敗 者
松長の放った其れは、過去の経典に記されている物とは全く異質な物だった。両足を失い、切断面から絶えず泥を滴らせながら横たわる赤塚の体の周囲に展開する魔法陣。同じ名を冠していながらその威力は月読の其れを遥かに凌駕している。
今迄に使い続けた法力の量を推し量っても、未だにこれ程の力を発揮出来るとは。攻守の違いは有れどもその事実を目の当たりにした赤塚と峰英は、真言宗の頂点に君臨する『松長有慶』という男が戴いた『猊下』という呼称に対して、認識を新たにせざるを得なかった。
但しその心中は鏡写しに相反する。片や尊敬、そしてもう片方は憎悪に似た嘲笑。
魔法陣に貼り付けられた赤塚の体は最早微動だにしない。鳩尾に突き立てた刀から手を離して、峰英は堂の対角に立つ松長に目を遣った。刀を赤塚に打ち込む際に再度唱えた金剛真言がその柄に残留して、手放したにも拘らず刀の刃は赤塚の胸の中央でその威容を誇る。
「猊下。卑しくも拙僧の浅慮にお力添え戴き、有難う御座います。お陰で、何とか。」
そう言いながらもその視線は再び赤塚の姿へと油断無く注がれる。何度致命打を与えても死ぬ事の無い未曾有の化け物相手に見せる隙など、今の峰英には微塵も無い。余裕も無い。
拍動と同じリズムで押し寄せる痛みが、峰英の体をぐら付かせた。落ちる片膝が床を叩く。急所を避けての相打ち狙いとはいえ、体に突き立てられた無数の黒い棘が峰英の痛覚を苛んだ。体に刻まれた戦いの結果にその目を見据える。恐らく右腕以外はもう使い物になるまい。
だが、赤塚の体を夜明けまで釘付けにするという最低限の目的は果たした。圧倒的な力の差を誇る敵を仕留めたその代償としては至極妥当な物に思えた。
刀を手放した右手が体に突き立てられた棘を抜き出し、十本を数えた頃にはその動きが止まった。余りの数の多さに嫌気が差す。まあいい、と。どうせ夜明けになればこの棘も、赤塚等と共に闇の巣へ帰る運命だ。第一其れまでにこれだけの棘が全て抜けるとは到底思えない。
「良いのか?其の侭にしておいて。」
胸を貫かれて横たわる人型の化物が、苦しげな息を交えて尋ねた。痛みで散漫になった意識を今一度その声の主へと引き戻す。円陣の中央、雷帝縛鎖を決められた赤塚の闇を湛えた眼窩が峰英の姿を見上げていた。
「ふん、貴様に心配されるには及ばん。この位 ―― 」呟くと床に付いた膝をやっとの思いで持ち上げる。「 ―― 大した事ないわ。」
「強がりを。もうちょっとましな手段で来るかと思っておったが、まさか相打ち狙いとはな。お主を買被り過ぎた様じゃ。」
「何とでも。外道に堕ちた者と交わす言葉など、これ以上は持ち合わせぬ。」
立ち上がる体に力を込める事が出来ずにバランスを崩す。よろめいて、背後の柱にその体を預けて峰英は言った。
「 …… 貴様は、此処で朽ちてゆけ、赤塚。この勝負、我らの勝ちだ。」
溜息と共に放つ勝利宣言を耳にした赤塚の体が、その時変化した。光を失いかけている大師堂の照明に照らし出されていた肉体が、突如として形を失った。現実との境界を失う体の輪郭。それは見る見るうちに液体と化して、松長が刻み込んだ魔法陣の表面へと流れ出した。
人としての全ての構成を消滅させた赤塚。声も無くその光景を見下ろす峰英の耳に、今まで赤塚の肉体を構成していた筈の液体の何処からか、しわがれた声が二人に届いた。
「勝ちを誇るのは、無事に夜明けを迎えてからにする事じゃ。この世界は今だ我が眷属の棲み家。主らが立っておるのはそういう場所だと言う事を忘れるな。」
声は途絶えた。峰英の目の前に広がった池がその面積を徐々に縮め始めた。虫の這い出る隙間も無い大師堂の床の何処から染み出しているのか、それは笊で掬い上げた水の如くに消え失せていく。
水溜りが消えた後に残された白い大袈裟と、其れを縫い付ける峰英の刀。凭れ掛っていた柱から背中を無理矢理引き剥がして、不確かな足取りで峰英は其処に歩み寄った。刀の柄を握り、残留させた法術を解呪する。刃は一瞬にして消え失せて、峰英は其れを懐へと仕舞った。
「 …… 仕留めたのか? 峰英。」
その一部始終を対角の暗がりで澪と共に見詰めていた松長が、立ち尽くす峰英に尋ねた。だが、松長の問い掛けに当の峰英の答えは無い。
突然に姿を消してしまった赤塚の肉体を見送りながら峰英は事態の展開を計りかねていた。 今だ痺れる右の掌が確かな手応えを感じている。しかし其れがあの人型の化物に致命的な攻撃を与えたとは限らない。寧ろ疑問だ。馘を落としても何事も無くせせら笑っていたアレが、苦し紛れの一撃でこうもあっさり仕留められてしまう物なのか?
