贖 罪
あの日も。
あの日も。
あの日も。
あいつも、あの人たちも。
自分の事を『覚瑜』『覚瑜様』と呼び、慕ってくれた人々も。
自分が守ろうとして叶わず取り零してしまった全ての存在は、手にしようとしても出来ない存在だと最初から決まっていたのか。自分の存在が幻であるが故に。
積み重ねた記憶と歳月はその実不安定で、誰かの吐息が掛かった位の僅かな力でも倒壊するほど危うく、そして脆い物だったのか。
男が自分に告げた『紛い物』と言う言葉、そして赤塚が自分に向って吐き棄てた『『覚瑜』と言う偽りの人格を被った悪鬼よ。』と言う言葉。そのどちらもが同義として自分に投げ掛けられた真実だと言うのか。
真実と言う鉄槌が全方位から覚瑜の自我を滅多打ちにして、彼の存在を否定する。其れに抗う心が存在意義を見出そうと、取り繕おうと男の心の中で空しい絶叫を上げた。だがその声も絶望と言う名の壁が、真綿の様にその声を吸い取って何処かへと持ち去っていく。
“では、俺は何だったと言うんだ! 俺に託された全ての願いは、俺の望みは、俺の苦しみは。そして俺の力はっ! その全てが幻だったとでも言うのか。”
―― そしてあの感情は。口にする事の出来ない、表現しようの無い焼き尽くされる様な気持もまやかしに過ぎなかったと言うのか。
「それ程でもないぞ。それらは正しくお前という個人に託された物だ。何せその時には俺はそこにいなかったからな。そして俺の存在を知らずに生きて来たお前だからこそ、俺には手にする事の出来なかった力を得る事が出来たのさ。」
心の中に響く覚瑜の慟哭を煩わしさの欠片も見せずに聞き届け、尚且つ話しかける男の声。『紛い物』と自ら表現した覚瑜の存在を否定も肯定もせずに、何処かしら感謝の色彩を帯びた声音で言った。
“貴様には、無い、力だと? ”
「そうさ。この世に於いてお前ただ一人手にした力、『全てを打ち滅ぼす力』だ。」
『全てを討ち滅ぼす力』。其の言葉の持つ、覚瑜には意味の解らぬ霊力が堪える事の出来ない狂喜を男の中に生んだ。醜悪な匂いを放つ男の見えざる腕が覚瑜の意識の襟首を掴んで、息の根を止めんばかりに締め上げる。
「凄いぞ、お前! よくやった。感謝してもし足りない位だ。お前の努力のお陰で、俺はこれから全ての存在を斬る力を手に入れる事が出来たんだっ! 」
両手に力が篭められて、気を失いそうになる覚瑜。途切れ途切れになる意識を繋ぎ合わせて、覚瑜は男に尋ねた。
“す、全てだと? 貴様、それは一体どういう意味だ。”
「全てだよ、全て。神も仏も鬼すらもぶった斬って無に帰す『修羅の力』だ。此れさえあれば俺は俺に戦いを挑んでくる全ての物を斬る事が出来る。おまけに道案内まで用意して貰えるとはかたじけない事この上ない。」
男のその言葉が覚瑜の意識に抵抗を思い出させて、言葉に秘められた意味に対する恐怖と怒りが失いかけた自我を呼び覚ました。この男は封印が解かれた事をいい事に、覚瑜の心に成り代わって『摩利支の巫女』の運命の輪の中に加わろうとしている。
だがこの男の望みは、違う。
「『流血の道を辿る宿命を携えた巫女』? 上等じゃないか。少なくともその傍にくっついて歩いていれば斬る相手には困らない。その女の流す半分くらいは俺が受け持ってやる。」
“貴様っ! 自分が何を言っているのか分かっているのか。そんな事をしたら澪様は ―― ”
「心が壊れるってか? そんな事俺の知った事か。壊れたのならしょうがない。引き摺ってでも連れ回して敵を引き寄せる餌になってもらうまでだ。それでもお前にとっては、ここでアレが敵の手に落ちるよりはずっとましなんじゃないか? 」
男の声は覚瑜の叫びの悉くを遮断して続けられる。まるで其れが覚瑜自身の隠された望みでも有るかの様に。
「だから、俺に力を貸す気になったんじゃないのか? アレを取り戻す為に。―― 俺は俺の目的の為にお前に従って力を貸した。お前もそうすべきだろう。」
問い掛けの形を取ってはいても、その言葉は有無を言わさぬ取引の提案に他ならない。歯噛みをして聞き届ける覚瑜の思惑を嘲笑う様に、男の声が降り注ぐ。
「思惑はどうあれ、お互いの目的は同じ事だ。アレを助け出せれば、お前の望みは全て叶うのだろう? だったらその後は俺に任せろ。アレを使って俺は俺の目的を果たす。それで全てが万事丸く収まる。」
そう言うと男の視線が護摩壇の上に転がったままの白い籠へと向けられた。
「アレもそういう宿命の元に生れた子供だ。少なくともそれくらいの事は覚悟しているのではないか? 」
その男の考え方や物言いは覚瑜の思惑を凌駕して、覚慈を取り込んだ闇の澱みに潜んでいた『魔物』にも匹敵する腐臭を放っている。そして『覚瑜』という『嘘』を使って男の魂を封印し、今また傀儡と化した松長を使って男諸共に討とうとしている赤塚の行動が酷く正しい事の様にも思える。
恐らくその考えは間違ってはいまい。もしかするとこの男の存在は『天魔波旬』にも匹敵する穢れた存在なのかも知れない。そして其れを使って ―― 自分は何をした。
