神と人
月読の最期を飾った『月読の陣』。陣を構成する凡字が放つ輝きは彼女の守護神『月光菩薩』の性質を表すかの様に、天空に輝く月と同じ蒼光を湛えて魔方陣を構成した。湧き上がる光は死を覚悟した術者を送る灯火の様に姿を染め上げて、遮ろうとする者全ての存在を隔絶された陣の内へ踏み込む事を拒否する。
『何者にも犯すべからざる安らかな死』。発動致死の術を行使する術者に契約の時から与えられた、其れは最期の特権だった。
今赤塚が散華した月読と同じ『月読の陣』を、時と場所を換えてこの場に展開しようと試みる。だが其処にある物は神聖と呼ぶには余りにも掛け離れた物だった。見た目も、成り立ちも、何より目的が月読の其れとは異なる。
自らの体が零した黒血が迸って描き上げた、大師堂の床一面を埋め尽くす黒の魔方陣。赤塚が陣の機動を成立させる為に召喚する神名を口にした途端に、其の外縁部は蒼光の代わりに瘴気を吹き上げて外界との接触を断ち切った。闇の中に象られる巨大な黒い凡字が存在を主張して、其の連なりが赤塚を中心とする円陣の面積を摩利支天に知らせる。
足元に広がる不気味な気配。其れは大師堂の床全面に浮き彫りにされた黒い凡字の存在による物だけでは無い。自らの身に降り懸ろうとしている未曾有の事態を予期して、摩利支天の意識は彼女を取り囲む空間全てへと振り向けられた。
光の存在を嘲笑う様に、ひしひしと迫り来る大いなる闇の気配。其れは摩利支天に匹敵若しくは同等の力を空間に滲ませながら、地の底から涌き上がろうとしている。自らの背に輝く退魔の力ですら飲み込まれて行く錯覚に囚われて、秀麗な摩利支天の表情が僅かに曇った。
取り囲む状況の変化はそれだけに留まらなかった。魔方陣の外縁部で吹き上がる瘴気は現世の空間の中で実体と化して存在を主張する。耳目を劈きながら嵩を上げる其の姿は要塞の壁面の様にも見える。
だが摩利支天を取り囲んだ、壁の様に見えた物は無数の花弁へと変化した。
其れは地上に咲いた巨大な黒い蓮の花。大師堂の残骸を萼として闇に染められた花びらを大きく展開して、その姿を月の明りの元へと曝け出す。
「汝にこれが使える筈が無い。」術の正体と其れを司る者の名を知る摩利支天が、眼下で驕った哂いを浮かべる赤塚に向かって言い放った。
「あの者は浄土に於いて最上位の菩薩。汝の様に穢れた者が触れ得る存在ではない筈。よもや触れ得た所で汝らの眷属が最も忌み嫌う世界を司る月光菩薩が、汝らの悪行に加担するとは思えぬ。故に ―― 」
手にあった扇と木の枝が四散して、再び長鈷杵と弓に変化を果たして摩利支天の手の中に納まる。神速で番えられた金剛杵が引き絞られて、眼下の赤塚の姿目掛けて狙いを定めた。
巫女と男、二人が攻撃を受けなければ、どうと言う事も無い。摩利支天が浮かべた苦渋の表情は其の事実の元で既に収まっていた。
「 ―― 汝のその術は、まやかし以外の何者でも無い。その様な虚勢が我に通用するとでも思うてか。」
「否、摩利支天。お前の期待に添えられずに申し訳無いが、これは本物じゃ。」
赤塚の宣言と共に周囲を取り囲んだ花弁が動き始める。大師堂の哀れな姿を世界から包み隠す様に閉じられて行く黒い花。喜ぶ様に吐き出される瘴気が取り囲む黒い海原に降り注いで、甘露の恵みを受けた闇の眷属全ての者が何らかの意志を掲げて唸りを挙げた。
外界から隔離されようとする空間に為す術も無く、其の術の要に身を置いているであろう赤塚の動向から眼を離す事も出来ない。弓の狙いを赤塚の胸元に置いたまま、光は閉じられる花弁の中へと沈んでいく。其れは赤塚が発動した『月読の陣』の中に、今生存を是とする者の存在だけを封じ込める事に成功した事を意味していた。
「これでお前が此処から逃げ出す事は叶わぬ。 ―― 諦めよ。お前の存在を認める者は既に此処には誰もおらん。」
挑発する其の言葉が摩利支天の決意を促した。決意と確信が矢を引き絞る其の右手に込められて、震える。其の震えを止める様に摩利支天の中指と親指が閉鎖空間に大きな音を立てた。
放たれる鏑矢。其の光跡に『中貫久』の言葉の全てを込めて、赤塚の姿を求めて突進する摩利支天の決意の刃が二人の対峙する空間を輝きと羽音で切り裂く。
今一度我に更なる力を。今度は二度と動けぬ様に倍の力であの男を封ずる。
それだけの力が今の我にはまだ残っている筈だ。例え寄代が未熟な巫女だとしても。
空間で乗分に炸裂する、摩利支天の放った金剛杵。其れは赤塚の放った黒い棘と対極を為す光景を繰り広げて、今度は赤塚の頭上へと降り注いだ。
手の中から離れた瞬間に全ての結果が決まっている。其れが弓道に置ける達人の極意である。矢が的に当たる事は、放たれる前から予定された未来に於ける事実に過ぎない。赤塚の姿を視界から奪い尽くした光の壁の後ろから見詰める摩利支天の眼にはその結果がはっきりと映し出されている。
この矢は、そして次に放つ矢は間違い無くあの男を捉えた。それが予定された事実の結果である事を摩利支天は知っている。次の金剛杵を躊躇無く弓に番えて引き絞る。
だがその金剛杵を引き絞り、再び放とうとした摩利支天の視界に信じられない光景が飛び込んで来た。其れは『神仏』を標榜する摩利支天にとっても、想像や予想の域を凌駕した事実。
柱の様に光跡を引き伸ばした其の先で、摩利支天の放った光の壁は空間上で均衡を保ったまま静止していた。指呼の距離に捉えた仇の姿の、其れは寸前で不可視の壁に押し返されつつある。
更なる一射。それは相手を射込む為では無く、抵抗を続ける見えない壁を力で押し込む為に放たれた。倍の突進力を与えられた光の柱は魚燐の突破力を孕んで空間を捻じ曲げる。現世に適わぬ神力の飽和は閉鎖された空間の中で雄叫びを上げて、抵抗を続ける何者かを押し潰さんと其の熱量を上げた。
