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                 剣 鬼

 覚瑜の姿形をした男が持つ其れは、松長の手にしている物の半分程の長さ。しかも其の輝きと繰り出される速さは比較のし様も無い位に圧倒的な差異を暗闇に示した。互いに叩き付けた刃の行く末は『柔能じゅうよく制剛ごうをせいす』の故事とは反する結果が与えられると、誰もが思うに違いない。

 だが振るわれる刃はあくまで其れを振るう『手』の延長にしか過ぎず、其れを扱うのは人の意思と技量。其の男が持つ卓越した技量は赤塚や松長の思惑を遥かに超えて、正反対の結果を其処に刻んだ。

 赤塚の黒い槍であろうと、法力輝く刃であろうとお構い無しに切り落として来た松長の穢れに満ちたその力。だが其の男の頭上に確かに落とした筈の光刃は、男が翳したちっぽけな小太刀の上を為す術も無く滑り落ちた。

 二つの刀が擦過して、灼ける様な摩擦熱と共に火花が散る。一瞬の雷光の様に瞬いた其の光が、対照的な二人の顔を互いの瞳に刻み込む。

 松長は微かに狼狽した表情、そして男は微かに笑って。

 覚瑜に振るった業と寸分違わぬ力と角度で打ち下ろした光刃が、今度は男の体を見事に躱して大師堂の床を叩いた。致死熱を放射したまま釘付けになった其の刃に沿って、男の小太刀が唸りを上げた。

 その小太刀に発生した抵抗と反発。刀を受け流す際に与えられる抵抗力を解き放つ事で生れる反発力。僅かな力で相手に与える攻撃力を最大値まで押し上げる為の『抜刀術』の業だ。

 松長の攻撃を摺り抜けた小太刀は其の男や覚瑜の持つ能力以上の速度で、其の切っ先を雷光の中から突き抜けて奔る。

 故意に指でしならせた物差しの様に、柔軟に反り返る男の左腕が鞭の様に闇を払う。其の先端にある小太刀の切っ先が残光に浮かんだ松長の首元目掛けて襲い掛かる。何時の間にか松長の体側に投げ出された両足が到達時間を短縮して、遂に其れは松長の首を通り過ぎた。

 背中合わせに互いの距離が離れる。動かぬ松長と、踵を反して再び松長の背中に其の小太刀を向ける男の姿が月闇の中に浮かんだ。

 しかしそれは『残心』の姿勢では無い。

 油断無く観察する視線の其の先。確かな手応えと共に食い込んだ刃の跡が残る松長の首筋に黒い染みが湧き出す。絶対的な致命の傷跡を見詰めながら、予想に反した結果を齎した其れを前に、男の溜息が漏れた。

「 …… やはり、一刀では斬り飛ばせんか。こうまで力を失っているとは予想外だ。」

 男の口から諦めの色を帯びた呟きが漏れ、その声を背中に浴びた松長の体がコマ送りに動き出す。再び声の主との対面を果たして手にした光刃も殺気も微塵に損なう事無く、自分を傷つけた者に対して容赦無い敵意をあらわにして光刃を構える松長。

 其の二人の対決を見守る赤塚の声が、暗闇の中で愉悦交じりに響いた。

「愚か者めが。如何に貴様が『中条流』の使い手とは言えども、所詮は人の編み出した御業に過ぎん。その様な力で神の力に抗えるとでも思っているのか? ましてや貴様の魂はその階を今だ上っている最中ではないか。貴様の様に穢れた未熟者に、神の力を宿した不死の力を持つ其の男に勝てる筈が無いわ。」

「『神』? 『不死』? 」疑問形で尋ねる男の言葉の中には一抹の煩わしさが含まれている。

 護摩壇の上に蠢く白い法衣の盛り上がりを一瞥して、男は吐き棄てる様に言った。 

「 …… 一々五月蝿いじじいだな、お前は。『嘘つき』は其処で黙って見ていろ。」

 赤塚の暗い歓喜に溢れた台詞を一言で踏み躙って、男は小太刀を青眼に構えた。突き付けられた松長が、上段の構えを取らずに自分から視線を逸らしたままの男の反復されない事態の対処に戸惑って其の足を止める。

