右 手
軋む関節が悲鳴を上げる。黄泉の眠りから目覚めたばかりの筋肉は細動を繰り返すばかりで、彼の意思を伝えるには到らない。だが彼の魂は其の全ての矛盾を捻じ伏せて強制的な隷属を意味する焔を滾らせた。釜にくべられた命が燃え上がって彼の頭上に燦然と輝いた『屍』の一文字を焼き尽くす。
握り締めた刀を支点に持ち上がる左腕。呼応する様に連動する筋肉は其の目的を居立という只一点に見据えて、遅々としながらも活動を再開した。力無く伸ばされたままの足が引き付けられて座の姿勢を取り戻し、其処から他愛も無い目標である立ちの姿勢を成し遂げる為に片膝を立てる。
だが踏み締めた先の感覚が無い。其処に有る筈の大師堂の床の感触を足の裏で捉える事が出来ずに、体の平衡が崩れ始める。彼の体内の焔は今だ末端にまでは到達していなかったのだ。
俯いた視界の中で揺れる足元が其の距離を縮める。迫る闇が彼の脳裏に次に訪れる衝撃を予感させる。
低周波の音が、何処かで鳴った。
其の場所に於いて赤塚以外の者が発する事の出来ない『人』の声を、過去の記憶と言う懺悔室に押し込められた白衣の僧侶の耳が確かに捉えた。忌まわしき過去の罪の中に一人佇む赤塚の魂を現実へと引き戻す怪異は、澪の手から水晶を奪い取ると言う行為を中断させて其の声の主を確認する作業へと赤塚を導いた。
求めて振り返る。術が最終段階に入った事を象徴する様に無残に枯れた幹を晒す『月陰の杖』の其の先。闇しか見えぬ筈の場所に、有りうべからざる光景が存在している事を赤塚はその時知った。
蹲る赤い法衣。緋の影を目にした赤塚は、間違い無く松長だと思った。落とされた筈の頸が蔓延する闇の力で繋がって再び彼の前に其の姿を現したのだと。
其れほどまでに其の影には人としての気配が無かった。全身を震わせて蹲り、立ち上がろうと試みる幽鬼の姿を見つめながら。
崩れる彼の体を右手が支える。認識したのは虚数で構成される事象の平面に置いた掌の感触ではなく、其処から目を離す事の出来ない彼の視野だった。
耳障りな低周波を発する度に、置かれた指の輪郭がぶれる。其の振動は細波となって下腕、上腕へと伝わっている。隠す様に覆われた血染めの袖が其の事実を彼に教えた。
まるで彼の体から生まれた別の生き物が其処にいる様な。
其れが彼の体を支えたのは恐らく彼と其の生き物の利害が一致しているからに過ぎない。平伏する事を認めず、立ち上がる事を行動の第一義と考える彼と其の生き物の。
全ては其処から始まる。
共通の目的を携えた二つの生き物が行為を再開した。足を地に付け、その下に置かれた面を捉えて踏み締める。起立を強制された膝関節が硬直からの開放を否定して抵抗する。欠けた歯車は噛み合う事を恐れて其の回転を止めようと何度も何度も彼に訴えた。
だが彼は棄却する。動かぬならば斬って捨てると言わんばかりに、全身の力を其処に集中させて命令する。
立つんだ。
強制的に連結される歯車。錆付いた膝が遂に動き出す。持ち上がる上体、平面から離れる両手。
左手には壊れた懐刀。
右手には壊れた何かを握り締めて。
幽鬼は遂に立ち上がって其の全容を赤塚の眼前に晒した。僅かに持ち上がる顔、そして体躯。
其の顔に自らが刻んだ刀傷は無く、その胸には自分が残した筈の独鈷杵が無い。何より其の体躯は松長よりも頭一つ抜けている。
定まらぬ足元は未だ其の幽鬼の姿を揺らめかせて、人であると言う認識を赤塚の思考から削除しようとする。だが其の幽鬼の正体は松長であるという可能性を否定して、しかしそれ以上に理解不能な存在であると言う事を赤塚に認識させた。
「ば、かな …… 」
