阻 止
「 …… 本当だ。」
呟く帯刀の顔からは微笑が消えていた。特異な状況に置かれている事を察知した意識がその瞳にも表れる。其れは帯刀を背に、直ぐ前を歩くカーティスですら理解できた。
草木も無く、白骨と化した幹を月の光に晒す林。それは自分達が今の今まで潜伏していた場所と同じ環境の下にある物とは思えなかった。何より驚いたのはその景色の激変が、砕けた結界の壁を境にして起こっていると言う事だった。
結界の外の世界を『現実』とするなら、此処は正に『地獄』と表現するしかない。
「 ―― な? 」
帯刀に返す山田の答にも、いつもの軽妙なリズムが無かった。後ろ手に構えた槍の穂先を蒼く煌かせて先頭を歩くその背中に、緊張が溢れている。それはカーティス達と戦った時には微塵も見せる事が無かった物であった。
だがそういうカーティスの神経も、山田や帯刀と同様に緊張の糸が張り巡らされている。世界中のあらゆる紛争地帯を転戦したカーティスの経験から言っても、この様な景色は見た事も聞いた事も無い。命が絶え逝く場所は知っていても、最初から生命が存在しない場所に立つ事等初体験の事だった。
山田とカーティスの間を歩く楯岡だけが、何事も無くその歩をまともに進めている。
辺りを見回していた楯岡のその手が、不意に側の木の枝へと伸びた。力を加えるまでも無く、それは手の中でぽきり、と折れる。
四人の行進が中断する。楯岡が手の中で砕けた白い破片に目を遣った。
「枯れてる、なんて物じゃ無いな。まるで炭だ。 …… 此処一帯が全部そうなっているのか。」
南国特有の気候を保つ和歌山県。生い茂る下生えは鬱蒼と其の生命力を主張し、その頭上に息吹く木々の葉は三重の屋根を展開して、本来であれば彼らに空の欠片しか与えない筈だ。だがその常識は非常識の烙印を押されて、彼ら四人の周りを包み込んでいた。
所々で薙ぎ倒された白い朽木の只中で、楯岡の目が遠くに向けられる。木々の間を透かして遠くに見える廃屋。奥の院は作戦前の情報とは全く違う形で、あばら屋の如き惨状を月光の中に晒している。
「山田、御廟に向かう。先導しろ。」
「 …… 了解。」
楯岡の命令に小さく頷き一歩を踏み出す山田。その足を山田の視界に飛び込んできた物体が停止させた。
先導者の異変はそのパーティー全体の動きを決定する。楯岡の全身から意識の波紋がソナーの様に放出され、最後尾を歩く帯刀は既に鉄弓を引き絞って、命令一過、いつでも放てる様に構えられていた。
「死体です。」 楯岡の問い掛けを待つまでも無く、山田が短く答えた。顔が僅かに動いて、背後の楯岡にその方向を指し示す。
四人の立つ位置からほんの十メートルほど先の木の根元。山田の視線の先には、この環境下では異質な、黒い物体が転がっていた。
列を離れて山田が動く。山田の動きを援護する為に帯刀も列を離れる。平行に移動する二人の、衣擦れの様にしか聞こえない足音だけが林の中に響く。
地に斃れたままの死体。纏った僧衣からそれが根来寺の僧侶だとは判った。だが、その死体の異常さは傍に佇む山田の目と心を奪う。
「なんだ、こりゃ ……」二の句も告げずに、その死体を見詰める山田。縦半分に分かれて其処に転がる物が、山田の口から言葉を奪う。
「おい、鯵の開きじゃねえんだからよぉ …… 」
「山田。」背後から放たれる楯岡の声が、山田の呟きを中断させた。振り返る事無く、周囲に油断無く意識を集中させる。
「 …… どうやら其れ一体だけじゃないぞ。似た様な物があちこちに散らばっている。」
「楯岡様、捕虜をお願いします。 ―― 帯刀、散れ。」
楯岡の情報を受けて間髪入れずに二人が動く。月夜の中を手分けして『似たような物』を捜索する山田と帯刀。その姿を眺めながら楯岡はカーティスと共に、最初に発見された哀れな犠牲者の下へと向かった。
何も言わずにその死体を見下ろす二人。山田が息を呑んだのと同様に、その異様さは二人の目にも余る物があった。正中線から縦に真っ二つに切られた人体。何百、何千という死体をその目にして来た二人にも、それは今だ嘗て見た事の無い物としか言えない。
凄惨さの欠片も無い。美し過ぎるのだ。人体サンプルの様に断ち割られて絶命する。そんな死に方が本当にあるのか?