覚瑜の心を瞑い悲しみが支配した。この力を使って自分は仲間を、我が半身を ――
“殺した、殺してしまった。”
知る由も無かった男の存在。だが其れを言い訳に自分の罪を見逃す事など出来そうに無い。自分は確かにこの男を解放し、使役し、主従を譲り渡した。暗闇に輝く一縷の光を渇望したが為に自分が選択した、其れはこれから先の未来に引き起こされようとしている災厄の正体だった。
「何を今更後悔している。どの道運命なんか変えられない。今お前の目の前にある事全てが運命の結果という物だ。だから ―― 」
その男の声と共に、目の前を光を放つ小太刀が通り過ぎる。高々と差し上げられた其れが、再び上段の位置へと置かれて松長と対峙した。
「お前が俺に力を貸してこの先に進む事もあらかじめ決められていた運命だ。 …… 心配するな、別にお前を取って食おうって訳じゃない。お前は俺の中で何時でも必要な時に力を貸してくれればそれでいい。その為に消しもせずに黙って話を聞いていてやったんだからな。」
“もし、俺が力を貸す事を断ったら、お前はどうなる? ”
「お前もろとも此処で死ぬだけだ。だが、多分俺はいずれ時を変えて蘇る事になるだろう。どういう理屈かは分からんが、今までずっとそうだったからな。」
“ではこの俺は? お前が『紛い物』といった俺と言う存在はどうなる。ちゃんと彼岸まで辿り着けるのか? ”
人は死を得ると必ずその魂を幽界へと運ばれていく定め。だが其れは人の輪廻の中にその存在を置く事の出来た者に限られる。赤塚という『人』の手によって作られし『偽り』の魂である自分は其の輪の中に加わる事が出来るのか?
「知った事では無いな。元々あの爺に植え付けられた『仮の人格』だ。ひょっとしたら全くの『無』になってしまうんじゃないのか? 最初から此の世に存在していない筈の者なんだからな、お前は。」
吐き棄てた男の言葉には、誰でも理解できる様な一分の理が通っていた。見たくも無い匣の蓋を開け、其処に置かれた一枚の紙切れに男と同じ言葉が書かれている様に感じて、覚瑜は密かに呟いた。
そうか、無くなるのか。
無くなってしまえば、俺に託された覚慈の願いや上人様のお力添え、その他諸々の事が潰えてしまうに違いない。自分の選択肢に余地は無いという事か。
ならば、是非も無い。
“ …… 分かった、ならば貴様はあの鬼の動きを止める事に専念してくれ。俺は俺のやるべき事をやる。 ―― 一つ頼みがある。”
暫しの間を置いて、観念した様に呟く覚瑜の声を聞いた男の心の狂喜が最大限の昂ぶりを見せる。荒馬を乗りこなした達成感の様な、傲慢な男の声が響いた。
「やっと言う事を聞く気になったか。そうだ、それがお前にとって最良の選択だ。で、頼みと言うのは何だ? これからずっと死ぬまで一緒にいる間柄だ。何でも言う事を聞いてやる。ただし ―― 」
突然男の声音が変化した。其れは支配者が隷属した奴隷に対して投げ掛ける類の物と同じ。凄みを増した声が覚瑜の意識の根元を締め上げた。
「 ―― 俺のやりたい事を妨げない程度の事までだがな。」
“分かっている。俺とてお前の機嫌を損ねてむざむざと消されたくは無いからな。俺が言う事を聞かなかったらお前はわざと死ぬ覚悟なのだろう? ”
自分がこの男と同じ立場と考えの持ち主だったら、必ずそうする。自分と男の『死生感』にどれだけの違いがあるのか、自分の読みが果たして正しいのかを今の時点で知る必要が覚瑜にはあった。『これからずっと死ぬまで一緒にいる間柄』になると男が心の底から思っているのだとしたら、覚瑜の提案は否定される筈だ。
だが、男の言葉が本心から出ていないのだとしたら、覚瑜と言う存在が男にとっては邪魔であると言う証拠。法力の使い方を修得した時点で消去してしまうに違いない。死と言う選択を持って。
男の深層心理に鎌を掛けるべく放った問い掛け。男の声は其の質問に対して意外な程あっさりと答を返してきた。
「付き合ってから幾らの時も経ってはいないのに、よく分かったな。そこまで分かっているなら言う事はない。…… どうやら俺達は互いに馬が合うようだ。」
“ああ、その様だ。”
やはりか。この男は既に『死』と言う物を恐れていない。幾度も転生を繰り返した挙句に常態化した『死』がこの男から恐怖の二文字を奪い去っている。此処で命を落とした所で、その事実は男にとっては只の行事の様な物に過ぎない。そして何時の日にか何処かの土地にて再び肉体を与えられ、再び繰り返すのだ。
過去に手にした力を新たな経験値として上乗せして、更なる力を以って流血と殺戮に明け暮れる毎日を。
それが自分とは違う。
自分は失いたくない。自分の存在を、自分の誓いを、自分に託された願いの数々を。そして『巫女』を。そしてそれらを全て自分の下から根こそぎ奪い去ろうとする『死』を恐れる。
だが、自分は『死』よりも恐ろしい物も知っている。其れも自分と奴との違い。
“お前が鬼の足を止めたらそのまま奴の背後に廻ってくれ。そこで俺と代わるんだ。”