死んだ筈だ、お前は、と続く言葉を飲み込んで赤塚は揺らめく幽鬼の姿を見つめる。開いた瞳には生気が無く、何より立ち上がったのならば真っ先に見るべき自分の姿を其の目に映してもいない。だが自分と正対して立つ其の幽鬼は紛れも無く、覚瑜であった。
半開きになった口から漏れる苦しげな吐息が僅かに光る。死の間際に吐き出した自らの血がこびり付く顎が失くした言葉を求めて痙攣する。
「そんな事がある筈が無い、そんな事がっ! 」
赤塚の動揺は恫喝となって其の口から飛び出した。引き抜こうとした水晶の鏃から煙と共に解け落ちる手を離して立ち上がる。
「何故、お前が生きている。」
赤塚の問い掛けが答えを求めて、幽鬼と貸した覚瑜に叩き付けられた。だが赤塚の声にも反応せずに立ち尽くすだけの其の姿。戦う為の印も紡ごうともせず、守る為の術も行使しようともせず。
それはまるで、奏者のいない傀儡の様だ。
吹き荒れる嵐に紛れて辛うじて聞こえる呼吸音。其れだけが覚瑜の生を証明する何よりの証。だが、ただそれだけの事。
「そうか ―― 如何なる手段で蘇ったかは理解できぬが、其れが今のお前に出来る精一杯の姿か、覚瑜。」
認識は赤塚の心に理解と安堵を齎した。外縁部に配置した八人と何等遜色の無い出で立ちを持つ傀儡に声を掛ける赤塚。其の言葉には嘗て対峙した時に見せた怨嗟の含みは存在しない。
それは思い掛けない弟子との、そして我が子との再会。其の事実を信じて疑おうともしない、赤塚の中に未だに残る、そして最期の瞬間まで失うことが出来ないであろう人としての感情。そしてこの後に自分が向わざるを得ない地獄への道行きに帯同しようとする我が子の存在を信じて。静かに流れる在りし日の、優しい声。
もう造る事も無い、もう隠す事も無い。
全ては此処で終わろうとしているのだ。
「其の形ではもう微塵も動く事は叶うまい。其処で全てが終わるのを静かに見ておれ。 …… お前にはその権利がある。『人』として、生きてこの場に立ち会う限りはな。」
言い残した赤塚の視線が逸れて再び怯えた澪と向き合った。男の為に中断された作業を再開する為に再び掌の中の水晶へと泥の指を伸ばす。
「儂と共に逝こうぞ、覚瑜。お前が葬った覚慈の元へ、儂が手を下した皆の元へ。 …… 再び合間見える事は叶わぬかも知れぬが、それでも、」
水晶に触れる泥が煙を上げる。
「此処に居るよりはずっとましじゃ。 …… この後に起こる悲劇を為す術も無く目の当たりにして後悔するよりは、ずっと。」
其の一歩が地平と言う名の虚数を踏み締めて、出る。
体と両腕が左右に揺らめく。僅かな光を受けて煌く刃が『狂乱の詠唱者』と言う封印術の最終段階を制御する月光菩薩の意識に危機の囁きを漏らした。
放たれる殺気も敵意も持たない其れが突然目の前の現れて、動き出す。それだけならば赤塚の前で敵対する全ての攻撃を退けた彼女が心を揺らす事も、危機を感じる等と言う事は無かっただろう。
だが左の手に握られた壊れた刃が。揺らめく右手から放たれる鈍い低周波の音が。
月光菩薩が其の男の目前に防御の幕を下ろしたのはあくまで反射的な衝動に過ぎなかった。近寄ってくる物を遠ざける為 ―― それは道を歩いている時に思い掛けなく近寄ってくる不愉快な存在を遠ざける位の軽い気持。
出来心の様な些細な気持で男の眼前に立ち上げられた壁には彼女が全精力を注ぎ込むほどの意義を持たない。だが神力によって構成される障壁が『人』等に破れる筈が無い。嘗て彼女が神の座に連座し、人々の魂を彼女の領域へと導いた彼女だからこそ得られる判断だった。
其の判断には間違いが無い。但し ――
低周波の音が一瞬大きくなり、其の瞬間に男は境界線を越えて前へと進む。まるで其処には何も無かったかの様に。
