追 憶
「そうだね、神を封じる事は出来ても消し去る事は出来ない。」
少年の瞳に宿る紺碧が赤塚の老いた眼差しを見据えて答えた。小さな体に不釣合いな大きな椅子に腰掛けて、届かぬ両足を宙に遊ばせながら話す其の少年の表情は何処か楽しげに見える。赤塚が放った質問が余程気に入ったのだろう。少年はにっこりと微笑みながら目の前に立つ赤塚へと言葉を繋いだ。
「僕の力でも神を操る事は出来ても、其の存在を滅する事は出来ないさ。何故なら『神』は『絶対』だからね。」
「『絶対』、と申しますと? 」
赤塚の問い掛けに一つ頷いて少年は赤塚の姿から視線を逸らした。何かを思い出す様に両目が焦点を失い、宙を彷徨う。
「『存続に必要且つ欠損有り得ぬ存在』と言う事さ。世界を構成する全ての要素を護る為に創造主から配置された『守護者』達。彼らは自らに与えられた領域を保護する事によってこの世界の秩序を保っている。世界中にある色々な宗教が一つの例外も無く『神』の存在を具現化し、崇める様に其の教義を設えてあるのは其の為さ。それは人々が『神』の存在を見失わない様にしているからなんだ。」
「見失わない様に、ですか。…… 申し訳御座いません。拙僧には貴方のおっしゃる意味が良く分かりませぬ。」
戸惑う赤塚の表情を少年が眺めて、クスッと笑いを漏らした。
「ごめん。今の言い方はちょっと間を端折り過ぎたね。…… まあ、其の辺りの意味は何時か教えてあげる。」
「ですが、人の中には『神仏』を信じぬ輩も存在する筈。その様に一方的に決め付けられても ―― 」
「今の貴方の様に、かい? 」
赤塚が自分の問い掛けの不条理さに気が付いて、声を掛けた少年をまじまじと見つめた。宙を見ていた少年の視線は何時の間にか赤塚の表情を愉快そうに覗き込んでいる。
「残念だけど其れは違うよ。貴方は気が付いていないのかも知れないけど、貴方は自分の価値観を変えてしまっただけ。『神』を信じると言う一点に於いては今までと何にも変わってない。 ―― つまりはそう言う事なんだ。」
可憐な微笑が少年の口角を微かに上げて、湛える表情をより一層魅惑的に見せる。そしてその視界の中に存在する少年が携える二つ名の文字を、赤塚の意識は懐疑的にさせた。
『天魔波旬』。彼が自らをそう名乗って赤塚の前に現れた時、赤塚は我が目を疑った。
語り継がれた文言や口伝による描写とはおよそ懸け離れた其の姿、そして雰囲気。唐突に目の前に現れた怨敵を有無を言わさず仕留めようとした赤塚の手を押し留めたのは、後に知る事となった彼の力量等ではない。無防備に赤塚の目の前に立った彼自身が放つ、『神』を髣髴とさせる其の神性による物だった。
それでも赤塚は真言宗の一派を束ねる一人の座主として、其の力に屈する訳にはいかなかった。其の子供が持つ論理の矛盾を看破し、預言の成就を疑い、存在を否定しようと試みた。
だが其の全てが討ち果たせなかった赤塚が今、天魔波旬の目の前に立っている。
信じざるを得なくなったのだ。彼が信奉していた『神仏』の存在以上に彼の存在と言う物を。
そして彼の言葉の正しさと言う物を。
「貴方だけじゃない。『人』は『神』を信じざるを得ないんだ。それが例えどんな悪人であろうとも、ね。 ―― 『悪人正機』と言うのは貴方達の国の宗教の言葉だっけ? 僕は正に其の通りだと思うよ、『人』の真理を上手に表現している。」
「『悪人正機』とは我が国の一向宗の教えですな。しかし其の言葉の何処に人の真理が? 拙僧には信者を残らず取り込む為の謳い文句にしか聞えませぬが。」