「お前と代わる? なんでだ。俺にその場所さえ教えてくれれば、そんな回りくどい事をしなくても正面から刀を刺し込んでやるが? 」
“理由がある。”
体の主導権を譲り渡す事に不満の意を表す男を宥める様に覚瑜は言った。
“奴を討つ為にはその自我に俺の法力を流し込んで崩壊させなければならない。だがその場所を見つける事が出来る者は上人様と契約を結んだこの俺だけだ。場所としては心の蔵の裏側になるのだが、ほんの僅かなその一点を寸分違わぬ事無く貫かねばならない。そして重要な事がもう一つ。”
「後二回しかその力を使う事が出来ない。失敗は許されないという事か。」
“そうだ。お前の一太刀に使う力と、赤塚との立ち回りに使う力。それらを差っ引くと其れくらいしか法力に割く力が残らない計算だ。だから確実に奴を仕留める為に ―― ”
頭上に翳した小太刀の光に照らされた男の顔に人の悪い笑顔が張り付いた。
「了解だ、大将。此処はお前の作戦に乗るべきの様だな。つくづくお前が敵でなくて良かったと思うぜ。」
“何を言っている、これからはこれもお前の力だ。よろしく頼むぜ、相棒。”
その言葉は服従に等しき物。支配下に置いた男の顔が笑顔を通り越して大きく歪んだ。哄笑と憤怒はその顔の筋肉の使う箇所を全く同じに使うという。事実の検証は男の顔で体現されようとしていた。
その表情の変化は男の纏った殺気にも現れる。松長と男がこの場で死合って以来、最大とも言える敵対の意志が松長の殺気を誘う。聲の無い裂帛の気合が松長の口から瘴気と共に吐き出されて、蒼白く輝く足が最初の一歩を踏み出した。
最大出力での『韋駄天の呪法』が松長の体を男目掛けて打ち出し、その瞬間を待ち侘びたかの様に男の縮地が発動した。『先の先』『後の先』等と言う剣術の常識はその二人が突入した時間の流れの中に存在する事は許されない。地上でありながらマックスウェルの法則を戯言扱いで無視を続ける二人の相対速度。その光景を遠めに眺める赤塚と澪には二人の剣がぶつかり合った時に必ず放たれる雷光しか目にする事が出来なかっただろう。
大師堂を揺るがす、金属と金属の弾ける轟音が静寂を打ち破る。吹き付けられた鞴の熱で焼かれる鉄の焦げた匂い。迸る稲妻が二匹の鬼を照り返す輝きの只中に浮かび上がらせた。
男が初めて松長の攻撃をその小太刀で受け止めた。互いの秘儀で発生した相対速度によって乗算される衝撃の力が其の一点で爆発する。其の試みから導き出される結果は、恐らく今迄のどの立会いとも大差は無い。本来ならばより強大な力を放ち続ける松長の光刃が、男の持つ小太刀の刃を斬り飛ばす事など造作も無い事であるだろう。
しかし其れは互いの相対速度が寸分も無く拮抗していた場合のみに限られる。
発動した縮地の移動速度は松長の其れを僅かに上回っていた。またその事実を男は何度かの立会いによって見抜いていた。そして其処に発生しうる途方も無い抵抗と反発、その力こそが斬撃の為に足りない力を補う唯一の方法であった。
其れは百戦錬磨の男にとっても危険な賭けである事には変わりが無い。一か八か、松長の光刃が最大速度になる前の一瞬に男の刀が其処に届いた。狙った先にある物とは実体化した刃の根元。つまり互いが太刀の媒体としてその手に握り締めた独鈷杵にあった。『実体化』した刃ではなく『実体』そのものを打ち合わせる事が出来れば、少なくとも此方の刀が斬り飛ばされる事態だけは回避する事が出来る。
だが、命を賭した策を弄しても『人』として『鬼』に立ち向かう男の不利は揺るがない。実際鍔迫り合いの始まった瞬間にその危惧は現実の物と成った。体の中に溢れる膂力を誇る松長と枯渇寸前の男では、大人と子供の腕相撲だ。
あっというまに押し込まれる男の刃。力任せに捻じ伏せて、自分の意志を妨げる小太刀ごと叩き斬ろうと迫る松長の貌。生暖かい瘴気が男の顔に吹き付けられて、其れを感じた覚瑜の意識が今日何度目かの死の恐怖を覚える。
狼狽する覚瑜とその太刀を実際に受け止めている男の意識は、同じ景色を見ていながら全くの別物だった。押し込まれた自分の光刃の熱で睫毛が焦げる音がする。絶体絶命を絵に描いた様な状況に追い込まれながら、冷静を通り越して心の中に忍ばせた氷柱を研ぎ収めた男の声が眼前の『鬼』に向けて呟かれる。
「 …… そういえば、まだ『崩柳』の技を見せてなかったな、二人とも。」
大きな裂け目の奥で盲いた筈の松長の眼窩を睨み付けて、男が口を開いた。その声で男の左腕に、覚瑜が感じた事が無い程膨大な力 ―― それは殆ど今動員できる全ての力なのだろう ―― が流れ込む。
「克目して見るがいい。此れが中条流小太刀『攻』の秘儀、『崩柳』だ。」
事も無げに技の名を口にした瞬間に、男が左手を肘で返した。其の動きに伴って支点となった二人の独鈷杵が同じ向きにくるりと廻る。互いの体の前面で切り結んでいた輝く十字架が形を崩し、二本が一つとなって男の左側へと流れた。
其れは支点と力点、人体関節の駆動理論によって為せる技。