「何と! この儂を捕まえて嘘つき呼ばわりとは畏れぬ奴よ。何を根拠にその様な妄言を弄すか!? 」

 男の口から放たれた暴言にも等しい言葉に憤激する赤塚の声。煽った男の静かな声が、低く響いた。

「根拠か。お前が『不死』を謳って暴れさせていたこの男の友人 ―― 覚慈とか言ったな ―― はこいつに葬られたぞ? という事は俺の目の前に立つこの男もこいつにならば討つ事が出来ると言う事。それの何処が『不死』なんだ? 」

 視線を戻して松長を見詰める男の顔が、凄みを帯びて嘲う。それに挑発された松長が、光刃を大上段に掲げて男に襲い掛かった。振り下ろされる刃の下で再び炸裂する雷光。一瞬で擦れ違う二人の体。そして腋口に刻まれる新たな刀傷。男の繰り出す一刀一刀は明らかに、そして的確に人間の急所へと小太刀を食い込ませていた。

 左右を入れ替えて再び向き合う二人の『鬼』。静物の様に動かぬその景色に向って ―― 其れは男に対して ―― 赤塚が忌々しげに尋ねた。

「其れを知っているのならば、何故貴様は其の方法を採って目の前の敵を殺さん? 貴様と『覚瑜』は『二心同体』の存在。その気になれば、松長を簡単に葬る事も出来よう? 」

「それが、お前の手の様だな。そうやって相手の意見を誘導して、敵の手の内を知ろうとする。 …… バカか、お前は。」

 血交じりの唾を煩わしそうにその場に吐き棄てて、男が言った。

「敵の目の前で手の内を懇切丁寧に喋る奴が何処にいる? 姑息な手を使いやがって。そんな事ではお前のお里が知れるという物だ。お前が後生大事に崇めている『天魔何とか』という親玉も含めてな。」

「貴様っ! 」

 絶叫と共に迸る怒りが大師堂の床下全体に伝播した。触手の束が荒れ狂う海面の様にのたうって赤塚の感情の起伏を大気中に解き放つ。共に放たれた瘴気の巨大な繭が男の体を押し隠した。それは恐らく男の隙を誘おうとする赤塚の、松長に対する援護だったのかも知れない。

 だが赤塚のその思惑に反して、『覚瑜』でさえも其の中では血反吐を吐く位だった濃密な魔疽の只中に其の肉体を置いていながら、男は姿勢を崩す事無く小太刀を青眼に構えたまま其処に佇んでいた。

 それは其の男の呼吸法が人の其れではなく、特殊な物に ―― 勿論『調息』とも違う ―― 変化している事を示していた。

 枯渇した覚瑜の体力を取り戻す事は、男にも不可能な事だった。ならば今残っている最後の力を如何に効率良く引き出して、戦いに当てるか? 

 其の答えは男が過去に経験した死地から引き出された物だった。呼吸回数と呼気容量を限り無く最低限に抑える事で発生する『生体機能保持』の本能。人体は窒息状態に陥った時に、機能を維持する為の酸素を僅かながら体内の各所から絞り出すという。其処で発生した酸素を細胞内に誘導し、力を発生させる為の触媒として使用する。例え僅かな量であっても人体を構成する六十兆個の細胞から引き出す『最期の力』の総量は侮れない物がある。男が覚瑜の体を使って、以前と遜色なく活動している事にはそういうカラクリがあった。

 だが其の呼吸法と鍛え抜かれた業を持ってしても、男の放つ剣技の威力は見る影も無く衰えていた。 奥の院の林の中で大蛇の首を一撃で切り落とした筈の速度も威力も鳴りを潜めて。その事を知る由も無い赤塚。

 ただ男の内部で其の成り行きを見守っている覚瑜の意識だけがその事に気付いていた。

「『現人神』で御座おわせられるあのお方さえも愚弄するとは! 貴様の様な穢れに塗れた外道如きに『天魔波旬』をおとしめる資格など無いわ。この『鬼畜』めっ! 」

「 …… 成る程。『鬼畜』ねえ。」

 感慨深げに其の言葉を男の口が復唱する。感情の変化を見透かした様に、今度は韋駄天の法を使って男との間合いを決殺の距離に縮める松長の体躯。振り下ろされる光刃の下で、光を浴びた男の顔が歪んだ。瞬間に消え失せる其の体。