障壁の一線を踏み越えられた事は月光菩薩に次の防御手段を模索させた。本来は防御を其の性とする彼女にとって、手中の業は数限り無く存在する。其の中の一つ、今度はより強固な結界を選択して実行に移す。
そう、今度は手頃に展開できる障壁などではない。列記とした防御結界。男の進路に浮かび上がる光円と呪術様式を著した真言が闇を埋め尽くして、男の視界から二人の姿を遮る。
低周波の音が再び大きくなり、其の瞬間に男は境界線を越えて前へと進む。まるで其処には何も無かったかの様に。
其の足取りは重く、頼りない。しかし緩やかではあるが確実に何らかの意志を持って二人の下へと近付きつつある事は、事実。二度目の阻止に失敗した月光菩薩の思考が警告を鳴らした。警告は意思決定を待たずに結界の展開を選択する。再び闇に立ち上がる結界。それによって術の最後に必要な法力が闇によって削られて行く事も厭わず。
低周波の音がまた大きくなり、其の瞬間に男は境界線を越えて前へと進む。まるで其処には何も無かったかの様に。
彼女にとっての悪夢は目前に迫っている。理解不能な状況が月光菩薩の心理に揺らぎを生む。封じられた瞼の裏、月光菩薩の眼が動揺で忙しなく動いた。縮められつつある彼我の距離をこれ以上犯される訳には行かない。
彼女は判断し、決断した。この悪夢は此処で止める。
止めねば必ず、良くない事が起こる。
朽ち欠けた『月陰の杖』が最期の力を振り絞って、持ち主である月光菩薩の意志に力を貸す。空間の安定に必要な支えの力を毟り取ってまで展開される複合重層魔法陣が男の前に実体化した。
其れは摩利支天の破魔の矢を防ぎきった、陰陽交互に置かれる月光菩薩最大究極の防御。『人』ならば触れた途端に魂の一片まで原子の欠片に分解されて滅する程の力を湛えた、禁忌の御業。
だが男の足は前へと進む、怯む事無く。空間を照らし出す圧倒的な輝きも、伏せた男の瞳には映し出されてはいない。其の動きも其の表情も事の始めと何ら変わる事無くゆらゆらと歩き続ける、悪夢と言う名の法衣を纏った男の姿。
其の足は遅滞する事無く、地獄への帯同を許した奏者である赤塚の言葉を無視して展開された魔法陣の先鋒に到達した。
其の瞬間に男は境界線を越えて前へと進む。まるで其処には何も無かったかの様に。
其の瞬間に男は境界線を越えて前へと進む。まるで其処には何も無かったかの様に。
其の瞬間に男は境界線を越えて前へと進む。まるで其処には何も無かったかの様に。
其の瞬間に男は境界線を越えて前へと進む。まるで其処には何も無かったかの様に。
男の前で砕けていく魔法陣の盾。月光菩薩の中から『矛盾』と言う言葉が其れと共に抹消される。
何故なら彼女の『盾』は男の持つ、見えない『矛』を防ぐ事が出来ないのだから。
彼は知らなかった。彼の行く手を遮るそれが『神仏』の力であるという事を。背丈を大きく越えた光と見えない力の奔流は彼の魂を屈服させんが為に何者かが放つ悪意。だが其の悪意に向って歩みを止めぬ彼の足。吸い寄せられる彼の体が月光菩薩の結界に触れて、其の先にある結果 ―― 滅せられんとした刹那、だらしなく揺れていた筈の彼の右手が行動を起こした。
消滅と再生は同時に。瞬く間に彼の体の前に翳された掌が結界を構成する光の盾に宛がわれて。微小な細動であった筈の細波は彼の右腕の輪郭を空間に残せないほど大きなうねりとなって、彼の意思を離れて押し寄せる。振動が空間に放っていた低周波の唸り声は其の瞬間に咆哮に変わった。
獣の歓喜が聞こえる。獣の聖歌が鳴り響く。其れは彼の右手から右腕を介して何処かへ。
