真 意
水槽の栓が開かれて、満たされていた物が渦を巻いて吸い込まれて行く。自分の体から離れて、何処かへと消えて行く力と同じ意味を持つ『生命』と言う不確かな物。流れ出した物が行き着く先には一体何が存在するのだろうか?
消えて行く力によって全身を襲う痙攣が、真言を詠唱する舌にまで届く。呂律が怪しくなる口の動きを意志の力で捻じ伏せて、声を震わせながら詠唱を続ける松長の姿が其処にあった。 目前に現れた神の御柱の存在を維持する為に喪失する力は、松長の存在を此の世に保障する為に残されていた筈の生命力。それら全てを持ち出しても仕儀の成就を確約出来ない大呪、大日如来真言。
松長の肉体に襲い掛かっている異変は、虚空蔵菩薩印求聞持法を使役しようとした覚瑜に齎された状況と寸分違わぬ物であった。
己が法力の身の丈を超えて駆使しようとする術者に対して与える『神罰』とも言うべき変調。心停止と再鼓動。夥しい出血。全身の痙攣。断続的に引き起こされる心不全が松長の意識を明滅させて、黄泉路への扉を押し開けようとしている。
自分の意志が其の誘惑に屈した時こそ、彼の頭上に断命の鎌が振り下ろされる時。甘露に満ちた幽界からの呼び声に耳を傾けまいとして、全身に張り巡らせる神経が耐えがたい苦痛を求めて這い回る。
だが法力を放出する為に喪失する命と、覚悟を決めた彼岸への道行きを止める事は出来ない。思考の停止、視野の狭窄、感情の無力化。櫛の歯が抜け落ちる様に五感の一つ一つを無くした後に唯一つ残る、生を奏でる心臓の鼓動。其の音の終焉こそが、松長と言う人物が此の世からの散華を果たす瞬間となるのは間違い無い。
「 …… まだ、逝く訳には、いかん。」
残り少ない意識の隅で、繰り返し呟かれる其の言葉。傷ついたレコード盤を引っかきながら永遠に繰り返される声に全ての意識を傾けて、松長は法力の放出を試みている。
早晩の内に自分に訪れるであろう其の瞬間。その時は近い。
舌だけに留まっていた痙攣が徐々に全身に及び始めて、詠唱する真言を更に震わせる。硬く握り締めた様に両手で組まれた智拳印でさえも、生と死を行き来する魂のぶれを抑える事は叶わない。だが少しずつ弛緩して行く筋肉の変化を認識しても尚、松長の其の手が解かれる事は無かった。
代償、若しくは正当な『仏』との取引。叶えんが為に懇願した唯一つの願い。其れが認められるのならば、自分の命など些細な存在に過ぎない。不退転の決意が今の松長を支配している。
『座主猊下』の肩書きを捨てて挑んだこの戦い。不死を標榜する闇の者を葬る為に挑んだ大呪。どちらも、唯一つの切なる願いを叶える為に自分が選んだ手段。後悔など有ろう筈が無い。
澪を守る事が出来たのならば。
祈りの祝詞の最後に思わず浮かび上がった言霊。何故か其の瞬間に松長の意識は御仏の集いたる『御蔵』へと繋がった。自分に残された力の量では発動すら覚束無いであろうと、天界最高位に位置する大日如来へとの接触を諦めかけていたその時に。生涯をかけて培った『真言の担い手』の肩書きを自ら捨て去った時に。
足りない力を補う様に水槽に流れ込んで来る力を右から左へと。膨大な力を的確に動かす為に自らの力を其の流れに溶け込ませて、大呪は発動した。
その理由を知る術は、無い。そして大師堂の護摩壇の前に立つ、松長の眼前に聳え立つ光の柱の輝きは曇る予兆の気配すら見せない。
訪れつつある死を目の前にした松長の心中に去来する物がある。
厳しい修行の果てに辿り着いた『真言宗宗家の座主』の位。其処に坐る者は心 ・ 技 ・ 体に於いて完璧な僧侶で無ければならない、そう先代に教えられ実践してして来た。
だがその道行きの果てに辿り着いたこの場所で、自分の中に去来するこの感情は一体何なのか。ほんの数瞬前まで自分の中にあった物。完璧を目指した自分が手にする事を許された感情とは、『贖罪』と言う二文字だけだった。
この世に於いては我が娘を亡くし、大勢の人間の命を自分に架せられた使命の為に奪い尽くした。使命を果たす為に選択した行動で莫逆の友を闇の手に委ねて、その者の手によって更に大勢の僧侶の命を失った。手を下したのが赤塚だったとしても、彼をその立場に追い込んでしまったのが自分である事に間違いは無い。
その事実にどんな言い訳のし様があるのか、と。
『天魔波旬』の顕現が齎した悲劇。そう言ってしまえば簡単な事にも思える。しかし赤塚に言った通り、道を選択したのは自分の意志による物だ。決して間違ってはいないと信じて手を下し、手を汚し、罪を犯した。
もしこの場に仏が降臨を果たして、自分の行為の是非を名指しで批判して貰えるならば、寧ろ其れが自らの救いになる。今の自分を支えている物が眼に見えぬ神仏の存在だけになってしまった、孤独な自分の魂が。
だが、罪を犯してしまった我が身に舞い降りる救心の言葉等が有るのだろうか。この悲劇の結果がこの後世界をどの様に変えていくのか、散華を果たす自分には知る由も無い。その様な無責任な責任の果たし方しか選ぶ事が出来ない自分に、この後仏は何と言われるのだろう?