『縮地』が発動する。

 男が携えた小太刀から飛沫を上げて、闇にも鮮やかな黒い血が舞う。脇腹から食い込んだ刃が松長の肝臓を真っ二つにして擦り抜ける。肝動脈を切断されれば人の命は十秒と持たない。それほどの手応えと手傷を負わせた事が分かっていながら、男は再び小太刀を構えて松長の影と向き合う。

 男にも分かっているのだ。自分の力ではこの魔物を仕留める事が出来ないという事を。そして、仕留める為には、この戦いを其の目を通して見守っているもう一人の男の力が必要不可欠であると言う事を。

「 ―― いい、言葉じゃねえか。俺と言う人間を表現するのに相応しい言葉だ。」

 暗闇に浮かぶ男の鬼相。表情を亡くした『鬼』と、感情を露にした『鬼』が、距離を取って再び向き合う。

「そうだ、爺。俺は正しく『鬼』を心の中で『』っている。」

 其の声は内部で息を潜める覚瑜の意識にも届く。

「俺の心の中に巣食っている『鬼』を養うには餌が要る。だがな、それは『死合い』と言う賭場の前に指しで積み重ねた『賭け金』だ。奪うのも奪われるのも双方覚悟の上で死合う『丁半博打』の何処に罪がある? 」 

 男の声と共に高ぶる感情が、覚瑜の意識の中にも染み込んで来る。欲望に塗れたこの男と戒律に束縛された自分とは正に正反対の存在。だが男の放つその言葉の全てが、仏に深く仕えようと精進を重ねた覚瑜の魂を深く揺さぶった。

「要は、どっちの刃が相手の命に先に届くか、だろう? ただそれだけの事に、お前等の様に何かと理由を付けて自分の犯す罪を正当化しようとする輩を見ると、反吐が出る。 …… 昔もいたぜ、お前の様に理想を語って信者を戦に駆立てた生臭坊主が。負けた挙句に寺に立て篭って、助けを求めて逃げ込んで来た馬鹿な信者諸共焼き殺されたがな。」

「貴様、何が言いたいっ!? 」

「そんな似非坊主が俺の求める『神』を語るな、と言っている。俺が求める者はお前らが木彫りの木像でくに祈りを捧げて信じる物とは訳が違う。戦いの螺旋の中でただ一人生き残って、踏みしだいた万骨と血と魂によって其の座に押し上げられる者、『天上天下唯我独尊』を体現せしめる者の事だ。修行の果てに天啓を受けて、天上界に其の名を刻む事が出来た者の事を『神仏』と言うのなら、俺の求める物も正に、それだ。 ―― 故に。」

 それは、男の苦笑だった。くっくっと嘲う声が、怒りに昂ぶった赤塚の逆鱗を逆撫でする。

「『摩利支天』? 『巫女』? …… そんなの俺の知った事か。お前は俺の言葉だけで何もかも知った様な気になっている様だが、思い上がるな。今俺が使っている『中条流』等、俺の引き出しの一つに過ぎん。手にした得物が小太刀だからこの業を使っているだけの事だ。」

「では、貴様は中条流最高の遣い手としてその名を馳せた『富田勢源』では無いのか? 一体何者だ、貴様はっ!? 」

 赤塚の激昂は傀儡の胸に突き立てられた独鈷杵を震わせて、支配下に置かれた松長の肉体に攻撃の意志を伝える。押し寄せる圧力を物ともせずに繰り出された光刃の下を掻い潜り、再び松長の背後へと新たな血飛沫と共に姿を現す男の小さな影。

