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                 大 呪

『死』と言う名の澱みに満たされた貯水池を、覚瑜はただひたすら歩き続ける。

 生と死を分かつ水面は自分の首の高さにまでその水嵩を押し上げて、飲み込み、吸い込み、奪い取ろうとただ一人の生者に向って押し寄せる。

 闇よりも濃い黒の中で僅かな光を放つ、純白の法衣。しるべと救いを求める余りに暗がりへと転がり落ちてしまった多くの魂が、飢えと渇きに急き立てられて光の傍へと殺到する。

 だが、彼らが求めようと手を差し伸べても、それに触れる事は叶わない。その資格を失ってしまった彼らが手にする事は有り得ない。

 泥の中を進む法衣の周囲には僅かな隙間があった。其れは求める彼らと、求められる覚瑜との埋める事の出来ない距離を表わす。飢餓の鬼と化してしまった、鎮められながら眠りを打ち破られた彼らから絶え間無く放たれる呪いを受けて、覚瑜は法衣で守られた僅かな空間の中で静かに眼を閉じた。

 それは覚慈の心の中でも感じた物と同じ。

 どんなに研鑽を積んでも、修行に勤しんでも振り払う事の出来ない『業』。人として生を与えられた者が最期に辿り着く場所に存在する、自分が教わった物とは全く違う世界。其れを『地獄』と渾名すならば、紛れも無い。

 だが求める彼らと、求められる覚瑜との間にある物は、取り戻す事の出来ない時間の壁。彼らは既に死に絶え、自分は此処で生きていると言う事。

 だから覚瑜は、彼らの手にする事の出来ない物を求めて歩き続ける。瞼の裏の其の先に浮かぶ景色に僅かながらの希望を求めて。

 此処で育ち、此処で出会い、此処で過ごした嘗ての仲間。亡者と化して集う彼らが息衝く、世界の境界上にある命の輝きを覚瑜が手にした新たな力が命の痕跡を求め続ける。

 そして歩みを進める毎に押し寄せる大きな絶望は微かな希望と奇跡を塗り潰してゆく。其処に在った全ての命は黒い水面下に没して、突きつけられた其の事実に挫ける心は、容易く覚瑜からその力を奪い去ろうとする。

 間に合わなかった、と。

 臓腑もろ共に込み上げて来る叫び声を真言の詠唱の力に変えて。それでも向わなければならない場所を求めて絶望を振り払って。

 零れ落ちた全ての繋がりを黙殺して、自分には元々何も無かったのだと自分で自分を謀りながら。

 その決意の果てに浮かび上がる灯火。死の世界を線で引く水面の上に点る小さな輝きを、覚瑜は遂に見つけた。ただ一つの、そう、たった一つ。

 それを手にする事は、自分の全てを正当化する為だけの物かも知れない。だが此処に溢れる穢れに塗れた者と同じ様に、其れを自分は求めるのだ。

 助ける事で何かが変わる訳ではない。何かが元に戻る訳ではない。しかしそれを手にする事が出来なければ、全てが無駄になってしまう。

 覚慈の願いも、覚鑁の決意も、自分の望みでさえも。


 そこにまだるっこしい詠唱など存在しない。暴走する法力は松長の手に握られた独鈷杵から刃に似た何かを展開させて、背丈の四倍を有に越える高さにある天井を突き破った。根来寺建立以来、唯の一度も破壊された事の無い大師堂の内部構造の一部が破壊され、其れを支え続けた巨大な梁が、法力の吐息を吐く鬼と化した松長の頭上へと落下する。

 地球の重力に引かれて自由落下の速度を上げて接近したそれは、命中したと思われた瞬間に松長が纏う風に切り刻まれて木っ端と化した。

 其の光景と経過を目の当たりにして、警戒の吐息を漏らす赤塚の口。護摩壇を挟んで向き合う赤塚の其れと、松長が身に纏っている風は性質こそ違えども同じ意味を有している事に気付く。

「赤 …… 塚。」

 其の名を鬼が口にした途端に、互いの視界を天地に貫く光柱は人の身長ほどの長さに縮まった。圧縮される力の密度が今度は刃の光度を上げて大師堂の室内を白く染める。

「その状態を自らの意志で制御出来るとはな。流石御山の座主 …… 合間見えるに不足は無い。」

 不敵な笑みを浮かべる赤塚の姿が光に揺らめく。峰英の手によって切断された筈の手足は、既に収まるべき場所へと戻されていた。

 人の形を取り戻した赤塚と人である事を捨てた松長が対峙する姿は、互いが尽きる事無く揶揄し合った正と邪の立場を取り替えた様にも見える。

 松長の一歩が重厚に床を踏み鳴らす。それが開幕のベルだった。

 華やかとは言い難い其の空気の中を、赤塚の足元に湧き上がる泥が一本の槍に姿を変えて松長目掛けて放たれる。

 斬り結んだ其の一合の結果は呆気ない。峰英の心臓を貫いた槍の運命は先程松長に命中した梁と同じく、纏った赤の大袈裟に触れた瞬間に粉々に砕け散った。委細を気にも留めずに踏み出す松長の次の一歩。緩やかに振り上げられる光刃を赤塚が見上げる。