そうした心の葛藤の中で芽生える ―― それはとても小さくて、しかし暖かい ―― 一つの気持ち。たった一人で抱えた運命の渦中に置き去りにする、我が孫の行く末。
一握りの人間のみぞ知る過酷な運命を背負った彼女がこれから如何に生き、如何に育って行くのか。行き止まる壁を目前に迎えた松長の心中に圧し掛かる罪の意識が、『座主猊下』では無い心を茨の柵へと押し当てる。体から失われて行く力や血液よりも、松長にとっては其の傷の方が堪えた。
体に受ける傷は自分が死んでしまえば忘れる事が出来る。だが心に負った傷は未練となって我が身が滅びた後でも現世を彷徨い、其れは生まれ乍らにして『神仏』と繋がる力を有する澪を苦しめるに違いない。何故なら自分がそうなってしまった以上、迷う自分の魂は彼女にとっても『敵』の一人になる筈だから。
たった一つ残った気掛かり、故の『贖罪』。
全ての所業に清算と贖いを求める心は、事の如何に関わらず自分にこの術を選ばせていた。それは今となっては誰の為でもない。自分の孫である、『澪』唯一人の為。
澪の行く、流血の馬の背と其の未来。切り立った其の両側から手を差し伸べる、澪の運命に巻き込まれて落命した大勢の手を振り払ってよろめきながら階を歩く彼女の姿。覚瑜に貰った言葉にその景色の変化を夢見ながら、遂に果たす事が叶わなくなった自分に訪れる運命の皮肉を嘆きながら。
それでもと。
肉親だからこそ出来得る『無償の愛情』を持って彼女の未来を憂い、血縁の繋がりを持つ彼女の為に最後に残った自分だからこそ出来る、これは最期の遺言。
生きろ、と思い願う感情と、過酷な未来へと澪を送り出してしまう事への後悔。命の尽きる寸前に発生してしまった、『座主』としての立場を捨ててしまった罪。
其処に後悔は無かった。冷徹な使命に翻弄され続けた果てにようやく辿り着く事の出来た、『人』として此の世を駆け抜けた松長。それは彼にとってのささやかな、本望。
天の御柱から放たれる膨大な光量の中に其の存在を辛うじて示す松長。溶けてしまいそうなほど白く照らし出された大師堂の片隅で、致死の痙攣に襲われながらも其処で踏み止まる背中を、瞬く事を忘れた様に円らな瞳が見詰めていた。しかし光を映し込む其の瞳には、彼女が今迄に潜り抜けて来た修羅場で見せていた物と同様に、感情の揺らぎと言う物が存在していなかった。
光と共に彼女の中に取り込まれていく数々の景色と人の命。神話に残る阿修羅と帝釈天の戦いを象る其の場所に居ながら、彼女の感情は未だに目覚める事が無い。自らの命の危機も、自分を守る為に散って行く命ですらも彼女の心に何かを訴えかける事は出来無い。
そうだ。それは何かと酷似している。
人の生き死にを後世へと伝えながら決して感情を抱く事は無く、時には其の持ち主の死の瞬間ですら写し取って何も語らず。
何某かの力で様々な事象を記録する為に、強制的に起動し続ける事を運命付けられた、映像の記録媒体。
本来であれば開く事すら考えられない澪の其の両目。自分を取り巻く環境が如何に変わろうとも、柱から発する熱で瞳の表面が乾こうともその瞼が微動だにする事は無い。
それは遂に力尽きた松長の膝が崩れ落ちて、一瞬の内に闇に閉ざされた大師堂の床にその膝を打ち付けてしまった時でさえも変わる事は無かった。
全ての力を放出し尽くした松長の膝が力を失って砕け落ちる。崩れる両足の膝頭の骨が大師堂の床を叩いて、其れは惨劇の閉幕を知らせた。関節毎に折りたたまれて身の丈を縮めていく松長の姿が暗闇の中に沈んでいく。支えようとする筋肉は既に松長からの命令の呪縛より解き放たれて弛緩を始めていた。前のめりに倒れ込もうとする上半身を両腕で支える為に、遂に解かれる智拳印。其の瞬間に光は消滅した。
掌に触れる床板。押し付けられた其れが温度を感じる事は既に無い。やがて力を失った筋肉は其の姿勢を保つ事さえ許さずに、松長の体全体に蔓延する作業を続行した。手首が、肘が、そして最後に肩が折り込まれて松長の体はゆっくりとその場に倒れる。輪郭が二重に見える位に松長の体を震わせていた痙攣も形を潜めている。逆に其れは松長の生命維持が不可能な段階にまで達した事を意味していた。
臥した体の下敷きになった自分の両腕の存在を感じる事も出来ずに、黄泉の帳が其の瞼の裏に遂に訪れた事を感じて。松長は失い掛けた自我の中で、思った。