それとも自分の攻撃がたまたま覚瑜が見つけた弱点と同じ所を貫く事が出来たのか、その余りにも楽観的な考えが一瞬頭の中を過る。だがその考えに自らの思考を浸す事は出来ない。 二階から目薬を差して正確に眼の中心に当てる様な事が偶然でも起こり得るのだろうか?
束の間では有るが、事実に対する疑念が峰英の動きを封じていた。その光景の既視感 ―― 十二神将はその時には息絶えていた ―― に不安を覚えた松長の声が、再び峰英の影に問い掛ける。
「峰英。如何した? 大事無いか。」
その声が峰英を現実へと引き戻した。
「い、いえ。申し訳御座いません。拙僧の苔生した頭では事態の進捗に着いて行きかねておりました。 …… 猊下、雷帝印は今暫く其の侭に願います。」
「 ? 未だ仕留めきれておらんと申すか。」
松長の声に緊張の色が走る。思考の輪廻から抜けられない峰英と同様の危惧を松長も抱いていた。否定する事の出来ないその回答を裏付ける様な峰英の申し出を受けて、その緊張は一層高まる。
「正直に申し上げると、解りかねます。確かにこの場より姿は消しましたが …… 奴め、もう少し解り易い捨て台詞を残していけばいいものを。」
「あれ程の力を見せ付けられれば言の葉一つにても対象を封殺する事は可能だ。この根来寺の件といい、覚慈の件といい、全てに於いて奴の後手に廻るのは致し方無い。とりあえずは奴をこの場より引かせただけでも良しとせねばな。」
「御意。とりあえずは ―― 」峰英の手に再び金剛杵が握られた。その視線の先。袈裟に蠢く八つの物体に鋭い視線を向ける。「 ―― 奴の仕掛けた外法を何とか致しませんと。これさえ無くなれば、奴の陰謀など恐れるに足りません。」
言いながらよろよろと目的の場所へと歩を進める。辿り着いた白い大袈裟の上に跪き、峰英の足元で蠢く一つにその狙いを定める。
其れを貫く事に躊躇いはある。外法の担い手とはいえ元々は同じ真言宗に属する法力僧達。運命に翻弄されたまま、人としての生を終えなければならない彼らの存在を不憫だと思う。
それは例え赤塚にその身を利用されなかったとしても辿る事になる定めであった。彼らが人として生き続ける事の出来る可能性は、『天魔波旬』が此の世に生を受けないと言う事、その一点にしか存在していなかったのだ。
だが『天魔波旬』はこの世界に顕現を果たし。その事は彼らの存在意義を大きく捻じ曲げて、彼らの命の有り方を定義づけた。そして人としての意味を失った彼らは、彼らを利用して『摩利支の巫女』の奪取を図ろうとした物によってその崇高な目的も、誇るべき魂すら穢されてしまった。
だから、せめて報いてやりたいと思う。今此処で奪う命の代償を奴らに支払わせたいと強く願う。失われる八つの魂。それに倍する、彼らの足元に踏み拉かれた多くの若者の魂の無念を、この手で。
「お前達の犠牲は無駄にはしない。必ず、俺達がこの手で奴らを滅ぼしてやる。」
そう呟いて、意を決する峰英。手にした金剛杵の切っ先を、絹布の下で悶えながら今だに真言を唱え続ける ―― その光景が峰英の心中に一層の決意と悲壮を誘う ―― 彼らの残した舌の一つに押し当てた。
遠く距離は離れていても自らに降りかかる運命を理解したのか、狙われた舌はその切っ先を支点として悶絶する。其れを見定めてから、全身の力を込めて金剛杵を ―― 。
“やらせんよ”
大師堂全体に響き渡る音。声と呼ぶには余りにも不気味で現実味に欠けていた。
そこから金剛杵の刃は一ミリも動かなかった。状況を理解する事が出来ずに、尚もその手に力を込める。だが峰英には、直近に存在する未来のイメージと懸け離れて、過去に置き去りにした光景である筈の微動だにしない刃と、変らず蠢き続ける彼らの舌を見つめる事しか出来なかった。
「赤塚っ!! 」
その叫びは峰英ではなく、松長の口から発せられた物だった。四方を開け放たれた大師堂の虚空目掛けて声の主を求めて。事態の変化を敏感に察知したその手が雷帝印を解き、懐にある自らの独鈷杵を求めて差し込まれた。