相手の力点よりも離れた場所を力点として動かす。この場合松長の力点は手首、男の力点は肘。支点と力点は距離の離れている方が少ない力で作用点を動かす事が出来る。如何に膂力を頼りにした攻撃でも、物理法則に逆らう事は不可能に近い。
仕掛けは此れだけに留まらない。手首が返る事によってその影響は遠く離れた膝関節に波及する。松長が握った刀は右手、男は左手。打ち合った刃のほんの僅かな角度の差がその秘儀の隠された要領だった。男の捻りによって極められた松長の右手首は、右膝を容易く挫かせる。
松長の体勢がそれで『崩』れた。『柳』の枝が風に靡く様にふわりと揺れる松長の体躯。
其処に生れた隙が、この技の決殺点。
支点に残存する抵抗を男の左手が解き放つ。其処に反発力と男の体内で生み出された総ての力を掛け合わせて小太刀が奔る。其の光は奥の院で大蛇の首を一刀の元に切り落としたあの輝きと同じ弧月を大師堂の月闇に刻み付けた。
弧月は迷う事無く松長の首目掛けて吸い込まれる。音速を超えた小太刀の切っ先が巨大な衝撃波を発生させて大師堂の空間に見えない皹を刻み込む。擦れ違い様の一閃は其れを目にした者全ての脳裏に光の残像を残して消えた。後に残った物は背を向けたまま距離を離した二人の動かぬ影と凛とした静寂のみ。
残心。男が松長との戦いの中で初めて見せる其の構え。だが其処に武道の所作としての意味は感じられない。どちらかと言えば茶道における残心 ―― 『何にても 置き付けかへる 手離れは 恋しき人に わかるると知れ』 ―― にも似た、何処か別れを惜しむ様な風情があった。残す心を振り払う様に男の口から息吹が漏れて、肺の中の澱んだ空気を新鮮な物に入れ替える。
そうして男は構えを解いて振り向いた。
点滅する緋色の虹彩が月闇を通して松長の姿を静かに観察する。其の顔はまるで腕利きの職人が自分の仕事の精査をする様にも見える。視線が追い求める物は今しがた自分の小太刀が通り過ぎた筈の松長の首に向けられていた。
其の目に映る、傷一つ見当たらない松長の首。赤塚と同じ齢を重ねていながらも今だ歳不相応な肌の張り艶を残した其の皮膚には、先に刻み付けた傷跡以外の染みは無く。斬り結ぶ前と同様の形と姿を残して、確かに其処に存在を果たしていた。
自分の仕事の結果を確認した『人斬りの職人』の声が、闇の中で静かに響いた。
「俺の仕事は此処までだ。後は、お前に任せる。」
其の言葉と時を同じくして、虹彩を支配していた緋色の点滅が中断する。途端に支えを失った様にその場でよろめく覚瑜。踏鞴を踏んでつんのめりそうになる其の感覚が、どれだけ男が切羽詰った状態に追い込まれていたかと言う事を知る機会となった。
法力の収束に必要な『調息』を行うのが精一杯の状態。呼吸に必要な力ですら注ぎ込んで松長との戦いを制した男の、それが松長によって与えられた代償とも言える物だった。
“何をぼやぼやしている? ”
覚瑜の意識の中に設えた自分の住処に舞い戻った男の声が、事実に凍りついたままで動きを止めた覚瑜の意識を叩いた。
“早く止めを刺しに行け。もたもたしてるとまた傷口から血が染み出して来て、全てがご破算になるぞ。お前も気が付いたと思うが、そうなったらもう二度とあの技を使う事は出来ない。 …… 後は言わなくても分かるな? ”
「 ―― ああ、分かっている。」
言葉の遣り取りに口を開く事すら覚束無い。辛うじて残った僅かな体力を拾い集めて覚瑜は、其の一歩を前に進めた。
投げ掛けられる赤塚の毒舌も無く、自分の足が壊れた床を踏み締める音だけが大師堂の中に空しく木霊する。沈黙の中、視界の中に少しずつ其の面積を拡大する松長の背中を。其の奥に仄かに輝く金色の光点を目指して覚瑜が其の場所へと歩み寄る。
其処が様々な意味で、自分の終焉の地。
鉛の足を引き摺る様に松長との距離を縮める。其の重みを増す物は失われていく自分の体力だけによる物ではなく、自分自身に課した誓いに背こうとする罪悪感の為せる業であるのかも知れなかった。
だが其れを決するのは自分。人は自分の信じる物に因ってでしか其の行動を決定する事が出来ない。肯定した物に背を向ける事こそ、自分に対しての最大の裏切りに成り得ると言う事を覚瑜は理解していた。
だから、この足を止める事は出来ない。例えどんな必然や加護が自分の運命を捩じ曲げようとしていても。
辿り着いた松長の背後の、執行の場所。既に殺気や憤怒は存在しない。生者を拒むかの如く放出を続けていた松長の闘気は、動きの消失と共にその存在を霧散させていた。赤い法衣で打ち掛けられた其の背の直ぐ傍に立つ覚瑜の瞳がこれから訪れるであろう境目に其れを重ね合わせて、悲哀を込めて見詰めた。
緋色の消えた瞳を瞼が静かに覆い隠して、覚瑜が体の向きを変えた。自分の背中で松長の背に寄りかかって、何かを求めて宙を見上げる。傾げられた後頭部が上背で劣る松長の頭頂部に押し当てられた。其の差は恐らく三寸余り。
そうか、三寸か。
“背を向ける事に何か意味があるのか? ”