ああ、自分はもう二度と起き上がる事は叶わないのだな、と。
倒れた向きが幸いしたのか、薄れ行く松長の視界の中にぼんやりと浮かぶ護摩壇の姿。微かに大師堂の内部を照らしていた非常用の灯りも破壊し尽くされ、差し込む月明かりだけが頼りの其の場所に、人影を求める。何故求めるのか、その理由すら思い出す事が出来ないままで、何かとても重要な事を忘れている様な気がする。松長の魂を幽界へと誘う為に開かれた扉は、目的の記憶を弄る松長の意志によって蝶番を錆付かせていた。
求める視線の中にようやく映る白い法衣。護摩壇の床に投げ出されたその袂の一部が蒼光に薄らと浮かび上がって。
求めた記憶が微かな接続を果たし、其れが結果だと知り得た松長の表情が緩やかに変化を果たした。断続して発生する心房細動によって松長の体に襲い掛かる死の匂いを嗅ぎながらも、弛緩する体が徐々に冷たくなって行く事にも気を止める事無く。
笑っていた。
『祈り』や『願い』に確信と言う言葉は存在しない。例え願い求めた事が叶えられなかったとしても其れは、その結果が最初から用意されていたと言う証明であって、力無きか弱い者が異義を挟む余地は無い。
だが、自らがそれら衆上の導き手という立場を離れて。同列に肩を並べて据えられて、信じた道の是非を最後に問い掛けながらも其れに背いた自分は叶えられた。
赤塚が遺した法衣の中で未だに唱え続けられている観自在菩薩十五尊真言。法衣も、八体の法力僧から分かたれて蠢く其の舌も、其のどちらもが本来は聖の領域に属する物だ。舌に刻まれた不動明王真言の種字のお陰で、未だに闇の境界を形作っている八体の法力僧を無力化する事だけは為し得なかった。耐煩に成功したのだ。
自分の残り少ない力では出来る事は限られている。それは大日如来の意志に奇跡的に接続を果たした時から分かっていた。与えられたとはいえ、松長が繋がったのは最高位に座を構える大日如来。桁外れかつ無尽蔵の神の力を使役するにも、人である松長の体にはその容量が備わっていなかった。
一瞬の気の緩みが暴走を誘発しかねない其の力を制御する為だけに、松長は其の生命力の全てを費やした。自分の力が尽きた時でも、繋がった先に存在した大日如来の力はまだまだ底が見えなかった筈。
其れが『神仏』の力なのだ。人として存在する以上、如何なる修行を経ても、如何に追い求めようとも手の届かない存在。だが、それ故に人 ―― 特に我ら真言密教に生きる糧を求める者 ―― は其れを探して追い求める。其の存在を知りたいが為に、少しでも近づきたいが為に、人生の貴重な一歩を消費するのだ。
踏み出した先にあった自分の死。大勢の真言の導き手を弑虐した、堕天した嘗ての友の消滅と言う結果だけを其の手の中に修めて。『相打ち』と言う言葉に相当する其の状況ではあったが、松長にとっては其れが最大の成果であり、最高の結果でもある。
もう十分だ、と思う。
清算という言葉も、贖罪と言う言葉も、全て使い果たして遥か彼方の過去にある。これで心置き無く。
全ての結果を見定めるには、到底足りないこの命。
松長の心臓の鼓動が少しずつ、緩やかにその拍動を弱めて、遅らせて。瞳に掛かる宵闇の幕が視界を遂にぼやけさせて。
最期の力は其の瞼を静かに閉じる事に傾けられようとしている。見えている物は此の世を既に去って逝った我が娘が、其の身に冠した月の光だけであった。
百余の赤子の成れの果て。『創生の法要』の為だけに設置された護摩壇の上を広く覆う白い粉。互いの正義を主張し続けた者達の遊び場と化した其の砂場は酷く荒されて、それが神聖な目的の為に散された命の残骸である事を忘れ去られた様に見える。
そうだ。この砂場は神聖な物で有る訳が無い。これは、『罪』。創生の世から書き記された書物に例外無く現れる、人という罪深き存在こそが為し得る事の出来る同種同士の殺戮と言う大罪。
其の残骸を、天上から見下ろす神々の目から覆い隠そうとするかの様に打ち広げられた純白の法衣。その下で未だに真言を唱える八本の舌が、法衣を照らし出す月の光を乱反射させて在り処を示している。
其れは気付かない程微かな動きに過ぎなかった。八つの舌の蠢き。それが何時しか九つになって。