摩利支天の視野は自らが放った破魔の光で満たされて、先に沈む赤塚の姿を見る事は出来ない。
だが、解る。彼奴は其処にいる。
無数の鏑矢を其の身体に受ける事も無く、滅せられる事も無く。醜悪な嘲笑をその貌に張り付かせて此方を見ているに違い無い。
だが其の余裕は何処から? 闇に魂を売り渡した『人』でしか無く、既に神の加護を受けるべき『人』でもないあの男の何処に、其の根拠があると言うのだ。
赤塚の眼前の空間を撓ませながら突破しようとする其の攻撃が、拮抗する力の正体を遂に摩利支天の前に現した。削り合う事で減衰した法力の衝突が、ただの力の塊でしかなかった其れを具現化するに到ったのだ。
だが其の事は互いの力が衰え、摩利支天の攻撃が赤塚に届く事が敵わなかった事を意味した。
光の柱の幅を遥かに超える直径を有する、黒色の魔法陣。摩利支天の記憶にも存在する其の構成印の姿を目の当たりにして、摩利支天は其れを使役する事を許された者の名を憤りを込めて叫んだ。
「月光っ! 」
摩利支天の言霊に呼応する様に床一面に展開する魔法陣の闇が増大する。暗黒の波動が空間を乱打し、光の粒で構成された摩利支天の姿をも震わせた。
月光菩薩が展開した魔法陣によって薄められて行く破魔の輝き。其の先に ―― 赤塚の直ぐ傍に ―― 現れるであろう嘗ての眷属の姿を求めて、忌まわしい魔法陣の中央を凝視する摩利支天。
床の魔法陣を揺らめかせて波紋が広がる。其の根源。闇の中から黒を纏って浮かび上がる少女の姿が、摩利支天の背にした光に照らし出されて浮かび上がる。
「月光っ、我が声が届かぬか。何故汝が闇の思惑になど加担を ―― 」
其処まで問い詰めて、息を呑む摩利支天。赤塚と摩利支天の間に其の姿を現した少女の姿を目にして、それ以上の言葉を紡ぐ事を諦める以外に手段が無かった。
現世の邪悪を備に見抜く透き通る様な蒼い瞳は、両の目の瞼を縫い付けた黒い糸によって永遠に開く事は無い。魂を黄泉へと誘う為に開く口には玉口枷が咬まされて、開いた穴から垂れ流された涎が其の可憐な顎を濡らしている。襤褸の様に引き裂かれた着衣は主張する少女性を失って、黒い色だけが彼女の持つ本来の性を表している。
着衣の裂け目に見え隠れする、蒼白い肌。其の到る所に魔術刻印が記されて、それは生き物の様に彼女の肌を這い回り続ける。蠢く度に快楽の痙攣を起こす月光の肉体。淫靡に繰り返される責め苦が少女から少女たる全ての要素を剥ぎ取って、其の奥に潜む本能の部分を現世に浮き彫りにしていた。
縋る様に、求める様に悶える其の姿を瞳に焼き付ける摩利支天。清楚であらねばならない眷属の成れの果てを目の当たりにして噴き上がる怒りの捌け口を、其の姿に下卑た嘲笑を向ける赤塚に求めて思わず叫んだ。
「汝っ!月光に何をした? 神仏を陵辱する等と言う冒涜、断じて看過出来ぬ! 」
「儂では無い、摩利支天よ。此れこそが闇の力よ、お前にも理解する事の出来ない『天魔波旬』のな。」
叩き付けられる憤怒を何事も無く受け流す赤塚。其の瞳に浮かぶ勝利者の輝きは、暝い光を放って摩利支天の姿を見上げる。
「堕天した神を封印して我が力と為す。其れはあのお方が『神を超える真理』により与えられた力の一つに過ぎぬ。儂は彼の言う通りの方法でこの者を簒奪し、与えられるままに使って事を為すだけの事。だが、其れだけでも今のお前を封印する事は可能じゃ ―― 見よ。」
そう言う赤塚の視線が眼前で快楽の虜となった月光の姿を見て、蔑む。
「闇の力に封印されて快楽を得る神仏の姿を。考じて見れば『人』は其の姿形を神の姿に準えて作られた者。『人』と言う存在があの様に煩悶し、自虐する姿こそは神の姿なのかも知れん。儂の目の前で『人』の如く快楽に其の身を委ねる姿こそが証明しておる筈じゃ。違うか? 」
「何が言いたい? 」
「お前達とて我ら人間と差ほども変わらぬという事じゃよ。間違いも犯す。じゃが我らと違う所は其の間違いを、課せられた使命と立場故に認める事が出来ないと言う事じゃ。六道に於いて最上位に位置する者が下位に存在する者に劣る事を認められない。其の傲慢さが信仰と言う形を借りて人間を支配し、『運命』等と言う詭弁で反問する事を赦さず。 …… のう、摩利支天。」
其の瞳には堪えられずに火を点す怒りがあった。先に裏切ったのは『神仏』の方だと。
「お前等の正義を証明する物は何処にある? 間違っていると。お前が此の世に齎そうとする『審判』が誤りだと声高に主張する事の出来る者は、お前等の眷属以外の中に一人でも存在するか? 」
「汝の口から其の言葉が出ようとは。仮にも人の名代として我らに一番近い場所にまで近付いた者の一が口にする詞ではない。まさか神仏の所業を疑うとは。」
「無論じゃ。」
吐き棄てた赤塚の其の口から全てを決別せしめた、彼の決意が零れた。
「お前等の存在と詞に盲いた儂であったなら、そんな事には気付かなかっただろう。じゃがな、儂はあの方によって啓蒙を開かれたのじゃ。お前らの起こした不条理と矛盾の歴史を紐解いて、見せ付けられて。」
赤塚の瞳に灯った物は、無念の炎だった。『全てと引き換え』たとしても為し得なければならなかった、非道な所業の責任を転嫁する様に叫ぶ。
「信じられなくなったからこそ、疑わざるを得なくなったのじゃっ! 儂が生涯を費やして求め続けた存在の是非をなっ! 」
「汝の辿り着いた答が此れだと言うのか。神仏の力を貪り、我が物として成り代わろうという輩の手先に成り下がる事が。」