傍にしゃがみ込んで観察する二人の下へ、山田と帯刀が戻って来た。無言で帯刀に手話を送る山田。其れを確認して帯刀が楯岡に報告する。
「全部で十三体。何れも僧衣を着ていましたので、恐らくこれと同様に根来寺の僧侶かと。」
「 …… そうか。」
楯岡がそう言うと、三人が同時に手を合わせた。カーティスだけが胸の前で十字をきり、両手を組んで新約聖書の福音書の一節を口にする。
瞑目した後に、四人は再び其処に投げ出されたままの死体を注意深く観察した。見事としか表現しようの無い、斬撃の痕を見詰めながら山田が言った。
「人間業とは思えねえな。見てみろよ、これ。」上になった切断面のある部分を指差す。
「脳天から尻の下まで脊椎ごと真っ二つだぜ。こんな事出来るか? 出来たとしても刀の方が無事な訳がねえ。それに一本の刀で十三人も切れるもんか。『村正』使ったって怪しいもんだぜ。」
「人間じゃ無いのかも知れんぞ、山田。切り口を良く見てみろ。」
楯岡の勧めに従って、月明かりの中でじっと切り口に目を凝らす三人。その意図を悟った帯刀が、思わず呟いた。
「凄い。切り口が盛り上がっている。」
三人の視線が腹部に僅かに覗く腹筋へと向かう。内容物が全て流れ出した後に僅かに見え隠れするその筋肉。薄らと肌色をした其れの断面が膨れているのが見える。
「これは …… どういう意味っすか? 」
「こんな事が出来る人間は先ずいない、と言う事だ。」楯岡が山田に向かって言った。その言葉に首を捻って、理解しかねるとゼスチャーする山田に、言葉を繋いで説明する。
「いいか。お前の言葉を借りるなら、この僧侶を切った犯人は頭の天辺から一刀両断、それもダイヤモンドよりも固い刃で何の抵抗も無くこの僧侶の体を『真っ二つ』にした。傷口が盛り上がっているのはその断面の細胞が一切破壊されていないと言う証拠だ。細胞膜が壊れてなければ気圧差によって細胞の水分が外に出ようとする。それで切り口が張っているんだ。」
楯岡の説明に絶句する三人。言っている事が理解できても、想像が追いつかない。数少ないであろう可能性を求めてカーティスが尋ねた。
「レーザーの可能性はどうだ? アルゴンとかヤグレーザーとか。」
「それも一瞬考えたんだが、医療用レーザーを軍用に転用したとしても、必ず蒸散(体内の水分が水蒸気となって蒸発する事)の痕跡が残る。 ―― 見ろ。」
カーティスの視線を言葉で誘導する楯岡。
「この切り口は、新鮮だ。」
掴みかけた想像への手掛かりも奪われて、三人は再び黙り込んだ。楯岡だけがその死体の切り口を調べながら、思い当たる情報を並べ立てる。
「全ての疑問を無視して考えるならば、これの太刀筋は『小野派一刀流』の物に似ている。いや …… それ以前だな。小野派の源流になった『鐘捲流』の奥義とされる『高上極意五点』の内の『真剣』の秘儀に近い。」
「え、何? 『鐘』 …… 『高上』、何すか、それ。」
「一刀流の元祖と言われる流派だ。奥義と言われる秘伝の中に、こんな風に相手の頭上から斬り落とす技があるって事だ。」
「古武道の秘儀ですか。…… それ程の使い手が何故こんな真似を。」
それまで静かに楯岡の説明を聞いていた帯刀が尋ねる。その答えは意外に明快に返って来た。
「これ以上は判らん。これだけではな。ただ一つこれだけは言える。」
三人に先んじてすっと立ち上がる楯岡。油断無く周囲を窺いながら、楯岡の動きにつられて立ち上がろうとする三人に向って言った。
