体を構成する水分。それは地球が枯れ果て無い限り失われる事は無く、そんな事は在り得ない以上この壁が破れる事は無い。

 だが其の壁に相対する火竜の力も無尽蔵、無制限に供給される神の力。

 其処に加わる無秩序。暴走する火竜の力は其の滝に供給される水分の量を上回る蒸発を齎す。爆発と共に削られて失われる立方体。乱打される衝撃波が切削に力を貸して構成する水分を見る見る蒸発させていく。其の大きさは立方体から直方体に、そして壁の薄さへと移行して。

 最期の瞬間はあっけないほど突然に訪れた。其処に残された最後の水が火竜の齎した衝撃は余りにも小さく。息絶えた壁を飲み込んだ炎は祥子の苦無を一瞬で溶かして水諸共蒸発せしめる。

 自分を封じ込めようとした扉を蹴破った火竜が苦悶の絶叫を上げて更に肥大した。其の勢いは音の速さを飛び越えて周囲へと拡大する。空気を叩く衝撃波は自分に与えられた苦痛を与えた張本人に投げ帰す様に、祥子達の背後に迫っていた。


「御婆様、貸せっ!」

 祥子の背から剥ぎ取られるカーティス。祥子の張った足止めが退避に必要な時を稼げなかった事を知った楯岡達が祥子の傍まで下がって来ていた。立ち並ぶ木々を縫って走るが為に速度を上げる事の出来ない祥子の速度に合わせて走る山田が其の手を伸ばして抱え込む。

「兵庫! あんた達! 」

 周囲を見渡して叫ぶ祥子。命令違反を犯した三人はその事を侘びる事も無く、自分達の背後から迫って来る危機と其の顛末を予感して緊張した視線を祥子へと向けていた。祥子の直ぐ傍で重荷を肩代わりする為に近寄った山田が緊迫した声で祥子に言った。

「良いから此処は任せて先に逃げろっ! 楯岡様、帯刀っ。御婆様を頼むっ! 」

 叫ぶなりの急制動。山田とカーティスをその場に残した三人の姿が其の背を炎の輝きに染め上げられて遠ざかる。

「先輩!? 何するつもりですかっ。 もう直ぐ ―― 」

 帯刀が予期せぬ行動を取った山田を振り返って叫んだ。三人の走る直ぐ先、ほんの数十メートルの先の暗闇に光る播磨の義眼。手を地面に押し当てて精霊との交信を図る彼の姿は其処が彼等のゴールである事を如実に証明している。

 だが背後に迫る死の炎は其の速度を上げた。其れは空気の震えを背中に感じた三人にも、そして安全圏に退避した長門を始めとする仲間にも分かっている。

 このままでは荷物を背負った者が間に合わない。

 判断を下した山田の足は祥子の元に近付き、彼女を死に至らしめようとする重荷を引き受けた。カーティスを抱えて炎の壁を背に立ち尽くす。

 衝撃波に先んじて押し寄せる突風が山田の体を吹き飛ばそうと猛烈な勢いで届く。其の風に逆らった山田の右手が鞘の中の穂先を引っ張り出して口に銜えた。其処に柄を捻り込んで槍の形態を創り上げる。

 槍としての機能を取り戻したそれを山田は力いっぱい足元に突き刺した。柄尻を掴んで背後の突風に逆らって全身の力を込めて撓わせる。カーボン素材で出来た黒い柄はまるで棒高跳びの選手が正に跳躍する瞬間に形作るポールの様な状態をその場に作って、二人の体を今にも空中へ打ち出そうと山田の意志に抗った。歯を食い縛って其れを捻じ伏せる山田。

「カーティス、柔道をやったことはあるかっ!? 」

 迫り来る炎の轟音に掻き消されまいと山田が叫ぶ。

「少年、何をする気だ ―― 」

 山田に負けない大声で尋ねるカーティスが山田の体の変化に気が付いて声を止めた。自分の胸倉を掴んだ左手が大きく膨れ上がり、尋常ではない力が其処に篭められているのが判る。治療した筈の傷口が開いて鮮血が噴出している。

「上手く受身を取れよ、先にいってろぉっ! 」

 声と共に地を蹴る山田。解き放たれた槍の柄が二人の体を勢い良く跳ね上げる。其の瞬間に山田の左手がカーティスの体を前方の安全地帯で息を呑んで見詰める仲間達目掛けて投擲とうてきした。

「播磨ァっ! 受け取れぇっ! 」

 山田の咆哮と共に突風に煽られて空を飛ぶカーティスの体。それは山田の前方を走る三人の遥か頭上を飛び越えて、白骨と化した木々の枝を蹴散らしながら播磨のいる眼前の地面へと放り出された。叩き付けられた衝撃で息を詰まらせ、それでも尚勢いを失う事無くもんどりうって転がる。