「なるほど、そうも取れなくは無いけどね。」
他宗の教義を否定しようとする赤塚のプライドを擽る様な笑みを浮かべて、少年は赤塚の反問を言外に停めた。
「悪人ほど自分の罪深さを心得ている。そして救われたいと強く願っている。そして『神』は其の魂を救う為により多くの癒しを彼らに与える。善行を施して天寿を全うする穢れ無き魂よりも多くの救済をね。勿論其れが不公平だと言えば確かにそうなのかも知れない。でもそうやって均衡を保つ事によってこの世界は『存在』を許されるんだ。創造主の裁きを免れて。」
其処まで語った少年が不意に言葉を切った。傍らのテーブルに載せられたグラスを手に取って、挿されたままのストローに口を附けた。赤い色の液体が微かに気泡を湛えて彼の口へと流れ込む。其の液体を冷やし続けた氷が重力の定めに従って其の位置を変えて、乾いた音を周囲の静寂へと放った。
「でもね、」
少年の声が静けさを壊さない様に密やかに漏れる。
「其れはあくまで一方的な見方であって、正解じゃない。僕達から見れば貴方達の方が『悪人』であって、貴方達が一心不乱に『神』を崇めている姿は僕達の目から見れば『悪人』が救いを求めている様にしか見えない。 ―― ね? 見る方向を変えるだけで互いの立場は逆転するでしょ? 」
天使の様な顔で少年は、赤塚に答えを促す様に微笑んだ。
「『人』は皆『神』と繋がっている。故に其の素性がどうであろうと尊い存在で有り続けなければならないんだ。僕が彼らに戦いを挑む理由も其処にある。」
「戦い、ですか。『神』との? 」
赤塚の問い掛けに少年は黙って頷く。
「そう、戦いだよ。これは。どちらがこの『存在』の支配者かを決める為の雌雄を決する、遥か昔から続けられる『神』と『人』との。」
言葉を止めた少年が空を見上げた。降り注ぐ日の光が二人の頭上に等しく降り注いで僅かな影を地面に映し出す。天空に輝く太陽から放たれる日差しを避ける様に翳された掌が、少年の表情に影を作った。遮っても尚其の指の間から零れ落ちる光を眩しそうに見つめながら、少年は言った。
「僕の目的の為には『神』を消し去る事は出来ない。何故なら其れは世界の秩序を壊してしまうから。全ての要素が今と有るがままに揃った上で始めて実現する事の出来る計画。 ―― だけど、もし『神』を消し去る力を持つ者が僕達の前に姿を現したとしたら、」
「現したとしたら? 」
「其れこそが僕達の本当の敵さ。『摩利支の巫女』何か問題にならない位に恐ろしい、本当の。」
少年の表情が歪んだ。可憐とは程遠い其の顔に浮かんだ笑みは、彼の本性を浮かび上がらせた。赤塚には気付かれない様に。
「面白いとは思わないかい? 僕達の為にそんな力を持つ者を此の世に遣わせる愚かな『神』の存在を。彼らは自分達が勝利を得る為に、自分達を滅ぼす力を持つ者を此の世に送り込むんだ。 ―― その結果がどう言う事になるのかも分からないのに、ね。」
現実だ、其れは。紛れも無い。
赤塚の記憶の海に浮かんだあの日の光景と会話がつい今し方に行われたかの様に鮮明に蘇った。今日までの全てを寸分の狂いも無く予言した少年が其の存在を仮定の域でしか推測出来なかった『本当の敵』。
それは赤塚が育て上げた男の姿を借りて今、赤塚の前にいる。
月光菩薩を貫いたままで離断した右腕が男の足元に投げ出される。溶ける様に分解する彼女の体は結び付きを失って、光の粒と化して事象の地平へと散らばった。