粉々になる神の盾。立ち塞がる事も存在する事も許されなくなった其の力は宙から堕ちて地平に散らばる。其れを組上げた彼女の定めと同じ様に。
何度でも何枚でも。月光菩薩と彼の間に齎される結果は同じ事。彼の右手はその度に同じ動きをする、同じ声を上げる、同じ事をする。彼と右腕の共闘は月光菩薩が其の力を空間に展開した瞬間に終わりを告げていたのだから。彼の肉体が死の顎に囚われた瞬間でさえも決して動こうとはしなかった右手が、崩れ落ちようとする彼の体を支えてまで力を貸したのには訳がある。
彼の、彼の物では無い右手が求めた物、右手が渇望する物。其れは、
神の力を『喰らう』事。
残像を残して魔法陣に宛がわれる右手が彼女の力を壊す。封印された瞼の裏で蠢く月光菩薩の眼は其の事実を齎される結果と気配で認識する。だが『狂乱の詠唱者』と言う封印術の要に立って制御を続ける彼女にとってはそれ以上の抵抗も、何よりそれ以上の威力を持つ防御結界を展開する事は出来ない。
砕いて進む男の足。形を持つ悪夢は一歩一歩彼女の元へ近づきつつある。彼女と悪夢の間に置かれた痩せ細った黒い木の幹が丁度悪夢の姿を二つに割って、其の距離を彼女に教える。
七枚目。声が聞こえる。
これで最後。
其の声が彼女の物であるのか、それとも彼女に迫る悪夢から放たれた物かは判らない。だが其の瞬間に複合重層魔法陣の最後の一枚は他の六枚と同じ運命を、同じ過程を経て受け入れた。
砕けて消える彼女の護り。光が無くなり再び取って代わる闇の嵐の中に浮かび上がる男の影。唯一つ月光菩薩と男の間に置かれた『月陰の杖』が其の事実を知らされる事無く、術の終わりに訪れる外殻の収縮を制御する為に、残る力を吐き出し続ける。
男の右手が枯れた幹を掴んだ。
獣の咆哮と蹂躙される獲物の悲鳴は同時に。
『月陰の杖』に訪れる、『神具』に訪れる事は在り得ない時の流れ。其の一瞬で万年の時を費やした神木が朽ちて、砕けて、地に落ちて。
支えを失った空間の景色が、変わった。
秩序。それは制御によって支えられる理。如何なる場合においてもそれは普遍の絶対的法則。
空間内を吹き荒れて其の外殻の内側に積層した神力を削り取っていた瘴気の嵐にも其れは当て嵌まる。一見無秩序に見えても其の動きには一定の法則と禁則が存在した。
其れは決して術者の身体を危機に陥らせぬ事。其れこそが『発動致死』のこの封印術に与えられた、術者にとっての最後の権利。
だがその約束事は悪夢の手によって反故にされた。嵐は制御を失って、無風地帯を構成していた目の部分 ―― 其処には月光菩薩も含めた四人が存在する ―― にも次第に其の風を送り込みつつあった。
月光菩薩の頬を打つ風は緋色を纏った男の法衣を微かに揺らして。
そして風は、彼等の異変に背を向けて澪に向き合い最期の作業に没頭していた赤塚の意識にも等しく吹き付けられた。
風は赤塚に危機を知らせた。
彼と澪の周囲に広く散らばる罪の灰。其れすらも瘴気の風に浸食されて風紋を刻み始める。静かに、そして一瞬で最期の時を迎える筈だった赤塚の想像は其の景色の変化で転換を余儀無くされた。
慌てて振り返る赤塚。其の目に映る筈の、ほんの少し前に自分が見た景色はいつの間にか様変わりして其処にあった。
覚瑜は揺らめきながら其処にいた。さっきよりも遥かに傍に。
月光菩薩は覚瑜の姿を眺めていた。さっきよりも遥かに上に。
そして何より。
術の要として存在していなければならない『月陰の杖』。最期の瞬間まで其の空間を支える筈の『神具』は赤塚の知らない間に姿を消していた。
『まるで其処には何も無かったかの様に』
神と闇を呪いながら立ち上がり、全てを止めて振り返る。湧き上がる感情。
この期に及んでお前は何をした。
覚瑜!