 踏み出された松長の股の間を潜り抜けて、其の去り際に内腿の大動脈を切断して。

「それ、は …… 」

 その剣技を目の当たりにした赤塚が狼狽の声を上げた。

「そうだ、『介者剣法』。……な。お前が予想した、お嬢様剣法ではなかろう? 」

 其の言葉を残して男が立ち上がった。床に広がった数多の犠牲者の血に塗れた白い法衣が、まだらの姿を闇に浮かび上がらせる。

「其れほどまでに俺の正体が知りたいか、爺。 …… ならば教えてやる。俺はな ―― 」

 声が空間にしきみを伸ばす。育つ枝の先に咲く鮮やかな黄白色の花を枯らせて生る実は有毒。 殺意という悪意の笑いに犯された独白が、男の口から零れ落ちた。

「 ―― 人を斬る事にしか興味の無い、只の『人斬り』だ。」


 其の舞台で繰り広げられる夢幻能。幽界と現世と言う対照的な鬼の面を被った二人のシテが、廃墟と化した能楽堂の床の上を命を賭けてう、う、舞う。

 互いに差し出す其の手には扇では無く、光を纏った一振りの刀。奪おうと守ろうと。打ち付ける度に放たれる其の輝きが、たきぎの代わりに二人の姿を月闇の袂に浮かび上がらせる。

 彼らの演舞を盛り上げる地謡じうたいは大師堂を取り巻く闇の海原が奏でる怨嗟の細波さざなみ。それ以外の囃子はやしも、観客も存在しない舞台の上をただ只管に『仕舞』を続ける松長と男の姿。

 打ち合わせも約束事も無い『即興劇エチュード』は終わりを告げる事が無いかの如く。そして幾度と無く向き合う二人の『鬼』は、戦いの終わりを告げる『留メ拍子』を踏む事を互いに拒むかの如く。


 殺意と言う名の津波は其の大気に暴風を伴って男目掛けて押し寄せる。みなぎる膂力に物を言わせて振るわれる松長の光刃を、男の左手に握られた小太刀が只の一閃で受け流す。撃ち終わりに出来る隙を逃さず男の小太刀が急所を寸断して、迸る血と共に松長の動きを止める。

 だが其れも束の間の事だった。松長と言う『生物』の物理的な行動を途絶させる為に続けられる攻撃も、傀儡と化した松長には通用しなかった。小太刀の一閃の後に必ず訪れる同じ結末は、既に辺りを相手の血で荒涼たる海に変えなくてはならない筈である。だが其の大海を構成する源流の最初の一滴ですら、松長の肉体から流れ出してはいない。

「血糊、とはよく言ったものだ。そんな使い方もあるのだな。」

 呆れた様に男が呟いた。目の前に立つ松長の体に自らが刻み付けた幾つもの傷口は男の目の前で瞬く間に塞がって行き、後にはほんの僅かな染み跡しか残っていない。其れは男が繰り出した剣戟の結果と同様に繰り返されている物。

 焦りは、ある。だがその事を相手に悟られるほど、男が死地に立った回数は少なくは無い。心の中の戸惑いを体の底深くに沈めたまま、大師堂に充満する闇が覆い隠す其の傷を夜目の利く瞳が凝視した。

 観察と分析。目の前に立ち塞がる敵が繰り返し行う、此の世の『理』に適わぬ其の現象。もしそんな事が起こり得るのなら ―― 実際に目の前で起こっているが ―― どんな人体生理の現象がそれを可能にするのか? 数多くの戦いとその数と同じだけの人を切伏せた経験とを照らし合わせて、男の頭脳が分析を開始した。

 肉を切断する事によって発生する開放瘡。言い換えるならば、肉とは筋肉繊維の束の事を指す。常に一定の力が加わって形を構成している其れを分断してしまえば、繊維は必ず一瞬で収縮する。それは個体の生死に関わる事無く発生する物理法則だ。筋繊維が溶けるか壊疽でも起こさない限り、絶対の現象の筈。

 本来ならば其れが自分の意志若しくは不随意で接着する事は有り得ない。何故なら筋肉の中には多くの血管、神経、リンパ腺等、生体を維持する為の様々且つ重要な器官が埋め込まれているからだ。離断した人体の損傷を復元する技術の難しさは其処にある。膨大な数のそれらを一つ残らず縫い合わせて元通りの状態に戻す事は、現代医学でも至難の業と誰もが認定している医術の一つである。

 ところが自分と今だ戦いの最中にあるこの坊主は、其の煩雑な作業を何の苦も無くやってのけている。傷口が塞がるまでに出来る一瞬の静止などほんのご愛嬌だ。治療が終わった後には何事も無かったかの様に再び自分目掛けて其の圧倒的な力を叩き付けて来る。

 傷口を塞ぐ何かの存在。疑いの焦点は其の一点へと絞られた。

 傷を埋める為の『砥粉とのこ』代わり。其れは一体何か?