散乱する月光菩薩であった物。散光する月光菩薩であった物。其の一つ一つは闇より解き放たれた事によって意志を取り戻し、自らが帰還を果たす場所を男の手の中へと選択した。だが其の光景を見詰める赤塚にとっては彼女が其の右腕に喰らわれている様にしか見えなかった。
消滅する『神仏』。それは天魔波旬の言葉を借りるならば『世界の崩壊』を意味する。
そして其れは赤塚が全てを犠牲にしてまで求め続けた、赤塚が思い描いた未来の崩壊をも。
失われて行く未来は赤塚の中の理性を連れて行った。捌け口の無い怒りと悲しみと苦しみ。裏切り続けた自分の立場など省みる事も無く、裏切られたと言う事実に身を焦がす熱だけが赤塚の心を燃え上がらせる。震える声が瘴気と共に裏切り者と自らが認定した其の影に向って叩き付けられた。
「こ、の、大馬鹿者がぁっ!」
嵐を烈する大音声と共に吐き出される大量の闇が男の姿を眩ませる。だが死の匂いを孕んだ其の吐息に包まれた男の様子は変らない。もぎ取られた片腕分の重心を探るように跪いたまま陽炎の様に其の輪郭を不確かな物にして、それでも生の証である呼吸を整えようと大きく肩を上下させている。
「何と言うことを。何と言う事をしてくれたっ! 自分が今何をしたのか分かっているのか!? 」
刃と化していた赤塚の左腕が重力の重みの逆らって、其の長大な刀の先を男の喉下に突き付けた。先端にまで到達した怒りの振動が男の喉に傷を付け、僅かな染みを作り出す。
席巻する負の感情が出口を其の刃の先に求める。其れを解消する為に行う行為は唯一つ、目の前に立つ死に損ないを殺す事。赤塚の心の九割は其の耐え難い思いに埋め尽くされて、溜まった憂さを晴らす為に行動を起こそうと躍起になる。
だが残った一割にも満たない理性。其れは好奇心や探究心にも似た物だったのであろう。その領域が赤塚の殺意を済んでの所で押し留めた。擦り合う感情の摩擦が冷たい熱を生んで、赤塚の感情と行動の均衡を混乱させる。
目の前に立つ男が覚瑜なのか、殺人鬼なのか。そんな事はもうどうでもいい。其れよりも今この男が行使した力 ―― 『月光菩薩』即ち『神仏』を消滅させた ―― こそが今一番必要な情報。其れを手に入れる事が出来たならば、自分達の勢力は最大の敵の正体を知る事が出来るのだ。
そう、最大最凶の敵。天魔波旬の卓越した慧眼を以ってしてでも看破し得なかった『神』を滅ぼす力を携えた『最悪』の存在の。
此処で其の正体を知るだけでいい。其れが出来れば例え自分がこの先に消滅する事になっても何とかなる筈だ。
何故なら、彼は何処かでこの光景を見ているに違いない。そして其の正体さえ分かれば、天魔波旬の力ならばこの男が振るおうとする力に対抗する手段を考える事が出来る筈だ。
故にこそ『神に弓引く存在』としての天魔波旬。其れこそが彼の力であり、存在する意義に他ならない。
喪われた失地や秩序を回復しよう等とは思わない。自分のするべき事は寧ろその先にある。
一割足らずの理性が残りを埋めた本能を制して、赤塚の左手の震えを止めた。熱に浮かされた子供が起こす痙攣を尚も其の体に纏いながら、赤塚の口が開いて男に尋ねた。
「お前は、誰だ! 覚瑜か、それともあの殺人鬼か、答えろっ! 」
覚瑜ならば其れで良い。元々は自分が創った仮の人格。其れが力を携えたとしてもこの先に起こる『狂乱の詠唱者』の収束に伴って自分と共に闇の深遠へと送られるだけの事。其の力が此の世に再び蘇る事は二度と有るまい。