其処に立つ男の姿を回顧する感情は、赤塚が惜しむ暇も無く消え失せた。空いた隙間を埋め尽くす様に流れ込む憤怒は声となって吐き出される。
「一体、お前は何をした! 」
赤塚の脳裏に刻まれた有り得るべき景色とは全く異なる状況を創造した元凶は、間違い無く其処に立つ男によって描かれた物。
赤塚の恫喝は吹き荒れ始めた嵐に紛れて空間内へと千切れ飛ぶ。怒りに燃え上がる両の目が足元の定まらぬ男の姿に注がれて、呪い殺さんばかりに眼光を上げた。
「言え、覚瑜! お前は其処で何をしている、何をしようと言うのだ。『人』の身の分際でっ! 」
拒み、否定し、蔑む。成し遂げられる寸前で追い込まれた赤塚は其の肥大した成就への願望を諦め切れない感情のままに言葉を続ける。自分が創造し、育み、殺そうとした者に裏切られたと背反する混沌が赤塚を混乱させる。そして其の混乱は赤塚の思考から真っ当な判断すらも奪い去っていた。
比類無き洞察力と判断、遅滞無き対処。其れこそが赤塚の陰謀を此処まで成就させた要因で有った筈だ。如何なる状況や幾度の危機に見舞われても相手の隙を見抜いて其の弱点を衝き、常に勝利の二文字を手中に収めた。
其処にはほんの僅かな幸運と言う要素が含まれてはいたが。
だが其の男の存在と、男の手によって造られる状況は赤塚の想定の域を遥かに超えていた。屍が蘇る位ならまだ彼の思考は耐えられた。だが男は恐らく其の手で不可侵の領域へと侵入を果たし、尚且つ『人』の存在では見る事すらも危うい『神具』である『月陰の杖』をその場から消し去っている。
欠如した洞察より生み出された判断力の喪失と遅滞する対処。彼の勝利に貢献した三要素の全てが無くなった今、赤塚が即座に行動を起こせなかった事は当然の結果と言えた。
例えその事が取り返しの付かない結果を導き出したとしても。
男の姿勢が静かに沈む。其れは盲いた目を震わせて其の物の正体を知ろうとする月光菩薩の姿を、手を伸ばせば届く距離に置きながら。
気配を感じた彼女の顔が、彼女の眼下に跪く男の影を追いかけて俯く。此の世を去った多くの御霊が彼女の存在を前にして許しを乞うたその姿を、月光菩薩の中に残る『神仏』としての記憶が覚えていた。淡い輪郭で象られる小さな映像の一欠けらが闇に囚われた筈の月光菩薩の動きを閉じ込める。
其処に広がる一刻みにも満たない永劫を思わせる静寂。その黙の中で彼女は確かに声を聞く。
残った神はお前一人。
彼は即ち其の右手と共に。
誘われるがままに、率いられるままに動き続ける其の足が全ての障害を排除する右手の導きに従って前へと進む。視野を埋め尽くす闇の果てに存在を知らしめるのは襤褸を纏ったあどけない少女の姿。
それが目的。距離が縮まり姿形が鮮明になればなるほど、幼さを纏った少女は彼の存在を拒み続ける。黒い糸で縫い付けられた瞼が、翳され続ける小さな両手が震えて。其れはまるで怯えた子供が闇から迫り来る得体の知れない何かを押し止めようとする様に。
それは人の姿をしたが故に齎される恐れなのか、それとも『神力』の届かぬ彼に対する畏れなのか。
可哀想に、今 ―― 。
少女の両手が彼の体に触れなんとした其の位置で、右手が命令した。
跪け。
一瞬だけ浮かび上がった彼の慈悲を捻じ伏せる様に、右手の声が支配下に置かれた彼の肉体を強制的に沈める。地から解き放たれた彼の膝が再び其の頭を地平に休めて、その時を待つ。
右手は言葉を求めた。人とは違う課程を経て思考される其の言葉を著すのに、右手は彼の声帯を要求した。神経や経絡とは全く別の伝達方法を用いて、右手は其れを彼に言わせる。
俯いて床を見詰める彼の顔を伝って、右手の要求が其の口を乗っ取って開かせた。
「残った神は」
導火線に火が着いた。言葉は彼の全身に力の渦を巻き起こした。
折り畳まれた両足に宿る全ての力。虚数を踏み締める足の裏が不気味な音を上げ、膝の関節が熱を発して燃え上がる。
右手が彼の肩を支点にして後方に大きく引かれて。掌が窄んで蕾と化して。
「お前一人。」
貫手が、放たれた。
赤塚を現実に引き戻したのは又しても其の男の発する声だった。少なくとも欠如した洞察力だけは取り戻して、赤塚は其の景色と言葉を追う。
言葉は不吉な予感を引き連れて赤塚の耳にも確かに届いていた。幽鬼の如き姿を晒す男が放った其の一言。隠された意味。
頭を垂れた男の其の姿こそは『神仏』に我が罪を告白し許諾を求める『人』の姿に似ている。だが其の口から零れた言葉の傲慢さはとても許しを請う者の言葉とは思えない。
寧ろ其の言葉に宿った言霊はあくまで敵対する者に対しての断罪の音を湛えて。
断罪? 『人』が『神仏』を?
