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                 外 傷

『その性酷薄にして正奇を操り、容姿醜悪に在りて知る事与はず。』

 常陸の国の出自にて戦国時代の闇を席巻した透波すっぱ『加藤段蔵 ―― 通称 鳶加藤』にも勝るとも劣らぬ実力と評価を誇る、伊賀忍群御三家の一『藤林家』頭首。七代目藤林長門。

 それ程の地位に在りながら、ひざまずいた山田と帯刀の前へと暗がりから進み出るその姿には権威と言う物が無い。共に存在感も無い。霧か霞かと思わせる気配だけを漂わせて、長門は二人を見下ろしていた。

「山田は別として、お前がしくじるとは珍しいな。帯刀。」

「面目次第も御座いません、父上。」

 その言葉に帯刀が深々と頭を下げる。その一方で『別扱い』にされた山田が苦渋に顔を歪ませた。

「まあいい、其れより間に合って良かった。山田の判断は当然と言うべきだが ―― 来たか、道順。」

 長門が視線を脇の暗がりへと向ける。程無く楯岡とカーティスの姿が月の光の中へと浮かび上がった。二人の姿と長門を交互に見やって、自分には確認する事の出来なかった事の顛末てんまつ ―― 足止めが失敗に終わった事 ―― を理解した。

「残念だったな。どうやら碧殿の仇は討てん様だ。奴は今頃保護対象の元へと向っているだろう。…… すまないな。」

 その言葉に、長門自身の悔恨も浮かんでいる。楯岡の表情が微妙な感情を覗かせて、しかしその口が思いとは別の言葉を紡いだ。

「恐悦です。力及ばず、申し訳有りません。」

「何、お前達三人がかりで出来ないのなら、誰にも出来んよ。俺も間に合わなかった。 …… ところで、その御仁は? 」

 楯岡の影で状況を眺めるカーティス。彼にとってそれは不可思議な景色に違いない。少なくとも今の今まで普通の顔をして歩いていた二人が、見るからに自分の首までしか背丈の無い小男の前に控えているのだ。

 状況を読み取ろうと ―― 癖みたいな物だ ―― 躍起になっているカーティスの顔に視線を合わせて、長門が尋ねた。問われた楯岡が長門の視線から体を外す。

「此方側で交戦した米軍の特殊部隊の指揮官です。客分として迎えました。」

「ほう。」感嘆の声が長門の口から。加えて、何人かの気配が長門の背後の林の暗がりから漏れた。人の悪そうな笑いを浮べて楯岡に視線を移す。

「楯岡道順ともあろう者が、久しぶりの荒事に腕が鈍ったか? よもや生存者がいるとは思いも寄らなかった。」

「その価値があると判断しました。『不可視の七人』と言えば、長門様もご存知では? 彼はその『一番トップ』です。」

「あの、伝説の小隊か。…… 成る程、それで『客分』と言う訳か。」

 長門が楯岡の脇を摺り抜けてカーティスの前へと進んだ。その一挙動にも、全てを見逃すまいと観察していたカーティスは得体の知れない恐怖を覚える。瞬きもしていないのに、何の予備動作も無く幽霊の様に動くその姿は、実際に対峙した三人にも無い物であった。

 何時の間にか差し出された右手を見下ろして、カーティスは更に慌てた。

「ようこそ、カーティス・モントゴメリー少佐。私はこの者達の頭領を務めております藤林長門と申します。道中、何かとご不便をお掛けして誠に申し訳ない。」

 堂々と自らの名と素性を告げる長門。カーティスはその手を握る前に思わず尋ねた。

「今迄戦っていた相手に、司令官がそんなに簡単に名乗っていいのか? 第一、私はまだお前達の仲間になると言った覚えは無い。あくまで条件付きでの話だ。」

「なに、この旅は此処で終点です。後は事が終わるまで我らに為すべき事は無い。知る事が出来るのはこの出来事の結果のみです。吉と出るか凶と出るかは解りませんが。それに ―― 」

 微笑を浮べるその顔。だが瞳には油断の色など皆無だ。百戦錬磨の肉食獣の光を湛えてカーティスの虹彩を射抜く。

「 ―― 貴殿が味方となるのであれば、仲間に名乗るのは当然の事。この期に及んで万が一にも敵になる様であれば ―― 」

「あれば? 」

 目が妖しく輝く。油断した。急所を握られた様な猛烈な恐怖を覚える。こんな感覚は初出撃のとき以来、久しく忘れていた。

「 ―― 自分を殺した者の名前くらいは知っておきたいでしょう? 」

 その言葉を聞いたカーティスが側に立つ楯岡の顔を見た。その表情には決意を促す意志が見て取れる。成る程。

「 …… そういう事か。」

 例えるならば其処は大海に浮かぶ船の甲板から突き出た板の端に、重石をつけて立たされた捕虜の心境。生死の境目に立たされたと知ったカーティスから、溜息交じりの言葉と笑みが零れた。