“自らの危機に際しても、最早物理的な手段に訴える事しか出来ぬとは。どうやらお主の法力も相当に枯渇しておる様じゃの。無理も無い。”
それは確かに赤塚の声ではあったが、勝利に酔い痴れた物ではない。どちらかと言うと、哀れみを含んだ様な、聲。
「何処だっ! 姿を見せろ! 」
悲痛な叫びを上げながら、その目は座して動けなくなった峰英の影を追う。心中を襲う恐怖と絶望。彼ほどの退魔師でも無理なのか。十二神将と同じ運命を辿る定めなのか。同じ光景と来るべき未来。幾度も繰り返されるその事象が、松長の心に何かを呼び覚ました。
其れは怒りに代わる。全身の毛穴が開いて体内に溜め込まれていた物が噴出す。見る事が出来るのならば其れは、闇を染め上げる緋色の炎の様に見える事だろう。
“慌てんでも、儂はさっきから此処におる。主らの目の届く所 ―― ”
大師堂の四方八方から聞こえていた音がその言葉を境にして実体を為した。それは丁度松長が視線を向けている峰英の影から聞こえて来る。
「此処じゃ。」
実体を表したのは声だけではなかった。床から盛り上がる黒い泥。其れが人型に変化し、輪郭を仄暗い灯りの中に浮かび上がらせる。やがて人としての姿形を取り戻して、一糸纏わぬ姿で再び二人の前へと現れた。但し斬り飛ばされたままの手足を黒光りする泥に置き換えて。
失った手の代わりに生えている泥の先端が無数の触手と化している。それら全てが峰英の体に纏わり付いて自由を奪っている。峰英の体に残されたままの棘とその触手は既に連結を果たし、鈍く湿った音を響かせながら先の戦いの再戦を果たしていた。自らの意思では止める事も叶わず蹂躙される肉体の痛みに苦悶の表情を浮べる峰英の表情が、松長の位置からも見て取れた。
「言った筈じゃ。夜明けを迎えてから勝ち誇れ、と。儂の生死を疑いながらも結界の解呪に意識を移した、その時点で勝負は決した。」
「ほざけ。」苦しげな峰英の呻き声。意思の届かぬ体の自由を再び取り戻さんとしているのが、離れた場所に立つ松長にも判る。だが其れと同様に、その努力が全て水泡に帰している事も理解できた。法力も放てず、手にした金剛杵も振るえず。此の侭では峰英が自力で赤塚の拘束を破る手段は、無い。
松長の頭が必死で打開策を模索する。そして一瞬で導き出される結論。拘束が解けないと言う事は、『解く事が出来ない』と言う事、松長の判断はその一点を重要視した。其処から動く事の出来ない状況にあるのならば、其れは先程の状況と同一だ。
赤塚に気取られぬ様に真言を口の中で唱えて、松長の手が再び雷帝印を紡ぐ。先程は周囲の状況に紛れて気付く事の無かった蒼白い雷光が雷帝印に纏わり付いて、松長に術の臨界点が訪れた事を知らせた。
「紛っ! 」
放たれる雷帝縛鎖。導火線の炎の何倍もの速さで大師堂の床をひた走る光。だが其れは目標である赤塚の体から数メートルの所で突然堰き止められた。行き場を失った雷光が二人の姿を避ける様に円を描いて消滅する。対照的な表情を浮べる敵と味方。
松長はその光景に驚愕しながらも、事態を正確に把握した。雷帝縛鎖に対抗する手段として『相剋』の結界が既に張られている。
「そうじゃ、松長。主がこれを打開する為にはもう一度雷帝縛鎖を儂にかけるしかない。故に木気に属する『地天』の結界を張らせてもらった。 ―― 術で儂を止める事はもう叶わん。」
その言葉に松長の奥歯がぎしり、と鳴った。為す術も無く二人の姿を見つめる松長の視界の中で、赤塚は自らの捕らえた獲物へとゆっくりと近づく。
「さて、峰英。」感情の無い顔が峰英の顔の間際まで近づいた。怒りと絶望に血走った両の瞳で、焼き殺さんと言わんばかりの眼力を放つ峰英。その表情を首を傾げながら眺めた後に、赤塚が言った。
「お主の力、此処で散華してしまうには余りにも惜しい。どうじゃ? お主も儂らの仲間に入らぬか? 」
「この期に及んで世迷言か。誰が貴様の様な恥知らずと同じ天を仰ぐものかよ。」