「これ程の相手が敵ならば、相当の覚悟が必要だ。碧の戦った相手の比ではないぞ。 ―― それを肝に命じておけ。」
暗黒の水族館の前にいる様な気がする。それが絶対防御の障壁を展開する傀儡の目前に立った覚瑜の、素直な感想だった。
嘗て赤塚から申し送られた通りに事の次第が進んでいたならば、決して有る筈の無い泥が結界の内側に満たされている。その嵩は覚瑜の首の辺りまで。黒くたゆたう水に似たその只中で、無言の真言を唱え続ける傀儡の姿。其れは手を伸ばせば届く距離にある。伸ばす事が叶うのならば。
そこは奥の院の参道を辿って丸山稲荷を抜けてほど無く歩いた場所。『観自在菩薩十五尊絶界陣』を立ち上げる八体の傀儡が配置される場所はあらかじめ覚瑜にも伝えられていた。
顔面を裂かれ、腹を捌かれて尚、無心に唯一つの真言を唱える傀儡の一。その姿形は覚瑜の記憶に残っている男の物だった。
「43番、こんな所に …… 」
法要の行われている大師堂、其処から北西に位置する場所に配置された『43番』。赤塚によって儀式の寸前につけられた『乾』等という名前を覚瑜が知る術も無く。番号でしか呼ぶ事の出来ない、変わり果てた傀儡の姿を覚瑜は、じっと見詰めた。
“知り合いか? ”
一刻を争うこの期に及んで、その動きを止めた覚瑜に向って覚鑁が尋ねる。だが、動かず、動けず。ただ覚瑜の口だけがその問いに対してのみ静かに動いた。
「はい。傀儡を作る際、この者だけが『鬼』と化しました。 …… 誰よりも遥かに才能溢れる若者でした。」
“その様じゃな。この者の放つ法力だけが他の者とは隔絶しておる。どうやらこれが赤塚とか言う者の仕掛けた、最後の保険じゃ。”
「保険、で御座いますか? 」
その覚鑁の物言いに驚く覚瑜。まるでそれが有るのが当然であると言わんばかりの口調で。
“その赤塚と言う者、どうやら万が一にもお主が此処に辿り着いた時の事も考えておったんじゃな。何らかの形で奥の院から最短距離にあるこの場所へ近づいた時、お主の力では此処を通れん様にしておる。中々の策士じゃ。”
「そこまで …… 」
してまでかと。余りに抜かりの無い徹底した仕掛けを施されている事に絶句する。だが、それこそが『座主』の価値。やはり覚慈に告白した通り、自分の力は『座主様』には遠く及ばない。目前に突きつけられる事実のページが捲られる毎に、覚瑜の心の諦観の量が増していく。
うな垂れる心を見透かしてか、覚鑁は励ます様に言葉を続けた。
“此処までするからには、それだけお主の事を脅威と思っているという証拠じゃ。返して言うなら評価していたという事じゃ。儂と同じくの。 …… それにしても。”
覚瑜に対する気遣いは其処までだった。覚鑁の思考の対象が覚瑜から目前に聳える結界の壁へと移行する。
“これは、何と『鬼道』か。西行の外法を真似ながら、傍目には判らん様に手を加えて、誰にも解呪できん様にしておる。これでは如何にお主の状態が万全でも此処を抜く事は叶わん。”
一目見ただけでその結界の正体を見破る覚鑁。対照的に同じ時を経て其れを目にする覚瑜には、覚鑁の言葉の意味を理解する事が出来なかった。
「上人様、今、何と ―― 」
“『鬼道』と申した。お主が知らぬのも無理は無い。これは真言密教の業では無いからの。”
尋ねる前に的確に答を返される。だが、その言葉は覚瑜に一層の疑問を齎した。そんな馬鹿な。如何に『外法』とはいえ、元々は真言密教の『宗則』に基づいて作り上げられた結界。それには自分も立ち会った筈だ。それが何故、見知らぬ物に作り変えられていると言うのだ?