 ここで行われている事を知るのを条件として自分は彼らの捕虜となったつもりだった。だがそれは彼に引き合わせる為に誘導された、楯岡が企てた作戦だったのだ。藤林長門と言う人物の前で選択肢を完全に失わせる事。仲間にならざるを得ない様にする事が、ここまで自分を誘って来た楯岡の目的。

 だが不思議と、姦計に陥れられたという感情は無い。寧ろ藤林長門という人物を前にした瞬間、自分がこの場所で彼に出会うのが必然であったかの様に、それはカーティスの感情にしっくりと嵌め込まれた。ジグゾーパズルの最後のワンピースだ。

 長い対峙の後にカーティスの右手が長門の手を握る。その感触にカーティスの記憶が戦慄した。

 柔らかい掌が包み込む様に握り返される。まるで貴人の手だ。だがカーティスは、其れがどういう人種の持ち物かと言う事を知っている。

 殺戮者の、手。

「怖いですか? 」全てを見透かした長門の声。

 この男の前では全てが無意味なのだろうと、カーティスは感情を取り繕う事を諦めた。

「そうだな、正直言って恐ろしい。誰しも得体の知れない物には恐怖を覚えるものだ。」

「結構。貴殿が何故生き残って此処に立っているか、理由は其れで十分でしょう。」

 一瞬にして消えた殺気の後に残る微笑。良く似ている、と思う。そうか。彼は父親に似ているのか。


 動かなくなった峰英の体から突き出た物が引き抜かれる。支えを失った影絵が、床に斃れる音を残して退場した。代わって舞台に登場を果たす黒い影が、その手に握り締めた物を松長の方へと放り投げる。

 微かな光の光跡を地獄と化した大師堂の空間に残して、鈍く湿った音と共に松長の足元へと転がった。

 見詰める松長の姿を知るか、知らざるか。その耳に今だダメージから立ち直っていない事を示す様に、しゃがれた声が響いた。

「遠慮無く使うがいい。そのつもりであったじゃろう? 」

 血に塗れた其れがぼんやりと輪郭だけを光らせて松長の足元で止まった。脈打つ事はとうの昔に失われて、其れ即ち峰英の死を意味する心臓が松長に訴える。その言葉は奇しくも視界の果てで立ち上がる赤塚と同じ。

 述べる願いは違えども。

「やはり油断のならん相手じゃった。最期の一撃で心の蔵を飛ばされてしもうた。これでは法力を使う事が出来ん。」

 呟く赤塚。その言葉の影で、斬り飛ばされた腕と両足を求めて触手が床を這い回っている。護摩壇の周囲を埋め尽くした血の海で立つ者はただ二人。命と光を失ったその溜まりの中で歓喜に震えて踊る触手の群れを見やって、松長は言った。

「貴様、どういうつもりだ。」

 唸る様な声を気迫と共に叩きつける。爆発しそうな感情を理性が全力で押さえつける。

「足掻け、松長。儂がお主に与えてやれる機会はそれだけだ。互いの正義を主張する為には、今のお主にとって一番必要な物である筈だ。…… 違うか? 」

 噴出ふきだした。それは、嘗て無い感情。怒り、苦しみ、悲しみ、切なさ、いや。人の辞書に記された言葉等で言い表すのもおこがましい。胸の奥で蟠る渾然こんぜんする感情が、血流に乗って全身に広がり末端の隅々まで行き届く。圧に耐えかねた毛細血管が破れて、その僅かな染み出しが涙膿へと溢れた。

 血涙となって眼窩から零れ落ちる。眼の奥が熱くて、痛い。

 頬を流れる血の涙が顎に滴る。其れを手の中の澪が受けて。その時、松長は澪の両手が松長の顔目掛けて差し伸べられている事に気付いた。赤く染められた小さな掌を見下ろして、赤塚に背を向ける。そのまま大師堂の隅の暗がりへと歩き出した。