だが其れがあの殺人鬼であるとしたならば話は変わる。如何なる理屈を持ってかは理解する事は出来ないが、其の男の魂は遥か昔から輪廻転生の定めを携えて幾度も此の世に顕現し続ける、人の世の理から足を踏み外した存在。其れを永遠に封印する為に考えた手段は幾通りもあった。だが自分に与えられた機会は今此処に存在する唯一無二のこの瞬間だけ。この機会だけは逃す訳にはいかない。
神も悪魔も封印する究極の神術。自分の考えの及ぶ限りではこれに勝る手段は考え付かない。自分が今までに考えた封印の手法のどれ一つをとってもだ。つまり『狂乱の詠唱者』の最中にこの男が姿を現した事は赤塚にとって千載一遇の機会が訪れたと同じ幸運に恵まれたと言っても良かった。
しかし、人の理を超越して存在し続けようとする其の男が確実に封印できるかどうかは分からない。自分が仕掛けた罠を全て噛み切って、遂にはこの場所へと姿を現し。
そして黄泉の世界から蘇って再び赤塚の前に佇む其の姿。
其れは悪夢としか呼べない代物だ。だが嘗て『神仏』を崇拝する事を心の拠所としていた赤塚にとっては其れを『奇跡』の一言で断定する訳にはいかなかった。
赤塚には分かる。其れは必然だ、と。
この男が此処に立つ事。其れが全ての存在にも知られる事の無い『大いなる意思』による賜物だと仮定するなら。
この男の魂が其の恩寵を受けた存在であると考えるなら、この男の魂が闇の深遠から浮かび上がって再び此の世に現れない保障が何処にある?
完全なる死からも這い出して来たこの男の魂が。
「答えろっ、この死に損ないっ! お前の名は。何の為に地獄を此の世に蔓延させようとしているっ!? 」
赤塚の立場でこそ語られる、其の男の立ち位置。煽る様に叫ぶ蔑みの言葉は男の体を僅かに動かした。傾いだままで地平に置かれた左手がゆっくりと持ち上げられる。掌の中にある壊れた刃が緩やかな線を虚空に描いて赤塚の差し出した刃に触れる。
チン、と言う、微かな残響。
男の喉元に向けられた赤塚の決殺の意思を弾く事は、其の刃には叶わない。だが男の意思は其の動きの全てに込められて、突き付けられた刃を振るわせる振動によって、確実に赤塚の元へと届けられる。
動かぬ刃の上を滑る様に、平行に伸びていく男の視線。湛えた物には意思しかなく、其れだけがこの男の全て。
男の口が、赤塚の問い掛けに静かに答えた。
「俺は …… 誰、だ? 」
わからない。尋ねられても。
何度聞かれても、何度尋ねられても、知らない物は分からない。
振り上げると言うには余りにも遅く、弾くと言うには余りにも力なく。其の行為は叩き付けられる赤塚の殺気に対して無意識に取った行動にしか過ぎなかった。だが其の無意識は彼の深層に深々と根付いた、彼の意識が持つ目的の証でもある。
今が何時で。
今が何処で。
今、何が起こっていて。
今、何人がいて。
今、何故此処に自分がいて。
『今、何の為に』
喪失した右腕は自分の中から何かを奪い去り、何かを取り戻させた。痛覚すら存在しない自らの体の異変すら自覚する事は無く、流血と共に失われる力は今度こその死を予感させる。
だが弱体化した心臓の働きは失血の量を最小限に抑えていた。動脈、静脈が離断した事によって噴出し、瞬時にして死に至らしめる筈の傷口は其の余りにも鮮やかな切断によって反射的に収縮し、其処からの血液の流出を極最小限に押さえ込む事に成功していた。血管を通じて送り込まれた致死性の衝撃波も、男の心臓を止めるまでには至らない。