 多分其れは血液なのだろう、と男は一連の情報から総合してそう結論を出さざるを得なかった。

 切断瘡が発生した瞬間に体外へと流出しようとする血液。だがその中に混在する何らかの力 ―― 其れが法力である事を覚瑜は知っている ―― が糊の様に傷口を繋ぎ合わせて血液等の流出を抑える。接着を果たしている物が血液である以上、其の構成成分は体液と同じ。つまりリンパ液も、神経細胞も『血液』と言う体液を媒介して接続を継続しているに違いない。

 男が漏らした呟きは其の答えの成れの果てだった。そして其れは男に不利な状況に置かれている事実を自ずと理解させる。

 このまま攻撃を繰り返した所で堂々巡りだ。いや、違う。

 圧倒的に優位に立つ男の体力は驚くほど残り少なく、片や松長の方はと言えば殆ど其の力が失われてはいない。戦いが進む毎に徐々に開き始めたその力の差こそが、男の存在の喪失が秒読み段階に入っている事を認識させた。

 危機感によって自然発生する分析と対策。観察によって導き出された結論を打開する為の方法を、男が模索する。

 其れは所謂『条件反射』の様な物だ。予め規定された条件が発生した時に、自分の意志とは関係無く起こる現象。つまり切断されれば噴出す血液が自動的に傷口を埋めていくという事だ。

 だが無意識とは言え其れが発生する為には条件が充たされた事を脳が認識しなければならない筈だ。

 では、傷の発生を脳が認識出来なかったとしたら? 相手に気付かれない内に致命傷を負わせる事が出来たなら、其の現象を発生させる事が出来るのだろうか。

 実現する為に必要な剣技。其れこそは男の振るう剣の特性だった。奥の院で魔に憑依された僧侶の体を、そして覚慈の放った大蛇の首を一刀の元に両断した其の剣こそが其れを現実にする事が出来る。

 しかしながらこのまま松長の攻撃を受け続けていれば、其れも不可能だ。膨大な破壊力を誇る松長の剣を涼しい顔でさばいてはいるが、其の行為自体にもある程度の力は必要。ましてや力を失いつつある今の状態では ―― 。

「 …… あと一太刀、という所か。」

 男の呟きと共に、秩序の欠片も無い松長の攻撃が再び頭上へと降り掛かる。其処に翳されていなければならない『守』の意味を持つ小太刀の存在は無い。迫り来る光刃の輝きを受けて、上目遣いに其れを睨む男の顔が暗闇に映し出された。

 目にも留まらぬ速さで男の足が動く。其れは縮地ほどの勢いは無く、どちらかと言えば剣道の足捌きに近い。僅かに移動した男の体側を掠めて、松長の光刃が十回を超える回数の打撃を再び大師堂の床へと空しく叩き付ける。躊躇う事無く横薙ぎに払われる松長の刀が繰り出す一連の攻撃を、男の体が飛びずさって間合いを離す事によって無効化した。

 明らかな、男の所作に現れた変化だった。

 観察と分析は何も男だけの得意技ではない。同じ様に其の様子を大師堂の何処からか見詰めている赤塚。男の行動が変わった事を知った赤塚の、密かな笑いを含んだ声が男に向って投げ掛けられた。

「どうした? もう松長の攻撃を凌ぐ事は出来んか。如何に貴様が神業の剣技を誇ろうとも、相手が魔物では其れも通用しまい。覚瑜の業ならば其の魔物を葬る事が出来たかも知れんが、奴には其の心の強さが無く。貴様の業ならば魔物を切り刻む事は出来るが、葬る事は出来ん。つまりは此処が貴様らの終焉の地である事に変わりは無い。」