そう言うと、赤塚の顔面目掛けて勢い良く唾を吐き掛けた。血交じりの唾液が、その行為にも全く表情を変えぬ赤塚の頬を緩やかに流れ落ちる。唯一つ、黒い闇と同化した眼窩を除いて。
真っ黒な瞳を瞼が閉ざした。赤塚の顔が、体が峰英の下を離れる。後ずさりして距離を取り、再び赤塚の声。
「もう一度尋ねる。仲間になる気は無いか?」
答えは無い。否定の沈黙と時が流れる。その沈黙を破ったのは跪いたままの峰英の絶叫だった。
足に残された黒い棘。その一つ一つが脈動している。脈を一つ打つ毎に太さを増してゆく棘。やがて棘であった物は次第に釘の大きさに、柄の大きさへと変化を果たして峰英の筋肉と骨と神経を圧迫する。体積の増した太股が倍の大きさに膨れ上がって、その膨張に耐えかねた皮膚と筋肉が裂けて夥しい出血が始まっていた。
柄の太さから杭へ。その時、杭と杭とを繋ぐ峰英の肉の結合が破けた。麻縄が切れる様な音を残して峰英の足が千切れる。境目から勢い良く噴出す大量の血液。床を叩く液体の音と絶叫が幾重にも木霊する。尚も成長を続ける黒い杭。
大腿骨が圧し折れたその瞬間、峰英の足は離断した。体液を巻き散しながら床を転がる足と、バランスを崩して倒れる肉体。
動きを封じられた体と激痛によって突き動かされる本能が峰英の中で鎬を削る。それは痙攣と言う形で彼の全身に現れた。がくがくと震えながら、それでも絶叫を収めるべく固く口を閉ざす。尚も漏れ出す苦痛の叫びはくぐもった呻きへと姿を変えて大師堂の空間へと放たれていた。
その姿を眼下に見下ろして、何の感情も浮べずに再び赤塚が問う。
「もう一度聞く。仲間になる気は無いか。 ―― 次はもう片方の足じゃ。如何に主でもこれ以上は耐えられまい。素直に、仲間になると言え。今ならまだ永らえる事が出来る。」
闇の手の者とは思えぬ優しい声。揺らぐ峰英の精神を篭絡しようとする意図。だがその姦計は峰英がその頭を床に叩きつけた事によって遮られた。一旦開けば苦痛の絶叫を放つしかないと思われたその口から、途切れ途切れではあるが、はっきりとした声が響いた。
「断 …… るっ! 何度尋ねても、何度責めても、俺の …… 答え、は変らないっ!」
倒れ臥した峰英のその顔。視線の先に松長と澪がいた。交錯する視線。互いに為す術無く、選択する権利をも奪われたこの状況で、皮肉な事に導き出される結論は唯一つ。『助けない』。
澪を抱いた手が無念と怒りに震える。恐怖は無い。ただ其処に斃れて無残な死を只管に待つ『澪の父親の師』をその目に、澪の目に焼き付けようと。自分に出来る事はこれだけなのだと、自分に言い聞かせながら。
見詰める峰英の目が笑った様な気がした。
「馬鹿な奴じゃ。ただその首を縦に振るだけで、命だけではない、一層の力を手にする事が出来ると言うに。主が今正に命を掛けようとしている松長よりも更に大きな力を。」
「そんな物に、意味は …… ない。少なくとも、あの男にその座を …… 譲、った、俺には、な。」
「ふむ。あくまで己が『義』を貫き通すか。そうじゃの、主はそういう男じゃ。じゃがな、此処におるのが主じゃから儂はこうして立っておる事が出来る。もし此処に居るのが主ではなく雪斎だとしたら、今の立場は逆転しておるかも知れんな。」
そう言うと赤塚は両の黒い眼窩を松長へと向けた。嘲笑と悲哀が同居する表情を浮べて呟く。
「お主らの本当の敗因は、『巫女』の父を放逐してしまった事じゃよ。あの男の持つ能力こそがこの事態を回避できる、儂らが最も恐れた唯一の手段だったのじゃ。それを自らの手で手放してしまったお主らが此処でこうしていると言うのは、その時に定められた運命と言う物じゃ。」
この事態を引き起こした原因を全て松長の肩に覆い被せて、赤塚は尚も言葉を続ける。我が娘の為に、そして宗門の掟を守る為に為した行いを責める相手に、当の松長は言葉を返せない。ならば、あの時。俺はどうすれば良かったと言うのだ!?