余った一つは他の物より少し離れた場所に出現していた。布を押し上げて存在の在り処を示した物は法衣の重みの中をするすると、護摩壇から投げ出されたままの袂へ向って動く。
疾い。
獲物を求める水蛇等とは比較にならない其の速さ。それは欲望に支配されている存在の示す物とは思えない。何かの使命に突き動かされて一心不乱に目的地へと向う得体の知れない物は、まるで今しがたまで苛まれていた神罰の光からの逃亡を図っている様にも見える。
法衣の下を這い進む何かの先端が、瞬く間にその端へと到達した。正体を隠すかに見えた其れが、外界に出る事を寸分も躊躇わずに、月の光の中へと孕んだ勢いのままで突き進む。
黒く輝く、一本の触手。
流線の形状を為した其の先端には何かを感受する為に存在しなければならない器官の痕跡すら見えない。だが触手はまるで『其処に有る』事を以前から認識していたかの如くに、荒れた砂場の上に一条の軌跡を残して白い灰の上を這って行く。
迷う事無く進む先端が目指す其の先。月明かりに深く沈む赤の衣に包まれた肉が横たわったまま動かない。迷いも見せずに其処へと移動の速度を速める触手。床を擦る音が次第に大きく、廃墟の中に木霊した。
遂に其の先端は目的地に到達した。松長の顔の直ぐ傍で、軽く鎌首を擡げて何かを確認する。ほんの数瞬後には恐らく閉じられてしまうだろう瞼、其の奥で既に生物としての輝きを失っている瞳孔、全身の筋肉が弛緩した事によってだらしなく開かれたままの口。
狙いを定めて触手が松長の口腔内に侵入した。次々に送り込まれる胴体が松長の口を一杯に開かせて。其の先端の蠢きが松長の喉 ―― 気道の存在する辺り ―― に達した時。
連続する、肉の引き千切れる音。襟元から剥き出しになった松長の喉の奥で、其れは絶えず回転を繰り返して何かを捻じ切ろうとしている。
その事以外に松長の体には何の変化も見られない。全ての感覚を死に塗り潰されてしまった松長には其れを理解する事も、感じる事も出来なくなっていた。触手によって蹂躙される肉体、それは松長という人間の存在にとっては既に過去の物と化している。
突然、音と動きが松長の喉の奥で止んだ。目的を達成したのか、其処からゆっくりと後退を始める触手。血に塗れた胴体が松長の口から徐々に引き抜かれて。
だが其の全貌を再び月明かりの中に浮かび上がらせた時、触手の先端は形状を大きく異なった形に変化させていた。
それは、手。
齢を重ねた事を示す皺だらけの其の手が握り拳を形作って、松長の口から血と共に引き抜かれる。血塗れの其の先に繋がる肉塊が拳に連なって、吐き出された様に其の姿を現す。
松長の舌と、声帯だった。
先に進んだ触手の後を追う様に、何時の間にか接近を果たしていたもう一本の触手が忍び寄る。先端を鋭く尖らせて奔る其れは、鬼と化した松長が歯牙にも掛けずに壊し続けた黒い棘。たった一本しか姿を見せずに、しかし侵攻を阻止される心配が排除された大師堂の床を迷う事無く突き進む。
其の先端が抜き取られたばかりの松長の舌へと押し当てられて素早く何かを記した。一筆書きで刻み込まれたのは唯一文字。
不動明王を著す種字。
書き記した後に、先の触手との位置関係を逆転させて松長の元へと迫る黒き槍。一思いに松長のこめかみに鋭く尖った先端を突き刺して、横に掻っ切る。其処に有った松長の両目と瞼は真新しい刃の傷に取って代わられた。止まり掛けた心臓が送り出す事の出来る力は無いに等しく、僅かな出血が涙の様に其処から零れて床へと落ちた。
暇も見せずに其の手を松長の胴体と床の間に捻じ込み、持ち上げて仰向けの姿勢を採らせる。其処から鳩尾までは彼我の距離。黒い棘は鈍い音を立てて其処に深々と突き刺さった。
突き刺さった触手が波打って脈動する。根元から先端に向けて送り込まれて行く何か。最初の脈が松長の胸の中に浸入する。其の瞬間。
松長の体が突然跳ねた。最大電圧での電気蘇生を試行した時の人間の体の様に、反り返った体が硬直する。蘇る事の無い力が全身の筋肉を駆け巡って震わせる。まるで其れは今迄の時間経過を逆回しに再現している様な光景だった。