摩利支天の其の問い掛けに、言わずもがなと言う視線だけを投げ掛けて沈黙で応える赤塚。ただ好戦的に睨む其の鋭い眼光が、対峙する二人に対話の時間が終了した事を告げていた。
「 …… そうか。ならば是非も無し。」
呟く摩利支天の右手に握られた金剛杵が光の粒と化して四散する。靄の様に漂う其れが再び摩利支天の手の中で形を成した時、現出した物の形状は鈍い光を放つ巨大な鉤へと変化していた。
光背の光を湛えて輝く其の色は退魔の象徴ともいえる銀色。
鉤の根元から伸びる羂索を握り締めた右腕が摩利支天の頭上で大きく回される。重厚な質量を感じさせる鉤が空気を大師堂に満ちた瘴気を切り裂いて、摩利支天の頭上で巨大な円運動を始めた。旋回速度の上昇は其れが鉤であるという事すら解らぬ様に輪郭を消して、弾く光が光の円として一つに繋がる。
退魔の円冠が空間に其の姿を現した中心で駆動の軸となる摩利支天の不釣合いな姿。大質量の物体の旋回運動にも臆する事無く眼下の、敵対する側に廻った嘗ての同胞に鋭い視線を向けた。
「先ずは汝の驕り昂ぶった自信の源、我が眷属を還して貰う。汝の処分は其の後じゃ。」
言葉の読点を待たずに放たれる退魔の鉤。摩利支天の右手から延びる羂索が月光菩薩のか細い首元目掛けて走る、捕縛の鉤の後を追う。
時間にすれば其れは一瞬。握り締める様に回された鉤は確実に月光菩薩の頸を捕捉した。繋がる羂索に手応えを感じた右手が、身も心も闇に貶められた哀れな嘗ての眷属を囚われの沼から強引に引き摺り上げようと、力を込めて一方通行の慣性を逆転させようとしたその時。
「無駄じゃ、摩利支天。」
赤塚の声。断ち切られる羂索。放ち手の意志を断ち切られた『蜘蛛の糸』の残りだけが、怯えた様に摩利支天の手の中へと空しい帰還を果たして。携えた目的を阻止された退摩の鉤は捕縛の力を失い、掴み掛けた月光菩薩の首から滑り落ちて大師堂の床を鳴らした。
唖然として手元に残った羂索の切り口を見詰める摩利支天。敵対する魔物を幾度も捕縛し、攻め手への足がかりの一つとして来た、神力を縒り合せて作られた其の糸が何の抵抗も無く裁たれるとは。
其の事実が摩利支天に告げる意味。
摩利支天の力が、闇の手の者に篭絡された月光菩薩に一切通用しないという事。
沼の黒を背景に摩利支天を見上げる二つの影。瘴気の切れ間を縫って其の姿へと目を凝らす摩利支天。その瞳が二人の前にひっそりと、影絵を分ける様に立てられた一本の細い影を認めた。
見つからぬ様に巧妙に闇に紛れて沼の表面に自立を果たす一本の影。其の正体が何であるか等、確認するまでも無い。其れこそは其れの持ち主が『神仏』の力を行使する為に必要な、『神仏』である事を証明する為の唯一の神具。知覚から走る衝撃と動揺で思わず口を付いて出る、其の名。
「『月陰の杖』! 」
愕然とする叫びが迸る。
それは有り得ない。何故堕天して闇の配下に組した者に其れを使う事が出来るのか。使おうとすれば杖が保持する神性によって存在を滅せられる筈なのに。
「何故、闇の属性に堕ちた者が此れを使う事が出来るのか。お前の驚きは全く以って然り。…… それはこの者が今だ『神仏』だからじゃよ。神力を封印されて奏者の意の儘に操られるこの者の性は、闇でありながら神の位に属したまま。故に同じ神性を持つお前の力は一切通用せん。 ―― じゃがな、」
言葉を続けながら、赤塚の足が静かに月光菩薩の背後へと静かに進む。足元の沼を波立たせる事無く移動する其の姿は、既に其の領域全体が闇の領域に踏み込んだ事を意味している。摩利支天の意識が床に横たえられたままの、自分に組する二人の姿へと向けられて、救護の力の出力を更に上げた。
上げざるを得なかった。澪の身は兎も角、亡骸と化したあの男の躯を敵の手から守る為に。
力の放出によって体の輪郭を更に失う摩利支天の眼下で、赤塚の両手が月光菩薩の後頭部へと回された。彼女の可憐な唇を封じていた玉口枷の拘束が解かれる。微かな自由を赦された其の口から漏れる安堵とも官能とも取れる溜息に、摩利支天は不快を募らせた。
其の目の前で支える力を失って項垂れる月光菩薩の頭。闇の力に辱められ、遂には虜となって嘗ての眷属に敵対しようとする堕天の神の成れの果てが、其処には有った。
食い縛る歯の間から漏れる吐息が炎の様に熱い。怒りに起因する耐え難い激情が摩利支天の心を支配する。其の動きを看通したかの様に、赤塚が沈黙を破った。
「お前を封じるのはこの者の持つ術の力ではない。この者に与えられた役目はお前を其の場所へ誘う為の『門』を開くだけ。お前を封印し、穢し、闇の眷属として再び現世へと導く者は、お前が行き着く先に存在する者の役割じゃ。其の回廊の行き着く果てが何処に通じているか等は儂の知る由も無い。ただ言える事は其の場所には此の世の理を怨んで命を落とした多くの魂が渦を巻いて息衝く闇の深遠に続いている。 …… 光と闇の違う所はただそれだけじゃ。」
「『闇の深遠』じゃと!? 」
孕んだ怒りに驚きが被さって、摩利支天の問い掛けが轟音となって空間に響き渡った。嘲りを込めて赤塚を見下ろす摩利支天の漆黒の瞳が大きく見開かれる。
「語るに落ちたか、下郎! 堕天した者が何故その様な事を行えると言うのか。 月光が今だ『神仏』の座に其の存在を預けると言うのならば、彼奴の開く門の先に有る回廊の行き着く先は『神の御蔵』以外に考えられん。その様な佞言で我を誑かそう等とは浅薄極まり無い! 」
「其れは、この者が、『神の世界』を降りたからじゃよ。」