不審の声を投げ掛ける男の声が覚瑜の脳裏に響く。覚瑜の為に其処までお膳立てを施した男にとって、覚瑜の取っている行動は不可解極まる物だった。自分ならば速やかに止めを刺す物を。そうする事が死合って敗れた者に与えられる当然の結果であり、また礼儀でもあった。死の淵に在る者の隣で何もせずに見詰めるなど、強者の驕りや冒涜に比類する卑しい行いだ。
悋気を帯びた其の声とは正反対の、静かな声が覚瑜の口から漏れた。其の力の無さが自分の心の内にある疚しさから来る物なのか、それとも失われた力によっての物なのかは覚瑜自身にも判断する事は出来なかったが。
「この向きならば刀を差し込む場所は護摩壇から陰になる。奴の視線に捉えられる事は無い。」
“なるほど、考えがあっての事か。”そういう男の声から棘が消えた。漏れ出す安堵が覚瑜の意識の中にも流れ込む。
“だが背中合わせで奴の自我とやらを本当に貫く事が出来るのか? 俺が見た所、お前に心眼が使えるとも思えないが。”
「できるさ。」
断言する覚瑜の声と共に翻る左手。手にした小太刀が順手から逆手に持ち替えられた。
「これはそう言う物じゃない。見る事が出来れば必ず其処に届く。そういう力だ。」
目を閉じたまま佇む覚瑜には既に其の光が見えている。瞼の帳に浮かぶ人型の線描画。そして其の心臓の位置に浮かび上がる金色の小さな光が。後はそれを壊す為の力をこの手に蓄えるだけ。
必要以上に大きな音での調息が始まり、覚瑜の左手が蒼白い光を湛えて闇を照らす。体の中を駆け巡って左手と言う袋小路に集中する法力を感じて、男の意識が歓喜の声を上げた。
“これが『全てを滅ぼす力』。俺が手にする事の出来た究極の力か。”
「そうだ。」覚瑜の意識まで塗り潰そうとする男の感情。侵食されれば其の瞬間に男と同等の価値観しか持ち合わせる事の出来ない存在に堕ちてしまうであろう自分の姿を想像して、覚瑜は其の誘惑に耐えた。
耐えなければ、出来ない。
「良く見ておくんだ。この光が ―― 」
左手に力を込めて。迷う事無く一気に振り込む。
「 ―― 貴様と俺が此の世で見る、最期の景色だ。」
偽りの記憶、偽りの存在。
虚構に塗れた我が存在が知らずの内に身に付けた『全てを滅ぼす力』。意味は理解できないが自分の中に封印されていた真の『覚瑜』の持ち主が高らかに謳い上げた言葉だ。それに間違いは無いのだろう。
だが、其れを使ってこの男はこれから何をしようとしている? 『摩利支の巫女』を救い出した後、この男は彼女の運命を肯定して徒然なるままにその道行に帯同しようとしている。それは自分の願望を成就させる為即ち、より数多の流血の最中に其の身を投じる為。
願望と言うよりは欲望を満たそうとするこの男にとっての『摩利支の巫女』とは、手段に過ぎない。所謂餌だ。其の価値観は今自分が立ち向かおうとしていた赤塚の口からも間違い無く吐かれた言葉と同じだ。つまり男は ―― 自分は『天魔波旬』と向かい合わせにルビコン川の対岸に立つ『魔』の存在に等しい。
自分の力が彼女の運命を加速させ、人の血で鮮やかに彩られた湖水の中に彼女を叩き落そうとしている。其処に満たされた夥しい流血は恐らく彼女の運命によって為された物ではない筈。
男の手によって作り上げられる血塗れの彼女の姿。心が壊れ、感情を無くしても彼女の携える運命が男の願望を成就する為だけに操られる其の姿。
其れは今自分が命脈を立とうとしている彼女の祖父、松長の姿と何の変わりがあるというのか?
犯した罪、犯す罪、犯そうとする罪。覚瑜と言う『紛い物』が纏う幾重もの罪の羽衣はもう脱ぎ捨てる事が出来ない。それはあの時『魔』に憑依されて自分に襲い掛かって来る僧侶に対抗する力を求めた時、心の底の封印を破ってしまった時に決められてしまった事であった。
仲間を斬り棄て、友を屠り、師を失う。偽りの自分に名を与え、信じ、そして託した。考えてみれば滑稽な話だ。幻同然の自分に何を望もうとしていたのだろう、死んでいった彼らは。
彼らは信じていたというのか? 『覚瑜』と言う存在が偽らざる実体を持って現世を生きていると言う事を。
それでは偽りの存在である『覚瑜』という人は、一体何者だったのか?
『退魔師』。其れは魔を打ち滅ぼして幽界へと追い返す力を有する者。我の中に潜み得る『魔』の存在を鑑みて、長く厳しい修行の果てに手にした其の力を今振るわずして如何に命を落としていった先達に顔向けできるというのか? 例え自分が此処で『無』に帰する事になったとしても。其処に生れる断固たる決意。
だがその決心の影として浮かび上がる、新たなる罪の存在を覚瑜は知る。
『守りたい』と言った自分の言葉。自らの手で落命する事は此処まで自分を導いてくれた数少ない存在に対する裏切り、自分の言霊に対する裏切り、そして『澪』に対する。
湧き上がる罪悪が幾度も覚瑜を迷わせた。それは松長の傍に足を運ぶ事を躊躇わせる位に。このまま自分が男の言う通りに取り込まれて、それでも自分を失う事無く男の中で生き続ける事が出来るのならば何らかの力になるのではないかと。『彼女に関わった全ての物』の一つとして、彼女の運命を変える手助けになるのではないか?