全身の痙攣が治まった時、其処に横たわる松長の体から死体としての特徴は無くなっていた。微かに戻る体温、安定した呼吸音、そして規則正しく打ち続ける心臓の鼓動。其の真上に打ち込まれた触手の先端が、其の任務を終えたと同時に胴体から分離した。松長の胸に屹立したまま残された其れが、形状を変化させて再び現れる。
独鈷杵。松長の心臓が拍動を刻む毎に其れはその事を外部に知らしめるかの如く、小さく振動する。
「 …… 松長。覚鑁の法力が混じった儂の血の味はどうじゃ? 薬師如来真言など及びも付かない程、強力であろう。ほんの少しでお主を黄泉路から引き摺り出してしまうのだからな。」
赤塚の声が大師堂の空間に響き渡る。それは峰英と戦った時と同じ様に、やはり床下から。だがあの時とは違って赤塚の姿が即座に出現を果たす事は無かった。
「よくぞ此処まで大日如来の力を引き出した。お主が完全な状態でこの術を使えたならば、間違い無く儂は消滅させられていた事だろうな。じゃが ―― 」
全ての決着を見定めた赤塚の声。不思議な事に其処に勝者の勝ち名乗りに等しき言葉は存在しなかった。淡々とした口調が続く。
「これが『定め』じゃ。お主は最高位に位置する大日如来に力を借りた。じゃが儂の行いを律する事は叶わんかった。此れこそが『全ての意志』の賜物じゃ。我らが『神仏』と崇める諸々よりも更に高位に存在する、『彼ら』のな。」
松長の上半身がゆっくりと起き上がった。もし松長に意志と言う物が存在していたならば、赤塚の言葉に対して否定の言葉をぶつけたかも知れない。
だが、其処に居る松長は、既に松長では無くなっていた。
『傀儡の呪法』。胸に穿たれた独鈷杵から絶えず送り込まれる赤塚の意志。他の九体 ―― 一体は既に此の世には居ない ―― と同様に赤塚の支配下に置かれた松長の肉体は護摩壇に背を向けて立ち上がった。
「儂の肉体は再生に今暫く時間が掛かる。其れまでお主の体、使わせて貰うぞ。」
赤塚の命令に否応無く頷く松長。其の拍子に裂かれた顔面の傷から、涙の様に血が零れ落ちて法衣を黒く濡らした。
「では、『摩利支の巫女』を此処へ連れて来い。仕来り通りに祭壇に寝かせるのだ。」
赤塚からの命令は絶対。魂の離れる一瞬の隙を突いて仕掛けられた禁術から、過去に松長であった物が逃れる術は無い。空虚だけが顕在する心を赤塚の声だけが支配して傀儡が起動する。ぎこちなく動く両足が床を踏み締める。其の姿は覚瑜が奥の院の林で切り伏せた僧侶達と同じ動きをしていた。
光を失った両目が闇で埋め尽くされた景色の中で唯一つ光を放つ法力を求めて、ふらふらと大師堂の片隅へと向う。
其処には横たえられたままでこの戦いの全てを記録し続けている澪の姿がある。急く事も無く、茫洋と運ばれていた松長の足は其処で止まった。
切り裂かれた瞳で澪を見下ろす、松長の姿を借りた傀儡。無機質な表情を浮かべたままで。
視線を上げて変わり果てた松長の顔を見上げる、澪の両の瞳。
其の両手が澪を取り上げる事に、何の躊躇いも無い。澪の表情は、視野に大写しになった其の無残な顔にも何の感情も表さずに。しかし瞳には在りし日の松長に向けていた、何処か心を許していた様な色を湛えてはいなかった。
澪の瞳に宿る、明らかな敵対の視線。それは自分を抱き上げた自分の祖父と赤塚が同類であると認識したからに過ぎない。即ち『敵』を見る様な瞳。
其の視線は松長が護摩壇に向って踵を返した時にも変わる事は無い。声も上げず、身動ぎもせずに射抜く視線は松長に翻意を促している様に注がれる。だが松長の足は委細に目もくれずに、贄の祭壇が待つ護摩壇へと其の足を進め始めた。
周囲より一段高く設置された護摩壇の上へと松長の足が上がる。埋め尽くす白い灰を蹴散らして目指す場所は、中央に転がったままのセラミックの白い籠。砂場に打ち捨てられた玩具の様相を呈している籠の前で歩みは終わりを告げた。支えを失い傾げられたままの籠の中に、傀儡は与えられた命令通りに手の中の赤子を安置する。
「よくやった。そのまま此処から下がるのじゃ。」
姿の無い赤塚の命令が再び松長に下される。だが『絶対』だと思われた赤塚の命令を受けても、松長の足は其処に張り付いたままで動く事は無かった。その場に立ち尽くしたまま、視線 ―― 失われている筈なのに ―― を床へと落としている。
其処には自分が赤塚の命令のままに連れて来た澪がいる。距離が離れても変らず松長の顔に注がれる視線。切り裂かれた顔の中にあった筈の瞳を貫く澪の眼光が、傀儡と化した松長を戸惑わせている様にも見える。