「力で押すか、松長。…… ならば、これではどうだ。」

 押し寄せてくる鬼に先んじて放たれる殺気にも微塵の動揺を見せずに、赤塚が二の手を打つ。床板を破壊して大師堂の室内へと侵入を果たす触手。無数に分離した其の先端が伸縮自在の磯巾着の触手の様に展開して一斉に松長に殺到した。

 死の間合いに侵攻しようとする鬼の動きを阻止する為に、その体に絡み付く。

 自由を奪われた松長、の筈だった。細い触手が一瞬で松長を縛り上げて、赤い法衣をその中へと全て覆い隠す。怨念と呪いで紙縒られ、絶え間無く力を供給され続けるその触手が、よもや破られる事は無い。

 筈だった。

 勝利を確信する赤塚の目に次に映ったのは、彼が予想した一瞬先の未来とはまるで異なる物だった。

 松長の足が止まらない。伸び切り、抵抗する暇も与えられずに千切れていく触手。切れ端を床に棚引かせたままで尚も赤塚に向って歩き続ける、触手の残骸に巻き付かれたままの仁王像。

 唖然とする赤塚が間合いに入った瞬間に、裂帛の気合で振り下ろされる光刃。其の光に我を取り戻して、決死の一撃からの時間を稼ぐ為に展開される赤塚の泥。足元から眼にも留まらぬ速さで伸び上がった槍が、刃の軌道に立ち塞がった。

 松長が繰り出す業は、何の変哲も無い只の打ち下ろし。だが其の威力は絶大だった。赤塚の姿を遮る槍の側面に易々と食い込む刃が、豆腐を切る様な勢いで押し込まれる。

 槍一本で防ぎ切れるとは思っていない。そう認識した赤塚にとってはその時間で十分だった。槍が切断される寸前に赤塚の体が滑る様に移動して、その体を光刃の軌道から離す事に成功する。

 松長の放った光刃は、捉える筈だった目標の僅かに横を掠めて床に叩きつけられた。

 猛烈な破壊音が大師堂全体を揺るがせて、其の刃の勢いは尚も留まる所を知らず。床板を抉る刃が遥か下の地面へ目掛けて突き刺さる。

 その勢いと威力は大師堂の床下を占領する闇の触手の存在を白光の下に露にして、尚且つ分断していた。突然苦しげに、呻く赤塚の姿。

 拘束の力を失っていた、松長の体に絡み付いた触手がその打撃の勢いでぱらぱらと剥がれ落ちる。浮かび上がる、鬼の形相。赤洸を両の瞳に占領されたまま、現人鬼は苦痛の表情を浮かべた赤塚を睨め付けた。

「 …… 馬鹿力め、が。」

 痛みに耐えて呟く赤塚。その眼前で床の割れ目からゆっくりと引き上げられる刃。攻撃の意図を察して距離を取る。不死と思われた赤塚が松長から放たれる一撃に対して後ろに下がろうと試みる其の姿に、峰英と戦っていた時に見せていた余裕は無い。

 其れは鬼と化しても尚自分の意識を繋ぎ止めたままで攻撃を続けている松長に対する、圧倒的な恐怖であった。

 例えばこれが格闘技の試合だとしたら、今の状況は軽量級と重量級の選手が無差別級の試合で戦っている様な物だ。

 圧倒的な速さを誇る軽量級の選手はその利を生かして、動きの鈍い重量級の選手に対して数多くの攻撃を仕掛ける事が出来るだろう。ましてや時の目盛りの異なった重量級が繰り出す攻撃など当たる筈が無い。試合終了のゴングを聞くまで手数で圧倒すれば、其の苦労の分に見合った結果 ―― 勝者の名乗りを受ける事が出来る。

 だが、今赤塚が直面しているこの状況 ―― つまり『死合い』ではどうか?

 時間は無制限、相手が斃れるまで、それが決着の条件。軽量級の選手の繰り出す攻撃は相手にダメージを与える事が出来ず。相手の攻撃は一撃必殺の威力を秘めて襲い掛かってくる。

 当たればそこで終了。躱し続けた所で、一発でもその攻撃が掠ったならば、それだけで防御か攻撃どちらかの力が殺がれてしまう。それが続けば、後は時間の問題だ。次第に動けなくなって行く体は、皮肉な事に最期の瞬間へと向って歩み始めるのだ。

 赤塚の繰り出す黒い槍は現人鬼と化した松長には傷一つ付ける事が出来無い。対して松長の攻撃はその槍を一撃で切り落として、更に床下で赤塚に闇の力を供給する触手までも切り飛ばしてしまったのだ。