「娘の危機に際しても此処に駆けつけぬ父親を責めるなよ? 奴は奴で戦いの真っ最中だ。儂らの手の者に足止めを喰らっておるからな。奴を倒す事は無理では有るが、少なくとも此処に来る事は出来まい。 …… つまり、じゃ。」
赤塚の顔が再び床に横たわる峰英へと向けられた。流れ出す体液と法力で光る海の中にある瀕死の其れの向かって、問い掛けられる。
「これで最後じゃ、峰英。儂らの仲間になれ。さすれば、失った足と力を取り戻せるぞ? 此処まで儂と戦ったお主の事じゃ、此の侭あの男に負けたまま終わりたくはあるまい。力を手に入れて今度こそ奴に勝つのじゃ。それはお主にとっても意味のある事なのじゃよ。」
身動き出来ずに、静かにその言葉を聞いていた峰英の体が突然震え始めた。訪れた死の痙攣と見まごう程の激しい振動。果たして峰英は、笑っていた。
「遂に、痛みで狂いおったか。」赤塚のその言葉を受けても止む事の無い笑い声。交えて峰英は答えた。
「貴様にも怖い者があるのか、赤塚っ! 不死の体をもってしても恐れる物が有るとは滑稽極まりない。俺がお前等の考えに賛同できん理由が今やっと判ったわ。」
「何だと …… ? 」
友愛に満ちていた赤塚の表情がその峰英の言葉を受けて一瞬にして変った。闇に相応しい鬼の形相が浮かび上がる。
「貴様は恐れている。自分が無くなってしまう事を、死を。故に俺を篭絡して雪斎に当たらせようとするのか。…… 考えてみればそうだ。貴様は自分の手を汚さずして、貴様に対抗する手段を屠ろうとしてきた。覚瑜然り、雪斎然りだ。だが其れは貴様の恐れそのものが為す所業に過ぎない。貴様が未だに人の形を捨てずに其処に立っているのがいい証拠だ。その中身は既に人ではないにも関わらず、だ。」
「黙れ、峰英。」怒りを押し殺した声が呻きとなって赤塚の口から零れる。
「どうやら図星か! 貴様が魔に身を落としたのは『日ノ本』の未来を憂いたからでは無い。『日ノ本』が無くなる事によって自分の存在が『亡くなる』事を恐れたのだ! 意味が分かるか。貴様は猊下の申し出によって信仰を破棄したのでは無い。それ以前に自分の『死』に恐れを抱いた瞬間に終わっていたのだっ!」
「黙れっ!! 」咆哮と泥の触手が峰英の頭に叩き付けられる。頭皮が裂け、新たな出血が始まって峰英の顔を濡らした。だがその声が止む事は無い。
「その様な弱き者に俺は負けん! 『死』を恐れる者と『死』を受け入れる者との違いはな、その者が何を為して来たかと言う事だ。俺が死んでもその後に続く者がいるのならば、俺の『生』は意味を持つ。それが人が誕生して以来綿々と続けられる営みだ。それを理解する事の出来ない貴様らなんぞに人が支配される道理が無い。『運命』等と言う言葉で自分を正当化しようとするその心根の疚しさが、其れを証明しておるわっ! 」
「 …… 辞世の句はそれだけか? 」
峰英の叫びの一瞬の後、灼熱がその熱量の放出の限界を超えて瞬時に冷却された様な、怜悧な声が響いた。次に再び大師堂に木霊する峰英の絶叫。それは処刑が再び始まった事を意味していた。歪む峰英の表情をただ見つめる事しか出来ない松長の全身がわなわなと震える。
押し殺した怒りが両手に伝わって、其れは澪を抱いた手にも現れた。産着を握り締められた澪が其処で始めて赤塚から視線を離して松長の顔を見上げた。その顔にぽたり、と松長の涙が落ちて澪の頬を濡らす。
肉が裂ける音と骨が折れる音、そして液体が振り撒かれる音と絶叫が止むのはほぼ同時だった。大師堂の床を重く湿った塊が叩く。瞳を閉じた峰英の体が動く事は無く、両足を失った付け根から流れる体液が法力の光を放って、其処に佇む赤塚の姿を浮かび上がらせていた。
肉塊と化した眼下の男の姿を一瞥して、その影がふわりと動いた。泥の触手が峰英の体の下に敷かれた白い大袈裟を掴み、抜き取ろうと試みる。
意識は殆ど無に等しい。だが自分の傍で何かが動いている事だけは認識できる。峰英にとってはその情報だけで十分だった。