 しゃがんで、床に澪を置いた。自分を置き去りにしようとする祖父の顔を見上げる澪。両腕が求める様に打ち振られて、瞳は何かを訴えるかの様に。

 言葉は出なかった。別れの言葉も、励ます言葉さえ。

 差し伸べられるその掌に自分の指を絡ませて、赤く染まる事も厭わずに握らせた。その繋がり。自分の血がこの小さな命の中にも流れていると言う実感が、松長に覚悟を促す。

 此処から先は、自分は何者でもない。ただ一人の、『人の親』として。

「赤塚、…… 参る。」

 短く放つその言葉が、松長の膝を立たせた。踵を反させた。そして、峰英の心臓を拾い上げさせた。掌に伝わる微かな温もりは、力を無くした自分に唯一つ与えられた、希望。

 残った力の限り握り締める。固い肉に食い込む指の隙間から噴出す、命の証。其れを頭上高く掲げて。

 赤い大袈裟をどす黒く染める死者の血液が、術の放出で憔悴しょうすいの色を見せていた松長の顔面に降りかかった。それは人世に描かれるべき物の景色ではない。

 地獄の平原で対峙する、二つの異形の姿。

 掲げられた心臓が口に押し当てられて食い千切られた。其の後に続く咀嚼そしゃくと吸引の音。

 変化が始まった。松長の体と法力が膨れ上がる。全身から放出される余剰な力が周囲に風を巻き起こす。見開かれて赤塚を睨む瞳の瞳孔が黒色を失って、怪しく赤洸を放ち始める。

 そうして、かつて『金剛峯寺座主・高野山真言宗管長 松長有慶』を名乗っていた者は、『鬼』となった。


 それまで頭を垂れていた山田が不意に長門の顔を見上げた。表情に浮かぶ明らかな疑問の色。其の口が質問を放つ前に、長門の口が動いた。

「聞きたい事は解っている。何故追撃を止めたか、と言う事だろう? 」

 改めて頭を垂れ、無言で其の答を促す山田。山田だけではない。其の周囲に控える全ての者が、長門から語られる次の言葉を待っていた。

『この旅は此処で終点』と長門は言った。という事は自分達に課せられた作戦行動も此処で終了すると言う意味だ。だがそれは今迄に多くの作戦をこなして来た彼らにとっては意外な宣言であった。

 成功か、失敗か。生存か、死か。どちらかの結果しか選択できなかった彼らが、作戦の是非を時間の経過に任せて待機する事など初めての事だ。

 ただ其の中でも長門の隣に立つ楯岡だけが其の表情を変えずに、白い人影の消えた結界障壁を険しい顔で睨みつけている。

「長門様らしからぬ先程のご命令、この山田今だ承服致しかなねむ ……っつ! 」

「使い慣れない言葉を使うな。どうせ舌を噛むだけだ。普通に喋れ。」

 言葉通りに舌を噛んで口を押さえる山田の顔を見下ろして苦笑する。

「山田に代わってお尋ねします。」山田の背後の控えていた帯刀が落ち着いた声で尋ねた。

「作戦前に自分達が得ていた情報では、儀式の後に現れる『魔法使いの神様』の身柄の確保が最優先の作戦目標だとお伺いしておりました。しかしながら現状、此処で撤退若しくは待機する事は目標の確保に支障をきたす可能性があると思われるのですが。」

 涙目で口を押さえて長門を見上げて頷く山田。一つ軽い溜息をついて長門が答えた。

「『支障』とは、今しがた結界内に侵入したあの物を指して言っているのか? 」

「はい。」帯刀の返事に続いて、山田も口を開く。

「十三人も斬り殺して、涼しい顔で結界の中に入っていく。おまけに弓矢も効かない。あれは人間じゃない。このまま行かせて良いんですか? 」

 真剣に訴える山田の表情。『涼しい顔』はこの男の専売特許だと思っていたが、やはり、

「お前達にもこの異常さが解る、と言う事か。 …… 道順、お前はどう思う? 」

 側で未だに結界の壁を睨み付ける楯岡に尋ねる。苦々しい表情を浮べたままで、呟く。

「取り逃がしてしまった事は誠に遺憾ですが、これ以上は断念せざるを得ないかと。この先は我らの力では及ばぬ世界ですので。」

 其の言葉に驚く山田と帯刀。互いに顔を見合わせる。チームとして長く活動している二人にとって、指揮を取る楯岡の口から吐き出された『作戦中止』を意味する言葉を耳にする事等、長門に言われた言葉同様、記憶に無い事だった。