摩利支天の激情を制する赤塚の言葉。静水の澱みを思わせる闇の者の感情は聖なる者の怒涛を取り込んで、穏やかな水面へと変えて行く。更なる回答を待つ摩利支天の視界は赤塚の一挙一動に釘付けになったままで眼を離せない。瞳に映し出される景色が赤塚の動きを捉えた。
静かに月光菩薩の前へと回り込んだ赤塚が、形のいい顎を無数の皺が刻み込まれた両手で挟み込む。上体が前へと倒れ込む。頬を朱に染めて喘ぐ其の顔をゆっくりと自分の方へと向けて、求め続けるその容貌を覗き込む。
赤塚の背の陰になって其の光景を見る事の出来ない摩利支天。だが赤塚がこれから彼女に何をしようとしているのかは日を見るより明らかな事。
静止する言葉を放つ事も出来ずに、見詰める。
「『六道』の頂点に立つお前達の存在する世界は、孤高の高みに有りながら実は狭小な世界と価値観を持つ場所でしかない。だが『人界』まで降る事を余儀無くされたこの者に、彼から与えられた世界は其処を境にして上下に広がる領域じゃ。故に、神にも闇にも通じる事が出来る。いや、其れこそが ―― 」
醜悪な哂いを湛えた赤塚の顔が月光菩薩の顔へと近付く。黒い糸によって封印された月光菩薩の両の瞼が其の先に起こる出来事を期待するかの様に、微かな痙攣を繰り返した。
「『人』と言う世界に与えられた『自由』。お前達も感知し得ない『真理』によって、お前等にも与えられなかった、唯一無二の物じゃ。」
笑みを浮かべて顔を寄せる老人に穢される少女の唇。少女の神性を貶める、唾棄すべき行為が摩利支天の憤激を引き起こした。
「 …… 痴れ者っ! 」
怒声と共に放たれる光速の鏑矢が無防備な姿を晒した赤塚の背中を襲う。
当の摩利支天ですらも意識出来ないほど深層に在る、条件反射を拠所にした攻撃。だがそれすらも月光菩薩の支配下に置かれた『月陰の杖』の防御陣の前には無意味な物と化していた。赤塚の体を軽々と貫き、運が悪ければ恐らく月光菩薩の体ごと床へと縫い付けかねないその矢は、再びその姿を二人の体に届く寸前に消し去った。
己の危機だけではなく、己の全てを操って抗おうとする敵対者の身辺までも守護する言われ無き行動。それは、嘗ての眷属であった者が完全に闇の者に取り込まれてしまっている事を摩利支天へと伝えた。
同じ結果を待つ二の矢を放てずに、耐え難い怒りを湛えた瞳で二人の姿を見守る摩利支天。やがて少女を穢し尽くした醜い老人の姿がゆっくりと振り向いて、神聖な輝きと怒りの視線を向ける秀麗な女神の姿を見上げて、断言した。
「既に手遅れじゃ。 …… 契約は完了した。」
その言葉はその場に居合わせた全ての者に対する終わりの始まりを宣言する物であった。赤塚の声と共に魔法陣の闇が世界を覆い尽くす。天も地も無く光を吸い込む暗黒の球体の中に姿を漂わせる赤塚と月光菩薩。照らし出す光源を失った空間の中で、互いの存在という概念だけがそれぞれの居場所を空間の中に象る。
籠の中に横たえられたままの澪の姿も、亡骸となった『澪の望み』も、未だその場から消えてはいない。
だが、それももうじき消えて無くなる。何故なら月光菩薩が開こうとしている『門』とは正邪虚現を問わずに全てを別の次元へと送り出す『異界』への入り口。二人が其れを望めば望むだけの物全てがその『門』を潜る事になる。
吸い取られて行く輝きを凌駕して集められる光の粒が、摩利支天の掌へと収束する。形として現在を果たす金剛杵。弓に番えて狙いを定める。その切っ先が向かう先は『月陰の杖』唯一点。
赤塚の言う事が一片の濁りも無い真実であり、今発動する術が真に其の目的で為されるというのであれば、最初にその門を潜るのは自分の筈。其れが意味する事、それは『澪の望み』が叶えられなかったと言う、個人の瑣末な事柄の喪失と言う事実に留まらない。
摩利支天こそが人と神仏とを繋ぐ唯一の存在。其れを喪うと言う事は『人』は『神仏』の存在抜きで自分達を虐げようとする存在と雌雄を決しなければならなくなると言う事。
奴等の狙いは其れだけではない。月光菩薩がそうなってしまった様に、自分も其処に取り込まれてしまえば同じ様に穢されて闇に組する物へと変性するに違いない。奴等が其れを続けていく先にある未来、其れは『神仏』不在の混沌とした世界。人々が生まれ乍らに携える個性を殺し、唯一握りの支配者の価値観によって世界の法則を決定する暴虐が始まる。
そうなってしまえば『人』が得られる選択肢は二つ。飼い慣らされて深い闇の底へとその魂を貶めるか、自分たちの存在を超えた全ての勢力を敵に回して戦い、玉砕するか。
神仏の形に準えて土と神の息吹によりて創造されし『人』。其れを抹殺する手掛かりに『人』を今迄導き続けた我が身が陥る事は断じて許されない。
逃げなければ。其れこそが『救い』に繋がる、唯一つの手段だ。
結界が完成し、常世の門が開く前に此処を脱しなければ。其の隙を ―― 自分の身だけではなく、二人も含めてこの場から逃げ遂せる ―― 作る為には如何なる手段にでも訴えなければ。
焦りに歪む摩利支天の秀麗な表情、放たれる金剛杵。その決断が過つ物だとは気付く筈も無い。撃ち出される強大な神力は離れていく毎に摩利支天の神々しい輝きを暗闇へと溶け込ませる。維持限界一杯まで放出する光は一時的に空間の内部を輝きに満たす。
だがそれでも虚数で展開された其の全てを照らし上げる事は叶わない。何処かの次元へと吸い込まれていく神力の光が失われると共に、其の姿を構成する光の粒の輝きが連れて薄れていく。
突き付けられる事実を認識しても、其の決断を覆す訳にはいかない。今発揮できる全ての力をその金剛杵に託して『月陰の杖』の破壊に全精力を傾ける。