 この場に於ける戦力比の優劣は唯の一合で決していた。

「赤塚 …… どうした。かかってこないのか? 」

 次第に鮮明になる松長の口調。それは松長の類稀なる精神力が遂に暴走する法力を制御する事に成功した事を意味していた。

 戸惑う様にしか動けなかった足の運びが次第に滑らかになって、赤塚へと向けられる。

「来ないのならば、こちらからいくぞ。」

 吐息交じりの其の言葉にさえ法力を絡ませて赤塚に迫る松長の動きは、今度は異常に早かった。赤塚が十分に取ったと思われた間合いを一瞬の内に縮めて。

 両足に乗せられた詠唱破棄での『韋駄天の呪法』。

 摩擦も抵抗も無い氷の上を滑る様に赤塚目掛けて迫る松長の姿。赤塚の足元から今度は無数の棘が立ち上り、松長の侵攻と姿を遮る。時間稼ぎにしかならないのは、其れを放った赤塚自信が良く分かっている。だが対応手段を図るためにも、此処は様々な方法で対応していくしかない。今の松長にとっては、それらが何の障害にもならないと分かっていたとしても。

 薄紙を突き破るが如くに泥の壁を破壊して姿を現す松長。振り上げた刃を何の確認もせずに、確信を持って振り下ろす。その姿が見る事が出来なかった分だけ赤塚の反応が遅れた。

 避けた体を擦過して降りてゆく刃。致死の熱がそれだけで赤塚の頬に火傷の跡を刻み付けて床を目掛けて。再びの破壊と失ってはならない物の分断が実行される。

 再び赤塚に与えられる、苦痛。頬の火傷が煙を上げて、赤塚の嗅覚に肉の焼ける匂いを忍ばせる。

 松長の移動速度の上昇は、赤塚にとって言葉に出す事が出来ない更なる脅威だった。

 傷一つ付かない肉体、詠唱を破棄して自在に操る真言、全てを制御している精神力。目の前に立つその者こそ赤塚にとっての『無敵』であるかに思える。其の感情は今まで自分が対抗してきた者に与える筈だった感情だ。

 だが今、力関係を示す生態系の頂点に立っていた筈の自分と言う存在は、只の二合で其の立場を松長に譲り渡した。滑り落ちた其の身の辿り着く先は、覚慈や自分が今までに虐げて来た、か弱き存在である『人間』と同じ立場に立たされた事を意味している。

 そう、これは『恐怖』だ。

 怯んだ隙間に押し込まれる忘れた筈の感情が赤塚の判断を鈍らせ、見せた隙を松長が見逃す筈が無かった。赤塚が気が付いた時には、再び一瞬にして決殺の間合いに立つ松長の姿がある。死の恐怖に逆立つうなじ

「しね」

 其の言葉に感情は無く。赤塚の視野一杯に広がる光芒。足元の泥を今度は柱状に変化させて立ち上がらせる。

 振り下ろされる刃との接触面を大きくして抵抗力を上げ、侵攻を一瞬でも遅らせてくれればそれでいい。果たして赤塚の思惑通り、其の試みは成功した。幸運にも与えられた刹那を生かして後ずさる。大音響と共に赤塚の足元まで延びる床の割れ目。

 松長の攻撃の意志が織り込まれた攻撃によって与えられる苦痛で、与えられたよわい以上に老いた顔を歪ませながら、距離を取る為に再び移動する赤塚。其の姿を赤い光を放つ二つの瞳が追い駆ける。

「逃げるだけか、赤塚。貴様が無為に惨殺せしめた峰英でさえ、命を懸けて貴様に立ち向かったと言うのに、お前は逃げるだけか。」

 それも法力なのだろうか? よだれの様な液体で濡れそぼった歯を剥き出して語る松長。

「人がこの業を使うとそうなるのか。今のお前の姿は儂以上に禍々しいと、そうは思わんか、松長。」

 それは事実。其の事実を言葉に変えて叩きつける赤塚。

 全ての攻撃を阻止する事が叶わないと分かった赤塚は、時間を稼ぎたかった。自分の手持ちの武器では稼ぐ事の無い時間。力で為しえないのならば、姦計で。言葉で。

「基より、生きて澪と未来を歩む気は無い。…… お前は此処で俺と共に死ぬのだ、赤塚。」

 韋駄天の真言で光る足が再戦の一歩を赤塚に向けて踏み出す。其れを受けて、間合いを等距離に保とうと移動を重ねる赤塚の姿。

「死ぬ、…… この儂が、か。此処でこんな堂々巡りを繰り返して、夜明けまでの時間を稼ごうと言うのか。面白い。 ―― じゃがな、」

 痛みを振り払って笑みを浮かべる。松長を挑発する為に、思い切り下卑た笑みを。

「お主の体が、其れまで耐えられるのか? 」

 挑発に激発する松長の感情が赤塚の言葉を振り切って床を疾走する。再度繰り返される攻撃が赤塚の体から力を奪い取る。衰弱していく肉体の変化を微塵にも面に現さずに、赤塚は其の距離を保とうと努力する。