 何らかの答を期待する赤塚。だが其の予想に反して男の口が開く事は無かった。その事を窮地に追い込まれた事による余裕の無さから齎されている物だと判断して、赤塚は言った。

「貴様らは此処で終わりだ。先に賽の河原の辺で待っているがいい。 …… じきに儂も行く。」

 赤塚の言葉の終わりを待たずに、松長の攻撃が再開された。小太刀も構えず、縮地も使わず。ただ舞う様に絶え間無く運ばれる其の足捌きだけが、男の体を松長の剣の軌道から外していく。しかし至近を通過するその剣戟の威力は男の体に僅かながらの手傷を負わせた。

 頬が裂け、右肩が微かに斬られ、他人の血で斑に染められた白い法衣の模様を今度は自分の血で上塗りする。

 男の防御が変化した理由を知る者はこの場には二人だけ。一人は戦いの当事者たる男。もう一人は其の男の目を借りて一部始終を見守っている覚瑜。成り行きをただ黙って見守るしかない覚瑜の意識に向って、男の声が響いた。

「 …… おい。」

 其の声は男の心中に広がる焦燥と言う劇薬を含んで覚瑜の意識に忍び込んだ。覚慈との戦いの最後に棄て台詞を残して消えた筈の男の呼びかけに、覚瑜は驚いた。

「見ているのなら分かっているだろう。少しは手を貸せ。この『紛い物』。」


『紛い物』。男が覚瑜に放った侮蔑とも取れる其の言葉に、平静を装っていた覚瑜の意識は激した。

“『紛い物』だと? 貴様 ―― ”

「『紛い物』で気に触ったのなら『偽者』とでも呼べばいいのか? 兎に角言い争っている暇は無いぞ。 ―― 来るぜ。」

 言い終わりと同時に、男の肉体目掛けて袈裟懸けに降り懸る松長の光刃。数多の人の血を吸い込んで湿った木を蹴りつける音と共に、男の体が其の軌跡を僅かに避ける。渾身の空撃に松長の体が宙に泳ぐ。其の隙を突いて今迄以上に間合いを取る男。

「こんな事をしていても埒が開かねえ。次の一撃で決める。だからお前も覚悟を決めろ。」

 命令口調の男の声は同一の体験を果たす覚瑜の意識をも緊張させた。覚瑜から飛び出した問い掛けは、予め用意された台詞の様に陳腐な物でしかなかった。

“覚悟、だと? 一体何の事だ。”

 その問い掛けには男の苛立ち紛れの口調が応える。

「言わなきゃ分からないか。禁忌を犯して自分を棄てる『覚悟』だ。」

 覚瑜が男の心中を察する事が出来る様に、男もまた覚瑜が松長と対峙した時に生じた覚瑜の葛藤を知っている。其の事を知った上で男は覚瑜に、松長を葬れと暗に命じていた。

 そうしなければならないと言う事は覚瑜にも分かってはいるのだ。しかし、体が動かない。闇に取り付かれた僧侶や覚慈、そして今だに其の姿を見せる事の無い赤塚でさえも其の手に掛ける事を厭わない。いや、実際に其の手を血に染める事で彼らを解き放つ事が出来たと信じている。

 だが其の覚悟を、目の前で自分を葬らんと刃を向ける松長にだけは決する事が出来ない。

「澪を渡さない。」

 互いに決意した其の言葉が松長にとっての原動力であり、覚瑜にとっての呪縛となって其の手足を縛り付けてしまっている。傀儡と化した松長は確かに既に其の魂を闇の範疇はんちゅうへと取り込まれてしまってはいる。が、其の体を動かしている物は紛れも無く、彼が魂を取り込まれる瞬間に強く願った祈りによる物。

