祈 り
白骨の群生と化した奥の院の林。死後を思わせる其の世界の中に生を誇示し続ける者は後続として現れた祥子達だけではなかった。
祥子達の周囲で巻き起こる羽音と、伴って木霊する破壊の音。野生の導きに従って、其の命を散らす事無く現在を果たした幾許かの鳥達が地獄の中から駆け昇る。生を涸らして取り残されようとする無数の木々が白骨の小枝を差し上げて、彼等の逃避行を遮ろうと開放へと繋がる天井を遮る。
だが、鳥達は行方を阻む白骨の枝の中へ一直線に飛び込んだ。鋭い枝の先に羽を引き裂かれ、揚力を失って地に落ちる彼等の先鋒。其の彼らが身を挺して穿つ突破口に次々と体を捻じ込む後続の群れ。
其の群れには食物の連鎖などという法則は関係が無い。相食われむ関係を超越して、一つの目的を目指して一点へと飛び込む群れを繋ぐ共通の意識が其処にはあった。
翳された白い枝の間から差し込む遥かな光を目指して。
多くの犠牲を払った後に、彼等の先鋒は遂に其の先へと辿り着いた。開かれた脱出口より吹き上がる黒い影が無傷の羽を月の輝きに煌かせて、天空への脱出を図る。
『絶対防御』を標榜した筈の観自在菩薩十五尊絶界陣。其の内部で繰り広げられる光と闇の力の鬩ぎ合いによって放出された過剰な神力が其処に及ぼす影響。
大勢の犠牲の元に作り上げられた、唯一つの目的を持つその結界は遂に綻びを見せ始めていた。
「柘植っ! どうなってる? 」
静寂から喧騒への移行は脅威が間近に迫っている事を知らせる合図。異変を感じた山田が思わず仲間の名前を叫ぶ。呼ばれた男は長門の背後の闇に潜んだまま、山田の問い掛けとは対照的な声で静かに答えた。
「まずいぜ、山田。 …… 地面が、啼いている。」
暗闇の中で地面に両手を押し当てた男が呟く。
「此処はもうだめだ。もうじき、死ぬ。精霊が、そう告げている。」
顔を上げた其の目に仕込まれた義眼が、山田の瞳に怪しげな光を返した。
柘植播磨。伊賀の下忍『木猿』の血を引く『喪われた術』の後継者。左目に仕込まれた義眼は柘植家代々伝わる秘宝『森羅万象』。家の名と共に引き継がれる其れは家長の視力と引き換えに特異な能力を与える。鳴神山の氷穴より遥かな過去に掘り出された巨大な水晶は現代の科学でも解析不能な力で真円に磨き上げられて、彼の左目で吸い込まれる様な輝きを放っていた。
其の水晶が持つ能力『精霊の囁き』は、恐らく山田が知る限りに於いて柘植だけが持つ能力。彼等と会話を果たした柘植が言う事は必ず起こり、その結果は必ず其の通りになる。
「播磨、それは後どの位だ? 」
長門が背後に声を投げ掛けて尋ねた。視線は山田の傍に佇む祥子の瞳を見つめて、この後に告げられる予言にも似た情報から導き出される決断を暗に促している。
「出来れば、今直ぐにでも。範囲はどの位か見当も付きません。ですが確実に、此処は危ない。」
逃亡を果たした鳥達の狂騒と柘植の言葉以外、彼らに異変を感じさせる物は何も無い。だが柘植の義眼を通して脳裏に響く『精霊の囁き』は既に囁きでは無い。自分達と会話が出来る稀有な能力を持つこの男の身を案じて、共に撤退する事を喚きながら提案し続けている。
「播磨。もう一度聞くわ。 …… 後どれ位、私達は此処に居られる? 」
総主としての声音が祥子の口から毀れて、其の言葉が彼女の配下全ての者に覚悟を促す。救う事は出来ないまでもその結果を見届けない内に此処を離れる訳にはいかない。それは全てに於いて後手に回ってしまった祥子の、『摩利支の巫女』の世話役としての役割を代々担う『山本家』の意地であった。
祥子の意図を受けて播磨の瞼が深く閉じられた。精霊達の雑踏の中に一人立つ播磨の意識。無秩序に繰り返される断片的な叫び声に逆らって、其の全てに向けて質疑を繰り返す。
沈黙を持って、その行為を遮らない様に注意深く見守る一同の姿。身じろぎする事すら躊躇われる重苦しい空気を破るかの様に、再び播磨の瞼がゆっくりと押し上げられ、其の口が開いた。