“誰かに、入れ知恵でもされたのであろうな。胸の独鈷杵を見てみい。僅かに心の蔵を外して刺されておる。其処には動きを司る部分が有る筈じゃ。人としての生き死にを決める其処を押さえる事によって、強制的に傀儡を操っておるのじゃ。本来であれば八体のみの連携で真言を詠唱して結界を立ち上げる物なのであろうが、これではこの八体は奏者の意志に従わざるを得ん。故の『逆詠唱』じゃ。”
「では、この結界の内側は。」
“赤塚なる者の手の内じゃ。押さえられる筈の幽界の者共が溢れ出しておる。この中を潜り抜けて巫女の元に辿り付くのは容易ではないぞ。…… 今一度問おう。それでも往くのか? ”
「はい、往きます。」
即座に導き出された答えは決して浅慮の為せる物ではない。此処に立つ迄に幾度も考えた、悩んだ。だがその煩悶も今は遠く。どんなに不確かな物しかなくても其処に必ず辿り着くと言う自分の中の妄想。残されたたった一つの思いだけが覚瑜の全てを今は支配し続ける。
“言うと思うたが、あっさりと言いおる。…… 仕方ない、知恵を貸そう。お主、此処からなら目を瞑ってでも法要の場所までは歩けるな? ”
「は? はい、此処でしたら我が庭も同然ですから。」
“そうか、では、儂の袈裟を脱いで、頭から被れ。しっかりとじゃぞ。”
突然の覚鑁の言葉の真意を掴みかねる覚瑜。だが、疑いは無かった。短い間ではあるがこの稀有な力を持つ僧侶が一回でも間違った事を言った事があったか? もし一つでも間違っていたならば、自分は今此処にこうしてはいない。それこそが『導く者』の力。
羽織っていた白い大袈裟を頭から被る。腰の辺りに来る裾を自分の帯に託し込んで見頃を合わせる。それで覚瑜の視界は完全に閉ざされた。
“主は良く知っておろうが、其れには正御影供の際にある程度の法力が練り込んである。それに儂も其れを着けて術を行使した故、その残滓も残っておる。お主の法力と合わせれば、完全にとはいかぬが法要の場所に往く位までは持つ筈じゃ。”
「それでこれを持って来いと、あの時におっしゃったのですね? ―― 」
“まあの。じゃが、本題は其処ではない。 …… どうした? ”
言葉が途絶えて、視界を奪われたにも拘らず、着衣をする際に地面へと置いた覚鑁の頭蓋骨を静かに拾い上げる覚瑜。その手は微かに震えている。覚鑁はその反応で理解した。この若き僧侶が次に為さねばならぬ事を既に分かっていると言う事を。
“そういう事じゃ。”
ぽつりと。思考を共有した事で互いの考えを理解する。それが例えどんなに度し難い事でも、選択の余地は無い。
“これはお主には出来ん事なのじゃ。『鬼道』とは、闇の力。神道に於いて黄泉の国を司る『伊邪那美』の呪い。それをを利用して、幽世の力を現世に顕現させる物。幽世の力に対するには、同じ幽世に存在する者でしか介入する事は出来ん。”
「他に。他に方法は ―― 」
“無いのは分かっておるじゃろう? 故に儂がやる。儂にはそうせねばならない理由がある。”
覚鑁の断言に対する反問は許されなかった。隠された心中が覚鑁の口を付いて出る。
“ …… この地がこれだけ穢れてしまったのも、この様な裏切り者を輩出してしまった原因も、全ては儂自信が現世に失望しこの長い年月を倦怠に塗れて過ごしておったからじゃ。儂がもう少し此の世に興味を持ち、この地で斃れて逝った多くの同胞を救う事が出来たならば、この様な事にはならんかった筈じゃ。―― じゃが時既に遅く、事は起き、末世に向って走り出そうとしておる。其れを食い止める役割をお主一人に押し付けねばならん。 …… これはな、言わば儂からお主への最期の手向けじゃ。”