「『力が及ばぬ』って。楯岡様、これが何か知ってるんですか? 」

 山田の視線が楯岡の顔を仰ぐ。楯岡の顔がやっと結界の壁から外れて、繋がる様に長門の顔を見る。其れを受けた長門が口を開いた。

「そうだな、この期に及んでは隠して置く事も無いだろう。…… これは日本政府の命を受けた真言宗の僧侶達が作り上げた結界、『絶対障壁』の試作品だ。」

「『絶対障壁』? 何すか、そりゃ。」

 聞き慣れない言葉に首を傾げる山田。その姿をじっと見詰めて長門が言葉を続けた。

「今から二十年以上前の事だ。東西の冷戦が緊張を増して、いつ弾道ミサイルが飛び交うか判らないと言う時期があったのは知っているな? 第二次大戦後から米国と同盟関係にある日本も当然、と言うか一番の目標だな、核戦争に巻き込まれる危険性は高かった。その緊張が壊れて米国とロシアの核戦争が勃発した時の指揮系統の混乱を避ける為に、時の日本政府は完全な防護手段を模索した。そうして目をつけたのが真言宗の僧侶の持つ『結界術』だった、と言う訳だ。」

「え、じゃあ、これって国家プロジェクトの一環 ―― 」

「ちょっと待って下さい、父上。」

 いつもとは雰囲気の違う帯刀の声が、山田の言葉を遮った。

「核戦争が勃発した時に、指揮系統を守る為にこれを作らせたとおっしゃいました。では、この結界が無い場所はどうなります? 自分がこれを見る限りでは例え『絶対』の名を誇っていたとしても、それ程広範囲に展開できる代物だとは思えません。世界が七度滅亡してもまだ余るという核兵器が降り注いだ、此れに守られる事の無い、他の場所は。」

「そうだ、帯刀。彼らの本音は自己保身だ。自分達だけが其の恐怖から逃れたいと言う、強迫観念が作らせた『仇花』だ。だが真言宗の僧侶達は彼らの真意を知ってか知らずか、自分達の主義主張をかなぐり捨てて、多大な犠牲を払って作り上げたのだ。…… お前達も目にしたとは思うが、」

 長門の目がチラリと、結界の内側に立つ異形の法力僧の姿を眺める。

「この結界の内部には八方位にそれぞれ一人ずつ、あのような者が配置されている。だがあれを生み出す為に何百人もの捨て子が『徴収』され、生死の境を綱渡る様な、多くの試練を受けた。今いる八人はその生き残りだ。」

「生き残り? 」

「残りは、全て死んだ。時期は異なるがな。話によると最後に残った十六人を二手に分けて互いに戦わせ、生き残った方を選んだと言う事らしい。…… ともかく。」

 自分達の眼前に聳える結界の余りにも凄惨な成り立ちの話に、長門と楯岡以外の其処に控える男達が息を呑む。長門の顔が不意にカーティスの方に向けられた。

「これはそういった物です。空気以外の総ての物を遮断する、選ばれた人間の力による、外部からは破る事が不可能な堅牢な防壁。だが其の仕組みを知った所で決して真似できる物ではない。貴方達が何百人と言う同胞を殺す覚悟があると言うのなら、話は別だが。」

 自分達に与えられた表向きの任務に対しての答え。長門が用意してくれた回答にさえ、当のカーティスは納得する事が出来ない。

 考えただけでも目を背けたくなる様な逸話と犠牲の上で作られた、自分達が何も知らずに憧れた物を目の前にして、新たな疑問がカーティスの脳裏に湧き上がった。

 これ程の防壁を準備して行われている物。其の内部で何が行われていると言うのだ?

 長門が『魔法使いの神様』と呼称した『者』。自分達に与えられた真の任務は其れの確保である事は間違いない。だがそれは一体何者なのだ? 

 これほど多くの犠牲を払って迄 ―― 自分達の損害も含めて ―― 求めようとした者とは。

「長門様、一つ聞きたい。」

 カーティスの思いを代弁するかの様に、山田が口を開いた。後ろに控える帯刀の神経が戦慄の音色を奏でる。

 山田の口調がそれ程低く、濁っている。

「 …… 何百人の子供が犠牲になって、それでも此処で何かが行われようとしている。あの生き残りだって尋常じゃねえ、直に其れを見た時には人殺しだと思った位だ。あいつ等だって長くはねえ。」