「 …… 夜明けまでは持ちません。後一時間足らずだと。 ―― 彼らも既に逃げ始めている。」
「三十分位は待てるのね。」
「御意です。御婆様。安全圏が確定しない以上、それ以上此処に留まるのは命取りになりかねない。我らだけならば兎も角、客人の足で此処から離脱を果たすには其の位の時間が必要かと。」
播磨の生き残っている右目がぎろり、と『足手纏い』と名指したカーティスの姿を睨む。肩身の狭い思いに耐えかねたカーティスが播磨の視線を受けて反論した。
「待ってくれ、私もSASの端くれ。歳は相応に取ってはいるが体力では誰にも負けた事が無い。そんな心配は無用に願いたい。自分の身は ―― 」
「いいわ播磨。客人の身は私が何とかする。ギリギリまで此処に待機します。 ―― 其れでいいわね? 」
カーティスの言葉を遮って、長門の瞳を見詰める祥子。彼女の口から其の決定が為された以上、覆す事は不可能だ。受けた長門の目が肯定の意志を湛えて周囲を見回した。
「ちょっと待ってくれ、私の話はまだ終わって ―― 」
「この先が観たいのなら大人しくお婆様の言葉に従う事だ、カーティス。」
楯岡の言葉が決定に抗おうとするカーティスの言葉を制した。「 ―― 生きていたいのなら、な。」
「どういう意味だ、楯岡。」
SASの名を名乗るという事は世界最高最強を誇示するという事。過酷な訓練を潜り抜け幾つもの死地を生き延びたカーティスにとって、自分が足手纏い扱いされるのは其の誇りに賭けて我慢が出来なかった。如何に超常の力を駆使する集団とはいえ所詮は人間。其の一点に於いては自分と何ら大差は無い筈だ。
自分に関わったが為に部隊が危機に陥ると言うのなら、自分を此処に置き去りにすればいい。其れがカーティスの軍人としての誇りであり、代々英国王室に武門の貴族として仕えてきたモントゴメリー家の家訓でもあった。
気色ばるカーティスの表情。其の顔を見て楯岡が言った。
「生きていたいのなら、と言うのはお前にとって失言だったな、済まない。だがあの男がそう言うのなら、其の分析には欠片の間違いも含まれない。そしてお婆様がそう言うのなら、我々に疑問の余地は無いんだ。従わなければ確実に死ぬ。其れはお前に限った事じゃない。俺も、長門様も同じだ。」
恐らく自分を凌駕する実力を持つ楯岡とその指揮官である長門。其の二人でも避ける事の出来ない危機が迫っていると言うのか。
「それは、どんな事だ。何が此処で起ろうと ―― 」
「何だ、やっぱり観たいんじゃねえか。」
山田の声だった。覚悟を大きく超える好奇心を見透かした様に、茶化した声でカーティスに言った。
「其れが観たいんなら、大人しくお婆様に助けて貰いな。まあちょっと薹は立っちゃいるが、其れさえ目を瞑ればそこいらのモデルにゃ負けない体形の持ち主だしな。おっと、言っとくけどな。逃げるどさくさに紛れて変な気だけは起こすんじゃねえぞ? 怒らせたが最後、一瞬にして顔が倍位に腫れ ―― アガッ! 」
「あ、ごめん。」
全てを言い終わろうとする山田の口に祥子の靴が直撃した。思わぬ衝撃によろめく体を、背後の帯刀が呆れた様に笑いながら支える。
「ちょっ、いきなり何すんだよ、お婆様っ! 」
受けた痛みに涙目になって怒鳴る山田。だが祥子は意にも介さず、
「何って、逃げるのに邪魔だから靴を脱いだだけよ。 ―― それにしても最近の下駄箱は小さいわね。私の靴一足も納められないのかしら。」
「下駄箱って、おいっ! 其れってまさか ―― 」
山田が言い終わる前にもう片方の靴が飛ぶ。手首の返しで放たれた祥子の靴が軌跡を消して一直線に山田の顔を捉える。被弾する寸前で危うく其れを受け止める山田。
「下駄箱が喋るんじゃない。」