男の心臓はその波長に同調出来ないほど弱り切っていた。
そんな心臓が。触れなば止まらんとする力しか持ち合わせなくなってしまった男の発動が。其の言葉を思い出すだけで、高まる。
「何、の …… ため。」
男の視界に帳が落ちる。死か、闇か。どちらとも付かないその暗幕の中で男の瞳が見据える物。
助けを求めて泣き叫ぶ赤子が放つ、命の輝きが。
それが欲しいのだ。俺は。
その為に。
「ここに、いる。」
それが自分に今、与えられた使命。
喉元に突きつけられた赤塚の刃に押し当てられた男の懐刀。振り払えない其の力は其の接点を支点として状況の変化に利用した。支える力の足りない其の体を僅かに動かして赤塚の切っ先を喉元の接点から僅かに逸らす。
其の瞬間に叩き込まれる、暴力的な力。男の膝が悲鳴を上げて伸び上がる。
事象の地平がその膨大な力を受け止め損ねて大きく歪んだ。構成している法力が其の力に屈して具現化を止め、真言文字として空間に放りだされてしまうほどに膨大な力が男の両足に溢れ出す。
空間が崩壊の序曲を奏でてひび割れる。制御の要を失った術は其のひびを埋める為に更なる瘴気を地平下から呼び込んだ。削り取られた空間の内壁が補強されて、しかし其の体積は今まで以上に激減して。力によって飽和する内部は再び深海の底の圧力に満たされて、其の内部で最期の時を迎えようとした三人の存在を押し潰そうと試みた。
術式の危機は赤塚に動揺を生んだ。最終段階を過ぎた『狂乱の詠唱者』は其の工程を終息へと移行していた。其処から先に赤塚の出来る事は何も無い。唯自分と自分に類する物、自分の求めた結果が自分と共に闇の深遠へと向う事、それだけを見届ける為の『介添え』の役割を担っていたに過ぎない。赤塚の役割は月光菩薩を呼び出して摩利支天を封印した時点で既に終わりを告げていたのだ。
故に此処での状況の変化に対応する手段を赤塚は持ち得ない。動揺は焦りを生み、修復手段を模索する赤塚から其の注意力を奪い去った。
其の狭間で炸裂する男の脚力。動き出す瞬間を目の当たりに見る赤塚。
変化した事象に対処する優先順位を付ける時間を求めて、光速で振り上げる刃。殺す気で揮う其の刃は鞭の様な光を残して虚空を舞い、刹那男の姿を一刀両断にしようと未だに低い姿勢を維持する其の頭上へ落ちてゆく。体が其の一歩を踏み出す前に赤塚の全精力を持って放たれる、それが渾身の一撃。
男の姿が幅広に形成された赤塚の刃の影に沈む。次の瞬間に残る光景は其の男が真っ二つになって其処に転がる絵。赤塚の想像は白黒で描かれる凄惨な絵画を現実の物として脳裏へと投影している。
だがその時。
ギイン、と言う鋼が打ち合わさった音が赤塚の想像した光景を一気に破り捨てて、真に展開された現実の姿を其の目に衝き付ける。
其の攻撃で確かに男の速度は緩みを見せた。だが其の左手に握られた懐刀は頭上に差し上げられて、赤塚の刃を受け止める。受け止めて、受け流して。進路を逸らされた赤塚の刃は男の体の真横を掠めて地を叩く。
其の光景、其の技。
見紛う事は無い。あの男が使った『崩柳』。
男の耳を埋め尽くす甲高い音は、正に自分の命を奪わんと振り下ろされる断頭の刃が巻き起こす風斬りの音。死と狂乱を混在させた其の音は男の意識に一種の感覚を齎した。
既視感。
其の音目掛けて無意識の内に差し上げる左手。手にした懐刀が赤塚の刃と接触する。
弾ける音と火花、そして衝撃。