闇の空間の中央に屹立する ―― 他の物は其の視野に入らない ―― 『月陰の杖』は細く、儚い防御専用の神具だ。そして月光菩薩自身がそもそも対戦闘を最も苦手とする『菩薩部』に其の身を置く神仏。如何に防御に特化した『月陰の杖』とは言えども、『退魔の力』に特化した我が攻撃を受け切る事が出来る筈が無い。
時の刻みを待たずに手放した六正射。圧縮された摩利支天の神力は六本の金剛杵の切っ先唯一点に集中して、破壊すべき目標へと彼我の距離を、連打の金切り声を上げて殺到する。
折れろとは言わぬ、望まぬ。ただほんの一箇所、僅かな傷でも刻む事が出来れば事は足りる。付けられた傷を月光が修復しようとする間の僅かな隙でも生み出す事が出来れば、此処から逃げ出す事が出来る。
摩利支天の願いを乗せて幾重にも束ねられた破魔の金剛杵が、宙に浮かんで其の前に立ちはだかる『月陰の杖』のただ一点に切っ先を集中させた。拮抗する互いの力が虚数で閉鎖された暗闇に火花を散して鬩ぎ合う。其の輝きすらも貧欲に飲み込む満たされた闇が、底無しの胃袋を痙攣させて打ち震える。
其処に存在する筈の無い、しかし其れが有るに越した事は無い異質の神力が術を解かれて空間へと吸い込まれる。其れを養分とするかの様に摩利支天を閉じ込めた空間の外郭は強度を増しつつあった。
摩利支天の攻撃を阻む、堅守を誇る月光菩薩の奥義。其れは『月陰の杖』の僅か手前で展開されている複数の小さな魔法陣。整と奇を互い違いに織り交ぜて神力を濃縮して具現化する複合重層陣が、衝突する力の対消滅によって其の輪郭を露にした。一本の金剛杵と一枚の魔法陣が孕む力は、其の光景を見る限りではほぼ同等。互いの存在を引き換えにして互いを潰し合い、また其の先に立ちはだかる魔法陣へと到達する金剛杵の切っ先。食い止めようと、崩壊する光円と引き換えに相打つ魔法陣。
「 ―― 届けっ。」
何に願うのか。『神仏』たる我が。巫女の願いを叶えようと、其の肉体を仮の寄代として顕現を果たした我が存在。しかし巫女の願いは何時の間にか自分の抱えた願いへと姿を変えて、此処にある。『人』は自分の願いを叶える為に神仏に祈りを捧げる。
それでは我は?
我の願いを叶える為には、何に祈ればいい?
自らの存在意義に疑問を投げ掛ける、答えの無い質問が摩利支天の不安を増長させた。
もしこの矢が相手に届く事が無いとしたら。この願いが叶えられないとしたのなら、我は其の後に必ず生れ出であろう願いを誰に託せばいいと言うのか?
虚空に放たれた六本の金剛杵は摩利支天の力の全て。現世に顕現を果たす最低限の神力ですらも注ぎ込んで空間を貫く光は、引き換えに摩利支天の輪郭の一部を暗闇に譲り渡した。
欠ける光体。薄れる輝き。摩利支天の姿は人型としての構成を既に失っていた。辛うじて残る輪郭ですらも不気味な揺らぎを見せて、今にも消え入りそうになる。力の供給が途絶えたこの空間で只管に力を行使し続けた、其れが摩利支天に与えられた代償だった。
しかしそれでも尚構えが解かれる事は無い。途絶えた力の最期の一滴を振り絞って、摩利支天は自分の求めた願いの結果を其の目に焼き付けようと、既に矢を放つ事の無いであろう姿を闇の中に浮かべていた。
放たれた六本の『願い』は月光菩薩の展開する魔法陣と対消滅を繰り返し、依然として『月陰の杖』への侵攻を続けている。積層された魔法陣を一枚一枚捲っていく金剛杵が力を失う毎に四散する。だが其の光の数だけ絶望から逃れていく ―― 希望に近付く事が出来る。
虚空へと消えて行く光の矢と闇の盾。五回の相打ちを繰り返して唯一残った攻めと守りが杖の直前で最期の鎬を削る。甲高い音を立てて魔法陣を抉る切っ先と、撓みながらも其れとの相打ちを画策する黒い円陣が均衡を失おうとしたその時。其の瞬間は結果を伴って現実に現れた。
摩利支天の放った最後の金剛杵は、光の粒となって砕け散る。
実態を保てず光の粒と化した金剛杵の微かな光を受けて其の様を闇の中に映し出す、勝者となった魔法陣。切っ先に抉られた場所から縦横に大きく皹を入れて、円周の淵斑が欠けている。届かなかった力と願いはほんの僅かな力の差であった事を、その結果を沈黙して見詰める摩利支天の漆黒の瞳が光景として焼き付けた。
「 …… 諦められるか。」
そう呟きながら七本目の金剛杵を形にしようと、右の掌に力を込める摩利支天。だが意思に反して供給される事の無い神力は其の実体化を許さなかった。蜃気楼の様に薄れた実像が手にした物は、僅かに残る光の粒のみ。光背に輝く退魔の力を注ぎ込んでまで為し得ようとした摩利支天の望みは『神仏』である彼女自身の思惑を形にする事無く、終わりを告げた。
「此れで気が済んだか、摩利支天。」
認めたくない敗北が自らの口ではなく、敵対する男の口から静かに告げられる。受け入れられない事実と抗う心が奇跡を求める様に、光体の僅かに残る輪郭を震わせる。湧き上がる更なる怒りが、あの盾を破る力を齎してくれるかも知れないと言う一縷の期待に望みを賭けて。
だがこの隔絶された『閉じた世界』の中に於いて、其の奇跡は与えられる事の無い虚偽の事柄であった。何故なら摩利支天の存在自体が既に此処に有ってはならない者。彼女の顕現した場所 ―― 『月読の陣』にて閉鎖された闇の支配する空間 ―― 自体が彼女自身が祓わねばならない闇。翻せば其れは闇にとっても摩利支天と言う『誤り《バグ》』を直ちに消去しなければならないと言う事。
更なる力の湧出は其の闇によって阻まれた。形になる事無く右手の中で果てる光の粒を握り締めたまま、摩利支天の視線が眼下の嘗ての眷族の影に注がれる。