祥子の一喝が何かを言おうとした山田に向けて放たれる。声を出せずにパクパクと、何度か口を開いた挙句に山田は手にした靴と、帯刀から受取った靴を一緒に懐へと仕舞い込んだ。
それだけでも祥子の行動は、カーティスを驚嘆させるには十分だった。身内に気を許していたとはいえ、自分が至近距離で放った弾すら避けるあの男の顔に、一挙動で投げた靴を命中させたのだ、それも二度も。投げた物が靴だから受取る事も出来たが、もしあれが何らかの刃物であったならあの男は深い手傷を負わされていたに違いない。
其れは自分達が試みて、果たせずに終わった事。今目の前にたつ妙齢の女性は其れを事も無げに遣って退けたのだ。
我を忘れて呆然と見詰めるカーティスの視線を受けて、祥子は微笑を浮かべてカーティスと向き合った。
「貴方の身を預かるのに自己紹介が未だだったわね、カーティス・モントゴメリー少佐。私は山本祥子。『宝泉寺』と言うお寺の住職の代理をしながら旅行会社の社長もやってる、只のおばさんよ。」
「そして、この戦士達の尊敬を集める『長』でもある。」
「どうだか。皆には『婆あ』呼ばわりされてるし、口答えする下駄箱はいるし。ま、兎に角村長みたいな者よ。 …… こんなおばさんじゃ、命を預けるには不満かしら? 」
「いえ、とんでもない。」
そう言うとカーティスの右手が祥子に向けて差し出された。
「今のあの男との遣り取りだけで十分です。貴方は私よりも全てが上のお方の様だ。 …… 私はカーティス・モントゴメリー。只の傭兵です。」
「認めて下さって、有難う。」
祥子の手がカーティスの手を握り締める。暖かな其の感触にカーティスは一種の感銘と記憶の退行を覚える。
忘れもしない、其の手には覚えがある。其れは自分がSASに正式に入隊を果たした時、任命式の会場で女王陛下直々に拝命を受けた時。祥子の其の手は、その時差し出された女王陛下の御手と寸分も違わぬ存在感を示している。
「どうかした? 」
握り締めた手をじっと見詰めたまま離さないカーティスの表情を見上げて祥子が尋ねた。カーティスがゆっくりと、名残惜しそうに其の手を解いて言った。
「まさか、こんな極東の地で、この手をした女性に巡り合えるとは思わなかった。貴方は私が、いえ私達が命を賭けるに値する女性の様です。」
「お世辞でもそう言って頂けると嬉しいわ、カーティス …… でいいのかしら? 」
「どうぞ、ご遠慮無く名前でお呼び下さい、『ミセス・祥子』。」
「『お婆様』でいいわ、もうめんどくさいから。 …… 其れに貴方にそういう風に呼んで頂けるかどうかは、この後に懸かっている。」
柔らかな口調が一瞬にして緊張へと変化する。祥子の視線は林の中で地面に両手をつけて精霊との交信を続けている柘植の姿に向けられた。
「此処を生きて脱出した後に何が残っているのか、何が待っているのか。全てはその結果如何に懸かっている。この決着が着く迄、お客様の扱いには程遠くなるけど我慢して頂戴。」
「分かりました『お婆様』。全ては貴方の御心のままに。微力でしか有りませんが私の命も存分にお使い下さい。」
そう言って恭しく頭を下げるカーティス。新たに恭順を果たした青い目の仲間の姿を、二人の姿を取り巻く彼等の視線が好意の色を湛えて眺めている事に、カーティスは取り巻く気配で気が付いた。
吹き荒れる瘴気の嵐は目的を達して収まる所か、其の勢いを更に増して球状の結界内を駆け巡る。摩利支天が退魔の為に放出した膨大な神力の全てが闇の力の糧となって、空間内を削る威力に力を貸していた。その旋風の中心、唯一の無風地帯である目となった場所に佇む赤塚と月光菩薩の姿。
自分達にももう直ぐ訪れるであろう其の瞬間を、聳え立つ黒い渦の壁を見上げながら赤塚は待っていた。
目の前に立つ月光菩薩の肩が、体全体が震えている。非聴覚領域で詠唱されている筈の月光真言が滞りを見せて、その度に言い直しを迫られた真言が空間内へと放たれる。この空間内に充満した力は既に彼女が制御出来る限界に達しつつあるのだろう。襤褸を纏った幼い少女の背中を見詰める赤塚の心に湧き上がる感傷が、其の言葉を赤塚に告げさせた。