 槍を後ろ手に構える其の手に力が篭るのを、帯刀は見た。

「教えてくれ。『魔法使いの神様』ってのは一体何だ? この中で何が起こってるんだ? 」

「 ―― 『摩利支の巫女』と呼ばれる、お告げによって選ばれた、神の代行者よ。」

 彼らの立つ背後の林の暗闇から、其の声は突然響いた。思わず視線を落として、眼を凝らす山田。

 視線の先に立つ、濃茶色のスーツを着た女性。捉えた山田の瞳孔が、驚きで急速に広がる。


「御婆様、警護も連れずに無用心な。」

 咎める長門の言葉を何事も無く受け流したまま、隣へと足を進めて山田の前に立つ『御婆様』と呼ばれた女性。彼女が其処に立つと同時に一斉に跪くお庭番の男達。再び事情の飲み込めないカーティスでさえも、雰囲気のままにその場にしゃがみ込んだ。

「女衆の実力では此処に出向く事自体が危険よ、碧の事もあるし。それに何かあったとしても私の方が逃げ足は速いしね。…… 経過はどうなってるの? 」

「申し訳有りません。我らの力では一歩及びませんでした。何者かがこの中に侵入した模様です。」

 長門の報告に、僅かに驚きの表情を浮べる祥子。だが其れは誰にも捉えられないほんの一瞬の事だった。直ぐに他の者に悟られない様に真顔に戻る。

「そう、では私達に出来る事は此処で成り行きを見守る事だけになってしまった訳ね。残念だわ。」

「御婆様、それでいいのかよ。」控えた格好で跪いたままの山田が、顔を上げた。

「人間を真っ二つにする様な奴がこの中にいるんだぜ? それにここまで来たのなら、回りの有様を見たろ? こんな事を平気でするような奴をこのまま行かせて良いのかよ。下手したらその『摩利支の巫女』っていうのだって殺られちまうかも知れねえ。それなのに此処で手をこまねいて見てるだけでいいのかよ? 」

「でも、私達に出来るのは此処まで、其れは作戦前に貴方達に伝えた筈よ。この先の事は、彼らに任せるしかない。」

 祥子の言葉に対して、深刻な表情を浮かべる長門。危惧している事は、恐らく祥子にとっても同一の物では在ろう。

「ですが、裏切り者を抱えたままでは彼らにとってはいかにも分が悪いでしょう。ましてや更なる敵が侵入したとあっては、彼らの命運は危ういと言ってもいい。」

 山田の口調と反して静かに告げられる長門の言葉。語られた一つの語句に対して、楯岡が尋ねた。

「裏切り者、ですか? この内部に内通者が存在していると。」

「そうよ。それも裏切り者は今正に法要の行われている現場の中心にいるわ。…… 赤塚明信。この根来寺の座主、其の人物よ。」

 其の名が告げられた途端に走る衝撃。立ち入る事を禁じられたその場所に、既に敵が潜んでいるとは。

「では、その『摩利支の巫女』とやらは一体どうなります? 真言宗の法力僧たる彼らが敵に敗れ去ったしまったら。」

 帯刀がその衝撃に辛うじて耐えて質問した。言葉と共に放たれる緊張が辺りを席巻する。祥子の瞳が、山田の肩越しに帯刀を見詰めた。

「それは法要全てが終わってみないと分からない。もし、その子が死んでいたらこの作戦は其れまで。生きたまま攫われようとしているなら、この作戦は第二段階に移行するわ。」

「第二段階? 」

「此処にいるお庭番衆全員で、其の子を奪還する。其の為にこれだけの人数を此処に集めたのよ。『徳助』に待機している連中も含めてね。」

 祥子の其の一言で空気が変わった。殺気は緊張に取って代わって彼らの周囲に張り詰め、少なくともカーティスには『人間』と認識していた彼らの存在が、一瞬にして『機械』に変化した様に感じる。

 だが、臨戦態勢の空気を孕んだ一同の中でただ一人、其の空気に馴染もうとしない者がいた。

 山田が祥子に向って、呻く様な声で尋ねた。

「御婆様、知っているなら教えてくれ。大勢の子供を犠牲にして作られた結界、それにこれだけの人数を集めて迄守ろうとしている『魔法』 …… いや、『摩利支の巫女』てのか。それは一体何なんだ? この寺の坊主共は中で一体何をやらかそうとしてるんだ? 」