 松長の意図は明らかだった。自分から放たれる魔の波動が少しずつ弱まっている事は、例え自分が其の事をおくびにも出さなかったとしても感知されている事だろう。それが一体何によって齎されているかと言う事も。

 故に何度も繰り返す攻撃が赤塚の体に命中しなくても構わない。奴の狙いは他にある。

 床を埋め尽くした闇の力の供給源である、大木の様な触手の群れ。十二神将、そして峰英を討ち取った一連の戦いの中で松長は、憤激する一方で其の仕組みを冷静に分析していたのだ。 暗器の様に床板から伸ばした針で十二神将の命を瞬時に根こそぎ奪い、破裂させ。峰英の斬り飛ばされた首や手足を触手の力で繋ぎ合わせ、最期にはその峰英の心臓を毟り取った。

 自分が敵を葬った攻撃の全てが人としての姿を誇示し続けた赤塚の手によって為された物では無く、床下に潜んで赤塚から下される命令を暗殺者の様に待ち受けて、其の通りに実行するしもべによる物。松長は其の根源を探して、見つける事に成功していたのだ。

 無論手にした刃で大師堂に姿を保つ人型を斬り飛ばした所で、そんな攻撃では自分の息の根を止める事など出来ない。幾ら床下の触手を切断した所で、根来寺全体に満たされた闇の海が夜明け前に自分が斃れる事を許さない。

 切断された触手は嘗ての自分を求めて切断面から互いに触手を伸ばして、切り離された手足と同様に連結を果たそうとする筈だ。現に大きく破壊された床板から覗く触手は、切断と連結を繰り返した自分の体同様の行為を繰り返している。

 だがそれには時間が掛かる。間断無く続く松長の攻撃が其の時間を得る事を、自分の死と同様に許さない。

 そうして全ての供給源が絶たれた後、圧倒的な力を誇示して自分の前に立つ松長がどういう行動に打って出るのか。

 既に用意している筈だ。覚悟を決めている筈だ。

 怨敵を彼岸へと昇華させる為の、取って置きの真言を。


 更なる斬撃が赤塚を襲う。黒い泥を自在に駆使しての抵抗を繰り返す赤塚。だが其の威力も、松長の刃から逃れる速度も徐々に綻びを見せ始めていた。

 露呈する問題を抱えたままで、それでも解消する時間を稼ごうと松長との間合いを次第に開き始める赤塚。其の距離は当初に比べれば優に倍の長さに近い。

 だが、その事に如何程の効果があるというのか。真言によって与えられた神の速度を其の足に孕んで迫り来る松長の姿。室内と言う狭い空間に押し込まれて戦う以上、離せる距離は限られている。其れは時計の秒針の一呼吸にも満たない時間。

 唯一効力の兆しを見せた黒い柱を眼前に展開して、幾度も分断の刃からの逃亡を計ろうとした赤塚。

 数え切れない生死の攻防の中で幾度目かの斬撃を躱した時に、目の前を摺り抜けて足元の床板を叩き割る筈の光刃は一瞬の躊躇を見せた。

 其れは気付かない位の拍子の乱れ。攻撃を躱し続けた赤塚にのみ理解が出来る、遅れて来る光刃。

 繰り返し設えた柱が再び分断される。姿を現す松長。だが遂に其の刃が床板を破壊する事は無かった。白木の板に食い込むだけに留まった光刃を見詰めて、赤塚が言った。

「どうした、松長。剣先が鈍っておるぞ。」

 自らの力の喪失を悟られない様に、虚勢を張る。しかし赤塚の其の挑発に対する応えは、無い。

 裂けた柱を押し分けて進み出る松長の表情に、戦いの最初の頃に見せた憤怒の色は消失していた。

 赤洸を放つ眼光は其の侭ではあるが、開かれた口からは血交じりの涎が滴って赤の法衣を濡らし、独鈷杵を握り締める右手は大きく震えている。赤塚が認識する松長の状況の変化は、松長を今迄強制的に動かし続けていた過剰な法力が枯渇しかけている事を意味していた。

「やはり、か。 …… 峰英程度の法力僧の心臓を喰らった所で、所詮は人。儂の様に開祖の肝でも喰らえば勝ち目は有ったかも知れんが。 ―― かといってお主に『空海』の即身仏から心臓を抜き取る様な真似は出来まい。決意も、覚悟も。全てに於いて人の世の断りに塗れたお主が儂に勝つ事など、出来よう筈が無い。」