自分の命はあとほんの数十秒で尽きる。体は冷たくなって感覚が無くなっていく。おまけに抗い難い睡魔までが、峰英の今わの際に残った意識まで刈り取ろうとしている。
そうなる前に。
感覚の無いのが幸いだった。棘に貫かれながらそのまま放置された左腕。そして胴体。その全てに残った力を振り絞って捻りを加える。肉体の拘束が解かれている事が初めて分かった。そして拘束を解いたからには次に奴が為すべき事は唯一つ。
白い大袈裟。その中で未だに真言を唱え続ける八体の僧侶の舌。その抹殺を済んでの所で阻止されたからこそ、それが赤塚にとって如何に重要な物かは理解できた。奴は必ずそれを取り戻そうと動く筈。組み敷いたまま横たわる、自分の枕元に立って。
気配が動く。意識も遠のく。早くしてくれ、此の侭では間に合わない ―― 。
死の冷気が頭の芯まで埋め尽くそうとした時、待ち焦がれたその機会がやっと訪れた。間髪を入れずに全身に残った力で捻りを開放する。
最期の発勁が発動して、死に体と化しつつある峰英の体を宙へと舞い上げた。
床にあった筈の肉塊が突然、物理法則を全く無視して宙に踊った。丁度その頭上に当たる位置で袈裟を拾おうとしていた赤塚の上半身目掛けて、その勢いのまま叩き付けられる。予期せぬ出来事は赤塚の体を押し倒すには十分すぎる威力を持っていた。大師堂の床へ仰向けに倒れた赤塚の体に圧し掛かる肉塊。それが次には大音声を上げて両手を振り被った。
「あかつかぁぁっっ!!」
手に握った金剛杵が下になった赤塚の胸目掛けて振り下ろされた。叩きつけた勢いで赤塚の体が跳ねる。尚も叫ぶ峰英。
「オンッッ!! 」
雄叫びに似た発声と共に刃が展開した。密着した部分から其れは赤塚の胸部を易々と貫通して床ごと貫き通す。致死の痙攣に見舞われながらも其れを離す事の無い右手が大きく傷口を抉って、赤塚の胸部に光の穴を穿つ。そこで初めて赤塚の顔が歪んだ。
「お、おのれっ! 謀っておったか、何処にこの様な力がぁっ …… 。」明らかな苦痛の表情を浮べて、その体を触手で引き剥がそうと試みる。
全身を幾重にも巻きつけた触手が締め上げようとも、死の淵に立つ峰英には無駄な事だった。感覚が無くなり、制御の利かなくなった法力が赤塚の胸から吹き上がる。その威力は赤塚がまだ人であった頃にその体を動かす為の重要な臓器、『心臓』を跡形も無く吹き飛ばした。
尚も迸る法力の輝きが床に倒れたままの二人の姿を覆い尽くす。命の花火は消滅する寸前の煌きを松長と澪の記憶に刻み込んで。奔流の中から峰英の声が轟く。
「見たか、赤塚っ! これが死を恐れぬ『人』の力だっ! 恐れる貴様には及びも付かない、これこそがっ!」
声に呼応する様に赤塚の体が悶絶する。それは赤塚の体を介して根来寺全てを覆い尽くしていた黒い海にも伝播した。海面がうねりを上げて荒れ狂う。赤塚の黒い眼窩が赤洸を湛えて燃え上がり、自分の腹の上に居座る峰英を射抜いた。
「猊下ぁっ! 」
叫ぶ峰英の目には既に生者としての光は無かった。瞳孔は開ききって目の前を覆う輝きにも何の反射も行えず、だが血に塗れたその口だけが光の中で大きく開く。
「『巫女』を! 奴の娘をお願いいたしますっ! どうか、どうか澪様を必ず、奴にお渡し戴きますよう ―― 。」
最期だった。
鈍い音が響いたと同時に光が突然、止んだ。
瞬時の明度の低下に視力が付いて行かない松長。取り戻した時に見た光景は松長の予想通りでもあり、信じたくは無い物であった。
峰英の背中から生えた様に突き出された黒い柱。その先端で蠢く無数の触手が、遠めには判別する事の出来ない何かを掴んでいた。
見えずとも、松長には其れが何かは判っていた。光る血液を滴らせながら触手の中で未だにびくびくと動き続ける物。
峰英の心臓が其処にはあった。
月明かりの虚空に響く鈴鳴り。その音を聞いた覚瑜の足が止まった。音の出先を求めて夜空を見上げるその目に映る、降り頻る光の粒。其れが何なのか、何を意味しているのか、退魔師である覚瑜には正確に理解できた。思わず口を付いて出る言葉。
「これは一字金輪の結界法。 …… 十二神将が、負けたのか? 」