「そんな、上人様。拙僧如きにその様な。この身にもっと力があれば ―― 」
“馬鹿者。”
それは、覚瑜に対する叱責ではなかった。親が子に、愛情を込めて諭す様な意味を込めた、優しい声に聞こえる。
“儂は一度死んだ身。過去や死人に囚われてはいかんと言うたじゃろう。それに、儂は確かに此の世から消滅するが、それは『死』ではない。魂の置き所が変るだけの事じゃ。”
「魂の、置き所 …… 」
“そうじゃ、覚瑜。覚えておるか? 覚慈の心に滑り込ませた儂の意識を。儂はこれより闇を住処として徘徊を続けようと思う。それは誰の為でもない。儂の贖罪をお主に果たして貰う為の代償じゃ。お主が何時如何なる時にどの様な事になっていようとも、お主が『魔』を討とうとする時には必ず儂は其処に現れる。今日のあの時と同じ様に、あの時のままの形でな。”
「その様なっ! それでは上人様が余りにも不憫では御座いませぬかっ! 闇の中で、お独りで、拙僧の為にその魂を置き続ける等と。」
またしても守る事が出来ない。その感情が覚鑁を持つ手に伝わる。俺は、幾ら取り零せばいいのだと。言葉を詰まらせる覚瑜の心に、覚鑁の声が響いた。
“独りではない。ちゃんとおるわ、仲間が。 …… お主の事を思って、お主の代わりに命を落とした、お主の半身が。そして、覚瑜。お主も独りではない。お主が戦う限り、儂らはお主と共に、在る。”
どれ程の覚悟が何時からあったのだろう? 覚鑁の言葉を聞きながら覚瑜は其れを只管に思う。奥の院で目覚めてから今に到るまでの間に、上人様は其処まで覚悟を固めていたのだ、と。封印を解かれた自らの体を戦いの中で失い。魂を闇に送り込み。そして今また ―― 。
「上人様。」
白の大袈裟に閉ざされた視界の届かぬ暗闇の中で、覚瑜は瞼を閉じた。
「今迄お力添え頂き、誠に有難う御座いました。…… この御恩、不肖ながらこの覚瑜。御身元に参上するまで決して忘れません。」
“うむ、良い返事じゃ。忘れるな。”
覚鑁の晴れ晴れとした声が覚瑜に届く。その言葉が覚瑜の瞼を開かせた。袈裟の下に覆われた左手が覚鑁の頭蓋骨を胸の位置まで掲げる。
“良いか、印は結ばんでいい。儂の詠唱に合わせろ。そのまま儂を結界に押し当てるんじゃ。 ―― 何を唱えるかは分かっておるな? ”
「御意。」
袈裟の下から覚瑜の声が流れ始める。其れは単独発動術としては最大の防御力を誇る結界法術、観自在王如来真言。
「声だ。」
闇の静けさに研ぎ澄まされた山田の耳が、その場所からかなり離れた場所で発せられた声を捉えた。他の三人が其れを捉えたのもほぼ同時、一斉にその声の発せられた闇の先を睨み付ける。
足音も立てずに、山田と帯刀が二人に先んじて動いた。蒼い光の中を飛ぶ様に走る二つの影。見送ってから楯岡が立ち上がった。傍のカーティスにも立ち上がる様に促す。
「いいのか、何も言わずに行かせて。お前の忠告が現実の物だとしたら、二人だけ先行させるのは危険では無いのか? 」
見送ったままで何の行動も起こさない楯岡の姿と、既に遠く闇に紛れてしまった二人の若者の姿を代わる代わる見比べながら尋ねた。だが楯岡の表情には何かを危惧する様な色は無い。
「これ位の危険でどうにかなってしまう様なら、此処には居ない。それにあの二人ならば大丈夫だ。むざむざと死ぬような真似はしないだろう。最も、」
チラリとカーティスの顔を横目で流して。
「 ―― 人間相手だったら、だがな。」
その瞳の中に潜む狂気をカーティスは知る。この男が今持ち得ている感情は決して恐怖ではない。怒りと、興奮と、歓喜とが入り混じった哂いが混沌としている。楯岡に出遭ってから初めて目にする、僅かに体表から漏れ出す殺気がカーティスの心胆を震わせた。