 赤塚の言葉で再び松長の体に焔が蘇る。だがそれは壊れかけた機械を無理矢理手で回す様な物に過ぎない。

 韋駄天の真言が乗せられている事を示す両足の光が、一瞬大きな輝きを放ち、そして再び明滅する。

 それが奴に残された最後の力なのだと。反撃の機会を待ち続けた赤塚に訪れた、それは兆しだ。

 赤塚の目を通して情報を得る床下の触手が喜びのうねりを上げて。無残な傷を残したままの切断面からは、無数の触手が互いの繋がりを取り戻そうと湧き出した。

 その場に与えられた全ての情報が赤塚の勝利を揺ぎ無い物にしているのは明白だった。嬉々として根来寺の周囲に満たされた黒い海から闇の力を吸い上げ、再びの力を取り戻そうとする。

 大師堂の中で長く対決の姿勢を貫き通した中で、赤塚が松長に見せた唯一の隙が、その瞬間だった。

 松長が突如動いた。韋駄天の力を失いつつある其の足が送り出す速度には見る影も無い。だが其の動きは赤塚を捕らえる間合いに踏み込む。

 決して自分を傷つける事無い其の攻撃を受ける為に、目の前で振り翳された刃に向って足元から泥の柱を立ち上げる。

 その時だった。

 今迄切り落としを繰り返していた松長の攻撃が変化を果たす。振り下ろされると思われた光の軌跡は、構えていた赤塚の認識から突如として消え失せた。慌てる赤塚。軌跡を求めて視界を這いずり廻る其の焦点が結ばれた時、光刃は噴出す法力の風を纏って、柱の側面から現れた。

 予想外の角度から襲い掛かった攻撃に、思わず横っ飛びに体が反応する。だが薙ぎ払われた刃は今度も易々と泥の柱を斬り飛ばし、残存した勢いは柱の影を飛びずさって回避しようと試みた赤塚の胴体目掛けて横殴りに叩きつけられた。

 赤塚の体に食い込む刃。赤塚に力を供給していた泥を其の足元から覗かせて床の上を転がる。弾き飛ばされた体がもんどりうって護摩壇の内外を仕切る縒り縄を引き千切り、多くの有資格者の命を奪い去って来た祭壇を破壊した。

 そこで命を落とした赤子の成れの果てである白い灰に塗れたままで、今の攻撃で受けてしまった傷を確かめようと、赤塚が痛みの部分に手を当てる。だが、其処には何の傷も加えられてはいなかった。鉄の棒で叩かれた様な激しい打撃に、人の姿を維持し続ける赤塚が息を詰まらせる。

 咳き込みながらも其の体を壊れた祭壇に預けて、立ち上がろうと赤塚が体を起こした。其の眼前に打撃の衝撃で眩む視界に浮かぶ松長の姿を見る。其の姿に慌てて泥の柱を展開しようとする。定まらない視界の中でぼんやりと浮かび上がる赤の法衣。

 次の瞬間には倒れた自分に目掛けて決殺の一撃が繰り出されるであろう事を覚悟する赤塚。だが赤い影は其処で動く事を躊躇っているかの様に、微塵も動く事は無かった。

 泥の力によって急速に回復を果たす視野。左右二つに分かれた松長の姿を実像として一つに結んだ時、赤塚は松長の姿の異変に気が付いた。

 横薙ぎに刀を振り切った松長は其の姿勢のまま、一歩たりとも動けずにいた。

 体さえ分断していれば、修復する為に必要な夜明けまでの幾許かの時間を稼げる筈の攻撃は、不発に終わった。

「最期の力での攻撃も、どうやら儂を足止めするには到らなかった様じゃな。…… 諦めろ、松長。お主が如何に強大な力を手に入れようと、所詮人では『神』には敵わぬ。」

 勝ち誇った声で、淡々と語る赤塚。背にした、破壊された祭壇に手を掛けて、未だに動かぬままの松長に言葉をかける。

 既に限界を超えて、言葉など放つ事も出来ないだろうと高を括っていた赤塚の耳に、意外にも松長の言葉が返って来た。

 唸る様な小さな声、しかし其処に強い意志を込めて。

「 …… 諦めるのはお前の方だ、赤塚。」

 言葉に秘められた意味を知って、赤塚は杞憂の表情を浮かべざるを得なかった。

 松長が虚勢でその様な言葉を吐く人物では決して無いと言う事は、人の世に過ごして来た頃の長い付き合いで知っている。この男がそう言うのであれば、それなりの根拠が存在する筈だ。だが、それは一体何処にある?