「月光菩薩よ、心から礼を言う。お主の力が無ければ、儂の目的は達せられなんだ。」
謝辞が彼女の耳に届く事は無い。最終段階を目前に控えた『狂乱の詠唱者』は月光菩薩から人の世と繋がるべき全ての性質を奪い去って、一個の機械と化す事を強いている。光と闇、其の双方に属していながら其の部分だけは共通して齎される、彼女の最後の姿だった。
「お主の其の力のお陰で、儂の成すべき事は後唯一つ。忌まわしきあの男の魂を我らと共に闇の底へと封印するのみとなった。じゃがそれも摩利支天の加護なき今、何の憂いも障害も有りはしない。我等は只ひたすらこの術の終息に向けて力を尽くせば良いだけの事。闇の卵にて独自に封印する事は叶わんかったが、この術の終わりと共に消え去るこの現世の空間が、其れごとこの男の魂を闇の底へと運ぶ筈じゃ。 …… 摩利支天を封印した所と同じ『闇の深遠』へとな。」
赤塚の其の言葉を聴き入れたかの様に瘴気の旋風は勢いを増す。外郭の内側に積層し、補強の役目を果たしていた月光菩薩の放った真言が闇に削り取られようとしている。事象の地平上に溢れる神力が其の圧力を軽減する為に結界内の体積を少しでも増加させて、術者の負担を軽減させようとしているのだ。
だが其の状況こそがこの術の最期に訪れる現象。失われる内部の圧力が大地の力に抗いきれずに外郭を突然収縮させる。其の勢いで内部に存在する全ての存在は事象の地平下に、門を潜って勢い良く撃ち出される事になるのだ。現世に通じた異界への門は具現化した外郭が蓋の役割を果たして、其処を潜る資格を持たない何者の侵入を許す事は無い。
縦しんば許されたとしても ――
「誰が好んで其の先に進もうと思うか。覚悟の無い者には決して耐える事の出来ない永久の苦痛が待っているというのに。」
『天魔波旬』から語られた、赤塚の向かう先に広がる世界。彼は自分に其れを伝える事で自分の覚悟を試したのだと思う。だが赤塚に迷いは無かった。例え自分の魂が其の地獄の底で千々に引き裂かれてしまったとしても、其れは自分の侵した罪に対する罰。自分の目的の為に命を奪わざるを得なかった全ての仲間に対する侘びを、赤塚は其の行く末によってでしか償う術を持たない。
だが、其れと引き換えに残す者。自分の思い描いた未来を担う、希望。
其の未来に必要な澪まで其処へ連れて行く事は出来ない。彼女が此処を生き延びた後、どの様な形で『天魔波旬』に略奪されて彼の花嫁になるかは知る由も無い。しかし其の提案を受け入れた以上、彼が其の約束を反故にする事も有り得ないと思った。隠し通した自分の真意に気が付いているかどうかも定かではないが、それでも彼は自分の提案を二つ返事で受け入れたのだ。
「僕の花嫁は、彼女以外には考えられない」とまで言い放って。
「さあ、澪様。貴方とは此処でお別れです。」
もう思い残す事も、自分に出来る事も此処には何も無い。最期段階に入った結界内は既に其処に充満した瘴気すら事象の地平下へと誘って、呼吸に必要な酸素でさえも薄まりつつある。これ以上、生命を持つ者を此処に留めて置く事は危険だった。
赤塚が踵を返して澪の姿を見下ろした。赤塚を見上げる澪の視線には確かな意思の光が見える。円らな美しい漆黒の瞳が焦点を合わせて、自分の全てを奪い去った老人の姿を見る。
其れは憎しみ。簒奪者に等しく与えられる茨の冠は赤塚の頭上に其の瞳を通じて掲げられる。恐らく自分はこの澪の目を、地獄の底で苛まれ続けても忘れる事は出来ないだろう。それほどに鋭い棘を纏わり付かせた冠が赤塚の心に被せられて、与えられた傷から忘れていた筈の感傷と言う名の血液が零れ落ちる。
「貴方から全てを奪った拙僧を許してくれとは申しません。寧ろ憎んでくれて良い。ですが、これだけは心に留めて置いて欲しい。」