其の声は咎人の言い訳の様に心の奥底から浮き上がろうとする、覚瑜の弱さ。未来の視野を曖昧な薄絹で覆い隠そうとする『人間』としての願望であった。だが其の儚い希望を『退魔師』であり続けようと試みるもう一人の覚瑜が、造作も無く切り裂いて、問いかける。
『もしそうならなかったとしたら? 』
『覚瑜』としての自分は男の意識の奥底に、さっきと同じ様に縛り付けられたまま事の成り行きを見守る事になるのかもしれない。大勢の人が死ぬ様を、自分の物であった筈の手が血塗れになる様を。
そして『澪』が壊れていく様を。
耐えられる筈が、そして許せる筈が無い。『澪』の側に自分の代わりに立つ男の存在を。そして、為す術無く傍観者と成り果てる自分の存在を。
ならば、自分の犯す罪は此処で清算するしかない。未来の罪は贖う事すら出来はしないのだから。
『偽りの自分』が抱えた『偽らざる気持』は『覚瑜』という名の男が現世に残す唯一の、其処にいたと言う証。届かなかった想いを自らの死を以って償う衝動が、覚瑜の全身を駆け巡った。
「手前っ! 」
覚瑜の口から迸る男の言葉。覚瑜の意図を察した瞬間に緋色の点滅は蘇った。そうしてしまえば松長に放とうとする術も無効化されてしまうかもしれない状況もお構い無しに、覚瑜の意識を初期化する。
闇の底から繰り出される男の意識に絡め取られて、意識の底へと沈んでいく事を余儀無くされる覚瑜。だが其の左手に残る覚瑜の決意だけが細い糸の様に意識と肉体を繋ぎ止めていた。
不退転とか背水とか。そういった類全ての言葉を縒り合せても表現出来ない決意の細い糸が、上書きされていく自分の意識の中に唯一つ残った遺志。そしてそれを断ち切るには、男に与えられた時間は余りにも少なすぎた。
発生した激痛は、男にも覚瑜にも等しく与えられた。覚瑜の右腹部を貫く小太刀。其の刃が貫通して背中合わせに佇む松長の心臓 ―― 金色の光が輝く其の場所 ―― に寸分の狂いも無く到達する。
当然だ。其の為に背中合わせになって、場所を確認したのだから。
法力を失うまいと、今晩の間に幾度も押し止め続けた血が遂に覚瑜の口から零れ落ちた。其れを押し止める力も今は無い。飲み込めば乱れてしまうであろう調息。其の可能性すらも排除して、大師堂の床に滴る自らの命の存在を感じながら赤く染まった口腔が微かな声と共に開いた。
「 …… しょ、う …… か。」
途切れ途切れに放つ其の言葉が、再び静かに左手に溜められた法力の雷管を叩いた。覚瑜の体に吸い込まれて行く蒼光が貫通した刃を抜けて、其の切っ先にある松長の自我を直撃する。
音も無く砕け散る金色の光。其れは此の世で覚瑜だけに見る事が許された、人の魂が形を失う瞬間であった。光を放つ粉雪が松長の体の中を通り抜け、大師堂の床へと消えてゆく。
覚瑜の我慢も其処までだった。
込み上げて来る、命を今迄繋いでいた体液が大きな泡を伴って覚瑜の口から吐き出される。調息を乱した結果に起因する法力の喪失は大師堂の暗闇から小太刀の光すらも奪い去り、後に続く様に松長の手の中の大太刀も形を失った。現実に残された二人の刀傷から同時に血が噴出して、互いの罪を洗い流すかの様に濡らしていく。
「俺の、後ろに立つ者。 …… 覚、瑜か? 」
覚慈の声と同じ、吐息を発声に替えて呟かれた、紛れも無く正気を取り戻した松長の言葉が覚瑜の耳に確かに届いた。恐らく此れが最期になるであろう言葉の遣り取りに残り少ない命を惜しみ無く費やそうと心に決めて、覚瑜は応えた。
「御意。…… 猊下、遅参した事誠に申し訳御座いません。」
覚瑜の声は澱みの無い物だった。今より此の世を去る松長の魂に対して未練を残させる事無く、安らかに魂昇させようとする覚瑜なりの配慮。気を許せば途切れそうになる意識を奮い立たせて、言った。
「この場に於ける『穢れ』の退魔行、不肖覚瑜の仕儀を以って昇華せしめまして御座います。 …… どうか、安らかに ―― 」
そう告げる覚瑜の肩が震えた。それは、悲しみ。幾ら乗り越えようとも耐える事の出来ない。
「そ …… う、か。」
呟いた松長の吐息がほう、と音を立てて漏れた。見えなくとも背中合わせに支え合う覚瑜には其の溜息の意味が理解できる。安堵と言う名の現世への決別。
「す、まん。世話を …… かけ、た、な。 …… お主の手に、掛かって …… 救われた。本、望だ。」
「猊下っ! 私は ―― 」
堰を切って溢れ出す言葉。其れは自分の過ちによって解き放たれた『魔』を諸共滅ぼす為に松長を利用してしまった事への懺悔。そして自分は『覚瑜』等という『人』ではなく、赤塚の封印式によって生み出された偽りの存在である事、そして ――
「覚、瑜。…… お主、に …… たの、みが ……ある。」
松長の言葉の間隔が少しずつ開き始めた。苦しい息で吐き出される吐息の言葉が覚瑜の独白を遮る。
其の頼みを聞く事への躊躇いが覚瑜の声を止めた。何故なら、もう何も聞けない。自分が手に掛けた背後の男と同様に、残り少ない時間を生きる自分には。