 松長の言葉に沈黙を守りながら、自分の置かれた状況を分析する。

 だが松長が峰英の心臓を喰らう事によって得た異常な法力は枯渇しかけていて、対する赤塚の力の供給源たる闇の触手は次第に繋ぎ合わされ、赤塚は無尽蔵とも云える力を取り戻しつつある。それは前にも後にも変化する事の無い、厳然たる事実である。

 積み重ねられていく事実の中には、松長が自信を持って放つ言葉の根拠が見当たらない。

 では何だ。変った事と言えば、先の松長の攻撃が切り落としから据え斬りに変った事。だがそれが如何程の効果があったのだろう。

 現に傷一つ付けられずに、自分の体を護摩壇まで弾き飛ばすだけで精一杯だったでは無いか。

「 …… まだ、俺の言っている意味が分からないのか、赤塚。」

 其の言葉には勝者の驕り等一切存在しない。それは寧ろ哀愁とか、憐憫とか。

 死合う二人の間に流される空気には全くそぐわない松長の言葉は赤塚を戦慄させた。

 自分は何かを見落としている。其れも致命的な見落としだ。何処だ? 赤塚の脳裏に、もう一人の赤塚が問いかけた。

 変ったのは松長の攻撃だけか? 本当に。

 違和感。そして閃きが赤塚の全身を駆け抜けた。火花を散して閃く閃光。

 此処は大師堂。自分が今立っている所は『創生の法要』を行う祭壇の中央。其の背後。其処には何が置かれていたか。

 其処に祭り上げられていた物が在った筈だ。 

 押し寄せる恐怖と猜疑心に苛まれて振り向いた赤塚の視線の先に鎮座する、三体の本尊。中央には仏の最高位に鎮座すると言われている大日如来像。其の左右に控える住持たる金剛薩タ像と尊勝仏頂像。赤塚が眼に出来たのは其処までだった。

 左右の侍従二体の像の両の瞳が光を放って、赤塚の瞳を貫いた。遥か高みから差し込む光は赤塚の体の内部に侵入して、その自由を一瞬にして奪う。

 仏たる二体の瞳に睨まれた挙句に訪れる、闇の眷属故に与えられる焼ける様な痛み。

 振り払おうと、其処から逃れようと全ての闇の力を掻き集めてもがく赤塚の耳に、松長の声が届く。

「闇に身をやつしたお前は失念していたのか? 俺達が嘗て信じた仏の存在を。」

 今まで見せていた衰弱振りが嘘の様に、確かな口調で語られる言葉。其の松長の冷静さが、赤塚から冷静さを失わせた。声を憤怒にたぎらせて叫ぶ。

「お、お主、今の今まで儂を謀っておったのか! 力を使い果たした様な振りをして、さも弱った様な格好で!? 」

 自分の置かれた状況を、さも人のあざとい側面に陥れられたかの様に訴える赤塚の、追い詰められた口調。身悶える姿と声を聞きながら、松長が言った。

「違う、赤塚。俺は既に力を失いかけている。…… お前には其れが分かるだろう? 長い付き合いだからな。」

「では、これは一体何の力だと言うんだ!? この地には既に闇意外存在していないと言うのに! 」

「それが解らぬほどに、闇に取り込まれてしまったか …… 赤塚っ!! 」

 吐き出される悲鳴が赤塚の耳を抉った。背後に佇む松長には、告解された言葉通りに覇気が無い。暴走する法力で膨れ上がっていた筈の肉体は既に其の大きさを元へと戻し、両足に輝いていた筈の韋駄天の真言は光と共に其の効力を失っていた。

 松長に残されている物はほんの僅かな力の筈。

 そんな小さな力しか持ち得ない者に何が出来ると言うのだろうか。

「これは、俺がお前を此処で止めたいと願った、『祈り』の力だ。…… 友であるが故にお前の暴虐をこれ以上許す事は出来ないと、戦いの最中に力を振り絞って願い続けた『祈り』。それが仏に届いた証だ。」

「『祈り』、だと? 馬鹿なっ! 」

 其れを断固として否定する赤塚。有り得ない、と。今の自分が其れを肯定する事だけは出来ない。何故ならば ――

「『祈りによって仏と繋がる事が出来る』 …… それは貴様ら『新義』の教えだったな。何故お前は其れを捨ててしまったのだ? 『人』とはこれ程自由に仏と繋がる事が出来るというのに。そして貴様は誰よりも其の一番近くに居たと言うのに。」

「言うな、松長っ! 儂の気持ちも汲み取れん者が、言葉で儂を語るなっ! お主に此の世の何が解る? お主があの時の儂と同じ立場にいたとしたら、きっと儂と同じ事をする筈じゃ。『日ノ本』を、民を守る為に儂は信仰を捨て、『摩利支の巫女』と其れに関わる物達全てを葬り去ろうと決心したのじゃ。それこそが、」

 両目から流し込まれる仏の力で全身を蹂躙されながらも、赤塚は高らかに叫んだ。

「儂にとっての、正しく『教義』じゃっ! そして其れこそが『新義』の教え! その儂を切り捨てようと言うのならば ―― 」

 赤塚の瞳に訴えようとする者の姿を映す事は出来ない。だが赤塚の声は、確かに其処に鎮座して、教えに対して反旗を翻した座主に罰を与えようとする三体の本尊に向けて吐き出された。