赤塚の足が床の無い事象の地平の上を静かに進んだ。其の姿に怯えた様に身動ぎを繰り返す澪の姿。
「貴方こそが私にとっての、いえ人々にとっての最後の希望。末世の終結点から其の先へと繋がる存続の為の糸。 ―― 貴方から全てを奪い取ったからと言ってこの先に在る悲劇が無くなる訳では無い。『天魔波旬』は其の力の全てを駆使して暴虐の限りを尽くすでしょう。人々は彼の力に恐怖し、そして其の傍らに佇む貴方までも恐れられる事となる。」
赤塚の足が止まる。多くの赤子の魂を乗せて運んだ揺り篭の中に一人残った澪の姿を真上から見下ろして。
「だが『人』はそれほど弱くは無い。圧し折られた切り株が新たな芽を出す様に、その一本の芽が失われた林を蘇らせ、森へと姿を変える様に。人は必ず彼の支配を潜り抜けて生き残る事が出来ると信じる。 …… 澪様にはその時が訪れた時に、人々を芽吹かせる『雨』になって頂きたい。その時こそ、」
赤塚が澪を拾い上げる為に其の両手を伸ばした。
「『究極の解脱の為の 世界の終末』と彼等の間で太古の縁より口伝されて来た、『神仏』から『人』に与えられる理不尽な試練を潜り抜ける事が出来るのです。」
染み込む。
其れは犯した罪の色。其れは贖う罪の色。
白い大袈裟をしとどに濡らす、緋色をした命の残滓は布の色全てを罪に塗り替えて、覚瑜と言う名だった者の亡骸を覆う。兵士が国旗に包まれて母国への無言の帰還を果たすのと同じ様に、彼の魂は『罪』と言う名の旗に包まれて本来有るべき場所へと戻る。
その染料は染めるだけでは飽き足らず、覚瑜の屍にまでも其の烙印を刻み付けようと絹の布地を侵食した。咎人にこそ相応しい、地獄の闇に紛れても隠れ様の無い、どす黒い赤の焼印を其の背中へと押し当てる為に。
体温を失った覚瑜の背中に到達する、其処から堰を切った様に侵食を始める血液。『退魔師』と言う、闘魔の尖兵の一人として其の名を馳せた男の背中に朱の波紋が広がる。
背中に空いた、刀傷の上にも等しく。
込栓代わりの光刃が抜けた後の貫通創は直後に起きた生体反応によって収縮し、落ち窪みと言う形で傷の在り処を示している。流れ込んだ血液は行き場を失って、流れ落ちる場所を求めて其の窪みの中に留まった。
やがて、『死』による筋肉の弛緩が始まる。其処に留まって固まり掛けていた血液は、僅かに緩んだ傷口から地球の重力に従って下に ―― 覚瑜の体内へと滑り込んだ。
量にすれば其れは一滴にも満たない、僅かな量であっただろう。だが其の一滴は全てが覚瑜『だけ』の物では無い。
覚瑜の血液は『烙印』と共に松長の血液を伴って体内へと帰還した。そして其の中に残されていた物。
『傀儡の鬼』と化した松長の肉体を死の境界線に捕えたまま、彼の携えた渇望の赴くままに最期まで動かし続けた力。
開祖、覚鑁の力。
鼓動が一つ。
収縮した心筋が心房内に溜まっていた血液を吐き出す。押し出された血液が『死』に拠って堰き止められていた僅かな血液を更に先へ。気紛れにも似た唯一度の動悸が齎した循環は、体内に浸入した覚鑁の法力に対して行くべき道筋を示した。再び澱む血液の中を掻き分ける様に進む其れが力を失った覚瑜の血液に力を分け与え、全身へと伝播の波を拡大する事を促す。
波動が起こる。ほんの一箇所で始まった其の怪異は覚瑜の循環系神経系全てを駆け巡って其の力と意志を伝える。だからと言って其れに逆らう事は出来ない。死した肉体を再び此の世に引き摺り戻す、其れは松長の肉体で既に証明された事。必然を受け入れて再び活動を再開する、覚瑜の身体機能。
僅かな体温が体に宿り、支配下外に置かれる不随意筋が動き出し、既に薄まりつつある僅かな酸素を取り込む為に、小さな呼吸が始まる。
蘇りつつある覚瑜の全てが其処にある。だが其れは覚鑁による救いではない。
其れは恐らく、呪い。