「それを聞いてどうするの、兵庫。」

 祥子には山田から放たれる言いようの無い感情が、遂に自分に向けられている事が分かっている。

「訳を知らなければ仕事は出来ない、とでも言うつもり? もしそうなら、貴方はこの任務から外す事になるわ。残念だけど。」

「そうは言ってねえ。そんな事は、言わねえ。…… 俺は御婆様を信じてる、長門様を、楯岡様を、皆を信じている。間違った事は言ってねえ、と思ってる。だけど聞きたい。」

 山田が祥子の顔を見上げる。両の瞳に怒りを湛えて。

 駄々を捏ねる子供をあやす様な顔で、祥子が山田の前にしゃがんだ。其の顔を山田の傍まで近づけて。

「 …… 兵庫。あんたが耐えられる? このくらいの事で冷静さを失っているあんたに。」

「『このくらいの事』だって? …… どういう意味だ? 」

 祥子の言葉に、不意に山田の怒りが消えた。試す様に尋ねられた言葉が山田の中の怒りを不安へと変えていく。祥子が吐く溜息一つで更に膨れ上がって、埋め尽くして。

「いいわ、教えてあげる。あんたもそろそろあのトラウマから抜け出さなくてはならないでしょう。」

 立ち上がる祥子。其の姿に其処に居る全ての者の視線が注がれた。ある者は不安を、ある者は期待を。そして長門だけは其の表情を一切変えずに。

 祥子の口がおごそかに開かれた。

「此処で行われているのは、真言密教裏法要の一つ。『創生の法要』と呼ばれている物よ。目的はそれに先んじて行われた『星宿の法要』で見出された、此の世と神の世を繋ぐ法力を持つ者『摩利支の巫女』を見出す為。予言された日時に生れた、資格のある赤子を全国より集めてこの場所で選別する法要よ。」

「選別 …… 『選ばれた』? 」其の言葉を口にした山田の心に嫌な予感が残った。

『選ばれた』。其の言葉はさっきも聞いた気がする。

「時代の変わり目には必ず予言されて、何回も行われて、何人も見出されて来た。集められる人数は其の時々によって違うけど、百人以上の赤子の中から選ばれるのはただ一人。そして『山本家』は代々後見人としてその子を預かり、育てるという役割を持っているの。」

「それで、是が非でも奪還する、と。そう言う事ですか。」

 楯岡の呟く声。祥子が振り向かずに頷く。

「そうよ。だから死んでしまっていたら、この仕事は此処でおしまい。私の役目もね。でももし生きているのなら、必ずその子は保護しなければならないの。この後に必ず来る『時代の変わり目』に立ち向かう為に。」

「待てよ、御婆様。」地の底から染み出す様に低い、山田の声。

 聞いた帯刀の手が無意識に自らの外腿へと静かに動く。

「『選別』と言ったよな。…… 百人以上の赤ん坊から選ばれるのはたった一人だと。じゃあ、後の残りはどうなってるんだ? 」

 その言葉に祥子のまぶたが静かに閉じた。それは山田の質問に対する答えの後に勃発するであろう事態を覚悟する、或いは瞑目するかの様 ―― 多分その両方 ―― な沈黙の後に、言葉が続けられた。

「 …… 元の場所に、還ったわ。此の世の苦しみも、悲しみも知らない、何も無かった場所へ、ね。」


 カーティスの視界から山田の姿が消え失せた。今まで其処に神妙に跪いていた者が一瞬にして消え失せる、そんな大掛かりな手品の様な映像を見せられている錯覚に陥る。その場所に存在する誰一人たりとも動きが変らない景色の中で、帯刀の左手だけが、眼にも留まらぬ速さでその背後に向けて振り払われる。

 一拍をおいて、山田の姿が突然現れた。槍は既にその手に握られて疾走する姿勢のままで、月の光の中に浮かんだ彫像と化している。

 傾いた月から降り注ぐ光を受けて長く伸びる山田の影。地面に映るその手足の位置に寸分の狂いも無く突き立てられた四本の飛苦無が、山田の体から反射する僅かな光を受けて煌く。

「てめえ、帯刀。『影縫い』だと …… 」

「先輩、動かないで。」

 印を結んだままの体勢で振り向く帯刀。硬く、冷たい声。そこに今迄共に戦って来た筈の仲間に対する親愛の情の欠片も感じられない。

「此処で動くなら、重大な命令違反と判断します。今なら、まだ間に合う。」

 其れは、帯刀が生まれながらに背負った次期頭領としての宣言だった。長門の背後の暗闇で控えていた人の気配が殺気と化して、一斉に山田へと集中する。

「先輩、此処は抑えてください。さもなくば僕が先輩を殺せと、皆に命令しなければならなくなる。 …… 僕の役割は分かっているでしょう? 」

「帯刀。」

 山田の声が凄みを増した。僅かに自由が許された首だけをゆっくりと振り向かせて、帯刀の顔を睨み付ける。

「 ―― してみろよ、『命令』! 」

 叫ぶなり、山田の左手の筋肉が膨れ上がった。忍び装束の上からでも上腕二頭筋が盛り上がるのがはっきりと分かる。全身の力をその一点に集中して、山田は『影縫い』からの開放を試みていた。