「澪、を …… 頼む。」
彼の願い。
『鬼』となって死した体を操り、最期まで戦い続けた起爆剤が覚瑜の心に預けられようとしている。自分が諦めざるを得なかった、最後まで言う事の出来なかった望みを松長が口にした。
「あ、の …… 娘の、いの …… ち、と未、来 …… お主、に …… 託す。 …… たの、む。…… まも、って。」
言葉の終わりと共に、覚瑜の背後で何かを無理矢理引き剥がす様な音が聞こえた。音は状況の変化を覚瑜の脳裏に映像として再現して、それは現実に寸分違わぬ成り行きを再現した。
無傷の様に見えた松長の首を横切って一本の線が奔る。やがて線は厚みを増して、其れが男の刻み付けた刀傷である事を現実へと露呈する。
それは奥の院で男が振るった刀による物と同等。滑らかに切り開かれた傷口の細胞同士が気圧差で膨らむ。結合を解かれて据わりの悪くなった松長の頭が、不自然に揺れ動き始めていた。
「よ、い …… か、『覚瑜』い、外の …… 何 …… 者、でも …… ない。お …… ぬ、し …… に ―― 」
突然に松長の声が途絶えた。言葉の終わりは松長の命数が尽きた事を覚瑜に教える。閉じたままの瞼の裏で解離する松長の首と言う部品がゆっくりと重力に曳かれて落ちて行くのが分かる。
大師堂の床と言う物理の障壁を境に其の隷属を断念した松長の首が、鈍く湿った音を立てて転がった。紙一重で塞がっていた脳膜が落下の衝撃で破裂して、脳漿が溢れ出す。深く刻まれた顔面の傷から流れ出す其れは松長が最期に流した涙の様に、修羅の大地を濡らしていた。
「 …… 知っておられたのですか、私の …… 正体、を。」
そう呟く覚瑜にも、力を失った松長の胴体が寄りかかって来るのを押し止める力は残っていなかった。震える左の掌から独鈷杵が滑り落ちて、大師堂の壊れた床の隙間から何処かの暗闇へと消えてゆく。圧し掛かる松長の物であった胴体が覚瑜の背中を押して。覚瑜が崩れ落ちるには其の程度の力で十分であった。
朽ち倒されていく自分の体を支える物は、そして出来る事は何も無い。五体投地で大師堂の床に叩き付けられた覚瑜の体もまた、松長同様に全てを拒否するしか無かった。
闘争も、生存も、何よりも託され続けた未来への希望ですらも。
やっぱり、しんでしまった。
心の中で語られる澪の言葉に色付く感情表現。其れは覚瑜によって目覚めさせられた何かによる物なのだろうか。瞳に映る過去の事象と現実に明らかな一線を引いて、其の呟きには明らかな悲しみが溢れていた。
祖父の首が転がり落ちた時にも其の感情は芽生えなかった。だが其の後で闇の中に崩れ落ちていく二つの影を視野に捉えた瞬間に、そう思った、思わざるを得なかった。
感じた事の無い、得体の知れないその気持。しかし尋ねようにも、澪の問い掛けに応える者は既に此処にはいない。ただ熱くなる目頭と、締め付けられる胸の奥と、そして閉じる事無く記録を続けた瞳と言う名のレンズを曇らせる蜃気楼の正体を、澪は知る事が出来なかった。
これは、なに?
“殺ってくれたな。”
閉幕の時を迎えようとする覚瑜の意識に心の底から語り掛ける男の声は、意外にも謀られた怒りに満ちた物ではなかった。自分の軛に抗って其の意志を貫き通した者に対する、賛辞に近い感情を声音に潜めている。
“どうやら俺はお前を見損なっていた様だ。お前に人を騙す度胸があるとはな。”
「 …… 騙してなどいない。」
呟く覚瑜の声を男が黙って聞いていた。自分の回答に申し開きを立てようとする、『紛い物』の放つ言葉を興味津々といった風情で。
「俺は『魔』を滅ぼす事に力を貸す事には同意した。しかし、貴様の欲望を満たす事に対して協力するとは一言も言ってはいない。 …… それだけだ。」
“他愛の無い言葉遊びだな。だがお前の其の選択によって、アレは『魔』の手に落ちる事になる。お前の求める真の望みは叶えられないまま、此処で終わる訳だ。間違った選択をしたと後悔しているのではないか? ”
迫る死を感じながらも男の意識には恐怖と言う物が無い。出来のいい歌劇を堪能した後の観客の様に高揚する男の感情と愉悦を覚瑜は感じていた。
その心のままに。男の思い通りのままで果てる訳には行かない。最期の反骨とも思える覚瑜の言葉が、男の問いに答えた。
「もし、『運命など存在しない』と言う運命があるのだとしたら …… 」
それは御廟の前で『魔』と対峙した時に、覚瑜の口から松長に向けて発せられた言葉。記憶の井戸を掘り返して汲み上げた、一つの答だった。
「選択の是非を決めるのは、未来の人々が綴る歴史に記される物だ。 …… 今此処にいる俺や、ましてや貴様が決められる物ではない。俺は『摩利支の巫女』を凄惨な運命に引き摺り込もうとする貴様を討った。貴様と言う存在が『摩利支の巫女』の携えた運命に絡む者であったと言うのなら、貴様の死は彼女の運命を変える鍵となるに違いない。だから ―― 」