頭に、肩に降り積もる結界の屑。掌に取ると力を失った其れは雪が解けるよりも早く、何も残さず消えてゆく。十二人の仲間 ―― 退魔師としても同門の僧侶としても ―― を失ったと言う事実が覚瑜の心を重く沈ませる。
“落ち込んでおる暇など無いぞ。それに今あそこに居る者達に勝ち目が無い事など、直に戦ったお主自信が一番良く分かっている筈じゃ。”
「分かっております。分かっておりますがっ! 」
激する声が雪景色と化した林に木霊した。言葉の続きに体の震えが取って代わる。
それでも、生きていて欲しかったと。そう思えば思うほど罪の意識が覚瑜を責め立てた。自分さえ其処にいれば。少なくとも間に合ってさえいれば、救えたのではないのかと。そしてその所業が自分が今まで盲信し続けた座主である、赤塚明信の手によって行われているという事実。
“無くしたものを振り返るな、覚瑜。”
覚鑁の声が覚瑜の負の思考に楔を打ち込んだ。その言葉にはっと我に返る。
“無くしてしまったものはどう足掻いても取り戻す事は出来ん。人も、過去も、記憶も、全ては時の中に何れは埋没する定めじゃ。じゃが其れを振り返って、未来を失う様な真似はするな。”
「未来 …… 」
“そうじゃ。今は事実にのみ己の思考を尖らせよ。十二神将が破れたと言う事実、これが意味する事は何じゃ? お主は其れを受けてどうせねばならんのじゃ? ”
覚鑁の問い掛けと答えは同義であった。否定の泥沼に塗れていた思考が鮮明になる。
「 ……先を急ぎます、上人様。いよいよ『巫女』のお命が危ない。」
“其れで良い。”
その短い受け答えが二人の間で思考の同調を果たした事を、覚鑁は知った。其れは死地を共に潜り抜けた者だけが得る事の出来る意識の共存という物。出遭うまでは半人前とも思えたこの若者が只ならぬ素質を持つ者だと言う事を、覚鑁は恐れを禁じえずに理解した。
尚も降り続く雪を体に巻いてその一歩を踏み出す覚瑜。その目に、ぼんやりとではあるが『絶対領域』を未だに形成し続ける傀儡の姿が映る。
「ったくよお。待ってるのはどうも俺の性に合わねえんだよなあ、全く。」
彼らが其処を訪れた時には存在を示していたドームがその輝きを失って、幾許の時間が経過していた。光を失った其れが彼らの目に映る事は無い。だが確実に其処に存在し、四人の行く手を阻んでいる事は明らかな事実である。
「そこまで言うんなら、何か試してみたらどうだ? 誰も止めんが。」
愉快げに薄笑いを浮べながら楯岡が言った。どうやらこんな事は日常茶飯事の様だ。そう勧められても事態を打開する方法が分からない。絶句する山田の表情を見て帯刀が言葉を繋いだ。
「何なら僕が一っ走り車に戻って、先輩の獲物取って来ましょうか? それで至近距離でぶっ放してみればいいじゃないですか。あのゲテモノなら多分破れますよ。」
「多分? 」
「ええ、多分。だって誰もやった事が無いんですもん。」
「なあ、帯刀。質問していいか? …… 破れなかったら、あれを至近距離で撃った本人はどうなるんだ? 」
「 ―― 自分に跳ね返ってくるさ。」カーティスが二人の会話に口を挟んだ。「撃った本人は、ジ・エンドだ。」
明快に返って来た答えに三人はカーティスの顔を見た。代表して山田が尋ねた。
「何で分かる? 」
山田の問い掛けに、カーティスは黙って上半身に取り付けられた個人用装備のハーネスのフックを外した。続いて迷彩のボタンを外して肌蹴る。素肌に直に着込まれていたケブラー製の防弾ベスト。その腹の部分に潰れた鉛が付着していた。
「試したからさ。9パラ(9mmパラペラム 現用拳銃の主流になる弾丸の名称)だけどな。お前の獲物が何かは知らんが、それがマグナムでも同じ事だと思う。」
ポロリと地面に落ちる鉛の塊。実は真剣にその手段を考えていたのか、カーティスの言葉を聞いて山田はむう、と唸ったまま押し黙った。
「と、いう事だ。大人しく待ってるんだな、山田。」
「そうですよ、たまには待つ事も覚えないと。楯岡家での修行をこういう時に生かさないと、何の為に碧様の小姓を勤めているのか分からないじゃないですか。」