「これも血縁の為せる業か。操られても尚我が血に連なる者を憂うか、松長。」
何処からとも無く掛けられる赤塚の言葉にも其の身を震わせる事無く。互いの顔を見詰めて動く事の無い一枚の聖画の中で、赤塚の言葉が続いた。
「もう儂の言葉など届かんやも知れんが、松長。 …… 儂はお主らの勘違いを一つだけ正さねばならん事がある。」
佇む松長の背後の床に広げられたままの白い法衣の一角が、床から浮かび上がってきた何かによって僅かに浮き上がる。赤塚の今度の言葉は、確かに其処から響いた。
「安心しろ、松長。 …… 其の子は殺さん。」
白の法衣に覆われていても其の大きさと数が増している事ははっきりと知る事が出来る。蠢く触手が生き残っていた八つの舌の動きと交じり合う。
「正確に言えば、儂が真の目的を果たせれば澪殿には『救世の役目』が無くなると言う事になる。―― 其れこそが『あの方』と、儂の取引と言うべきか。儂は其の為に今日まで様々な策を弄していたのじゃ。…… 月読殿の件も含めてな。」
『月読』。赤塚から吐かれた一つの単語に、傀儡の口が反応した。舌も声帯も失った其の口から吐息と共に復唱される。
「月 …… よ、み …… 」
「そうじゃ。儂が覚慈に月読殿の居る長谷寺を襲わせたのは『星宿の法要』を止める事でも、彼女を殺害する事でも無い。死地の瀬戸際に立たされた彼女と守護者が、必ず発動させるであろうその秘術を手に入れる為だったのじゃ。」
吐露される赤塚の言葉にも何の反応も示さない松長。だが松長の見下ろす視線の先に横たわる澪の瞳が松長の顔を離れて、其の背後の床に投げ出された法衣を睨み付けた。
「覚慈の体を支配していた闇の力を介して、我らは其れを手に入れる事が出来た。発動致死の宿命を持つ術故、其の正体を知る者は誰一人として居らぬ筈じゃったが、彼だけは知っておった。其の知恵を儂に授けて下さったのも『天魔波旬』。その人じゃ。」
『天魔波旬』。其の言葉を語る赤塚の口調の其の部分にだけ、尊敬の念が篭る。
「『狂乱の詠唱者』。それが術の名。そして其れは如何なる力も存在も封印する、『就き黄泉』のお役目を受け継ぐ代々の尼僧が抱える、隠された秘術じゃ。…… 儂は其の術を使って、全てを此処で終わらそうと思っているんじゃ。闇に其の身を捕らえられた『月光菩薩』と共にな。」
声と共に大きくなる、白い法衣の下でのたうつ触手の数。赤塚の言葉は今度ははっきりと、独白では無く明らかな意思を持って、籠の中に横たえられた澪に向って投げ掛けられた。
「澪殿、お主には餌になってもらう。『彼女』を此処へ呼び出す為の餌に。」
赤塚の其の言葉に、其れまで睨み付けるだけだった澪の目が大きく開かれる。
「赤子といえども『巫女』ならば、この意味が分かるであろう? 寄代となるべき現世の肉体の危機を守る為に『彼女』が何をしようとするか。結縁灌頂の儀式を経る事も無く、守護者として生まれ乍らに契約を果たそうとする澪殿になら、儂が為そうとしている事が理解できる筈。」
其の声に一抹の喜びを表して、赤塚が言った。
「澪殿を守る為に降臨する『摩利支天』。『天魔波旬』と儂が掲げた真の目的とは、彼女を永遠に封印する事じゃ。」
「座主様、…… 今、何とおっしゃいました? 」
突然、静寂を破って投げ掛けられた声に赤塚の意識が澪の元を離れる。廃墟と化した空間の遥か暗闇の先、大師堂の濡れ縁に立つ白い法衣を纏った男の姿が差し込む月明かりの中に浮かび上がっていた。剥き出しになった柱に手を掛けて崩れ落ちそうな体を支えて、肩で息をしながらも其の瞳は、姿の見えない声の主を追い求める。
「盗み聞きとは行儀が悪いな、覚瑜。 …… いや、此処にこうして生きておると言う事は、既に儂の施した封印を破って『彼の者』の力を拝借したという所か。再び現世にて合間見える事になろうとは思いも寄らんかったわ。」
息も絶え絶えの覚瑜に届く赤塚の声。だが其の響きが覚瑜には全く聞き覚えの無い物に感じた。
言い回し、声音、どれもが自分が慕った『根来寺の座主』赤塚の声に間違いは無い。だが何かが変わっている。姿も見せずに響いて来るという特殊な環境に置かれているからなのか?