「 ―― 仏が、間違っておるっ! 」


「 …… それが、貴様の全ての動機なのだな、赤塚。」

 赤塚が吐いた其の言葉は、自らが生きた世界を否定し、関わった全ての者と決別する言葉。此処に到るまでに果てし無く続けられた赤塚の心の葛藤を思い、松長の心は暗く沈んだ。

 峰英が死ぬ間際に赤塚に向って罵った『自分が無くなる事が怖くて闇に堕ちた』と言う言葉を否定するつもりは無い。ある意味、其れは赤塚にとっての正嫡だったのであろう。

 自分がいなくなってしまえば、松長を含めて『天魔波旬』と戦って其の力を失った真言宗、いや多くの『異端』と認定された宗教全てが其の教義を失う事になるだろう。例え、赤塚の言う通りに『天魔波旬』の統べる世界が消滅したとしても、教義を失った宗教が再び日の目を見る事は稀だ。拝火教しかり、シーク教しかり。

 赤塚は自らを闇に落とす事で、其れを失う事を回避しようとしたのだ。再び『日ノ本』の民がこの世界の何処かで建国の産声を上げた時、人々の心の支えとなる『真言の教義』を守る為に。其れは嘗て戦国時代に廃仏毀釈の嵐が日本全土を席巻した時に、先達の僧侶が自分達の主義主張を捻じ曲げて時の支配者に恭順を誓って生き延びたという故事と同じだ。

 だが、松長も其れを肯定する事は出来ない。飼い犬の如く、家畜の如くに生きていかなければならない世の中に『日ノ本』の民を追い落とし、其の後に復活を果たしたとしよう。

 だが其処に芽吹いた宗教の双葉を両手を添えて育てて行く資格が、そんな者にあるのだろうか?

 育てる者には其の資格が必要だ。そしてそれは戦って得るべき物の筈。自らの犯した罪の深さに怯え続けて隠遁いんとんした者に与えられるべき物では無い。赤塚の心情を理解しながら、それでも譲れない松長の考えが、其れだった。そして自分達が崇め奉った仏が、松長の考えに同意して力を貸してくれている。

 其れこそが、松長の考えが間違ってはいないと言う証。

「かつての貴様と今の俺は、共に『大日如来』の結縁灌頂を得た開祖を戴く者同士。故に本尊も同じ。だが貴様は『祈り』を捨て、俺は求めて叶えられた。 …… この意味が分かるか? 」

 二人の置かれた立場と状況の不利を認識させようと、松長が静かに言った。赤塚、お前こそが道を誤ってしまったのだと。…… そして。

「俺達二人に、未来の事を語る資格は無い。だがこれから歴史に記される未来とは『勝者』の言い分だ。お前は敗れ、俺は勝つ。例え俺の選んだ選択が間違っていようとも、俺は其の未来を澪に委ねようと思う。 …… それで、いいか? 」

「何故、儂らには未来を語れないというのじゃ? 勝つのがお主ならば、お主の口から堂々と語れば良い事だろう? 」

 語る松長の方を向く事も叶わず、赤塚が苦痛を押さえて尋ねた。記憶を反芻はんすうする赤塚が、松長が鬼と化した時に呟いた言葉を思い出す。

“基より、生きて澪と未来を歩む気は無い。…… お前は此処で俺と共に死ぬのだ”

「そうだ、赤塚。」赤塚の心中に流れる字幕を読取ったかの様に、言葉を放つ松長。失われたと思っていた力が再び蘇ったかの如くに、力強く。

「俺と共に、散華しようぞ。この根来時の穢れ諸共に。」

 其の声と共に松長の両手が胸の前で印を結ぶ。

 互いの指を重ねて、立てた親指同士で円を描く。一般に広く知られた、禅宗の寺で座禅を組む時に結ばされる禅定印の形。だがそれこそが真言密教最高位に位置する仏を表す印の姿でもあった。

 胎蔵界大日如来法界定印。組んだ途端に放たれる種字、

「アーク。」

 松長の口から放たれる其の言葉で、赤塚はこれから松長が為そうとする全てを理解した。

「そうか、大日如来真言か。胎蔵界、金剛界双方の力で共に昇華すると。…… そういう事なのだな、松長。」

 呟く様に尋ねる赤塚の声に、松長が応える事は無い。応えの代わりは真言の詠唱で埋められた。

 松長の声で仄かに光を放ち始める、大師堂の本尊中央に位置する大日如来像。其の光はやがて熱を帯び、左右の仏に其の体を拘束されたままの赤塚にも解る程に熱く。

「ナウマク・サマンダ・ボダナン・アビラウンケン 。」

 術の発端となる真言が松長の口から流れ出る。

 其の瞬間、大日如来像から発せられていた光が帯びた熱と共に、一斉に全身から放射された。通り過ぎる熱風を感じて、赤塚の姿がよろめく。大師堂の空間を切り裂いた全ては、瞬く間に松長の胸で組まれた禅定印の掌の上に集まっていた。