「『KOSHOU』?其れは一体どういう役割をする者なんだ? 」
外した装備を元に戻しながら尋ねるカーティス。にこやかな笑みを浮べて ―― この少年が真顔になるのを、此処まで一回たりとも目にした事は無い ―― 帯刀が答えた。
「それはですね、英語で言うと『 Servant 』ですね。最も先輩の場合は『 Slave 』の方がしっくり来ると思いますけど。」
「 …… おい。」
黙って三人の会話を聞いていた山田が低い声を上げた。声の主の髪は逆立ち、赤い顔をして帯刀を睨み付ける。
「何だよ、待ち時間の間に三人して人の事を肴にしやがって。 …… あったまに来たぞ、こんちくしょおっ! 」
言うなり腰の鞘から槍の穂先を抜き出す。目にも留まらぬ一挙動でその穂先を展開するとそのまま手にした棒の先へと取り付けた。頭上で槍を旋回させて三人に背を向け、結界の壁の方向目掛けて腰だめに構える。
「ちょっ、先輩。何するんですか。」表情は崩さないが、帯刀のその声には山田の行動に対する驚きと焦りが表れていた。
「今見たじゃないですか。銃で壊れない物をどうやって槍で貫くんですか? 」
「うるせえっ、宝蔵院をなめるなあっ! こんな空気みたいなガラス玉、一撃で破ってやる。肴の意地を見せてやるぜえっ! 」
「いや、『肴の意地』って …… 」
「お前はそこで黙って見てろっ! 『假にたも初心のものをわらふなよ習はぬ先の我身也へし』つってな、何もしない者が何かをしようとしている者の事を笑うなってんだっ!」
やれやれ、と言う三人の視線が山田の背中に突き刺さる。それが山田の悋気を一層刺激した。後ろに引いた右足が突進に備えて地面をなじる。腰の捻りと共に手に槍が後ろに引かれて、姿勢が極端に低くなる。
光る刃は山田の直ぐ傍に置かれて突進の合図を待つ。山田の口が開いた。
「いくぜっ、表十四本の型十一番。 …… 『突抜』っ!! 」
気勢と共に足が地を蹴る。『縮地』に匹敵する体移動を果たした後に両腕から前方へと繰り出される槍。その移動距離は携帯用に作られた物でありながら優に四メートルを越えるであろう。全体重と全身の力を穂先の先端ただ一点に集中して、山田の攻撃力の全てが其処に叩き付けられる。
虚空に響く鈴鳴り。その音を三人が耳にしたと同時に、眼前で不可視の偉容を誇っていた結界のドームが突然乳白色に変化して姿を現した。事態の変容に三人が動く。帯刀の手には既に矢が番えられた弓が握られ、カーティスは姿勢を低くして注意深く成り行きを見守る。ただ楯岡のみが腕を組んだまま其処に立ち尽くして、白い壁を見上げていた。だがその瞳には一瞬前までに存在していた和やかな色は無い。目を細めて其処に何が起こったかを探る様な視線を向けている。
次の瞬間、そのドームは霧散した。刺突の際に受けるであろう猛烈な抵抗を予想して突進した山田の体が、裏切られてつんのめる。前方にバランスの崩れた体勢を、槍の尻を支点にして回転した。そのまま捻りを加えて、楯岡らの立つ方向に向けて着地を果たす。
「お、お? 」手応えを失った山田が呆気に取られて楯岡の表情を伺う。戦場に於ける情報の交換は正確でなくてはならない。山田は反射的に『これは自分がやった事ではない』と、視線で楯岡に報告していた。其れを受けて楯岡の口が開いた。
「どうやら、事態が変化したと言う事か。 ―― 山田、どう思う? 」
尋ねられた山田も同感だった。残心の姿勢を解いてその槍を、穂先を頭上に背負って三人の方へと歩き出す。雪の様に降り頻る結界の屑が、歩く山田の頭に積もる。
「賭けてもいいですけど、かなり悪い方向に向いてますね。」山田の顔にも激情は無い。真剣な光を宿したその瞳を、自分が今まで立っていた結界の内側に向けて山田は言った。
「先輩? 」山田が放つ雰囲気の異様さに、帯刀が尋ねる。問われた山田の声が視線を外す事無く響いた。
「嫌な感じだ …… 地獄に踏み込んだ様な気分だぜ、帯刀。お前も ―― 」山田の親指が肩越しに、くいと動いて結界の内側を指した。
「 ―― あそこに立てば判る。多分、其処が一丁目だ。」