自分との誓いを約束して置きながら其れを裏切る行為に手を染めた、我が弟子であり後継者たる覚瑜に対する。
このまま平穏な死を迎える事は許さない、と。
お前に対する罰は、神仏の代わりに自分が与える、と。
赤塚が松長に与えた物と、其れは何ら遜色の無い、類義の呪い。
全身を駆け巡る覚鑁の呪い。死んでいた覚瑜の全ての機能に蹴りを入れ、殴り付け、大声を上げて目覚めさせる彼の法力は僅かだが確実に覚瑜を蘇らせた。生体機能は今だ瀕死の領域ではあるが、それでも自発呼吸を繰り返すまでには回復を果たしている。
だがその力を持ってしても目覚めさせられ無い部分が、只一箇所存在した。
覚瑜の意識。
其れを呼び覚ます為に脳内に侵入した覚鑁の法力は其の全ての部位と神経を駆け巡って、電撃にも似た衝撃を与え続けた。断線した脳細胞が悲鳴を上げて再び手に手を取り合い、記憶野が衝撃の余りに其の映像を事の起こりから早回しを繰り返す。
だがそれでも覚瑜の意識は肉体の外部に逃げ出したまま、戻ってくる事は無かった。
恐れていた。
自分と共にあの『穢れた者』まで蘇る事を、無意識に。
其れは覚鑁の呪いに対して抵抗する為の大義であった。そうなる位ならこのまま死んだ方がいいと言う、彼が愛した『澪』と言う赤子の運命を変える為に自分が選択した、決死の結意。
覆す事は誰にも出来ない。無論、覚鑁にも。
身動ぎは恐らく其の手から逃れようとする為に違いない。だが、もう遅い。
赤塚の姿勢がゆっくりと下がり、其の手が白い籠に届きそうになる。拾い上げてこの結界の外まで運び出せば、それで全てが終わる。
「貴方の運命は、拙僧が決める。」
赤塚の声が澪の耳に届く。捻じ曲げられた自分の意志に抗議する様に、澪の瞳が赤塚の言葉を受けて光を放つ。だが其の澪の抵抗も覚悟を決めた赤塚に通用する筈が無い。
赤塚の手が籠に触れる。その時、赤塚は白い籠の枠に僅かに染み付いた、赤い斑点に気が付いた。
「これは …… ? 」
指で触れる。付着した物を見詰める。間違い無い、其れは明らかに血液だった。
「怪我をなされたのか …… いや、其れは有り得ない。」
確実な否定が赤塚の口から漏れる。何故なら澪の体は未だに残留を果たす摩利支天の守護結界に守られているのだ。故に自分は澪の体に触れる事が出来ずに籠ごと外へ運び出そうとしているのに。
其の力に守られたこの者が如何にして傷付くと言うのか。
血液の付着した指が煙を上げて、溶けていく。闇の領域に其の身を置く赤塚に対して絶大な破壊力を誇る其れは、間違い無く敵対する領域にある者の物。つまり、この血の持ち主は此処にいる澪以外に考えられない。
赤い斑点を視線で辿る赤塚。籠の淵から白の産着へ、そして左手に架けて大きくなる血液の染み。其の行き着く先には、硬く握り締められた澪の掌がある。
拳の隙間から滲み出す澪の血。其れが出血箇所である事は明らかだった。有り得ない事実を目の当たりにした赤塚に動揺が走る。
「おいたわしや、澪様。何故この様な傷を負われたのか、何時 ―― 」
赤塚の脳裏に、その時浮かんだ光景があった。
摩利支天から自分に目掛けて放たれた、最後の矢。矢であったかどうかも定かでは無い、一筋の光の光跡。
それは月光菩薩の展開した防御陣の淵を掠めて赤塚の背後の闇へと消えて行った。自分に危害が加えられない事を確信した赤塚が其れの行方を、着矢した場所を確認する事は無かった。必要が無いと判断を下したからだ。
だが其の行き着く先に澪の体があったとは。其の矢が澪の傷の原因だとすれば、ある一部分の疑問を除いて合点がいく。摩利支天と言う聖の属性を持つ攻撃が、摩利支天自身の創った同じ領域の防御を摺り抜けても何の不思議も無い。自分が自分に対して攻撃する等と言う、非論理極まりない事態等想定してはいないだろう。
兎に角、其の傷が摩利支天の放った最後の光によって傷を付けられた事は理解が出来る。
だが、何故?