傷つける事の叶わなかった『月陰の杖』は既に次の段階へと移行している。空間の中央に固定された其の杖が、今にも朽ち掛けそうな外観を逞しい幹へと変化させた。成長の過程を早回しに展開して伸びる枝。生い茂る葉の代わりに湧き出す、黒い羽毛。
成長を続ける全ての羽毛が地に眠る闇を吸い上げて空間へと解き放たれる。密度を上げる瘴気の中で、其の姿を闇に眩ませながら摩利支天が言った。
「よもや我が力が尽き果てるとは。せめてあと一矢放つ事が叶っておれば、其の杖を圧し折って術を中断させる事が出来たであろうに。」
「お前が万全の状態で此処に現れていたとしたなら、其れも可能だったじゃろう。だが、お前には其の機会が与えられなかった。幼すぎる澪様の精神を守る為に其の神力の行使を限定され、其の中で澪様が強く望んだ屍の身柄まで守らなければならなくなった。 ―― この結果はお前が『人の業』に囚われてしまった時に決定付けられた、当然の結果だったのじゃ。」
「運命を捻じ曲げようと画策した輩の手先が、よく言う。」
姿を霞ませながらも其の眼光は微塵も揺らぐ事無く眼下の赤塚と月光菩薩の姿を見下ろす。其の右手は既に光を集める事を止めていた。
「神仏から与えられた試練を回避する為に神を封印する等と、その様な考えに浸るお前達『人』と言う種は其の為に試練を与えられたとは考えられないのか? 汝らを今日まで見守り続けた存在に対する冒涜じゃとは思わぬか。」
「其れはお前等の傲慢に過ぎる考えでしかない。一体此の世に於ける何処の誰がその様な事をお前等に頼んだ? 儂等はお前達が与える試練よりも遥かに少ない犠牲と大勢の者の明日を選んだだけの事。寧ろ儂等の危機に何もせず、傍観者を気取って人の定めを弄び続けたお前達こそが『神仏』に創られし『人』の存在を冒涜しておる。」
赤塚の言葉を背に受けながら月光菩薩の口が微かに開いた。術を起動させる為の詠唱が始まる。摩利支天の耳が、抑揚も無く機械的に紡ぎ出される月光菩薩の言霊を耳にした。其処へ被せる様に赤塚の言葉が続く。
「『運命』等と言う言葉は、一つの結果論に過ぎぬ。儂にも、お前等にも、な。故に『捻じ曲げようとしている』と考えるのはお前等が求める物と違う結果に対する意見であって、それは儂等『人』の持つ価値観とは全く意味を異にする物じゃ。 …… この言葉の意味が解るか、摩利支天。」
「? どういう意味じゃ。まさかこの戦いに勝利したから汝等の行いに理があるとでも言うつもりか。自分達の非道を正当化する為に。」
「違う。」次第に大きくなる月光菩薩の詠唱の影に隠れて、赤塚の否定の声は微かに聞き取れる程度の物と化していた。
だが摩利支天の耳は、其の後に続く言葉を確かに聞く事が出来た。其れは耳ではなく、心の中に染透る様な声で。
「人にも、神仏にも。定められた運命など有りはしないのじゃ。其処に有るのは意思と選択。 …… 『人』自らが選んだ未来に、矮小な価値観しか持ち合わせぬ『神仏』如きが余計な口を挟むで無い。」
其の言葉を虚空に吐き棄てた赤塚。其の瞬間、月光菩薩の両手が天地を指して、月光印を其処に象った。
其処に現れた未知の領域。
神にも人にも闇にも等しく与えられた、末期の星星の成れの果てである高重力場空間にも似た神域を現出させる為の鍵、『狂乱の詠唱者』は遂に起動した。
非聴覚の領域で月光菩薩の口から紡ぎ出される真言が、嘗てその者が属した世界の物とは真逆の力を孕んで閉ざされた空間へと溢れ出す。月光菩薩の背後に戻り、再び摩利支天と向き合う形に佇む赤塚。成し遂げる喜びに塗れる醜い笑みを崩す事無く、闇にも鮮やかに彩られる暝い瞳は今にも消えようとしている天女の姿を眺めている。
共振を果たして術を増幅させる為の其の口が、非聴覚領域の真言を唱える為に動く事は無い。代わりに赤塚の纏った白の法衣の下で蠢く無数の蛇が其々に真言を放ちながら着衣の隙間から湧き出して鎌首を擡げる。其処に張り付いた死人の顔。怨嗟と嫉妬に歪んだ顔は既に人の物とは言えず、其の口は怨みの代わりに月光真言を口ずさむ。
始まりを違えたその真言の旋律が何時しか同調を果たしたその瞬間に、摩利支天らを取り込んだ空間の様相は一変した。
本来であれば其処に現出を果たす筈の金色の野原は黄泉路より湧き出す異質な暗黒へと取って代わられた。いや、其れは黄泉路ではない。黄泉の世界は『神仏』の統べる領域。其処から噴出す物が異質に感じられる事等有ろう筈が無い。
これはもっと他の、摩利支天を始めとする『神仏』ですらも知り得ぬ世界から迸る、暗黒の大気。
闇に組する事を余儀無くされながら未だに神の座に其の戸籍を置く、月光菩薩が創り上げた神域とも言える空間は徐々に吹き上げ始める禍々しい何かに満たされ始めた。恐らく球体に象られた其の内壁目掛けて堆積を始める術者の法力が海溝へと沈み行く物体を押し潰す水圧の如く、摩利支天の光体の周囲で均等に負荷を上げる。
抵抗も空しく圧縮されていく摩利支天の姿は既に其の形を失っていた。凝縮される力が放つ光の輝きを僅かに増やしてはいたが、それが空間の何処かを照らし出す事は無い。闇夜に浮かぶ仄かな人魂の様な存在は、其の全てを何処かへと持ち去られようとしている。
現実から導き出される状況から得られる結果は、いまや明白。『神仏』たる自らが望んだ、行く当ての無い願いや望みが叶えられなかった事を怨む事も無く、ただその時が訪れるのを待った。其れは力によって調伏を重ねて来た『退魔の業』を携えた、摩利支天なりの覚悟に他ならない。
力で戦う者は力によって滅ぼされる事を常に覚悟していなければならない。今、その時が来たのだと摩利支天は思っていた。潰されて行く自らと引き込まれていく意識。其の双方が摩利支天の負の思考に拍車を駆ける。