受けた瞬間に返される左の手首。傾いた刃が絶妙な角度で斬撃を受け流して、死の免罪符を手中に収めた。男の右側を使命を果たす事無く滑り落ちて行く刃。地を叩く音だけが男の耳に轟きだけを響かせて。
攻撃によって生れた抵抗は男の足にためを作った。解き放たれる瞬間に乗じて開放される全ての力。殆どを足に集中させた男の移動速度は、嘗て其の姿を用いて松長と言う『鬼』と対峙した男が持つ神技の域に達した。
縮地の発動。
三間の距離は即座に零距離に。体の直ぐ傍に置かれた赤塚の刃が纏わせる衝撃波が男の体側を切り刻む。反作用で鬩ぎあう瘴気の流れは二人の間に鎌鼬を作り出してそれ以上の接触を実現させまいと空しい叫びを上げた。
だが、もう遅い。
赤塚の視界には其の男の残像しか映らなかった。遠く離れた場所で自分の刃を受け流した男の姿が一瞬にして自分の傍で実体を取り戻す。
何の手も打ちようも無い、施しようも無い其の場所で。
血飛沫を棚引かせた男の体が縮地の勢いを其の体に孕んだままで赤塚へと激突した。事象の地平下に姿を隠した、赤塚の力の供給源である闇の触手の群生が其の衝撃に耐え切れずに咆哮する。叫びに同調する赤塚の口。
果たす為に唯一男に与えられた、其の隙。
二人が接触した瞬間に生れた隙と同時に存在する距離の隙間。男の左腕が其処目掛けて一気に潜り込んだ。
青黒く変色した其れは既に刃とは言えない。ましてや刃が欠け、毀れて輝きすら失った其れを誰が刀と呼べるのか。断つ事も斬る事も叶わないであろう其のがらくたは、男が手にした唯一の武器。そして全てを託さざるを得なかった物。
だが其の刀は何処か男の手に馴染んでいた。まるで自分が存在する前から手の中に在った様な。手の一部であるかの様な、そんな感覚を覚える。
銘は無い。だが其の懐刀は紛れも無く相州伝正宗。日ノ本無双の刀鍛冶が鎚に命を刷り込んで叩き上げた、携えた目的に特化した伝説の武具。筋金、稲妻、地景と言った彼独特の作風を顕す景色は全て焼け爛れて見る影も無い。だが僅かに残る極光と曜変の妙味と言う、刃の中央に生き残った輝きだけが其れを証明する。
其れ。我こそは真の刀であり。
其れ。我こそは主の為に其の命を全うする物也。
波紋を失い、沸すら見えないその刃が満身創痍の身を男の手に委ねて。主の願いを叶える為に其の切っ先を奔らせる。其処に残された唯一の斬れ味が。
赤塚の右胸から刺し込まれる懐刀。でこぼこの刃が赤塚の肉を切り裂く事は出来ない。だが研ぎ澄まされた其の先端が闇の力に躊躇する事は無い。放たれた勢いをそのままの力に換えて赤塚の体を満たした闇の肉塊を繊維単位で切り刻んで先へと進む。
有る筈の無い肋を断ち割り。胸骨の接合を分断して到達する其の先に自分が辿り着くべき場所が存在する。
突進する殺意の先端を感知した赤塚の生への執着が、此処で終わる訳には行かないと言う使命感が体内に浸入する異物に対して抵抗する。其処に加えられた圧力は、其の刀が今まで負った事の無い強大な物。人の手によって創られた芸術は其処で息絶える。
赤塚の体内で乾いた音が鳴る。柄の付け根から折れる刃の音。
手応えを無くした男の手が死んだ刀の柄を手放した。赤塚の傷口に捻じ込まれる其の手が抜き身の刃を再び握り締めて。掌を大きく切り裂き、刃が手の骨を穿つ感触にもお構い無しに、一気に其の場所へと切っ先を押し込む。
赤塚の体に手首まで埋め込んで。男の殺意は其処でようやく堰き止められた。黒血と鮮血を混じり合わせて其の傷口から滴らせながら。
「やはり、お前か。殺人鬼。」