其れが赤塚に残った最後の疑問だった。
其れを放った者は容易く間違いを犯す『人』でも、『人の手に拠って造られし物』でも無い。『神仏』と言う名の絶対無二の兵器なのだ。狙った物は外さない、狙われた物は逃げられない。其の力に抵抗する為には更なる力で防御するしか手段は無い。月光菩薩の『月陰の杖』と言う、防御力に特化した神具が自分の手の内に存在していなかったとしたら、恐らく我が身もその圧倒的な精度を誇る攻撃の前に為す術も無く曝されていたに違いない。
だが其の光の光跡は防御陣を掠めて行った。と言う事は最初から其の狙いは自分達に付けられていなかったと言う事だ。言い換えれば、もし自分の考えに間違えが無いのだとしたら其の狙いは最初から澪に付けられていた事になる。
『顕現を果たす為に用意された寄代』に対して攻撃する。そんな事が理屈で考えられるのか?
其の行為に、もし、何らかの意味や意図が隠されていたのだとしたら。
赤塚の思考が其の一点に集約して、停止した。
あの光には、何の意味があったのだ?
赤塚の視線が澪の右の拳に集中した。赤子のか弱き力では其の出血を力で押し留める事は叶わない。指の隙間から滲み出す彼女の血が法力の力を湛えて蒼い光を暗闇に放つ。
其の光が澪の手の甲で何かに反射して揺らめいた。不自然な煌きを赤塚の網膜に届けたその場所に固定される闇の目。
人の体が持つ曲線にそぐわぬ、無機質で直線的な輪郭を持つ其れが澪の手の甲から鋭く尖った先端を突き出して存在を誇示している。澪の血に塗れてはいるが。
纏わり着いた澪の血から溢れる法力の光を跳ね返して光る、水晶の鏃。其処に集中する赤塚の視線から、水晶の存在を覆い隠そうとするかの様に身動ぎを繰り返す澪。
「そういう事でしたか。 …… あれも『武辺の神仏』を代表する者にしては、往生際の悪い。」
全てを理解した赤塚が溜息混じりに呟いた。
「この期に及んでも貴方との繋がりを残して、貴方の力を借りて地獄から抜け出す為に貴方の体を利用しようとした。そこまでして ―― 」
見開かれる瞳が澪の顔を凝視する。其処にはほんの一瞬前まで浮かべていた、僧侶本来の慈悲を湛えた光は無い。
「 ―― 此の世に、人の世に災厄を撒き散らしたいと望むか、摩利支天。人の命を駒代わりにしてお前等の仕組んだ、お前達の仕来りに則った双六をまだ続けようと! 」
怒声と共に赤塚の手が澪の左手を掴む。触れた場所に塗られた血糊が其れを拒んで融解の音を上げる。解けて人の形を喪い、闇の者本来の泥の塊の姿を其処に露にする赤塚の手。
だが赤塚はお構い無しに其の手を押さえ、残った左手で無理やり澪の掌を抉じ開けた。澪の掌の中央に飛び出したままの水晶の鏃に其の指を掛ける。
「澪様っ! 」
崩壊寸前の空間に赤塚の怒号が響く。反応した澪の体が身動ぎを止めて、間近に迫った赤塚の顔を見た。
怒りと恐怖の混在する眼差しで。
「これは貴方の手にはあってはならない物! 何故ならこれは貴方と世界と、そして私の未来を崩壊へと導く道標。」
鏃を摘んだ赤塚の手に力が篭る。
「これを貴方に使わせる訳にはいかないっ! 」
澪の瞳から怒りが消えた。残った恐怖が彼女の瞳孔を支配して、自分に託された最後の物までも奪い去ろうとする亡者の顔を見つめる。
そして僅かに開く口。
―― いやだ
澪は初めて其の世界を拒絶した。
何かが焼ける匂いが鼻腔を擽り、自分の体から立ち上る煙が視界を遮る。それを潜り抜けて伸びて来る、人の形をした闇の鉤爪。
其れが自分から全てを奪い去った者の手だと言う事は判っている。だが其れから逃れる術が何も無いと言う事も判っている。