 自縛された自分の体を解き放つ為に男に主導権を渡した覚瑜にとって、男が促すその行動は到底容認出来る物ではない。未だに迷う覚瑜の心中を見透かして再び男が言った。

「今更何をそんなに拘っていると言うんだ? 自分の手を良く見てみろ。」

 男の声の導くままにその視線が松長に向けられた左手へと降りる。その手に握り締められた小太刀。嘗ては大太刀の形で仲間を、唯一の友を切り捨てた光刃を振るったその左腕。

「 ……俺には遠く及ばなくとも、お前は確かにその手で、自分の意志で人を斬った。つまりは同類だ。そんなお前の取る行動は一つしかないと俺は思うんだがな。」

“違うっ! それは断じて違う。俺が斬ったのは生者の魂を取り込んだ闇の手の者だ。仲間を、覚慈を ―― あいつを斬った訳じゃないっ! ”

「その二つは同じ事だ、と言う事に気付かないのか? 」

 運命や宿命と言う言葉で覆い隠そうとしていた覚瑜の心の傷の瘡蓋かさぶたを男の容赦の無い言葉が引き剥がして、収まっていた筈の出血を引き起こした。

「相手の肉を切りさばいてその命脈を絶つ。その相手が善人でも悪人でも、行う行為自体には何の変わりも無い。お前が幾ら取り繕ってもお前の手は、人の命を握り潰したのだ。それが一人だろうと二人になろうと対して大差は無いんじゃないか? 」

“一人、二人、と。 …… 貴様っ! ”

 堪えていた覚瑜の意識が男の言葉の不遜さに耐え切れず、恫喝の雄叫びを上げた。

“貴様にとっては物の様な命でも、俺にとっての其れは貴様とは違う。人それぞれの命こそが信仰の源であり、其れは俺にとっては尊ぶ価値のあるべき物だ。己が欲望のままに軽々しく賭けたり奪ったりして良い物では無い。『人を斬る事にしか興味の無い』貴様等と俺を一緒にするなっ! ”

「お前の信念は賞賛に値する物だとは思うが。」

 男の声が其処で途切れた。松長の次の攻撃が目前に迫っている。見切った男の足がその体を再び刃の圧力から躱して、殺気を孕んで通過する松長の背中を見詰めながら距離を取る。

「それが通用する相手だと思うか? あの不死身の体を押し出してお前に襲い掛かる、あの男に。」

 視線の先で松長の体が翻る。頭一つ覚瑜より小さい背丈でありながら、その攻撃は苛烈を極める。『人』と言う概念を解き放った其れこそが『猊下』と皆に冠された松長と言う存在の真の力なのだろう。その力の前には例え『根来の阿吽』が束になって掛かったとしても敵いそうに無い。

 事実を認識するしかない覚瑜の意識から、恫喝も否定も言葉として男に放たれる事は無かった。

「あれは、もうお前の見知った者ではない。命を何処かに置き忘れた只の操り人形だ、とっくに死んでる。そんな詰まらん事に心を囚われている様では、」

 男の小太刀が視界の中で青眼に引き上げられる。

「次に死ぬのは、お前の番だ。」

 その言葉が男の予言等では無い事が覚瑜には分かる。現状認識と状況把握。その二つの方程式によって導き出される直近に存在する未来への回答。短い言葉で男の口から記される戒名を前にして、覚瑜の心が揺れた。

「どうする、手を貸すか? 決断するなら早くしろ。 ―― もう直ぐあっちの化物も復活しそうだ。そうなったら目も当てられない。」

 男の督促が覚瑜の決断を誘う。

 男の言う通りだ、確かにもう迷っている時間は無い。

 壊すしかない、『座主猊下』を。そして自分の拠所であった『信仰』と言う、崇高な志を。

 覚瑜の声が男に静かに語りかけて、その決心を告げた。

“分かった、手を貸す。だが猊下を斬るのは俺の役目だ。俺の体を返してくれ。”

 断腸の思いで男からの提案を飲み込んだ覚瑜。其れと引き換えに覚瑜が男に持ちかけた提案は至極妥当な物の様に思われた。

 男の持つ剣技と自分の法力。そのどちらかが欠けても松長を葬る事が出来ないと言うのならば、力を糾合きゅうごうして事に当たるしか手段は無い。男の技量で松長の懐に飛び込み、その小太刀を『印』目掛けて突き刺す。其処まで辿り着けたなら、後は自分の役目だ。