「無駄です、そんな力業で僕の術から逃れられる訳無いでしょう? 僕が術を解くか、影の位置が変らない限り ―― 」

 言葉がそこで止まる。遮られたのは月闇に響く、肉の千切れる音。帯刀の目がその音の正体を求めて、山田を見る。

 山田の手首から血が噴出していた。宙に浮かぶ左腕を繋ぎとめる、其処には在りもしない杭が傷口を広げる。地面に映る山田の左手の影だけが震える様に動き始めていた。呆気に取られる帯刀。

「ぬおぉぉっっ!! 」

 その気勢と肉の千切れた音が重なり合って、白い林の中を突き抜ける。山田の左手が血を撒き散らしながら空を舞う。拘束から解き放たれたその手が右腕にある槍を掴んで、背後に向って振り払われた。

 その一挙動で山田の体を繋ぎとめていた『影縫い』は破られる。乾いた金属音だけを残して闇の中へと消えていく飛苦無。

 自由を取り戻した山田が体を翻して帯刀と向き合う。出血と力の損失が比例して、左手の中の槍が掌から離れる。地に落ちようとする其れを右手で素早く捕まえて、

「俺を舐めんな、帯刀。お前の術なんか、」

 山田の言葉を帯刀は待ってはいなかった。山田の目には、既に矢が番えられて放たれるだけの構えを取る帯刀の姿が映っている。山田の右手と穂先が月光に閃いて、手の中の槍が小脇に抱えられる。

 血の滴り落ちる左手を帯刀の前に差し出して。

「 ―― こんなもんだ。」

「先輩。」苦しげに放たれる、帯刀の声。額に溢れる油汗が頬を伝って、尖った顎に向けて流れていく。

「 ―― 僕に、討たせないで。」

 その言葉を境に続く死のしじまの調べ。林の中に溢れる殺気は時を追って増してゆく。対する山田の闘気も同じく。其れは事態を見守るカーティスの目にもはっきりと解るほど、この後に続く惨事を想像してしまう程に満たされていく。

「 ―― お止めなさい。」

 臨界間際の火薬庫に祥子の声が響く。消し止められる殺気の焔と一瞬の空白。誰もが隙を見せたその中を祥子が足早に歩いていた。いまだに弓を構えている帯刀の射線に入る事も厭わずに、槍を構えたままで動かない山田の前に立ち尽くす。

「止めるな、御婆様。」それは追い詰められた獣の唸り声に似ていた。

「このまま此処で黙って見ているだけなんて、俺には無理だ。まだ生き残っている子供がいるのなら俺は助けに行く。一人だ、一人だけでもいい。坊主共が仕組んだこんなクソ行事なんて糞喰らえだ。そんなもんが成功するかしないかなんて関係ねえ。俺は ―― 」

 早口で捲し立てる山田の言葉を、唐突に閃く祥子の右手が山田の頬を捉えて断った。乾いた音だけを残して、山田の顔が傾く。呼び返す右手が再び山田の頬を張る。

 その平手打ちで全ての殺気を消し飛ばされて。呆然とする山田。

「な、何すんだよ。御婆様 ―― 」

「あんただけじゃない。」山田の真近に立つ祥子。その目が山田の瞳に溢れる怒りを射抜く。

「助けたいと思ってるのは …… 思っていたのは兵庫、あんただけじゃないんだ。」

 その言葉に、我に返る山田。脳裏にほんの何ヶ月か前の記憶が蘇る。

 傷ついた碧を御山に迎えに行ったのは、自分。

 その日から笑う事も無く、ただぼんやりと一日を過ごす碧の姿を見守っていたのは、自分。

 生れた赤子の世話をしながら、不意に泣き出す姿を見てしまったのは、自分。

「そうよ、碧も赤ん坊を助けたいと思った。でも出来なかった。あんたの言う『クソ行事』に、保護対象の遺言と共に預けられたその子を、碧は捧げざるを得なかったんだ。…… 自分の心を壊してまで決断をした碧の覚悟を、あんたはその手で踏みにじる気かい? 」