 高速で走る車内から放り出された様な感覚が止むのは其の体が何者かの手によって押さえられた時。カーティスは硬く閉じていた目を恐る恐る開いて見上げた。

 滑走する自分の体を押さえた人物の顔は既に自分を見下ろしてはいない。切迫した右目の光と怪しく照らされる左目の義眼が前方の空間に振り向けられて。其の口が大きく開いて叫び声を上げた。

「山田ァっ! 」

 其の叫びに思わず播磨と同じ方向へと顔を向けるカーティス。生き延びる事の出来た彼の視界には着地に失敗して跪く山田の影が映っている。必死に立ち上がって手の中の槍を放り出して、左腕の傷を押さえながらよろめく様に走り出す。だが痛みに耐える其の足が以前の速度を取り戻す事は無く、火竜の炎と衝撃波はそんな姿の山田を引き裂き、焼き尽くそうと数秒後の地面を蹂躙する。

「ちっくしょ、あんな事するんじゃなかったぜ、」

 呟いた瞬間に手放した槍が衝撃波によって粉々になって炎に呑まれた。迫る熱と空気の震えが山田の背中をじりじりと震わせて回避出来ない死を予感させる。だが山田の足は止まらない。

「だから、いやなんだよ、」

 痛みが逃走の意思を凌駕した。激痛が山田の足から動きを奪ってその場に遂に跪かせた。死を覚悟した山田の目がキッと振り上げられてほんの僅か先にある仲間の姿を求める。笑った。

「子供絡みの仕事はよぉ。」

 播磨の義眼が炎を映して輝いて。

 何時もは人を食った様な笑いを絶やさない帯刀の眼差しが大きく見開かれて。

 御婆様の表情が、口が大きく開いて何かを叫んでいる。

 楯岡の顔が冷静な ―― 。

 いない?

「山田。」

 姿を求めた楯岡の声は四つん這いになった山田の直ぐ脇で響いた。思わず見上げる山田の目に、既に両足を大きく踏ん張って拳を脇に構えて立つ楯岡の姿が映る。

「目と耳をしっかり塞げ。口は大きく開いて息を吐き出して置け。」

 其の言葉に山田の顔色が見る間に蒼褪めた。楯岡が告げた言葉の意味を理解した山田の口が大きく歪んで。自分でも気が付かない内に慌てて叫ぶ。

「ちょっ、楯岡様っ! まさかあれをここで ―― 」

「いくぞ。」

 死の匂いは二人の傍に迫っている。火竜の輝きに照らされた楯岡の顔。微かに開かれた口から体内に溜め込んだ力を爆発的に放出する為の息吹が、風の勢いに負けない位の大きな音を立てる。光を映す其の瞳が見詰める物は二人と火竜の間に発生しつつある空間のひずみ。蒼白い放電を繰り返す大気が蔓延するその空間に向って動き出す楯岡の肉体。足首が、脹脛ふくらはぎが、膝が、腿が物凄い勢いで山田の視界の中を旋回する。

「いや、待った! だめだっって。此処じゃ近 ―― 」

 歪みに向って叩き付けられる楯岡の正拳。其の瞬間に炸裂する空間、湧き上がる光と爆音。

 閃光は山田の声を、そして二人の体の輪郭までも掻き消して死に覆われようとした其の場所を埋め尽くした。


 火竜の成長は其処で限界を迎えた。

 滅するべき対象を失った其の巨体はそれ以上の肥大を、それ以上の現世への干渉を中断する。魔に導かれて人に差し向けられた神仏の浄化の力は次の瞬間に終息へと移行した。

 根来寺の敷地の殆どを業火の歯牙に掛けた火竜が、灰燼かいじんに帰した熱が見えない息吹に吹き消されて光と形を失う。修羅の地獄を蔓延させた憤怒の太陽とも言うべき火の玉は、其の全てを此の世ではない何処かの場所へと熱と共に姿を消した。

 世界が静寂と闇を一瞬にして、何事も無かったかの様に其の手に取り戻す。音すら失ったその場所で唯一、其の場所が地獄であった事を証明する様に光の粒だけが宙を彷徨って漂い続けて。

 やがてそれは何かに導かれる様に爆心地の中央に集まった。収束する光の粒は互いに鬩ぎ合う様にしてその場に留まり、次第に其の天地を延ばして明けの明星の輝き始めた星空に向って棚引く。瞬き失せようとする星星の数を補う光の帯が高く舞い上がる。

 それが戦いの終わりを告げる狼煙であるかのように。

 それが戦いの始まりを告げる狼煙であるかの如くに。

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