予定されていた、そして用意されていた未来は敵対する者によってその流れを大きく変えた。『神仏』の代理として其の力を現世に揮う筈の自分は此処で敵の手中に落ちる。そして『人』は選択するのだ。
生きるか、死ぬか。
『天魔波旬』と其の勢力に取り込まれた『神仏』の力を前に抵抗する事は、即ち『還る』所の無い死を意味する。生きる為には願いや望みや誇りと言う、凡そ『人』に許されたそれらの物ですらかなぐり捨てて隷従を果たす以外に生き残る術は無い。そして『創生主』が創り上げ『神仏』が守り抜いた『人』と言う種は其の魂を深く闇の底へと沈めて、生き延びていくのだ。
家畜の様に。
未来の景色に束の間の思いを馳せる摩利支天。遠く彼方に吸い込まれつつある意識を自覚した其の瞬間、声がした。そして其の声は摩利支天の神々たる金の髪を手繰り寄せて、引き戻す。
いかないで。
拙い声で叫ぶ声を聞き間違える筈が無い。その叫びは摩利支天の心の内から発せられた物ではなく、唯一つの願いによって自分を窮地へと追い遣った、其の為に全ての希望を失おうとしている澪の声に間違い無かった。
きえないで。
短い言葉に秘められた切なる願いが寄代と言う繋がりを介して摩利支天の脳裏に刻み込まれる。この先にある事実を受け止めようと覚悟を決めた摩利支天の心は、澪が放った其の一言で酷く荒された。力と共に途絶える意識と輪郭の喪失を認識しながら、押し寄せる最後の瞬間に残す言葉を考えあぐねて沈黙する摩利支天。
其の沈黙の意味、自分が闇の者に破れたという事実。そのどちらを説明するにしても、澪が手にした最期の希望が其処で潰える様を見せ付けざるを得ない自分の力の不甲斐無さを説明するには、残された時間があまりにも少な過ぎる。
躊躇いと戸惑いが同時に摩利支天の心に去来する。其れは武辺の神仏として神より使命を与えられた自分にとって、未だ嘗て知り得た事の無い感情だった。
何を、躊躇っている、何故、戸惑っている?
滲み出す感情はやがて迷いとなって摩利支天の心を締め付けた。請われた願いの成就に力届かず、だが其れは既定された事実に過ぎない。討つ者、討たれる者互いが平等に持つ可能性の一つが現実になっただけの事。恐らくこの先誰にも変える事の出来ない『運命』の行方を啓示する事に何の躊躇いが必要だというのか。
だが其の口からは、澪に与えるべき言葉を口にする事は出来ない。吐き出そうとすればするほど、言葉は茨を纏い摩利支天の喉を襲って耐え難い痛みを与える。残された僅かな時間が刻一刻と失われていく焦りで、感情が暴走しそうになる。
はちきれんばかりの激情と義務の均衡は、堕天の際に臨んだ摩利支天の心の天秤を辛うじて義務の方へと傾けた。其れを許すまじと尚も抵抗を続ける激情の意思を振り切って、しかし流暢とは言い難い言葉運びで澪に向かって口を開いた。
「すまぬ『巫女』。 …… 我の力は闇に及ばず。汝の願いを叶える事は出来そうに無い。」
あきらめるの?
摩利支天の告白に間髪を要れずに詰問する澪の声。小さな声ではあるが、其の言葉には明らかに非難の色がある。
驚いた。摩利支天の視線が思わず澪の姿を闇の空間の中で追い求める。眼下で自らを封印する為の祝詞を唱え続ける二人の背後に浮かび上がる白い籠。其処に横たえられた赤子の瞳が、姿を無くした摩利支天の微かな光を認識して睨み付けている。
「生まれたばかりの汝には判るまい、我の言葉の意味が。…… あの悪き老人の言を借りるならば、この後に現れる結果こそが我に与えられた『運命』と言う物。そして其れは既に此処に定められた。覆す事など出来様筈が無い。 …… 良いか『巫女』。これは『神仏』の力を以ってしても抗う事の出来ない真実なのじゃ。」
『神仏』として『人界』の上位に君臨し続ける一人の我。その世界に存在する我に虚偽など有り得ず。在るのはただ真実のみ。それこそが『神仏』が『神仏』足り得る、人を統べる為の唯一の違いである筈。其れを否定する事など有りはしないのだ。
自分が『神仏』である限り。
だが澪から放たれたその言葉は、塵芥の如く湧き出して来た無数の人々の願いや言葉とは一線を画する。『人』の世界に介入し続け、本来であれば絶対を意味する自分の言葉を真っ向から否定する、『人』として生まれた『巫女』。其の言葉には上下の、天地の関係すらも超越した響きを湛えて摩利支天に届いていた。
わたしはしっている。
「何を? 」
あなたは、まだなにもしてはいない。
言葉を受けた摩利支天が、非難を続ける澪の言葉の意味と根拠を始めて理解した。
この世に生を受けて以来、『摩利支の巫女』は個体としての感情を保護する為に其の意識を心の奥底に眠らせて、来るべき契約の日に備えて摩利支天の意のままに操られる記録媒体の端末としての役割を余儀無くされていた。
そして、彼女は見続けて来た。多くの者が自らの目の前で其の命を散らして逝く様を。自分を可愛がってくれた長谷寺の僧侶達が、母が、父の恩師が、祖父が。
そして、私と共に歩くと誓った、あの人までもが。
無念という名の澱は眠り続ける澪の感情の上に深く降り積もり、其の重さに耐え兼ねた澪の感情は『創生の法要』に於いて遂に覚醒の時を迎える。これは澪の身だけに起こりえる事では無く、今までに其の資格を与えられた『有資格者』全ての者が其の過程を経て『傀儡』からの脱却を図る。其処には唯一つの例外も無く、澪もまた同じ過程の上で目覚め、自らの守護者である摩利支天の力を手にする事が出来たのだ。
だが、澪は他の『有資格者』とは違っていた。彼女は『彼女に纏わる全て』の者を喪おうとしている。彼女の覚醒は其の過程で発動した。見ず知らずの大勢の赤子の命によって導かれた目覚めでは無い。