 そんな事はとっくに聞いた。碧姉からではなく楯岡様の口から。だからと言って。

「でも、みんな死んじまったら何にもなんねえだろうがぁっ! 皆が行けないんだったら俺だけでもいい。助けに行かせて ―― 」

「あんたも死んじまうんだよっ、この馬鹿っ! あたしが止める理由が解んないのかっ !? 」

 祥子の口から放たれた、言葉と言う雷鳴が山田の全てを打ちのめした。迸る怒りに似た形で山田に届く、説得。

「今からこの中に入って助けられるのなら、とっくにあたしが行ってる! でも、もう遅いんだよ。この結界の中が敵の手中に落ちた以上、あたし達に出来る事は待つ事しか無いんだよ! 誰かが生きて出てくる事を神様にでも祈りながら! 」

 叫びにも似た祥子の声が、波紋の様に沈黙の漂う林を波立たせた。その波の揺らぎの中で、しんとして、祥子の言葉に聞き入る一同。祥子の背後で弓を静かに納める帯刀。

「勿論、あたしがあんた達に其処に行け、行って死んで来いと言えば、あんた達は喜んで行くだろう。でもそんな事をあたしが言えると思う? あたしにとって、生きているか死んでいるかも分からない赤ん坊よりも、今此処で生きているあんた達の方が心配なんだ! あんたには何でそれが分かんないんだい!? 」

 それは問い掛けの形を取った『止め』だった。

 振り上げた殺気は降ろす所を失い、込み上げる怒りは開放する場所を無くして山田の体を震えさせる。立ち尽くす山田に向って、其れまで沈黙を守っていた楯岡が言った。

「山田、御婆様に従え。―― これは、命令だ。」

 其れが山田の感情の高ぶりを解き放つ引き金だった。手負いと化した獣が、体の中に押し止められた全ての感情を開放する為の咆哮を上げた。林の中に漂い続ける死の残り香を吹き飛ばす様に、ただ、叫ぶ。

 声が止み、構えが解ける。だらしなく両脇にぶら下げられた、力を無くした両腕。

 祥子の両手が、傷ついた山田の左手を静かに取り上げた。光を放つその掌が醜く引き裂かれた傷口を包み込んで。山田の体内から滴る血が祥子の指の隙間から零れ落ちて行く。

「馬鹿だね、あんたは。」

 ぽつりと呟いて、その手を離す。出血は止まっていた。無残に口をあけたままの傷口を見下ろして、山田が言った。

「畜生。…… だから嫌なんだ。子供絡みの仕事はよぉ。」


「楯岡様。」帯刀が二人の下を離れて、楯岡の前へと歩いて来た。手にした弓矢を元に収めながら傍に立つ。

「何故、最初から止めて戴けなかったのですか? 」

 普段は笑っている様にしか見えない、細くて切れ長の目がキッと見開かれていた。怒りに満ちたその視線を受けたまま、楯岡が逆に尋ねる。

「そういうお前は、山田を殺すつもりだったのか? 」

 思わず受けたその質問にうっと口篭ってしまう。

 本来であればこの問いに対する答えは、肯定の二文字で答えなければならない。何人もの『抜け忍』を討伐してきた帯刀にとって、其れを否定する事はお役目にあるまじき事であった。しかし。

「 …… 申し訳有りません。自分には、―― 」

 頭を下げて謝罪する。

 討てない、と自分で分かってしまった時に覚悟はしている。どんな処罰が下っても甘んじて受け入れるしかない事を。だがその決意は固かった。何故なら、

“先輩と戦うよりは、ずっとましだ。”

「この事は不問に処す。御婆様に感謝するんだな、帯刀。 ―― で、もう一つ質問だ。」

 その時帯刀の耳に届いてきたのは、頭領である長門の声だった。思わず顔を上げた帯刀に向って投げ掛けられる質問。長門が、帯刀の表情を確認して尋ねた。

「この中に、御婆様の話を聞いて、少しでも山田と同じ気持ちにならなかった者がいると思うか? 」

 意外ではあったが、その質問には直ぐにでも答えられる。考えなくても。

「いいえ。」

 その答を聞いた楯岡と長門から同時に漏れる微かな安堵の溜息。再び頭を垂れて二人の傍に佇む帯刀に向って、長門が言った。

「それでいい。今の気持ち、其の侭出来(しゅったい)しておけ。運良くこの中にいる敵とまみえた時の為に。」

 その言葉の淵に見え隠れする。此の世の者とも思え無い程得体の知れない、長門の目の前に聳える壁が冠する文字とは意味を異にする『絶対』を思わせる殺気。

「 ―― 皆殺しを躊躇わぬ様に、な。」

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