無茶だ。そんな事はある筈が無い。第一其の全てを『神仏』に捧げる事を誓った覚瑜がそんな事をする筈が無い。『紛い物』とはいえ、あの悪鬼羅刹を封じ込める為に慎重に選んで設えた、元々は『他人』の人格だ。空想や幻影ではなく本来『人』として此の世に生まれ出る筈の。
故に覚瑜が得た物は正しく其の人格が手にした物。覚瑜が為し得た事は正しく其の人格が為し得た事。そして覚瑜が考えた事は正しく其の人格が考えた事に相違無い。
だから覚瑜が『神仏』に手を上げる事等 ――
赤塚の背筋に戦慄が走った。
男の肩が後ろに引かれて貫手に構えられた右手が其の目に映る。目指すは間違い無く其の眼前に佇む月光菩薩の肉体。殺気の無い攻撃の意志は男の全身から少女に向けられて。
待て、と言う言葉が赤塚の脳裏で弾けた。
だがそう仮定すれば全ての辻褄が合う。全てを為し終えたと言う達成感から来る油断は、自分に間違った先入観を与えたのでは無いのか?
神に向って其の手を伸ばそうとしている其の男の正体が、
覚瑜であると言う保障が、何処にある?
覚瑜でないと言う確信は、何処にある?
赤塚の中に渦巻く二律背反は混乱した彼の視界の映像速度を極端に落とした。踏み締める足と動き出す膝、そして連動して振り出されようとしている右手。其の全てが月光菩薩への何らかの攻撃を意図して。
訪れた刹那に答えは見えない。赤塚の中で鳴り響く脅威の直感だけを頼りに決断を下して、月光菩薩の身に訪れる危機を感じて放たれる左の腕。其れは空中を奔る間に先端を鋭く薄く尖らせて刃の形を象った。
終わる世界の瘴気を、闇を、風を切り裂いて男の行動を阻止せんと切っ先が唸りを上げる。
届いた。
貫手が少女の鳩尾に潜り込む。
あ。
衝撃と共に与えられた感触は今迄に無い快感を彼女に与えた。
まだ。
終わってはいない。この刃があの右手を切り落とせば、其れでいい。
男の下半身に掛けられた膨大な負荷は其の勢いを右の貫手に全て載せて。飢えた右手は残像すら残さずに月光菩薩の鳩尾に潜り込んだ。成り立ちや立場とは関係なく現存する質量差を示す様に、男の手が幼女の形を採って現界する月光菩薩の体を宙へと浮かび上がらせる。
彼女を空中へと持ち上げる男の右手に宿る更なる侵攻の意志を、彼女の肉体は止める事が出来ない。捻じ込まれる貫手は指を、甲を、手首を埋めても更に彼女の体を穿つ。有り余る神力を喰らい続ける右手が音にならない咆哮を挙げ、形にならない振動を孕んで少女の体を蹂躙する。
其の振動は痙攣という形で月光菩薩の体を支配した。其の痙攣が『死』に拠って引き起こされる物なのか、それとも彼女の肉体を襲う未曾有の快感から齎されている物なのかは当の本人すら定かではない。だが、目の前の男によって与えられた其の力が闇の住人として生きざるを得なかった月光菩薩の何かに対して劇的な変化を与えようとしているのは確実である事だけが、彼女には理解できた。
体の中を突き進む男の右手が放つ獣の聖歌と輪唱する彼女の聖唱。混成する二つの歌声が醸し出す旋律は厚みを増して彼女の意識を呼び覚ます。
解ける、何かが。私の中の。