いやそうじゃない、そう言う事ではない。赤塚が自分に投げ掛けて来る其の言葉には、師弟としての関係が欠落している。其れだけでは無い。
それは、まるで敵に対する物言いだ。
此の世から消える間際に残した『座主を止めろ』と言う覚慈の言葉。其の言葉の本当の意味を、赤塚の言葉を耳にして覚瑜は初めて知った。
「お前の着ている法衣は、上人様の物か。廟所を暴いてやんごとなきお方の身包みまで剥がしてまで生き延びようとするとは、正に外道に相応しい所業よ。封印を解いてしまった貴様にとって、神仏の加護など唯の戯言にしか過ぎんと言う訳か。さも有らん。何故なら貴様は『其れになる事を求める』人間だからな。」
「違います! 此れは上人様直々に拙僧に貸し与えて戴いた物。決してその様な ―― 」
「虚言を弄すな。上人様は既に此の世にはおわせられん。それとも貴様は即身仏と化してこの地の結界を守り続けた上人様が独りでに動き出したとでも言うつもりか? 自らに化した戒律を破棄してまで、貴様に力を貸したとでも。」
赤塚の指摘は事実である。だがその事を証明する手段も材料も手元には残っていない。覚瑜が肯定の言葉を叫ぼうとした時、未だに『座主』として尊敬を払い続ける赤塚の実像を虚に変える台詞が漏れた。
「それは ―― 」
「心の蔵も無いのに、か? 」
それを覚瑜の前に抜き取ったのは赤塚だ。其の言葉を覚瑜は覚鑁から直に聞かされた。法力発生の根源ともいえる其の臓器を抜き取られた為に入定結界は崩壊してこの地は地獄と化した。それは一歩間違えれば自分が引き起こしていたかも知れない事態。
「そう言えば、貴様も其れを求めたのであったな。心の蔵を抜き取り、この場を地獄と化して如何にするつもりだったのだ? 闇に侵食された嘗ての同士を心行くまで『斬る』為か? それとも ―― 」
覚瑜に向けて放たれていた意識の奔流が、澪に向けられる。
「本当は、貴様がこの者を殺めたいのではないのか。其の座に取って代わる為に。…… 『覚瑜』と言う偽りの人格を被った悪鬼よ。」
煽られた怒りが覚瑜の心の中で吹き荒れて、猛烈な勢いで言葉の辞書を焼き尽くして行く。選択の余地の少なくなった其れを幾度も捲って、語る事の出来る言葉を選んで。
「『座主』、貴方は自分が抜き取ったそれで、一体何をした? いや、何をしようとしているのだ、此処で。」
覚瑜の体を支えていた手が柱から離れる。よろめきながらも自立を果たした其の体を護摩壇の方へと進めながら、懐の独鈷杵を握り締めた。其の光景が見えているかの様に赤塚が答える。
「ふん、どうやら戦う意志を固めた様じゃな。貴様が『師』と仰ぐ者すら莫逆の友と同様に其の手に掛けるつもりとは、やはり『紛い物』にはそれなりの信仰しか備わらんかった様じゃ。」
「信仰だと? 」
殆ど残っていない力を総動員して、懐から独鈷杵を抜き出す覚瑜。其の刃は詠唱も無しに光と化して刃を伸ばす。
「 …… 俺の『信仰』は今此処で終わった。貴様が怨敵だと知り得た瞬間にな、赤塚明信。『元』真義真言宗の『座主』で有った者よ。」
声のする方角 ―― 間違い無く其の声は護摩壇の方から ―― の暗がりへと『現 真義真言宗の座主』が手にした刃を向ける。だが其の長さは以前の半分にも満たない。それが今の覚瑜の法力の限界だった。
「答えろ、赤塚。其の子を餌に『摩利支天』を呼び出すと言うからには、『摩利支の巫女』は今だご存命の筈。彼女は何処におわす? 何処へ隠した。」
「其れを尋ねるのは『覚瑜』か、それとも『摩利支の巫女』の携えた運命を知り、其れに連なって己が欲望の満願成就を果たそうとする『者の魂』か。 ―― まあ、どちらでも良いわ。貴様こそ此処で息の根を止めねばならんからな。」
赤塚の嘲笑混じりの声が覚瑜の耳に響く。指向性を持ち始めた声は覚瑜の聴覚に其の居場所を特定させる事が出来た。
間違い無い。赤塚は護摩壇直下の床下に居る。
「遅れ馳せながら紹介しよう。其処の壊れた祭壇に寝かされている赤子、彼女こそが月読殿の予言された『摩利支の巫女』その人じゃ。そして彼女は其の月読殿の実の娘。つまり松長の孫に当たるお方じゃ。」
油断無く赤塚の気配に神経を張り巡らせていた覚瑜の思考回路が、赤塚から放たれた言葉で断線した。残り少ない辞書の中には其の言に対抗する言葉は記載されていない。
声も動きも止められて呆気に取られる覚瑜の姿が、再び赤塚の言葉を誘った。
「余りの事実に声も出ぬか。…… そうじゃ、貴様が奥の院の林の中で『生き延びたら必ず其の身を守りたい』と誓った当の本人は、既に儂の手の内に有る。残念じゃが、取り戻すには一歩遅かった様じゃな。」
「何をっ! 」
高ぶる感情が闘志に火を着け、突き付けられた事実の呪縛から覚瑜の体を解き放つ。体の前に構えた光の刃を八双の位置に置き換える。
「言え、赤塚っ! 巫女様を餌にして『摩利支天』を封印するとはどう言う事だ。一体何を考えての所業だっ!? 」