勝ち誇った赤塚の声が男の眼下で響いた。無反応になった男の姿を確認して続けられる赤塚の声に苦痛等は無く、彼の心を掻き乱した焦燥すら欠片も無い。
根拠は、此処までかと見切った赤塚の確信。男の取った行動が人の理解の範疇の及ぶ限界。心臓目掛けて突き刺して一気に命脈を絶とうとしたのであろうが、其れが殺人鬼の常識の限界。
何故なら自分には既にあるべき心臓が無いのだから。いや祖も自分は人である事を棄てた存在。松長の様には行かぬ。
体内までめり込んだ男の掌を筋肉代わりの触手が締め上げる。食い込む刃が掌の骨を切断して、貫通する。
其処から決して抜けない様に。
其処から決して取り零さない様に。
「これでお前は儂の体から抜け出す事は叶わん。お前が如何なる手段を使ってこれから訪れる闇の深遠から抜け出そうと試みようと、其れは儂が阻止する。これからお前は儂と共に其の身に帯びた罪を清算する為に、煉獄の業火によって永劫に其の身を苛まれ続けるのだ。」
頭上に位置する男の顔を上目に眺めて赤塚は笑った。
「儂が、お前の道連れじゃ。お前の罪でお前が焼き尽くされようと、儂の罪で儂が焼き尽くされようと決して離れる事の出来ない『同行二人』。努々忘れるな。お前の傍には儂の影が常に控えていると言う事を。」
与えられた痛みも語られる言葉も全ては別次元に放り出されたまま。その時男の意識は何処か他の場所にいた。
何かに例えるなら其処は、呼吸の出来る水の中。揺蕩う心は何処からか生み出される流れに導かれてゆらゆらと、沈みもせず浮かびもせずに其処にある。釣り合いの取れた水中を漂う男の意識は揺り篭の背に抱かれて、存在を合一した地獄の喧騒とは掛け離れた場所で止水の様な平安を覚えていた。
男の足元の遥か下。見通す事の出来無い底一面に広がる光が溺れたままの男の心を奪う。向けられた意識の先から浮かび上がってくる、光を湛えた大小の粒。
発泡酒の泡の様に次から次へと生れる粒は男の頭上に有るかも知れない見えない水面を目指して浮かび上がる。溢れ出した無数の粒はやがて男の意識を摺り抜けて、通り過ぎていく。
好奇に駆られた男の手が伸びて其の一つを手に採った。掌に丁度収まる水晶玉の様な珠。光を放つ其の球体の中を不思議そうに覗き込む。
其処には人がいた。それも見た事も無い男の姿が。
肩を組む友人と思しき僧侶の姿が、そして其の背後にはさっきまで自分と戦い、自分の事を『殺人鬼』と呼んだ、あの老人の姿が。
楽しそうだ。そして嬉しそうだ。何故なら。
笑っている。
三人とも。
凄惨な現実とは明らかに境を異とする夢の中にある映像が男の心を捕えた。其の光景の中に隠された事実の形にはっと気が付き、自分の傍を摺り抜けていく一つ一つに視線を追う。其処に浮かぶ全ての珠に、色や形は違っていても確かに浮かび上がっている様々な情景。
男は其の珠が何であるかを理解した。
記憶の、泡沫。
手にした珠を壊さぬ様に解き放てばそれは他の泡と交じり合って静かに彼の頭上を目指して昇って行く。際限無く生み出される其の一つ一つが全て、自分が知らない誰かの記憶。
楽しい事も。嬉しい事も。苦しい事も。悲しい事も。
知らない誰かが全てを費やして受け止めた心の道程のあらすじが男の周りに満ちている。知られる事無く通り過ぎる泡の一つ一つが織り成す物語が男の心を揺り動かして、平穏の中にこそ浮かび上がる空しさを呼び覚ました。
「これは …… 誰の、」
思わず放った空虚な問い掛け。誰にとも無く呟いた男の声に、何かが何処かで答えた。