複雑に絡み合った黒い糸の奥に隠された何かに男の右手が届いた。指先が捻じ込まれ、掻き分け、押し広げて其れに触る。加えられた過大な圧力が周囲の黒い糸を引き千切って中に輝く珠を掴んだ。
伝播する断裂。解呪される封印。
月光菩薩の体内の到る所に張り巡らされた拘束の糸が散り散りになって千切れた。
解き放たれる体の自由、そして。
彼女の瞼を縫い合わせていた糸が音を立てて一斉に切れた。見開かれた瞳が空色を取り戻して前を見る。其の先に立つ、彼女の臓腑を喰らい続ける顎の主を求めて。
男の右手が掴んだ珠から溢れる光が傷口の隙間から漏れて光条の線を暗闇に示す。其の光は次の瞬間に彼女の胴体を貫通した。遅れて男の拳が光珠を握り締めて彼女の背中から勢い良く飛び出す。
其の手に握り締められた第六、即ち『神の心臓』。
月光菩薩の驚愕の眼差しは男の表情に注がれた。自分を穢れた領域から解き放った者の正体が『人』であった事。そして其れが『神仏』に仕える事を義務付けられた僧侶の形をしていると言う事。
背中に抜けた男の右手がゆっくりと光珠を握り潰す。溢れる光が指の間から零れて男の腕を伝わる。失われていく力は男が自分に与えた断罪の証だと知る月光菩薩の意識。だが其処に本来有るべき煩悶は無かった。
其れは、寧ろ。
「有難う、名も無き男よ ―― 」
感謝の言葉が月光菩薩の口から零れ落ちて、眼下の男の頭上に降り注ぐ。
彼女は、『人』の手で救われたのだ。
掲げられた月光菩薩の肢体の陰、男の視線の死角から不意に飛び出した黒い刃が振り子の様に振り出されて、脇の下から差し込まれた。絶対的な目的と意志を抱えた其の刃が結果を出すべく男の右肩へと潜り込む。
切断される皮膚、肉、腱、血管、リンパ、靭帯、神経、滑膜、全てが一瞬。
離断した右腕が其処に繋がる月光菩薩ごと闇に舞う。加えられた力の残滓が男の右腕を二度三度宙で回してそのまま地平へと叩き付ける。形も色も無い其の場所を打ち鳴らして力無く転がる右腕の先で、月光菩薩の姿は光の粒へと変化した。今だ彼らの周囲で吹き荒れる闇の嵐が、彷徨い漂う力の存在を目聡く見つけて。摩利支天と同じ領域の力へと変化を果たした其れを同じ所へ連れ去る為に叫びと勢いを増して右手の残骸の周囲へ押し寄せた。
だが光は瘴気の風に負ける事が無い。彼女を苛んだ闇への帰還を拒んだ神性は其の住処を打ち棄てられた男の右腕へと求めた。握り締められたままの指の間に吸い込まれる、彼女の全てであった光の粒。
神の全てを喰らい尽くした右腕が微かに光を浮かべて其の輪郭を震わせた。そして其れを境に輝きを失い、動きを止める右腕。
代わりに景色を動かしたのは男の右肩に残された大きな傷口だった。残り少ない血液が、同じく残り少ない法力の光を放って闇の空間へと鼓動と共に噴出す。
平衡と力を失って再びその場に跪く男の姿。だが赤塚の放った刃は男の体から全てを奪った訳ではなかった。
視線の変った男の顔が持ち上げられて、自分に攻撃を加えた張本人の姿を睨む。其の目には虚ろな陰りが無く、強い光を秘めて。
そう、右手の支配から解放された男の瞳には意志が蘇っていた。
自分に救いを求めた『澪』を必ず救い出すと言う、明確な意志が。