絶望。
究極の進化を遂げた、世界を支配する種だけに持つ事を許された其の感情が今また澪の心にも魔の手を伸ばす。それに身を委ねれば、全てが終わる。
―― いやだ。
囚われた沼の澱みに抗う澪の心。纏わり付く泥が動きを奪い、意思を奪い、希望を奪う。深みに沈む其の全てを亡くすまいと差し出した手で掴む一本の糸。
―― だれか
其の糸が何処に伸びているのか、何に伸びているのか、誰に伸びているのか判らない。それでも澪は求めた。其れが本当は何も無い、澪の妄想に過ぎない物であったとしても。
―― だれか、
其れは摩利支天の存在を澪が始めて知った時。彼女に出会う前に、あの人が斃れた時に込み上げて来たあの感情。あの時言葉にする事の出来なかった想いは澪の絶望を糧にして其の口を開かせ、競り上がってきた何かを遂に其の口から迸らせた。
其れは、祈り。
―― だれか、たすけて。
澪が、泣いている。
其の事実は赤塚の手に篭った力を怯ませるには十分過ぎる行為だった。水晶を抜き取る為に絡み付いて煙を上げる、指代わりの泥が其の動きを止めた。
赤子の嗚咽は赤塚をあの日の記憶へと引き戻す。それは観自在菩薩十五尊絶界陣を構成する為の八人の『人身御供』を選ぶ為に全国から集められた二百人余の赤子と対面を果たした時。
自らに与えられる運命を知るかの様に泣き続ける全ての赤子。自分に与えられた使命を呪い、其の行為に手を染めなければならない自分の選択を後悔した、あの日。
赤塚の魂は今其の広間の中に、震えに憑かれる足を携えて佇んでいた。
呼んでいる。
世界を拒絶し続ける彼の意識を貫いた祈り。耳朶を叩く少女の声は蘇生の息吹から耳を塞ぐ彼の心を大きく揺さぶって、永遠を誓った彼の眠りを呼び覚ます。
“誰かが、呼んでいる。”
想いは言葉となって彼の脳裏を駆け巡る。覚鑁の力を以ってしても繋ぎ合せる事の出来なかった最後の欠片が、其の瞬間に音を立てて嵌め込まれた。
血の殆ど通わぬ体の下がり切った体温を感じ、全く意思の疎通の無い肉体を感じる。屍の彼はそれでも自分に呼びかけた誰かに尋ねた。
“俺を呼ぶのは、誰だ? ”
虚ろな闇に放たれる、戻す者の無い問い掛け。だが彼は幾度も繰り返す。それが彼に課せられた義務であるかの様に。
“聞こえるならば、答えろ。俺を呼ぶのは誰だ。俺に ―― ”
拡大したままだった瞳孔が僅かに収縮を始める。光を取り込み、像を結び、生の証を取り戻す彼の瞳。
“助けを求めたのは、誰だ。”
視線の先に浮かぶ小さな鏡。焦点を結ぶ彼の瞳。其れが蒼黒く変色した刃である事を認識するまでに幾許かの時間を要して、彼は其処に映り込む微かな光を凝視した。
仄かな明り、だが周囲の闇を圧倒する生命。撒き散らされる煙を透かして輝く光に照らされる、赤子の顔。
泣いている。
だが其の口が微かに形を成して動くのを、彼は見た。
―― たすけて
“お前か。”
握り潰された命の熾き火に向って吹き込む疾風。疾風は被せられた灰を吹き飛ばして、握り潰されて散らばった火種を掻き集めて熱に変えて。
“俺を呼ぶのは、お前か。”
集められた火種が炎に、炎が焔に。焔は力に。
湧き上がる熱が死で冷え切った体を温めて。
“そうだ、呼べ。其の声で。”
蠢く左手。見据えた先の赤子を映す刃を求めて。指が、肘が、肩が。
“其の声が、俺の力を呼び覚ます。例え其処が地の果てでも、其の声が俺を呼ぶ限り。”
辿り着く。震える手が黒檀の柄を握り、締め上げて。
“俺が、お前を助けに行く、何度でも、何度でも。”
痙攣を伴って再起動する彼の肉体。持ち上がろうとする顔。
開く、唇。
「 ―― 必ず! 」