これが、この男。『闇烏』と呼ばれた男の真の姿なのか。
「そうだ、カーティス。お前が今感じた通り、俺はそいつが嘗て俺達の仲間を傷つけた『化物』である事を望んでいる。俺の身内を傷つけ、その妹同然の者を殺した仇を殺る為にな。」
「仇、だと? ではお前は以前にこれと似たような事を経験していると言うのか? 」
「俺ではなく、其処には俺の妻が居た。勇敢に戦い、傷つき、危うくの所を自分が守るべき対象の者に救われたのだ。妹同然に可愛がっていた保護対象の人物にな。」
この地に踏み込んで、楯岡がその警戒を緩めていない理由をカーティスは理解した。この男はこの地の状況を見ただけで、この地で何が起こったのかと言う事を知っていたのだ。自分の妻から聞き出した貴重な情報によって。
「では、お前の妻の代わりに、その保護対象の者が、」
「死んだ。見事な最期だったと聞いている。だが、そんな事を気に病んでいる訳ではない。俺達にとって生殺与奪は当り前の話。力の及ばなかった者から死んで行くのが常識だ。…… 俺が許せないのはな ――。」
其処まで話した所で、楯岡の足が動いた。カーティスの存在を気にも留めていないかの様にその歩を早める。後に続こうとカーティスが歩き出そうとした時、突然楯岡が振り向いた。
「来るのか? これがお前が逃げ出す最後のチャンスかも知れんぞ? それに付いて来るならばお前の身の安全は保障できない。それ程生易しい相手では無いからな。」
険しい表情で楯岡がカーティスを見詰める。それがカーティスには妙に可笑しかった。此処まで俺を連れて来たのはお前達の方だろうに。
口元が思わず緩んだ。
「付いて行っている訳じゃない。俺の逃げる方向がたまたま、お前達と同じ方向と言うだけの話だ。気にしなくて良い。」
カーティスのその言い草が楯岡の張り詰めた表情を緩ませた。薄笑いを浮べて腰に手をやる。次の瞬間、楯岡の手の中に一丁の拳銃が現れた。それは武装解除で取り上げた、カーティスの物。トリガーリングの中に指を差込み、くるりと回して銃把をカーティスに向けて差し出す。
「こんな物で良ければ使ってくれ。大して役には立たんと思うが。」
ニヤリと笑って、それを受け取るカーティス。素早くマガジンを外して残弾を数えて、再び銃把に押し込む。スライドを引き、チャンバーに初弾が送り込まれた事と撃鉄が起きている事を確認すると、そのまま安全装置を掛けた。胸にあるホルスターに収めて、落下防止のスナップを止める。
「ありがたく使わせてもらおう。捕虜の身分では贅沢は言えんからな。」
楯岡がカーティスの一連の動きを確認して、再び歩き始めた。
カーティスは、先程楯岡が言葉を切ったその続きが無性に気になっていた。思わず背後から尋ねる。
「楯岡、さっきの言葉の続きなんだが。 ―― お前は何の仇を取ろうとしているんだ? 」
その問い掛けに、楯岡からの答えは遅れた。暫しの沈黙の後、振り向く事無くカーティスに向かって言葉は投げ掛けられる。
「 …… 碧から笑顔を奪い去った、その仇だ。」
夜目の利く二人の視界には一人の男の奇妙な姿が映っていた。白い衣を頭からすっぽりと被り、月夜の闇に佇む影。耳に届く声は確かにその中から、より鮮明に聞こえてくる。それは明らかに真言の呪文であった。
距離にして約三十メートル。事態の急変にも即応できる距離を保って、山田と帯刀はその男を白い大木の影から観察する。
姿形をすっかり覆ったその白衣こそが二人の行動にとってのネックになっていた。これでは武器の有無も、そも其れが人であるかどうかも判別できない。焦れる心を抑えて、気配を殺すしか二人には術が無かった。