“間違ってはいない、と? ふん。理屈っぽい男だな、お前は。 …… まあいい。どうせ俺はここで終わったとしても、またいつか生まれ変わる事になるだろう。その時にはもう少し物分りのいい体を用意してもらうとしよう。”
「可愛そうな、男 …… だな。貴様は。」
“なに? ”
憐憫を込めた覚瑜の言葉を聞き咎めた男の声が覚瑜の中で大きく響いた。それを男は今わの際に吐かれる棄て台詞と意図したのかもしれない。男の声が再び覚瑜に問い掛けた。
“どういう意味だ? ”
「死ぬ事の無い貴様の魂は、死を恐れない。故に貴様は俺の自決を止める事は出来なかった。 …… 俺には解る。貴様は『死』を当然の様に受け入れる事の出来る存在だ。だから此処で死ぬ事に対してもそうやって割り切る事が出来る。」
“それが俺のいる世界の全てだ。『生』と『死』は表裏一体、光と影。そのどちらもが輝かしく、そして痛ましい。どちらかに価値を見出す事など出来んよ。”
「 …… その旅は、何時まで続く? 」
尋ねる覚瑜の言葉に、男の気配が息を殺した。問いに対する確固たる答を見出す事の出来ない男を置き去りにして、残り少ない意識と呼吸の中で覚瑜は言葉を続けた。
「貴様は何時まで輪廻を繰り返す? 貴様の相手が無辜の民草では無いとはいえ、少なくとも人である事には代わりが無い。それはさっき貴様が俺に向って言った言葉だ。斬って、殺して、奪った先に貴様の求める物が本当にあるとでも信じているのか。俺はそうは思わない。」
“ならばお前には其れが解ると言うのか? 偽りの心しか持たない『紛い物』のお前如きに。”
「 …… 貴様には使命があるのさ。貴様がそれに気付くまで、貴様の旅は終わらない。」
覚瑜の其の言葉には一片の曇りも無かった。確信に満ちた其の口調は男の心から疑いの雲を晴らす。
“ふむ。”一拍の間を置いて、感嘆の言葉が男の口から漏れた。
“使命 …… か。考えた事も無かったな。自分の生き死にに何かの意味がある等とは。”
「人は必ず其の生に意味を持つ。過去に死んだ者、此処で散って逝った者、この先命を落とす者。長い短いはあるが彼らが生ある内に為した事柄は必ず世の理となって世界を作る。だが輪廻転生を繰り返す貴様の魂は其の輪の中から一歩外れた所を歩いている。だから孤独なのだ。孤独を埋める為に人を斬り、翳す其の手を誰にも曳いて貰えずに見えない家路を渇望して歩む迷い児の様に惑っている。人として存在しながら煉獄の如き生を歩まなければならない貴様の魂を、運命を俺は哀れに思う。」
意識が薄れて、自分の言葉が自分の口から流れているのかも定かではなくなった覚瑜の言葉は、男を納得させるには十分な説得力を持っていた。自分を封印する為に作られ、今また再び違う形で自分の存在を封じようと試みた『紛い物』の哀れみを受けて、しかして男の声は穏やかな波を湛えて覚瑜の意識に届いた。
“では、俺と同じく其の輪の外にいるお前の魂と共に生きる事が出来たならば、その『使命』を知る事が出来たかも知れない、と言う事なのか。 …… 坊主の説法を聞いてこれ程納得した事は今迄無かったな。其れを思うと ―― ”
聞こえなくなる。覚瑜の脳裏に届かなければならない男の声が霞み始めた。覚瑜が感じていた手足の痺れはそのまま耐え難い冷たさに変わる。
遂に自分にもその時が来たのか。自分や覚慈や赤塚が手に掛けた者が味わった物と同じ瞬間が。
“実に残念だ。お前を失う事がな。 …… お前の言葉は『遺言』として確かに受け取った。俺の『使命』とやらは次の奴に教えてもらうとしよう。まあ俺としてはお前も俺と共に転生して、次の時代を歩くと言うのが定石だとは思うがな。”
余りにも自分本位な其の願望。消え行く意識の中で、覚瑜は思わず笑った。
「悪い冗談を。貴様の其の提案は却下だ。 …… 此方から丁重に断らせてもらう。」
最期の力を振り絞って吐いた戯言と共に遠くに消えて行く男の笑い声を、覚瑜は聞いた様な気がした。
死の拘束に囚われた覚瑜の瞼は、もう閉じられる事は無い。晒されて渇ききった其の瞳が護摩壇の床に転がる白い籠へと注がれた。
既に全貌をその場に現した赤塚の姿を認識する事は無い。自分の信念を裏切ってしまったと言う無念の遺志が、最期まで其の記憶を覚瑜の脳裏に無理矢理刻みつけようとしていた。
『諦観』たから届かなかったのか。では、『諦観』なければ届いたのか。
其の真偽を検証する時間も命もとっくに足りない。ただ襲い掛かろうとする暗闇から逃れる様に差し出した左手が、白い籠の中でこの光景を見ているであろう澪に向けて翳されて、何かを求めて震えながら宙を掴む。
それが欲しかったのだ、と。
心を焦がして力を与えた焔も今では灰被りの熾火と化して、それ以上の力を覚瑜に与える事は無い。やがて全身を侵食する死の冷気が、其の温もりですらも握り潰した。
ゆっくりと大師堂の床の上に預けられる覚瑜の左手。無限大に拡大した瞳孔の絞りは調整される事無く、壊れたままで其の役目を終えた。