使え。
声の行方を捜して男の顔が辺りを振り返る。其れは自分の直ぐ傍から聞えた様な気もする。遥か彼方から聞えた様な気もする。遥か頭上から聞えた様な気もする。遥か下から聞えた様な気もする。
「使う …… 何を。」
今度の問い掛けには相手が存在した。声と呼ぶには虚ろで、意識と呼ぶには鮮明だ。だが其の一言に秘められた優しさと強い意志は、声の主が敵だと認識しようとする男の不審を払拭した。返事を求めて掲げられた視線の先で、幾つもの泡が変り無く空を目指す。其の全てが一斉に音を放って男の問いに答えた。
これを。
男の意識を包み込む其の言葉は釈尊の掌。慈悲、悲哀、哀愁、愁怨、怨嗟、嗟嘆、嘆息。形にならない憂いを込めた様々な感情は男の意志を促す。
「これを? 」
更なる問い掛けには沈黙の肯定を。与えられる手段に疑問の声しか上げる事の出来ない男に、何かが触れた。
其れは儚く、悲しく、暖かく。
お前はもう知っている。
声と共に流れ込んで来る何かを男の意識が受け止める。形があるというのなら、其処に手にした物は小さな小さな光の種。
其の輝きを求めて泡沫が頭上から降り注ぐ。記憶と言う名の『深海に降る雪』は男の姿を其の全てで覆い隠して。
其の記憶は、私が此処に生きたと言う証。
其の証明は、私の歩いた人生の道のり。
其の道程は、私が持ち得た力の全て。
だから、お前に託そう。
私の願いを。
男の姿を包む無数の光の泡。光は互いに其の煌きを受け止めて、跳ね返して大きな物へと姿を変える。白く埋め尽くされた視界の中に浮かび上がる男の顔。浮かべた悲しい微笑と瞳の決意は揺るぎ無い。そして目の前の男と自分の心は何故か同じ物を見て感じて考えて、決める。
「 ―― 任せろ。」
声は光を生み、決意は最期を、求めた。
僅かに其の場所に到達する事が出来なかった、死んだ懐刀の切っ先。抉られる事も省みずに握る力すらも奪われて、掌を貫通した刃を支えるだけだった男の手が其の意志を持つ事無く突如動いた。
其の原因は其処から逃すまいとする赤塚の不退転の意志。必要以上に拘束の意図を抱えて締め上げる力は、僅かな距離では在るが自分の体内へとその刃を送り込む役目を担った。そして不死を信じる赤塚の感覚は其の切っ先が覚慈や松長を解き放った箇所に到達した事に気が付かない。
其の瞬間、赤塚の体内に焦げる様な灼熱が生れた。
根源は差し込まれた男の手の有る場所から。溶ける様な痛みを感じた赤塚の視線が慌てて落ちて、深々と埋め込まれた男の左手を見た。
漏れ出す光、其れは傷口を大きく溶かして次第に大きく溢れ出て。受ける痛みは今迄に戦った中では最も小さな物ではあるが、其れが自分に今から齎す物は雌雄を決する大きな結論を齎す物だと直感した。
締め上げた力を解放する、赤塚の体を構成する闇の触手。だがそれでも男の腕は動かない。滑らかな断面が空気を失って固着する様に、男の手は其の場所を赤塚に明け渡す事を拒み続ける。
「これは、この力は、一体何じゃ。何なのじゃ、これはっ! 」
赤塚の狼狽は聲に、言葉に。眼下で叫ぶ赤塚の末摩の叫びを聞きながら、男の声は対照的な静けさを孕んで流れた。
「 …… これは、お前に、帰そう。」
声音ではなく、其の言葉の意味に反応した赤塚の顔が頭上にある男の顔を仰ぎ見た。
男の顔が赤塚を見下ろしている。交錯する互いの視線の根元にある瞳に浮かぶ色彩。赤塚が湛える物は失う恐怖。男が湛える物は失う哀しみ。
「 ―― 昇華。」
男がそう呟いた。