この場でただ独り残っている自分達以外の存在。それが十三人の僧侶を見る影も無く断ち割った犯人かどうかは判らない。だが今の自分達にとっては情報が必要だった。この地で何が起こっているのか、何が起ころうとしているのかという。その為にはその存在を確保すると言う事が、彼らにとっての重要な命題となっていた。
声を出す事の出来ない二人が互いにハンドサインを交わす。山田が両目に二本の指を押し当て、その後その指を交互に動かす。
“先行してもっと良く見てみる。” 帯刀が其れを受けて、拳を固めて軽く振る。“了解”
木陰から山田の姿が滑り出る。鰐の様な姿勢と体捌きと移動速度であっという間に距離を詰める。十メートルほど先にある大木の陰に移動した所で、鰐は人の姿に戻ってその背中を預けた。幹越しに再び人影を観察する山田の姿。その後方で帯刀は弓を構えて援護に入っていた。
気付かれた形跡は無い。白衣の下から漏れ続ける詠唱に変化は無く、動きも感じられない。山田は決意して、再び視線の先の帯刀へとサインを送った。
“背後を取って拘束する。援護しろ。”そのサインに構えた弓矢ごと頷く帯刀。
その状態から三つ数えて、山田の体が再び月夜の下へと滑り出す。そのタイミングで、事態は緩やかな変化を見せた。
白い法衣を被った其れは、二人の視界の片隅で再び歩き始めた。
覚瑜が唱える観自在王如来真言。心の中で覚鑁の声と共鳴を果たすその術が威力を増していくのが解る。頭蓋骨に残っていた覚鑁の法力はその輪郭を僅かに輝かせて覚瑜の顔を照らしていた。閉じた瞼の隙間から網膜に届くその光が心の底まで届く様な、そんな錯覚に囚われる。
一歩、二歩、三歩。覚瑜の体が抵抗を感じた。手にした覚鑁の頭蓋骨を通じて認知される結界障壁の存在。体ごと押し付ける。
接触した場所をを中心にして、覚瑜の眼前で光の粒が弾けた。
光り輝く空間。浮かび上がる白い法衣の人影。そしてその先で光に照らし出される、異形の法力僧。全てを目の当たりにして、山田は行動の隠匿が無意味になった事を知った。弾ける様に立ち上がって、一目散に目標目掛けて突進する。
「帯刀、奴の足を止めろっ! 此処から先へ行かせるなっ! 」
背後で援護する帯刀に向って大声で叫びながら、背に担いだ槍を右手で毟り取る。その体を唸りを上げて掠める二本の黒い矢。この場よりの退場を果たそうとする者の、動き出した二本の足に向けて殺到する。
弾ける光の粒。その範囲が広がる毎に、足止めを食らっていた覚瑜の体が徐々に進み始める。その事は手にした覚鑁の頭蓋骨の瓦解を意味していた。鑢で削られる様に、障壁に接触した部分からその形を失っていく、開祖であった者の最期の証。弾ける粒が織り成す光の中で覚瑜は開くまいと決意していたその瞼を遂に開いた。
真言を唱える事は止められない。最期の会話を交わす事も出来ずに。覚瑜の瞳は自分の浸入に伴って失われていくその容を見詰めていた。
百発百中を自他共に認めるその二本の矢が、白衣の人影から生える、剥き出しの足へと肉薄する。レミントン社製M24・SWSを遥かに凌ぐ初速を孕んだままで到達した矢は軽々と両足を骨ごと貫き、地面へと縫い付ける。その光景は山田が幾度も繰り返し目にした物の筈であった。
だが、今度は違った。そして山田は我が目を疑う。
それぞれの足に命中する黒い光弾。それが矢の形を取り戻した瞬間に弾け飛んだ。
「失敗っ!!」
大声で結果を帯刀に伝える山田。その瞬間に手段は変更を余儀無くされる。槍を両手で持ち、体側へと穂先を構えた。一気に薙いで両足のアキレス腱を切断するしかない。
既に白衣の人影は結界障壁の中へと消えつつある。それが見える位にまで近づいていながら。