『印』の形を描く松長の自我を砕くのに大きな力は必要無い。それで終わる。

 意識を表面に浮かび上がらせて、自分の存在の拠所となっていた大事な物を破棄する戦いに赴こうとする覚瑜。だが、覚瑜の意識はそのまま男の心の底深く沈んだまま浮かび上がる事が出来なかった。

“おい、何をしている? 早く俺の体を返してくれ。貴様がその力を用いて猊下の懐に飛び込んでさえくれれば、後は俺が何とかする。その要領で行けばもう一人の化物も簡単に倒せる筈だ。そうすれば、全てが終わる。”

 自分の考えをそのまま口に出して男に向って提案する覚瑜。しかしそれに男の声は応えない。寧ろ覚瑜が感じる男の心中には穏やかならざる負の感情が澱み始めた。

“聞こえているのか? もう時間が無いのだろう、早く俺を此処から出してくれ。さもないと ―― ”

「聞こえている。」

 短く言い放つ男の声。その声音が目に見えない刀の切っ先と化して覚瑜の焦りを切り裂いた。その次に巻き起こる、物狂った様な男の嘲い声。

 其れは心の中だけに留まらず男の体の表面へと、現実へと流出する。

 男の体の周囲を取り巻いていた闘気という名のもやがその嘲笑と共に、一瞬にして消滅した。 余りにも隙だらけの構えを死合いの最中に披露する男の姿を目の当たりにして、眼前で殺気を放つ松長も。離れた場所で復活を果たしながらその行方を見守る赤塚も。そして当の覚瑜も。瀕死の心電図が奏でる単一音の合唱の様に全ての動きを機能停止に追い込まれる。

 暫しの間、大師堂の月闇の中で高らかに嘲笑の咆哮を上げるその姿は、まるで人の姿を借りた獣の様だ。

“何がそんなに可笑しい。俺の力が必要ではないのか? そう持ち掛けて来たのはお前の方だ。あの化物を斃したいのならば今直ぐ俺を此処から解き放て。”

 その異変から逸早く我を取り戻した覚瑜が男に命令した。切り裂かれた焦りを繕って強く呼び掛けたその言葉に、男の嘲笑が勢いを弱めた。だがその欠片を声に遺したままで、男が覚瑜に向って現実に向けてその言葉を放った。

「こいつはお笑いだ! お前を育てた爺もバカだがお前は違う意味でその上を行く大バカ野郎だ。バカを通り越して御目出度く思えてくるぞ、俺には。」

 その言葉に秘められた男の狂気と狂喜。侮辱された事を気に留める余裕が、その感情を強く感じた覚瑜には無かった。二の句も告げられない覚瑜の心中を察してか、男の言葉が続けられる。

「『返す』? 何をだ? 『お前の体』? 馬鹿な事を言うな、『取り戻した物』を今更返せるか。」

 男が放り投げた櫁の実は松長や赤塚だけに与えられた物ではなかった。男の言葉の中に仕込まれたその意味こそが、覚瑜にとっての毒果。男の言葉の真意が読み取れなかった ―― いや、読み取るのを拒否したというべきか ―― 覚瑜の意識の中に渦巻く不信と動揺を増幅する様に、男の言葉が畳み掛ける。

「そうだよ。お前が今考えている事が真実であり、答だ。」

 覚瑜と言う名の一つの体の中で互いの存在を主張しあった末に主導権を握り締めた男の魂が、毒々しいあざけりを込めて覚瑜の疑問に答えた。

「 …… 逆だよ。これは、俺の体だ。現世で転生を果たした俺の寄代として何者かに用意された物。そしてお前という存在は其の俺の魂を心の奥深くに封印する為に上書きされた、偽の人格だ。」

 其の声は直ぐ傍で聞こえていながら遥か遠くで鳴り響く遠雷の様にも感じる。距離感を失った覚瑜の意識が其の地響きの中に埋もれて行く。

「だから、『紛い物』と言ったのさ。」

 男の最後の言葉に打ちひしがれた覚瑜の意識。自我境界と言う名の体の輪郭が轟音を上げて崩落した。

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