「その意味が分からぬ所が、儂が貴様を『覚瑜』かどうかを疑う根本よ。ならば逆に儂から貴様に尋ねよう。貴様はこの娘が『摩利支の巫女』として顕現しても良いと、本当に思っておるのか? 携えた運命のままに大勢の人々を悲劇の淵に追いやり、憎悪と怨嗟の声が飛び交う血泥の畔を最期の戦いに向けて歩ませる事が、彼女の望む物だと。いや、そもそも ―― 」
其れは覚慈との戦いの最中に、唯一度脳裏を掠めた覚瑜自身の考えでも有る。
「人として此の世に生を受けた彼女が、其の重圧に耐えられるとでも思っておるのか? 儂はそうは思わん。彼女が人であり続けようとする限りに於いて、其の運命は必ず彼女の心を破壊する。…… つまりじゃ。」
臍を噛む様な思いに襲われても、其の言葉の正しさには否定の余地が無い。覚瑜の反論すら霧散させて、赤塚の言葉が続く。
「儂は彼女を其の過酷な運命から解き放とうと思うのじゃ。『摩利支天』を封印する事によってな。そうすれば彼女は ―― 松長の孫は、人として幸せに過ごす事が、出来る。」
はっとした。赤塚が放った最後の文節。闇に其の魂を売り渡した赤塚が漏らした言葉。
其処に秘められた、『人』としての願い。
「人の世と神代の力の架け橋となる唯一の神仏『摩利支天』。例え儂が彼女を此処で殺めた所で、何時かまた新たな巫女が現れる。其の度に再びこの様な法要が行われ、大勢の者が犠牲になる。悲劇の輪廻は今此処で断ち切らねばならん。儂に連なる全ての者を謀って『天魔波旬』と契約したのは、それが理由だ。」
「彼女が其れを望んでいないとしたなら。彼女が『救世の使者』として自分の運命に従い、人々を貴様の様な魔の手から救い出す事を是と求めたならばどうする? 人の意志や運命を他人が捻じ曲げる事など許される筈が無いっ! 」
赤塚の放つ正論に立ち向かおうと覚瑜が叫ぶ。だがそう言いながらも覚瑜は、自分の言葉に内包された余りにも空虚な根拠に気が付いている。
「峰英や松長と同じ言葉を並べおって …… 彼女が人殺しを望むてか。万が一貴様と同類の者に彼女が成り果てると言うのならば尚の事、そんな力を手にさせる訳にはいかん。此処で貴様諸共封印してくれようぞ。その様な因子を一滴たりとも現世に落とさせる訳にはいかん。」
軽薄な空論は一撃で論破される。言葉戦で破れつつある覚瑜から溢れる闘志が萎む気配を見せ始めた。
覚慈が此の世から消え去る今わの際に吐いた覚瑜の懸念が現実の物と成りつつある。
「『摩利支天』を封印すると言ったな。そうすれば、其の子は人として幸せに過ごす事が出来る、と。…… 其の確証が貴様にはあるのか? 」
「無論じゃ。其の先も既に手筈を整えてある。最も『天魔波旬』にも其の真の目的は隠してはおるがな。」
「隠している、だと?」
「儂は此処で、死ぬ。」赤塚の其の言葉には強い覚悟と動機が見えた。崇高にも思える其の言葉に、覚瑜の心は酷く揺らいだ。
「『摩利支天』を封印する秘術。其れは発動致死の術じゃ。儂はこの身と引き換えに『摩利支天』を封印せねばならん。だがそれではこの先訪れる『天魔波旬』が統べる暴虐の嵐の中で『真言の教義』は間違い無く死に絶えてしまう事じゃろう。『天魔波旬』が其の寿命を全うした後に訪れる『日ノ本』の再生。その時に彼らを導く者が必要なのじゃ。儂亡き後の後継者となるべく、彼女には必ず生き延びて貰わねば困る。」
其の言葉が闇の者の口から放たれている事に、覚瑜は驚きを禁じ得ない。自分が引き起こした全ての罪を抱えて、赤塚は未来へと自分の望みを繋ごうとしている。
それは自分の知る『魔』ですら無い。
「だが、このまま彼女を真言の手の者に預けてしまえば、奴らは彼女の血統を頼りに ―― 『摩利支の巫女』を無理矢理名乗らせるかも知れんな ―― 『天魔波旬』へと戦いを挑むじゃろう。そうなれば、儂の目論見も水泡に帰す。勝ち目の無い戦を仕掛けて滅びるのは今の真言宗の連中だけで十分じゃ。」
「滅びが定め、とでも言うつもりか。」
「覚慈と戦った貴様こそ、その理由が良く分かる筈じゃ。如何なる手段で覚慈を斃したかは知らんが、其の手段を知る貴様がいなくなった後に誰があの力に対抗する事が出来ると言うんじゃ? 」
赤塚の其の問い掛けは、覚瑜にとっての論戦の敗北を決定付けた。萎える力は其の手の中の刃の光さえも霞ませる。口を閉ざしたままの覚瑜を置き去りにして、赤塚の言葉が続いた。
「故に、儂は考えた。如何にして彼女を守るかと言う事を。そして考え抜いた挙句に『天魔波旬』にある提案をしたのじゃ。取引と言い換えてもいい。―― 幸いな事に彼は其の提案を快く受け入れてくれた。其の契約を履行する為に儂はこの手を穢し続けたのじゃ。反故にする事等考えられぬ程に、な。」
「取引 …… 契約? 」既に赤塚の言葉の一端を復唱する事しか出来ない覚瑜に向って、赤塚の声が響いた。だが其れは聞いた覚瑜にとっては悲鳴にも似た轟きを孕んで届く。
「『摩利支天』を封印する事と引き換えに、『澪様』を『天魔波旬』の元へと嫁がせる。それが儂から『天魔波旬』に持ち掛けた契約の内容じゃ。」