 其れは松長の掌の上で、小さな太陽の様に光り輝く。触れる事無く浮かんだままで揺らめく輝きが、松長の表情を照らし出す。

 其処に浮かんだ其の顔は、既に人の世に生きる者でも、闇に身を委ねた者の表情のどちらでも無い。それらを超越した、全てを知りえた御仏の面。

 松長の両腕が静かに頭上に差し上げられた。手の中に浮かぶ小さな太陽が其の動きに釣られてゆっくりと宙に浮かび上がる。

 ふわふわと漂いながら重力に逆らって、護摩壇の上部へと登っていく光球。翳った松長の視線が其の軌跡を静かに追い続ける。

 やがて光球は護摩壇の天井に設えられた護摩天蓋の中へと其の姿を隠す。其の瞬間を待ち侘びていたかの様に、松長の両手が更なる印を組んだ。

 立てた左手の人差し指を右の掌で包み込み、右手の人差し指一本で印の上部に円を形取る。

 金剛界大日如来智拳印。放たれる種字、

「バン。」

 護摩天蓋の中の仕切られた狭い空間を光が埋め尽くす。巨大化する光球。見上げる松長が其の余りに眩い光に耐えられずに瞼を閉じ、尚も其の薄い表皮を通して瞳を焦がす熱と光を感じて、言った。

「大日如来の象徴たる『日輪』。…… 其れこそが貴様を滅ぼす為の唯一の手段だったな、赤塚。」

「未だ嘗て、誰も成功した事の無い大呪。お主こそ、儂が滅びるまで其の力を使い続ける事が出来るのか? 」

 そう松長に言葉を返す赤塚。真上から差し込む光に影を失い、輪郭すらも光に溺れる護摩壇の真ん中で、赤塚は次に起こる事を理解していた。

 其れは金剛峯寺と根来寺の座主のみが知る最大最強の退魔術。だが、記録には其れを使役した者がいないと記された、未知の領域。

「無論だ、赤塚。何故なら此れは、貴様を葬る為に選んだ事ではない。」

 そう言って松長は背後に遠く離れた大師堂の暗がりへと、熱に灼かれた視線を向けた。其の場所にいて、きっと自分の後姿を見詰めているに違いない、自分の血を引く、赤子。

「 …… 『摩利支の巫女』などではない。澪を、守る為だ。」

 松長の人としての言葉は其処で終わりを告げた。

 次に放つべきは最期の真言。忌まわしい今日という日を終わらせる為に。自分の望む新しい明日を澪に迎えさせる為に。

「オン・バザラ・ダド・バン ! 」


 護摩壇の設置された場所、大師堂の天井にぶら下げられた天蓋。防爆たる破壊の嵐が吹き荒れた戦場の只中にあって、奇跡的に存在を保ち続けた其の内部。百を超える赤子の魂を神の蔵へと導いた其の空間が、今、松長の最期の願いを形に変えて吐き出した。

 天地を貫く光の柱。放出された莫大な光量は狭い空間の中で凝縮されて、蒼を孕んだ白と化した。天から降り注ぐその光柱は真下に佇む赤塚の姿を押し潰す様に掻き消して、現世へと顕現を果たした其の力が最大最強の名を欲しい侭にしている事を誇示する。

 柱の形を保つ其の光は、新たに地上に産み落とされた超新星の輝きを周囲に振り撒きながら、其処に完全なる屹立を果たした。

 その時の大師堂を外から眺めれば、何か途轍もない物が炸裂した様に見えるだろう。内部から溢れる光が、今迄其の威容を暗闇に浮かび上がらせていた月の光に逆らって建物の輪郭を溶かしてゆく。破壊された壁、出入り口。全ての隙間から輝きの産物とも言える光の帯を迸らせた。

 光の帯は根来寺を覆い尽くした黒い海の上を一直線にひた走り、行く手に立ち塞がる魔の存在を一つ残らず薙ぎ払う。

 浄化等では無い。『帰無』の力を振り翳して黒い海の中に道を穿つその光。数多くの穢れが昇華する事を瞼の裏に映して、動揺に荒れ狂う海の中を翻弄されながらも一歩一歩と其の足を大師堂へと近づける覚瑜の姿があった。


 赤塚の姿を消し去った圧倒的な其の力。だが放たれる圧倒的な光は新たな、濃い影を生み出す。

 護摩壇に集中した聖なる光は、建立以来一度も建替えられた事の無い大師堂の床を貫く事が出来なかった。其の場所で幾度も行われた法要、儀式の類が齎した聖域としての其の場所が、同じ聖の領域に属性を持つ其の光に蹂躙される事を拒んだ。

 そして松長によって空けられた数多くの床の穴から差し込む筈の聖なる光は、床下で蠢く彼らの存在を消し去る事は無かった。暴力的な光が生み出す漆黒の影の中で、再び彼らは力を取り戻す為の連結作業を繰り返す。

 其の時間が、彼らには与えられたのだ。松長が真言を詠唱する時間によって。

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