澪は、自分の意思で『摩利支の巫女』になる事を選択したのだ。
自分の為にこの世を去ってしまった命に報いる為に。
これから自分が携えた運命に巻き込まれて散ってしまうかも知れない数多の命を救う為に。
否応無く刻み付けられた其の映像。母は光の中に消えた。父の恩師は心臓をもぎ取られた。祖父は自らを闇に売り渡してまで澪を守ろうと試みた。
そしてあの人は、私の運命を変える為に、其の身を自らの手で貫いた。
命途絶える最期の瞬間まで足掻き続けた彼等の事を忘れる事は出来ない。其の彼らが望んだ最期の願い。
自分を守ること。
託された願いが彼等の命を飲み込んで燦然と輝きを放って此処にある。その光に背を向ける事は許されない。
あなたは、まだなにもしてはいない。
繰り返される澪の言葉。傀儡である事を止めた澪の瞳は、摩利支天を責め立てる。
幼子とも思えぬ鋭い視線で摩利支天を見据えるその円らな瞳に込められた意味は、既に願いの領域を超えて自らの守護者に問い掛ける。
この幼すぎる我が寄代が『選択』した『意思』。そしてこの者ですらも『運命』等と言う不確かな物を受け入れてはいないという確かな証。それは澪がやはり『人』であるという事実を摩利支天に突き付けた。
言葉を捜せない澪に与えられた唯一の手段が摩利支天の心を貫く。覚悟という名の諦観を引き剥がして更なる抵抗を提案する澪の意思は、封印と言う事実を受け入れようとした摩利支天に幾ら望んでも与えられなかった更なる力を生み出した。微かに輝きを増す光の珠が束の間、吸収される神力の総量を凌駕して闇の空間を照らし出す。
「そうじゃな、巫女。我はまだ何もしてはいない。汝の言う通りじゃ。」
闇に響くその独白までもが聖なる光を放つ光珠と化した摩利支天。其の一角から光が撃ち出された。 闇を貫く金の光が航跡を刻んで、眼下の赤塚目掛けて迸る。攻撃の意思を受けて再び展開される、月光菩薩の魔方陣の盾。
だが其の光は、阻止しようとした盾の外延部を掠めて、術者の脇を通過した。光跡を追って振り向く赤塚の視線の先には澪の姿がある。宙に向って求める様に広げられた両手。其の左の掌に打ち込まれる光。着弾の衝撃で散乱する澪の血液。
繋がる光跡が闇の中に吸い込まれて行く僅かな間に其の光を受けて煌く、怜悧な輝きを放つ水晶の結晶。掌を貫通した其の鏃を声も上げずに握り締める澪。聖痕の如く刻まれた其の場所から零れ落ちる澪の血が、蛍光を放つ。
「じゃが、巫女よ。これが今の我に出来る、お前に与える事の出来る精一杯じゃ。この先我の身に降り懸る災いを振り払う事は、恐らく不可能じゃろう。故に ―― 」
こんな所に答があったとは。
祈るべき者を持たない我が身が祈りを捧げる者。
願うべき者を持たない我が身が願いを託せる者。
結果としての『運命』を受け入れるのではなく、導かれる先にある結果や事実に抗い、挑み、戦おうとする『人』の意思。其処に現れる、誰もが予想し得なかった未来を。
それをお前が創ろうというのか。『運命の輪』と言う名の手札を破り捨てて、新たな手札を、お前が。
其れも神が創り上げた『人』の業だと言うのなら。
我が願いを託せる存在は、只一人。
「我の体の一部、汝に託す。其れこそは汝と我の契約の証。何時の日か汝が我の力を心から欲した時、汝の体の一部と共に其れを壊せ。混じり合う我と汝の力が互いの存在を其れと認めた時、我は地獄の底から生還を果たす事が出来るじゃろう。但し長く闇の底に封印された我がどの様な存在に成り果てているかは想像も付かないが。」
摩利支天から澪に送られる其の言葉の何処にも逡巡は見られなかった。語るべきを語り、為すべき事を為す。それが今の自分に課せられた責任なのだと、摩利支天は自分を見つめる澪の姿を焼き付けながら思った。
「願わくばお前の望んだ其の先に、我との再会がある事を。」
囁かれる摩利支天の言葉と共に光を失う光珠。圧壊限度まで上昇した空間内の法力が神聖なる全てを奪い去る為に摩利支天へと殺到する。
『門』は開いた。
噴き上がる力は漆黒の闇。光等と言う余計な物、其れに類する一切を排除して空間内を駆け巡る嵐。 儚い灯火に過ぎなかった摩利支天の存在は其の風に翻弄され、削られ、打ちのめされながら為す術も無く事象の地平下へと吸い込まれて行く。
其の嵐の中心で、足元の門を潜って『闇の深遠』へと運び出される哀れな『戦女神』の存在を嘲笑いながら見送る赤塚。全てと引き換えに得た喪失感と勝利の余韻が、赤塚の表情を微妙な物に変えていた。
だが振り返る事は出来ない。其の先に開かれた世界の未来へと思いを馳せる赤塚。其の先を自分が目にする事は無い。此処で消え去る我が身にとって、それは唯一つ許された自由と権利と呼べる物だった。
故に気付かなかった。
赤塚の背後に広がる事象の地平から闇と共に吹き上げられた物の正体に。
其れは闇の力に弄ばれながら空間の中を舞い踊る。黒檀で仕上げられた柄は闇に紛れ、はつられた刃は高温で焼きなまされて青黒く変色している。嘗て相州伝正宗が打ったとされる懐刀は元の形を失って、だが其の歪な羽を闇に孕ませて空間の中を彷徨い続けた。
其の姿はまるで黒い揚羽蝶。闇と同化した其れがやがて意志を持つかの様に、其の身体を休める場所を探して舞い降りる。
事象の地平。其処に存在する筈の無い地面に、音も無く切っ先を立てる懐刀。
青黒く変色した刃の芯に僅かに残る玉鋼の輝き。真の刀である事を唯一証明する其の場所に、懐刀は闇に沈んだ一人の男の影を映し出した。
其の姿を見つめる、拡大した瞳孔。血に塗れた相貌。
震える、瞼。