時間が、無い。
自分の体を取り巻く闇の存在を強く感じた。手の中のほんの一欠片。光は失われつつある。歩きながら、真言を唱えながらその光を見詰める覚瑜。その瞬間は意外に呆気無く訪れる。最期の一粒の光が消えた瞬間、覚瑜は自分の踏み込んだ領域がどれ程恐ろしい所であるかと言う事を肌で実感した。
此処に比べたら自分が覚慈と戦った場所などまだましだ。其処には空気が有った、光があった。現世である事を示す多くの証があった。そして自分は其処に居られた。
だが此処はどうだ? 真言を唱えるのを止めた瞬間に ―― 被っている大袈裟を緩めるだけでもいい ―― 闇は容易く自分の体を飲み込んで、全てを奪い去って行くに違いない。それを確信させるだけの説得力が、覚瑜の体を浸す闇の海には有った。
それはどんなに説得されても拭い去る事の出来ない、本能の恐怖なのだろう。母の姿を求める幼子の様な心細さを感じて、足が止まりそうになる。それとも逃亡の衝動。一刻も早く此処から逃げ出さなければならないという、生への渇望。
『原初の恐怖』に囚われた覚瑜の心を、手の中に残った物が解き放つ。其れは今しがたまで光を放っていた覚鑁の頭蓋骨、その欠片。
見る影も無く灰と化した、僅かな重みが手の中に残る。握り締めた途端に掌から、指の間から零れていく白粉が、取り零した者の重さと覚瑜が担う使命や願いを強く訴える。
もう、二度と零せない、これ以上は。
背後に置き去りにした結界が再びその機能を取り戻した事を覚瑜の五感が理解する。後戻りの出来ない扉に閂が掛けられて、覚瑜は歩む道の果てにある地獄の舞台へ立つ事を決意した。
最後に地を蹴った右足が山田の体を宙へと躍らせた。足元を流れる大地と平行に飛ぶ体。結界障壁の中へと光と共に消えつつある両足目掛けて、構えた槍を薙ぎ払った。
渾身の力を込めたその手に手応えを感じる事は無く。虚空で円を描く銀の刃が月の光を湛えて空間だけを切り裂いた。
振り回した槍の勢いを其の侭に、体を翻して地面に穂先を突き立てる山田。急激に掛けられた制動が山田の体を其処に縫い付けた。残った慣性を穂先に吸収させて、障壁の寸前で激突を回避する事に成功する。
「先輩。」柔和に呼びかけられるその言葉には、帯刀らしからぬ緊張感が漲っている。その声を聞いても山田の目は背後から駆け寄る帯刀には振り向けられなかった。白衣の人影が吸い込まれた黒い水瓶をじっと見詰めている。
「僕、外しましたか? 」心配そうに尋ねてくる帯刀。否定。この男が外す筈が無い。日本中の弓道の達人が束になっても敵わない技量を誇る、こいつの弓が外れる訳が無い。
「当たった。だが撥ね返された。」
「本当ですか? 」観測者の報告を、細い目を丸くして驚く帯刀。そりゃ、そうだ。それは間近で見た俺の方が驚いているんだから。
頷いて地面に突き立てられた槍を引き抜いて、其処から距離を取る山田。腰溜めに構えて『突抜』の姿勢で、結界の直ぐ内側に立つ異形の法力僧へとその狙いを定めた。
「このまま往かせる訳にはいかん。追撃するぞ。」
言葉と同時に気迫と力が山田の体から不可視のオーラとなって溢れ出す。その足が今正に地面を蹴りつけようとした瞬間、突然背後の暗闇から声が響いた。
「止めておけ。此処で死ぬ事もあるまい、山田。」
何の気配も無く耳に届けられたその声を、二人は聞き覚えがある。それ以上に体に染込んだ習慣が二人の体を支配した。構えを解いて振り向きざまに跪く山田と帯刀。その暗闇の先に黒の忍び装束を纏った、小柄な男がゆっくりとその姿を現した。
月の光に浮かぶその顔。その顔を山田が見上げて、言った。
「 ―― 長門様。」